三千世界と烏の名付
銀色の液体が結界の外をゆっくりと流れていく。
何かが引っかかる。
「あれ?私が見た時、湖の水は透明の水だったはず」
水銀湖と言われてもピンとこない程度には水銀には似ても似つかない光景だった。
近付いて足を滑らせるまで普通の水だと思っていた程度には。
「ああ、昨晩は満月の天啓の日だったんだろうな」
天啓の日……?
「風が強くてこの辺一帯の瘴気が薄くなっていた、違うか?」
「確かに、少し前より息がしやすかった……?あと満月は見えてた、凄く綺麗だった」
なるほどと頷く彼女。
「名前教えて、私の名前は」
パシン、と口を掌で塞がれた。思わず立ち上がって押さえたというような体勢のまま彼女は厳かな声で言う。
「外の世界に帰れるのは一番短くて一月後の満月、だな。天啓の日であることを祈っておけ」
スッと細められた目の横でさらりと黒髪が揺れる。
そっと口をふさいでいる手を取る。
「ねぇ、名前」
「逸してるの分かってて訊くのは質が悪いぞお前!!」
少し崩れた口調に思わず笑みが浮かぶ。
「かわいい」
「他人の家に不法侵入しといてその言い草……もう知ら……ん……?あっ」
目を掌で押さえられる。
「寝起きでついうっかりチャームでもかけてしまったか」
三、二、一とカウントされたあと浮ついた気持ちがストンと落ち着いた。落ちたと言ったほうがあってるだろうか。
手を目元からそっと離される。落ち着いてから見てもやっぱり黒い髪がとても綺麗で。すぐ近くにあった顔に微笑む。紫の瞳がふいっと逸らされた。
「まぁ、分かったと思うが私は人から吸血鬼と呼ばれている不死者だ。別に、ここ数千年以上吸ってないからその呼び名もどうかと思うが」
「そっか、それで個人としての名前は?」
諦めずに畳み掛けると正気かこいつって顔をされたけど。
「教えるわけが、ないだろう……好きに呼ぶといい」
「そっか、じゃあ考えとくね。私の名前は」
パシンと再び口を押さえられた。見ればとても渋い顔をした彼女が居た。
「不死者に真名を教えるバカが居るかやめておけ」
「じゃあ考えておいてよ私の名前」
溜息と共に分かったよと言う声が聞こえた。