『ブラッドビーナス』
あれから一週間経ち、
また私の家の前に下劣な単語を連呼しそうなあの気配を感じた。
「ご無沙汰しております。 セレイド家当主、サイザー・セレイド様の兄上様。
そろそろまた女性の肌の熱が恋しい時期になってきたのではないかと思い、
新たにお仕事をお持ち致しました。」
ドアを開けばいつもの顔と不快な口調が現れる。
むしろ、いつもの下品さに露骨な煽りも追加され、いつにも増して不快な口調だ。
まさかこれをユーモアだとでも思って言っているのだろうか。
「思った通り、いつもよりも嫌そうな顔をしてくれるな、
全く、羨ましいほど遊び甲斐のある男だぜ」
「そんなことよりも、今回は何のドラゴンを研究するのか」
「喜べ、今回の女は格別の上玉だ。
一つ屋根の下で暮らせるというだけで、
この世の全てのドラゴン愛好家がお前を羨み、そして妬むだろう」
そう言うなりカリナ君は自らの両の手のひらを私の前に差し出した。
するとその手のひらの上に、円く紅い光が、そっと妖しく灯る。
「お前も手を出せ」
そう言われ訳の判らぬまま、私も手を差し出した。
するとその光が私の手のひらの上に移り、
-----その瞬間、大きな眩暈がした。
「驚いただろ、そいつは寄生して相手の血を吸って生きるんだ。
お前ならこの生態の説明で、こいつが何のドラゴンなのかわかるんじゃないか?」
『ブラッドビーナス』………その名前が、頭の中で浮かんだ。
このドラゴンは、特定の生物に寄生しその血を啜り生き延びる。
そして、啜った血液の中から遺伝子の情報を取り出し、
体内で自らの遺伝子と結合させ子孫を残す特殊で神秘的な生態を持つドラゴンだ。
その最大の特徴はなんといっても、
現在繁殖形態が判明している全てのドラゴンの中で唯一、
胎生であることだろう。
しかも、子を宿すまでに複数の生物、
しかも他種の遺伝子を取り入れているにも関わらず、
他の生物と種族が混ざることはなく、
自らと同じ『ブラッドビーナス』を産みだすのである。
そしてなにより、その姿は美しい。
だが、何故その『ブラッドビーナス』がこのような球体の姿になっているのか。
「このドラゴンも、ハイドラのように何か細工でもされているのか」
「ご名答。 我が研究所の最新鋭の技術だ。
こうしてドラゴンを連れてくるときそのままの姿だと目立つからな、
どれほど大きな図体も手軽に携帯できるよう実験開発を進めているのさ」
ドラゴンも人間に合わせて姿形を変えさせられる時代か。
そんな人間の勝手な都合で、
あの美しい『ブラッドビーナス』がこのような姿に変えられてしまうのは残念だ。
やはり、ドラゴンはその姿そのものが最高にして至高だと、個人的には思う。
「それで今回の研究の内容だが、
簡単に言えばお前にはそのまま『ブラッドビーナス』に寄生されたままで過ごし、
子供を産むまで生活してもらう。
出産したら子供もろとも迎えに来る」
「今回の研究の目的は何なんだ」
「正直に言ってしまえば、今回はドラゴンそのものではなく、
さっき教えた最新鋭の技術の研究だ。
ちょっと長くなるが、
実はそいつは研究所で唯一、小型化実験に成功した例なんだ。
細胞を改変する実験でな、他の種類のドラゴンではうまくいかなかった。
だから今回の研究は、
品種改変した『ブラッドビーナス』が無事子孫を残せるかがまず一つ目の目的だ、
こういう実験をした個体は一代雑種で終わってしまうことも少なくないからな。
そして二つ目、『ブラッドビーナス』は子孫を残すとき、
自身と同じ『ブラッドビーナス』を出産するが、
その子供の遺伝子自体は元の宿主達のものを引き継いでいる。
もしも品種改変したこいつが子を残せるなら
その子供にさらに様々な種類のドラゴンの血を吸わせて、
他種の遺伝子と小型化細胞の両方を併せ持つ子供を誕生させる。
そしてその子供からそれぞれの遺伝子と小型化細胞を抽出し、融合させる。
この融合のくだりはちょっと都合が良すぎて、
正直俺は一番成功率が低いと思ってる、
ま、それができたなら、
元のドラゴンに移植して他のドラゴンも小型化成功ってとこだ。
という訳だ。 これが全部うまくいく確証はない。
むしろこんなにうまくいくとも思えない。
だがまぁ、物は試しってやつだな。
おっと、やる気を無くすなよ」
そう言われても、せっかくの『ブラッドビーナス』ではなく、
こんな気の乗らない実験の方をメインに研究をしないといけないとは気が重い。
「…もしもこの実験はあんたの予想通り、うまくいかなかったとしたら、
この『ブラッドビーナス』はどうなるんだ」
「それは気にするな。 ほんの少しだけ特別扱いされるだけで、
後は普通の個体と同じ生活を与えられるだけだ」
本音を言ってしまえば、
私の中でこの研究所に対する信頼というものはあまり無い。
カリナ君のことも、
私と価値観の合わなそうな研究所よりは信用がおけるが、
それでも両手を挙げて信用できるほどの人間でもない。
少し驕りのある発想をしてしまえば、
私はジンジーの一件で少し、名声がある。
場合によってはこの仕事を断っても、次の仕事は来る可能性は高い。
だが、この研究所は何を考えているのか、全くわからないといつも思う。
私には何を考えているのかわからない研究所だからこそ、
私の考えが当たるとは限らない。
なにより、仮に私がこの仕事を断っても、
同じ仕事を受けている誰かが居ないとも限らないし、
その誰かがこの仕事を受けないとも限らない。
結局人間のエゴで作られた細胞を混入されてしまうことは、
避けられないことなのかもしれない。
それに、少し気に入らない要素があるというだけで、
縁あって自分に寄生した『ブラッドビーナス』とお別れしてしまうのも、
後で後悔しかねないだろう。
「わかった。 だが、
私はこの研究は好きではないことを、あんたの上司にでも伝えてくれ」
「ああ、約束する」
そう言ってカリナ君は、
私に『ブラッドビーナス』を託して研究所へ戻っていった。
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リビングに戻った私は、
早速『ブラッドビーナス』…いや、『ラドリー』を元の姿に戻すことにした。
カリナ君から教えてもらった戻し方は、「両方の人差し指で球体を持ち、
左右の指を光の中で指先が触れるまで真っすぐ押す」こと。
光の端に右の指先と左の指先が触れた瞬間、
球体は消滅し、
私の目の前には妖艶な影が、たおやかに微笑んでいた。
しなやかな鱗。
柔らかな皮膚。
天鵞絨のような瞳。
人の心を惑わせるかのような香。
妖しい肉体。
目の前に広がったのは、あまりにも麗しく、淫靡な光景だった。
カリナ君の言う通り、
こんなドラゴンと共に暮らすとなればドラゴン愛好家達が黙っていないだろう。
私は思わずごくりと、大きな唾を飲み込んだ。
それだけに、今回の研究には心底残念だと言える。
これほどの素晴らしい存在に、何故人間が手を加えてしまったのか。
ドラゴンとは、自然美である。
ハイドラも人間の手が加えられた存在ではあったが、やはり親種の良さもあり、
個人的にはまだ肯定のできる研究だった。 言うなればハイドラについては、
その存在に人間の自分勝手が関わっている事を肯定してはいけないだけである。
だが今回は違う。 ラドリーに加えられた人の手というものは、
既に完成されているラドリーの細胞に、人間が卑しい手で触っただけなのだ。
元々あまり印象の良い研究所ではなかったが、今回の仕事は特に最悪だと言える。
それにしても、やはりこのラドリーは数居るドラゴンの中でも特に官能的だ。
改めてドラゴンという生き物の素晴らしさを教えてくれる。
そう思いつつ、思わずうっとりとラドリーを眺めていると、
視線に気づいたラドリーが私の首元に口を近づけた。
---っ。
吸血された。
これは『ブラッドビーナス』の珍しい特徴の一つだ。
吸血蝙蝠のように直接他の生物の血を吸うこともあるのである。
噛まれた跡に鈍い痛みが残る。
流石に大型のドラゴンの牙となるとこちらのダメージも大きい。
だが、そんなことなど歯牙にもかけないように、
ラドリーは自らの口元に付着してしまった私の血液をぺろりと舌で舐め取った。
悪いドラゴンだ。
まるで小悪魔そのものである。
だが、その悪魔のような行いも、ドラゴンならば許せてしまう。
特に、ラドリーのような美しいドラゴンであれば。
するとラドリーは私の身体に覆い被さり、もう一度血液を啜り始めた。
お腹が空いているのか、私の血がそれなりに美味な代物だったのか。
私の耳元にラドリーのやわらかい呼吸音が囁く。
噛まれること自体は私の身体に負担がかかるが、
悪い気分ではないので暫くそのまま吸血させることにした。
人の肌に爪を立て牙を立て、
接吻のように血を食みその傷を舐め取ってゆく。
私は手を伸ばし、ラドリーの頬を撫でてみた。
ラドリーの艶のある鱗は少し、熱を帯びていた。
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ラドリーと共に暮らし始めてから、1週間が経過した。
いつもより早く目が覚めた私は、
まだ寝息を立てているラドリーを起こさぬようにベッドから離れ、
早朝の空気に溶け込むような、爽やかな香りの珈琲を口に運ぶ。
あれからも変わらず、私とラドリーは共に食事をし、
そして触れ合う日が続いた。
流石に1週間となると、
毎日吸血され続けた私の身体は少し悲鳴を上げ始めている。
当たり前のことだ、本来『ブラッドビーナス』は、
複数の生物から血を分けて子を成すドラゴンなのだから。
別に他の生物や他の人間の血を与えても良かったのである。
それでも私の血だけを与えたのは、
他の生物や存在にラドリーを触れさせたくないという、
私の嫉妬や独占欲でしかない。
ただの、しかも比較的醜い方の自己満足なのだ。
それに、ラドリーとの生活は楽しいが、
これほど自分の身を削る同居生活ならば、
できればその相手はプルカであって欲しかった、
と思う自分は酷く愚かな男なのだろう。
美しい者と暮らすということが、
自分の醜さを知る結果を招くなど、今まで私は知らなかった。
いや、これは私だけのことなのかもしれない。
例えば美しい者と美しい者が生活を共にした場合…などと考え始めたが、
だんだんと自分が何を考えているのかわからなくなってきたので、
一旦思考を止め、珈琲の味わいに集中することにした。
それにしても珈琲を飲んでいるというのに今日は何故か眠気が醒めない。
時計を見ると、朝食までにはまだ時間がある。
この一杯の後、もうひと眠りするとしよう。
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夢…の中のようだ…。
私は夢の中に居る…。
頭の上に何か感触がある…。 人の手…大人の…。
父上…? ああ…。
嫌な夢だ…。
それと…女の子…?
もっと嫌な夢だな…いや、あれは現実か…。
こっちに来るな…来ないで…嫌だ…。
ああ…。
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身体に何か…大きな感触…? これは刺激か…?
肉体の…下の方…。
………!!??!
…思わず、反射的に、蹴り飛ばしてしまった。
意識を取り戻した瞬間、自分がしたことを理解し、
ラドリーに敵意はないことを示そうとしたが、手遅れだった。
既にラドリーは、警戒の色を浮かべてこちらを覗き込んでいた。
自分の身体の状態を確認する。
間違いない、ラドリーは、私の海綿体に送られる血液を狙ったのだ。
別に、そこに悪意はなかったのだろう。
ただ、血液を啜ろうとしただけである。
正直なところ、今起きた現実を受け入れるのには少々骨が折れるのだが、
今するべきはそんなことではない。
一応、最悪の事態は避けることが出来たのだ。
私は無理矢理、自分の恐怖心を抑え込み、理性を保ち冷静になった。
まずは、この状況からこれから自分が何をするべきかを考える。
少なくとも、ラドリーはこちらを攻撃するような素振りは見せない。
勿論、今の吸血についてもその意図はなく、
いつも通りの吸血のつもりだったのだろう。
それならば、このまま今まで通りに接していれば大丈夫だろう。
私としては正当防衛のつもりではあったが、危害を加えてしまった以上、
警戒がいつまで続くのかはわからない。
私は申し訳なく、ラドリーの名を呼び、手を伸ばした。
ラドリーは、ゆっくりと、こちらの様子を伺いながら近づいてきた。
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あれから2日が経過した。
まだラドリーとの関係を完全に修復できたわけではないが、
今日の朝、ラドリーは身籠った。
私はひとまず、カリナ君にラドリーの妊娠報告の電話をした。
「それはそれは、妊娠おめでとう」
カリナ君は予想通り、気色の悪いジョークを発する。
いつもなら無視をするところだが、
今回はそういう気にもならなかったので、ラドリーとの生活に関して、
少し問題が発生したことをクレームとして伝えることにした。
勿論、2日前の朝の出来事についてである。
それを踏まえて今のジョークも不快であるとダメ押しもしておく。
「え…それは、少し、空気の読めないことを言ってしまったな…。 すまん」
意外と素直にカリナ君は謝ってくれた。
「それで、今回の研究は本当に出産までの同居で良かったんだな?」
「ああ。 …まぁ、
その『ブラッドビーナス』との生活にこれ以上支障を感じるのなら、
今からでもこちらから引き取りに行くぞ…?
その問題の件に関しても、我が研究所は謝罪をしないといけないしな」
「いいよそんなの。 引き取るのもやめてくれ」
「いらなくても受けてもらうぞ。 ある程度の誠意は示しておかないと、
世間の目もあるしな、
何か希望する謝罪があるなら今教えろ、聞くから」
「なら、お前達と研究所が何者なのか教えてくれ」
「前にも言ったような気がするが、それは出来ない相談だ」
「それならいらん、どうしても謝罪したいなら好きにすればいい」
「それなら、こちらで考えさせてもらう。
楽しみにしていてくれ、
あとは、何かまた問題が起きれば、すぐに知らせろ」
そう言ってカリナ君は通話を切ってしまった。
どうしようもなく下品で下劣な人間だが、
最近は言い方はともかく親身になってくれている気はする。
それはそれとして、プルカの件も有るので好きにはなれないが。
報告は完了したので、ラドリーに意識を移す。
ラドリーはとても深く眠っている。
『ブラッドビーナス』は妊娠すると、安全な場所に身を隠し、
出産するその時が来るまで、眠って体力を温存するのだ。
私がラドリーに危害を加えてしまったベッドを眠る場所に選んだのは、
少しだけでも、
ラドリーの安心や信頼を取り戻せつつあると、考えても良いのだろうか。
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ラドリーの妊娠から3日後、ラドリーの出産が始まった。
と言っても、人間の出産とは違い、
そこまで大きな負担や時間のかかるものではない。
ラドリーはベッドに横たわり、その時を待つ。
…あまりこういうことを考えてはいけないのだろうが、
あの『ブラッドビーナス』の、紅潮した表情、荒い息、
ベッドに肉体を預け脚を伸ばす姿に、
少し今の状況には場違いな酔いを起こしそうになる。
これが人間で、自分の子供が産まれてくるのであれば、
おそらくそう感じることはないのだろうが。
ラドリーが少し大きな声を短く上げた。
その瞬間、幼体の『ブラッドビーナス』がスルリと姿を見せる。
私はこの世に誕生したラドリーの子を抱きしめ、
ラドリーの頬を柔らかく撫でた。
願わくば、この母子が、研究所でも幸せに暮らせるように。
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「これがお前とラドリーの娘か、可愛いじゃないか」
ラドリー母子を迎えに来たカリナ君がまた嫌な冗談を吐く。
前の素直さは何だったのか。
「言っておくがその子供は私とラドリーの子供じゃない、
ここへ来た時にアンタにも寄生してただろ」
ラドリーを寄生させていたという事はカリナ君の血液も啜って居ただろう。
ラドリーの子供にはカリナ君の遺伝子も入っているはずである。
「お前はすぐ人の発言を気色悪がる割に意外とそういうこと言えるんだな」
何故か真面目に引かれてしまった。
事実を言ったまでなのだが。
「兎も角、ラドリー達は連れて帰らせてもらうぞ」
「ああ」
そして、これが今回の研究の最大の実験になる。
カリナ君はまず、ラドリーの前で腕を交差させ、
内側へ手のひらを向け、
そしてその両の手のひらを重ねた。
ラドリーが再び球体へ戻る。
そして問題は…。
「それじゃ、ラドリーの子供にも試してみるぜ」
カリナ君は先程と同じ姿勢を取り、
そしてもう一度手のひらを重ねた---
---ラドリーの子供の姿は変わらない。
私の中には愚かな実験の失敗を喜ぶ気持ちと、
実験に失敗したこのラドリーの子供の研究所での扱いへの心配が浮かんだ。
「変わらない…か」
「子供の方の扱いは、研究所ではどうなるんだ」
「心配するな。
ラドリー同様、他のドラゴンと変わらない扱いで飼育されるだけだ」
「それならいいんだが…」
「とりあえず、
研究所へ連れて行って子供の方の遺伝子や細胞を調べさせてもらうぜ」
-----
あれから、カリナ君から仕事の報酬と謝罪の手紙、そして研究の結果が届いた。
ラドリーの子供は、どうやらラドリーから何の遺伝もしていなかったようだ、
例の小型化細胞どころか、私やカリナ君の遺伝子も見つからない、
つまり、素の『ブラッドビーナス』の状態で生まれてきていたらしい。
一応カリナ君からそれらの結果に付け加えて、
今回の研究では『ブラッドビーナス』は人が手を加えると、
親個体が集めた遺伝子情報も含めてリセットされるという事がわかった。
それだけでこの母子には研究所内での価値が付与されたため、
大事に管理・飼育されているとのことだ。
最も気がかりだった事だけに、それを知った私はひとまず安心した。
そして謝罪の手紙には、カリナ君から珈琲のお誘いが書かれていた。
"お前が前に紹介した喫茶店で珈琲を飲みながら話をさせてくれないか"と。
私は手紙に書かれている日時を確認し、
了解の返信をする手紙を認めた。