コンテスト:テーマ「さっきはごめん」
【僕は僕】
『さっきはごめん』
鏡の中の『僕』が言った。
「本当にね」
現実での僕は応えた。
鏡の中の『僕』。コイツはとある日から、僕の意思を無視して動くようになった。ついでに、時々僕の身体を乗っ取って勝手に動いているらしい。
無意識な状態からハッと我に返った時には、大抵コイツが何かしでかしている。勉強などの頭を使うことは嫌なのか、そういう時には乗っ取ってこないが、それ以外ならばよくあることとなっていた。面倒な人付き合いや掃除の時に代わりにしてくれるのはいい。むしろ助かる。が、物を壊したり小動物を殺したりといった問題を起こされた時は、さすがに参った。僕自身は記憶も無いし、そもそもやってすらいない。全部コイツがやっているのに、その責任は全部僕のところに来るのである。
学校にいる今もそうだ。廊下を照らす夕日からも隠れるような、薄暗い人気の無い手洗い場で、こうやって人の目を忍んで、返り血の付いた制服の袖を洗うハメになっている。道中に人がいなかったようなので、今回は気を張る必要も無く、幾分か気が楽に思える。正面にある鏡から僕を見るコイツは後始末なんてしないのだから、呑気なものである。
「せめてハンカチ越しとかで、返り血を防ぐくらいはしてよ。正面だけ注意しても、こういう細かいところまで気を配らないと、意味無いからね」
『やぁ、ハンカチを取り出す暇すら惜しくてさ』
「考えて行動してよ」
『それはキミの領分だろ。ボクはキミが無意識でいる間しか現実で動けないんだから、細かい考えは苦手でね』
「よく言う。どうせ、『後始末とか面倒なことは全部現実の僕がやるんだから、適当でもいい』とか思ってるんだろ?」
『ははは』
「否定しろよ」
やっと洗い終わり、袖のボタンを掛け直しながらその場から去る。
最近は日が落ちるのが早いため、外はもう暗くなっていた。はっきりとコイツが見える。
連なる窓に反射するコイツは僕の横を歩きながらも、まだ話し掛けてくる。
『それより、さっきは本当に良かったのか? あの子のこと、好きだったんだろ? 割り込み告白でもすれば良かったのに』
「その後すぐに君がやっちゃってくれたから、それどころじゃなくなって現在に至るんだけど」
『ははは』
血を洗い流す、少し前を思い返す。
放課後、先程通り掛かった教室で見た、幼馴染の女の子が告白されている場面。彼女の顔が赤いように見えたのは、差し始めた夕日のせいか、照れからか、――――喜び、からか。
「ていうか、大きなお世話だ。いいよ、どうせ僕なんて相手にされるはず無いんだから。もし告白したとして、拒否されて、『幼馴染』の仲すら壊れたら、どうするんだよ。これに関しては本当に、余計なことするなよ」
『あっそ』
話をちゃんと聞いているのか、いないのか。その返事はどうでもよさげだった。
「……まぁ、気付いたら手洗い場だったのはまだ進歩かな。でも、このペンを汚すのはダメだ。何考えてんだよ」
いつも胸ポケットに入れているペンを窓越しに一瞥して、コイツに非難の目を向ける。
『昔にあの子から貰ったペンだから?』
「何のともわからない血なんかで穢すなってこと。もう他のと一緒にするなよ」
『はいはい』
何とも思っていないようだった。
そうして話している内に、階段に差し掛かった。この階段は折り返しの部分に大きな窓と鏡があるだけなので、少しの間だが会話が途切れる。静かな空間に、わずかな足音だけが響く。
身一つであの手洗い場にいたため、教室に鞄を取りに行かなければならない。しかも上り。それに、まだ今回のエモノの後始末もある。億劫でしかない。
そういえば幼馴染のあの現場を見た原因も、あの教室に鞄を取りに行こうとしたからだった。
余計なことまで思い出して、少し苛立ちを覚える。もやもやとした鬱屈が脳内を埋め尽くす。
一歩、一歩。上り、曲がり、――――誰かと衝突。
「わっ、すみません」
考え事をしていて、足音にすら気付かなかった。慌てて謝り、相手を見上げる。
最悪なことに、悪目立ちしていることで有名な不良が一人、そこにいた。
「ッッッてェな!」
大袈裟に張り上げられた声が、空間いっぱいに反響した。
「……あ? テメェ、クラスのガリ勉君じゃねェか。どッこ見て歩いてんだ周り見て歩けや! 教科書しか見ねェ奴は前も見えねェのかよ!」
実に面倒だ。面倒な奴に絡まれた。
しかも、同じクラスというだけでそう接点は無いはずなのに、顔を覚えられていたらしい。
正直あまり関わりたくはない。時間と労力の無駄でしかない。
「無視か? 良い御身分だなァ。さっすが、先生に依怙贔屓されてる優等生君は違うなァ!」
ああ、なるほど。と、顔を覚えられる要因を思いつく。
僕は目立たない方だし、向こうは他人に興味すら湧かないタイプなのに、と思ったが。基本的に、成績優秀者はその都度発表されるので、それで名前を呼ばれる常連である僕を向こうが知っているのには納得がいった。特に、テストの返却時にクラスの高得点者が名指しで点数を取り上げられる、アレである。それに関しては、僕も目立ってはいるか。
ついでに、勉強や生活の態度が真面目なこともあって、教師側からは結構良くしてもらっているところもある。だが、それは普通にしているだけで起きたことであり、その状態を『普通』ではなく『異常』な状態にしている周りに非があるだろう。中でもこういう不良はその最たるものだが、自業自得など納得するはずも無い。
注意されてばかりの自分を省みず、この扱いの差は気に入らず、結果として苛立ちをこちらに向けてくる。
実に、厄介だ。
「おい! 聞いてんのか!?」
不良が怒鳴る。僕のネクタイに掴み掛かる。
煩い。
そもそも、こちらだって苛立っているのだ。が、それと関係無い相手には八つ当たりなんてしない。のに、理不尽な苛立ちを、向こうは向けてくる。
苛立ちは治まらない。むしろ上乗せされる。向こうも、こちらも。
こんな時に、厄介な奴に絡まれるなんて。
嗚呼、なんて、忌々しい――――
「おい!! 何様のつもりだ!?」
ネクタイを掴む不良の手に力が入り、僕の首が絞まる。
(うるさいな、)
「おい!!!」
そこで、僕の意識は途切れた。
はっ、と我に返った。
自分が両腕を突き出していた。
足元は下りの階段スレスレ。その先、階段の下には先程の不良が横たわっている。
ぴくりとも動かないその様子を見てまず思ったのは、(やっと静かになった)、だった。
次いで、すぐに少しの焦りを覚える。
自分は無意識だった。となれば、これをやったのは鏡の中の『僕』ということになる。
「おい、さすがに今回はやり過ぎにも程があるぞ」
僕は眉間にシワを寄せ、鏡に向かって咎めた。
『あっちから吹っ掛けてきたんだ。これは正当防衛。揉み合った拍子に偶然こうなっただけで、ボクは悪くない。むしろ被害者だ。それに、あっちは悪目立ちしている不良。しかもこちらは優等生。じゃあ、これは事故。皆そう『納得』するさ』
心外だ、とばかりに、しかし他人事のように、コイツは言い返してくる。
たしかに、それはそうだろう。迷惑でしかない存在を排除できたとなれば、訪れる平穏に皆喜ぶだろうし、そのための過程には多少目を瞑るだろう。
それでも、自分の手でしたことに変わりは無い。
また、やってしまった。
否。やらされてしまった。
「お前、いい加減にしろよ」
鏡と向き合い、その中の僕を睨みつける。
「いつもいつも、僕の身体で好き勝手……。僕はお前の『僕』じゃないんだぞ。僕の身体を、誰の身体だと思って、お前は、」
コイツは、鏡の中の『僕』はいつものように、現実の動作を無視して勝手に動く。
そもそも――――
「お前は、誰だ」
そういえば、コイツと会話をしたのも、この一言が始まりだった気がする。
毎日繰り返していた僕の問いに、ある日いきなり、コイツが応えたのだ。
『ボクは『僕』じゃないか。何を当たり前のことを』
鏡の中の『僕』はあの日と同じ言葉を、一字一句違えずに繰り返した。
『ボクは『僕』でキミだ。キミは『僕』でボクじゃない』
煩わしい声が続く。
ああ、とにかく今は帰りたい。鞄を取りに行って、帰る。たったこれだけのことをしたいだけだ。他のことは知らない。
ぼくは、教室に向かって走った。
〈了〉