『マッドジャンキー』
「新しい女を連れてきてやったぞ、ドアを開けろ」
プルカの体温を失って、何日が経過したのだろうか。
いつの間にか季節も変わっていた、
私の家の庭から、
いつかの研究員の声がした。
私は気力のない腕と脚を、
玄関に向かわせ、ドアノブを回す。
「新しいドラゴンだ。 中々の上玉だろ?」
研究員の後ろにいるドラゴンの影を見上げて、
私は思わず声を出してしまいそうになった。
研究員の後ろにいたのは、
『マッドジャンキー』という品種。
数あるドラゴンの中でも特に凶暴で、
典型的な「悪魔の使い」に等しいドラゴンである。
大きく長い口元には、
頑丈そうな猿轡がはめられ、
拘束自体はされているが、
このドラゴンの"最大の恐怖"である黄色い鱗が、
ギラギラと輝きその存在感を放つ。
「黄色の悪魔」は、好戦的そうなその瞳で私を強く見つめていた。
「お前の事を気に入ったようだな」
「…このドラゴンは、いつまで預かればいい?」
危険なドラゴンを預かるのは構わない。
そういう仕事だ。
それに私としても、凶暴なドラゴンに接することができる貴重な機会だ。
この仕事を引き受けなければ一生来ることのなかったチャンスだろう。
だが、このカリナータパシフィックボアのような顔の研究員がいう、「新しい女」という言い方が気に入らない。
「お前がこいつを抱いた時かな」
こいつは何故、こんな嫌な言い方をするのだろうか。
私が嫌な顔を隠さなかったからなのか、
このカリナ君は自分の話に付け加えだした。
「本当の事だぜ。 今回のお前の仕事はこの女の鱗に触れ続ける事だ」
とんでもない仕事を任されてしまった。
マッドジャンキーの鱗には
『相手の思考力、理性、判断力、客観的にものを考える』等の能力を奪う、
要するに、『鱗に触れた相手の頭をおかしくする力』が備わっている。
さらに中毒性のおまけつきだ。
その鱗に触れ続ければ、こっちの気も触れてしまうだろう。
当然のように異常な依頼をするカリナ君に、私は尋ねる。
「あんたのところ研究所は一体何の研究をしているのか」
「そいつを言うのは勘弁してくれ。 何の研究か知れ渡ったら、
身元がバレた時にこいつに喰われた研究所の男達がかわいそうだ」
「喰われた? このマッドジャンキーは何故そんなことをするようになったんだ」
「ドラゴンはいろんな退治のされ方で退治されるのさ。 こいつはそれがちょっとクセになっちまってな」
「それを、私が面倒見ろと?」
「言っておくが、逃げられないからな。 おっと、仕事の方だぞ」
黙り込んで睨む私に、カリナ君は本日最後の下劣な言葉を並べた。
「頼んだぞ。 ま、死にはしないさ。 もしもの時は研究所で面倒をみてやるよ。
…あの『プルカ』と一緒にな」
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カリナ君が帰り、
私の家の玄関から下劣な"おしゃべり"の声は風に乗って消えていった。
正直、この仕事の"依頼内容は"期日が来るまで放置することにしようと思った。
確かに金を貰う以上、それなりの責任はある。
だが、自分の人生を棒に振ってまでやる仕事など、ないと考えている。
あるなら、それはせめて、自分の身を守りながらやるべきだ。
危険な仕事の事は忘れよう、それよりも。
今、私の目の前にいるのは、『マッドジャンキー』。
数あるドラゴンの中でも、
五本指に入るほど危険といわれる『デーモンズ・フィンガー』、
そう呼ばれる中の危険種の一つ、あの『マッドジャンキー』なのだ。
かつて私が研究所に勤めていた頃、あまりにも危険すぎるため、
裏方の私では実物を見る事さえ、絶対に許されなかったのだ。
ドラゴンに惹かれ憧れ研究の道を志した、あの頃の胸の高鳴りを思い出す。
嗚呼、美しい、素晴らしい、呼吸がどうにかなってしまいそうだ。
とにかく、暫くは私と共に暮らすドラゴンだ。
一応『ジンジー』と愛称を付けておこう。
しかし、感動に浸る私の視線に反応し、こちらを向いたジンジーは、
私の研究者としての高揚を瞬時に破壊する。
色気を宿したような瞳で、うっとりとした表情とねっとりとした視線を私に向け、
黄色いサキュバスは、少し甲高い声を出しながらこちらに寄ってきた。
私は、一瞬の出来事に驚いたものの、
喉を鳴らし、甘えようとするジンジーの巨体をなんとかかわした。
しかし、ジンジーはそう簡単には私を諦めてはくれないようだ。
次の瞬間、体をくねらせ、
今度はこちらの上に覆い被さろうとしてきた。
猿轡が私の不愉快な場所に触れる感触に、
流石に苛立ちを覚えたが、
その隙に私の手は部屋のドアに届き、
一旦ジンジーとの空間から抜け出した。
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家を飛び出し、街の喫茶店まで走ってきた。
私は店のドアを開くと、店内の椅子に力が抜けるように座り込んだ。
ここは、私のお気に入りの店だ。
いつもなら、座るなり珈琲の新作ブレンドは出ていないかと確認するのだが、
今日は、流石にそんな余裕は無かった。
店の奥から長い髭を蓄えた男が歩いてきた。
長年この店を経営しているマスターだ。
私は彼を、立派な髭が聖夜の老人に似ているため、
少し変えてザンダさんと呼んでいる。
勿論、本名は違う。
ザンダさんは疲れて一言も言葉を発しない私を目で確認し、また店の奥に戻った、
そしてまた歩いてきたザンダさんは、
私の目の前に一杯の珈琲を置き、また店の奥に戻る。
あたたかな珈琲の湯気に、私はやや混濁していた意識を取り戻す。
私はこの店が好きだ。 週に一度は通うこの店の珈琲は、
いつも私の心に安らぎを与えてくれる。
私は一口、珈琲を口に運んだ。
さて、どうしたものか。
薄々察していた事だが、
たかが、一度仕事をさせただけの人間に、
こんな危険な仕事を与えるとは、
研究所はどうかしている。
他者に触れたがるマッドジャンキーは、
もはや生きて追いかけてくる違法ドラッグといっても良いだろう。
カリナ君の話を聞く限り、
研究所だって、手に負えていないようだ。
それを、仕事として、私に与えたのは、
何が狙いか、何の研究データが欲しいのか、
まさか、何も考えていないのか。
もしも、研究所がジンジーに関して、
何かしらのデータを欲しているなら、
おそらく、対処する方法か、私を犠牲にして最悪のデータを取る方法か、
どちらかだ。
無論、後者を提供する気は全くない。
とはいえ、
ジンジーをこのままにはしておけない。
研究所が引き取りに来るのも、当分先だろう。
私は思考の海に浸りながら、
また一口、珈琲を口に運んだ。
苦い感触に、甘い後味が広がってゆく。
私の意識を取り戻したことに気づいたザンダさんがこちらに歩いてきた。
「…気分は良くなったか?」
「ああ、ザンダさんの珈琲のおかげでね」
「それは良かった…」
ザンダさんはいつも言葉が少ないし、そこそこ寡黙だ。 だけど、温かい。
「ザンダさん、この珈琲は新作かな。 始めて飲む味だ」
「ああ…最近やみつきになるような珈琲を求めて研究していてね、これはその試作品だ…」
「やみつき、か」
確かに、この珈琲にはそれを感じさせるものがある。
だが、その言葉の響きに少し、ジンジーの事を思い出してしまった。
そういえば、プルカは珈琲をあまり好まなかったが、ジンジーはどうだろうか。
例えば---。
「ザンダさん、この珈琲のやみつきになる秘密、誰にも漏らさないから教えてくれないか?」
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喫茶店を出た私の頭の中には、ジンジーとうまく触れ合える方法が浮かんでいた。
ザンダさんから貰ったやみつきの秘密、「アポッピンの豆」、
そして、
今から「対ドラゴン用退治道具専門店」で、
「鱗剥ぎ用の手袋」を購入することにした。
こういった退治用道具は本来、
訓練した退治屋が使って、やっと通用するものだ。
いくら道具があっても、
一般人では凶暴なドラゴンには道具を使う前にやられてしまう。
しかし、今の私にはそれを使った作戦が思い浮かんでいた。
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今はジンジーが閉じ込められている、自分の家に帰ってきた。
私が家の鍵をカチャカチャと鳴らすだけで、
音を察知したジンジーが寄ってくる気配がした。
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家の中に入った。
ドアの前ではジンジーの気配を感じたにも関わらずやけに静かだ。
私は廊下を歩いてまっすぐの所にある、リビングルームへ向かった。
部屋のドアを開けた瞬間、低い唸り声が微かに聞こえた---
部屋の中に、大きく激しい音が響いた。
---咄嗟に黄色い腕と腹の間をすり抜ける事ができた。
ジンジーは私が部屋に入るなり、大きな腕で捕らえにきた。
どうやら、上半身の拘束は、外れてしまったようだ。
私を逃したジンジーは、動きを抑え、次は私がどう動くのか、ジッと睨む。
私は唾をひと飲みしたあと、意を決し、手袋をはめた右手を、そっと、
ジンジーに伸ばした。
やはりジンジーは鱗に触れられたいのか、大きな腕で私の手を掴み、
鎧のような鱗に覆われている胸元に寄せた。
私が胸に触れると、彼女は先程までと違う、
少し高く、甘えるような声で鳴いた。
私は彼女の胸のラインを優しく撫でながら、
こっそりと、左手でアポッピンの豆を彼女の口に運ぶ準備をする。
ジンジーの息が熱い。
私は彼女の胸の頂点まで数回撫で回し、
手袋で、胸の鱗を剥いだ。
ジンジーは短く、驚いた声を挙げる。
その瞬間、
少しだけできる猿轡の隙間に、
豆を投げ入れた。
胸を露わにされ、
突然口に入れられた異物に、
何が起きているのかわからないジンジーの猿轡から、
まるで人間のような悲鳴が漏れる。
ジンジーの頭が混乱している隙に、
私は手際よく、体中の鱗を剥いでいく。
ビリッビリッと勢いよく鱗を剥ぐ音と、
ジンジーの悲鳴だけが家中に響いていた。
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「………随分と楽しんだようだな」
ジンジーを引き取りに来たカリナ君は、
丸裸にされたジンジーを見て、冷ややかに言った。
息をするように下劣な言動をするカリナ君にだけは言われたくないが、
それは口には出さないことにした。
「確かに、鱗さえ剥いでしまえば、危険は減るな………ああ、理にかなっていると思う」
「それだけじゃない」
「な、なんだ、まだ何かしてるのか」
想像以上に怖がりだすカリナ君には少し心外だが、
私はアポッピンの豆をポケットから取り出す。
すると豆の香りに引き寄せられるように、
ジンジーがこちらに顔を寄せた。
あれからジンジーは、
このアポッピンに"やみつき"になったのだ。
「これで、研究所の男達も安心して働けるだろう」
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2週間後、カリナ君から手紙が届いた。
研究所に帰ったジンジーは、
以前の凶暴さが嘘のように、穏やかに暮らしているそうだ。
それまで危険な鱗のせいで研究が進まなかった『マッドジャンキー』のデータは、
鱗のないジンジーが研究されることで、
「肌そのものは柔らかく、元々は弱いドラゴンで、自身を守るために鱗を纏う進化をしたのではないか」等、
新たな可能性の発見もあったようだ。
私自身、研究家としてそれなりに嬉しいことである。
困ることと言えば、アポッピンの豆を欲しがる事だと書いてあったので、
私は研究所宛に、ザンダさんの喫茶店を紹介する手紙をしたためた。
あの壮絶に現実離れした一日も、すっかり思い出になってしまった気分だ。
そんな事を考えながら今日もまた、
ザンダさんの新しい試作品を求めて、喫茶店に向かった。