戻らない日常
スーツ姿の人たちが俯き加減で朝の駅へ吸い込まれていく。
久しぶりに見る通勤ラッシュの光景に、真理絵はすこし懐かしさに似たものを感じた。
しかし、自分もその人混みの中に入ると、忘れていたうんざりさが一気にぶり返してくる。
新型コロナウイルスの感染爆発と医療崩壊を抑えるために、休業だの自粛だのリモートだので対応してきた各企業も、あちらこちら様子を伺いながら活動を再開。
悪名高い通勤時の大混雑という、一会社員の身ではどうにもならない辛い日常がまた戻ってきた。
ただ、かつての鬱陶しい日々と目に見えて違うところもある。
マスクだ。
見渡す限り、着用率100パーセント。
誰も彼もが鼻から口までマスクで覆っている。
白が圧倒的大多数で、続いて黒、その他手作り等の順に多い。
変わり映えのしない白いマスクの真理絵は、いつの間にか覚えていた他人とぶつからない歩調で、改札を抜けてホームへと向かう。
密閉、密集、密接。
いわゆる3密。
避けられるものなら誰しも避けたいところだが、なかなか思うようにはならない。
それが現実だ。
けれども、かつてのラッシュ時に較べれば、まだソーシャルディスタンスを守ろうと頑張っている人たちがいるのか、人と人の間には若干の隙間がある。
三歩どころか一歩半。
それもあるかないかくらいだが、ないよりはマシだ。
久々の人混みは、マスク着用も相まってか、なんだか余計に息苦しい。
このあと電車に乗って降りるまでの間を想像してみた。
つい溜息をつくと、マスクで蒸れて、さらに不快感が増すばかり。
先が見えないままアフターコロナ、舌の根も乾かぬうちにウィズコロナ。
言い出す方は勝手だが、このままもしも炎暑続きの夏が来たら、世の中どうなってしまうんだろう。
考えただけで、気持ちがどんどん塞いでくる。
マスクで口を塞いだように。
いけない、いけない。
会社に行く前からこんなんじゃ、仕事に身が入らないわ。
真理絵はつい俯きがちになる顔を上げた。
電車が来るまでは、まだ少し時間があった。
前の人も斜め前の人たちもスマホを眺めているようだ。
ちらりと横に視線を送った。
一歩離れたすぐ右隣に、紺色のスーツの女性が立っていた。
手にした品のいいビジネスバックはブランド物だろうか。
結い上げた髪をきっちりとピンで留め、濃くも薄くもないメイクもキマっている。
なかなかの美人だ。
ただ、気になる点もある。
この人混みのなか、マスクをしていないのだ。
マスクだらけの集団のなか、なまじ美人なので、一際よく目立つ。
しかし、真理絵以外は朝のせわしなさに気を取られてか、誰も気付いていないような……。
そういえば、忘れていた。
見て見ぬフリの我関せずは、ラッシュ時には特によくある光景だった。
独特な抑揚をつけた放送が電車が来るのを告げた。
ほどなく電車がホームに滑り込んでくる。
まだ停まりきる前に、隣の女が真理絵に言った。
「マスクなんてしないわよ」
ちょっと不躾に見過ぎてバレてしまった。
バツが悪くなった真理絵だったが、謝るかどうかも考えず反射的に隣を見る。
その女も首だけ傾けて、こっちを見ていた。
「だって、もう死んでるんだから。わたし」
電車の扉が開き、真理絵は人の流れに押し流されていく。
一瞬、振り向く。
女は立ち止まったままだった。
サラリーマンたちが、ホームの女の身体を次々とすり抜けて、我先にと車内へ急ぐ。
人と重なるたびに女の姿が消えて、人が通り過ぎるとまた現れる。
まるで点滅しているみたいだった。
誰も気付いてないの?
身動き取れない満員電車のドアが閉まった。
人と人のわずかな隙間から、真理絵はなんとかもう一度ホームを見る。
誰もいなくなったホームで、女は立ち尽くしていた。
さっきまで真理絵が居た、隣のあの場所に。
電車がゆっくり走り出し、駅から徐々に遠ざかっていく。
もしかしたら、いままでもいたのだろうか。
誰にも気付かれないまま、ずっとあの駅に。
朝の通勤ラッシュ時には、文字通り、人と重なり合いながら。
自粛期間中で人の少ないときは、誰にも見えずにひっそりと。
一度気付いてしまえば最後、ありふれた日常は、不穏なものへ変わってしまう。
嫌な事が、またひとつ増えたな……。
人と人に挟まれて揺られ、真理絵は溜息をつく。
息苦しいばかりだった。