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9.葛和村

 なんでも屋からの報告書を確認した恭助、青葉、麻祐の三人は、その日のうちに東海道新幹線で愛知あいち県の名古屋なごや市へ移動した。夜は同市千種ちぐさ区内にある青葉の自宅で泊り、翌朝は七時半に出発して、地下鉄東山ひがしやま線を利用してJR名古屋駅までやってきた。この後、八時四十三分名古屋発の特急列車ワイドビューひだ3号に乗って、二時間ちょっとの旅路の末、十時五十六分に飛騨地方の中心都市である高山たかやまで列車は停車をするのだが、目的地である猪谷いのたに駅は、そこからさらに一時間ほどを費やして、十一時四十三分に到着の予定だ。

 恭助たちが猪谷駅を目指す理由は、いうまでもなく、麻祐の父親の故郷である葛和村を訪れるためであるが、十九年前の凄惨な大量毒殺事件の真相が、今になって解明されることなど、もとより期待できるはずもなく、それでも何もせずに手をこまねいているより、何かできることをしたい、という麻祐の要望に応えた、どちらかといえば、献身的ともいうべき行動であった。

 猪谷駅は、富山とやま岐阜ぎふの県境付近の富山県側にあって、高山市と富山とやま市を連結する中継地点でもある。しかしながら、特急列車のワイドビューひだでこそ、名古屋から富山までを一気につなぐ運行となっているのだが、それ以外の高山線の普通列車や急行列車は、高山からやってくる列車も、富山からやってくる列車も、それぞれがこの猪谷駅で折り返してしまい、もと来た方向へ舞い戻っていくというピストン運行を行っている。したがって、高山線で普通列車に乗って高山と富山の間を行き来しようものなら、必然的にこの猪谷駅で下車をして、反対側のホームへ移動して、次の列車を待たなければならないのだ。つまり、猪谷駅はどちらの方面からも終点扱いを受けている駅なのである。そうなってしまった理由は、JR高山線が二つの運営会社で営まれていることに起因している。岐阜から猪谷までの区間はJR東海の東海鉄道事業本部が管轄しているのに対して、猪谷から富山までの区間はJR西日本の北陸広域鉄道部が管轄しているためである。それゆえに、さぞかし立派な駅であろうと期待される猪谷駅は、実は山の中にポツンとたたずむ、もの寂しい秘境駅に過ぎない。

「へー、特急のくせしてキハ系なんだ。ワードビューひだ号って」

 十一番ホームに入ってきた七両編成の車両を見て、恭助が子供みたいに大きな声ではしゃいだ。

「キハ系ってなんですか?」

 さっそく麻祐が突っ込みを入れる。

「あれれ、まゆゆ。北海道民のくせに知らないの? キハ系ってのはね、キが気動きどう車のキ。つまり電気じゃなくてエンジンで動く車両ってことで、それから、ハはイロハの順番の最後のハ。つまり一番ランクが低い車両であることを意味するんだよ」

「へー、そうなんですか。ところで、それがどうして北海道民のくせになんですか?」

「だってさ、北海道は架線が引かれていない路線が多いじゃない。だから、そこで走っている列車はほとんどがキハ系なんだよ」

「ふつうの電車なら、架線が引かれているってことですか?」

「そうだよ。だから、見てよ。我らが愛知県内では、列車は基本的に架線からの電気の供給を受けながら走るのさ。まあいってみれば、キハ系列車が走るのは田舎の僻地のローカル線ってことだよね。あはは」

 恭助がむやみにふんぞり返るのを見て、麻祐がムッとした。

「じゃあ、恭助さん。架線からもらった電気で走る電車のことは、何系と呼ぶんですか?」

「えっ、えーとね。それは……」

「モです。動力がモーターの電動車は、モハ系とか、クモハ系とか呼ぶのよ」

 青葉がさりげなく付け足した。

「うんうん。まあそういうことさ。じゃあ、乗ろうか」

 この程度のことでは全く動じない、いつもの恭助であった。

 列車が動き出して初めて気づくのだが、恭助たちが乗った車両はなぜかすべての座席が進行方向と逆向きにセットされていた。しかしこの謎も、二十分後に解き明かされることとなる。次の岐阜駅で停車したワイドビューひだ3号は、そこで進行方向を逆向きにして、今度は東を向いて走り出したのだ。

 さっそく三人の中で一番口が軽い恭助が、会話を切り出した。

「細池毒果実酒事件が起こったのは十九年前の一九九九年、つまり平成十一年だね。当時の世の中は千年紀祝賀ミレニアムに沸いていた。現場となった葛輪地区は一風変わった部落で、たしか、富山県の細池村(現在は富山市)と岐阜県の宮川村(現在は飛騨市)の両方の行政区にまたがっていたんだったね」

「その葛輪地区が、これから目指す猪谷駅を降りたところにあるのね」

 車窓から見える遠くの山々に目を向けながら、青葉が答えた。

「駅のすぐ近くにあるんですか。その部落は?」

 麻祐が不安げに訊ねた。

「そうだね。近くといえば近くなのかな? ぱっと見、二キロくらいかなあ」

「二キロですって? ちょっと待ってください。あのですね、外の気温は三十五度ですよ。この炎天下をのこのこ歩いたら、死んじゃいますよ」

 恭助の安易な返答に、麻祐が愚痴をこぼした。

「あはは、まゆゆは子供だなあ。大丈夫、二キロなんかあっという間だよ。こう見えても俺は宗谷そうや本線で起こった事件の捜査の時には、安牛やすうし駅から幌延ほろのべ駅に至る実に十キロにも及ぶ超ロングな道のりを、勇猛果敢ゆうもうかかんにも踏破とうはしたんだからね。えっへん」

 青葉も無言で当時のことを思い出していた。宗谷本線殺人事件の時、恭助の気まぐれにうっかり巻き込まれて、トイレに行きたいのを我慢しながら、二時間半も苦しみもがいたあの悪夢の行程を。


挿絵(By みてみん)


 やがて恭助一行を乗せたワイドビューひだ3号は、定刻通り十一時五十三分に猪谷駅へ到着した。終点のターミナル駅であるにもかかわらず、猪谷駅は無人駅だった。でもその替わりに切符の自動販売機が置いてある。駅舎のアルミサッシの扉を開けると、舗装された広いスペースができていて、正面にまっすぐ道路が伸びていた。木造駅舎を出て振り返ると、筆で書かれたような迫力のある楷書体で『猪谷駅』と大きく表札が掲げられている。

 駅前には『森川友蜂堂』とこれまた美しい文字が書かれた看板の売店がたたずんでいた。はちみつを主に売る雑貨屋のようであるが、新聞や駄菓子、はたまた漬物なども取り扱っているらしく、張り紙に書かれた関所せんべいというのがどうやらこの店の名物であるらしい。そこをすり抜けて中央の道路を先へ進むと、すぐに猪谷という交差点に出る。ここを南北にのびる国道四十一号線はこの地区の主要道路である。交差点の向こうに赤い欄干らんかんが目立つ橋が見えた。橋は車両が通行できるように舗装されているものの、車同士がすれ違えるほどの道幅はなかった。三人はその橋を歩いて渡り、対岸の細い県道を南へ折れた。橋が架かっていた川は、神通じんずう川と呼ばれる一級河川で、県境付近のこの界隈はまだ上流であるのに、それなりの川幅があった。しかしながら、今でこそ美しい清流を誇る神通川も、昭和初期には日本四大公害病の一つとされたイタイイタイ病を発生させた暗い過去を持つ河川でもあるのだ。

 油蝉アブラゼミの声が鼓膜を麻痺させるほどに響き渡り、虫眼鏡のレンズでじりじりと皮膚を焦がされるような強い日差しが容赦なく照り付けた。川沿いのこじんまりした集落を通り過ぎると、宝樹寺というお寺があって、そこを境に民家の建物は一気に消え失せた。

「いやあ、それにしても暑過ぎだよね。青葉ぁ、もう歩けないよー」

「本当に口だけなんですね。恭助さんって」

 いつもながらの恭助に、麻祐は呆れ果てていた。

 細くてさびしい道路を突き進むと、突然まわりの木々がぱっと開けた。白い花をつけたドクダミが生い茂る足元の草むらの向こうに、山すその急斜面にへばりつくようにして広がる緑色の集落――。

 これこそ、十九年前に勃発した凄惨な事件で、世間を恐怖に震撼させた、葛輪くずわ部落であった。


挿絵(By みてみん)


 地図で見ると葛和部落は、巨大な蛞蝓なめくじを思わせる不気味な形状をしていた。部落の入り口には、車が余裕を持ってすれ違える大きな橋が架かっており、その対岸には国道四十一号線が走っていた。欄干にはめ込まれた黒い御影石には『葛輪大橋』と橋の名前が記されていた。そこから分岐した支流の沢沿いに急斜面の細い道路が伸びていて、たくさんの黒いかわら屋根の家々がのきを連ねていた。いずれも大きくて立派な民家だ。ほとんどの鬼瓦にいかめしい顔をした鬼の顔が刻まれている。

 上り坂の傾斜は容赦なかった。三人のうち恭助だけが一人取り残されて、とぼとぼと歩いていた。しばらく進むと、戸口で二人の女性が立ち話をしていたが、近寄っていくと、それに気付いた二人は、慌てた様子でそれぞれの家へ引きこもり、固く扉を閉ざしてしまった。

「やれやれ、近づくだけで逃げてっちゃうね」

 恭助が捨て台詞を吐いた。

「やっぱりよそ者は嫌われているのかしら?」

 強い日差しに手をかざしながら、小声で青葉がつぶやいた。

「無理もないだろう。事件の当時は全国のマスコミが殺到したから、住民たちはへとへとに疲れてしまったんだ」

「まあ、こんなド田舎によそ者が来れば、たいていの目的は事件の冷やかしでしょうからねえ」

 麻祐も大きくため息を吐いた。

「めげない、めげない。さあ、誰かおしゃべりしてくれそうな人を探そうぜ。それにしてもこの辺りの家ってみんな豪邸だよねえ」

 たしかに恭助のいう通り、どの民家もことごとく二階建てで、そこそこの敷地を有している。

「でも、その割に人間がいませんね」

「なるほど。たしかにそうだな……」

 いわれてみれば、それなりに民家の戸数はあるのに、外を出歩いている住民は皆無であった。

 すると、向こうから柴犬を引き連れた初老の男性が歩いてきた。犬は恭助たちを見つけると、ワンワンと威嚇の声を張りあげる。それに気付いた飼い主は、恭助たちに一瞬目を配ると、犬の首ひもを引っ張り込んで、そそくさとすぐに来た道を引き返してしまった。明らかに話しかけられたくない雰囲気オーラがありありと見て取れた。

 やがて、道路は大きく左へカーブをして、その先の地面がいったん平らになったところにアスファルトで固めた空き地ができていた。大型バスが一台停まれば身動きが取れなくなってしまう猫のひたいほどの狭い敷地だが、道端にバスの停留所を示す標識が立っていた。標識には『葛輪くずわ停留所』と名前が記されている。どうやらここがバス路線の終点のようだ。表記された時刻表によれば、一日にやってくるバスの本数はたったの四つで、いずれの行き先も猪谷駅となっていた。

「なんだ、猪谷駅からここまでバスが出てるんじゃないか。畜生、バスに乗ってくればよかったなあ。体力を損しちゃったよ」

「そいつは無理ですね、ほら、時刻表を見てください。時間が全然違います。やっぱり、歩いてくるしか手段はなかったのです」

 麻祐の指摘通り、猪谷駅からのバスが葛輪に停車するのは、朝の九時十分を最後に、夕方十八時十分までまるまる九時間のあいだ、一本もないみたいだ。

「ふん、どうせ十人くらいしか乗ることができないしょぼいマイクロバスだろうな。それならこの狭い広場で切り返しができるのも納得がいくってもんさ」

 恭助が皮肉で返すと、おもむろにスマホを取り出した。

「見てよ。とやまバスっていう会社なのに、終点手前の二つのバス停は岐阜県にあるみたいだよ」

 バス停の横には小さな交番があり、その道路を挟んで向かい側にはこれまた小さな郵便局があった。

 郵便局の前に立っている郵便ポストを見つけた麻祐が、引き寄せられるようにポストへ近づいて行った。昭和時代にはそこらじゅうに点在していた通称『丸ポスト』と呼ばれる赤い円筒形のポストだ。てっぺんにかたどられたデザインが、どことなく人がかぶった帽子を思わせるユニークな形状をしている。

 麻祐はポストの前へ立ち止まると、しばらくのあいだ憑りつかれたようにじっと見つめていた。

「これです。小さい時に私の見た赤いお地蔵さん――。間違いありません」

 そういって、麻祐はポストを手でなでた。

「まゆゆ、これはお地蔵さんじゃなくて、郵便ポストじゃないか」

 恭助が拍子抜けした表情を顔に浮かべた。

「そうなんですか……。でも、これではっきりしました。私はたしかに以前にここへ来ています!」

「なるほどねえ、旧式のポストが、子供の目にはお地蔵さんに見えたってわけだ」

 恭助が納得してうなずいた。

「でも、これで麻祐ちゃんのお父さんのことも分かるかもしれないわね」

 青葉もほっとしたように微笑んでいた。


 この界隈は手入れがきちんとなされた茶畑がそこらじゅうに点在している。富山県でお茶の栽培なんてあまり聞いたことがないけど、もしかしたら葛和部落はお茶の名産地なのかもしれない。

 バス停からさらに集落の奥へ延びる上り坂を進んでいくと、道路の左側に大人の腰の高さくらいの石垣が連なっていた。ちょうど小さな子供がよじ上って歩いてみたくなりそうな、手ごろな高さの石垣だ。

「この石垣もよおく覚えています。間違いなく、以前に父といっしょにここへ来ています。

 石垣の上によじ上ってよろよろと歩くわたしの姿を見て、子供ながらにとても危なっかしいなあと、当時は思っていましたけどね」

 そういって麻祐は、昔を懐かしむようにくすくす笑い出した。

「ってことは、その後でお父さんといっしょにとある建物へ入って、中でたくさんの人々が阿波踊りをしている光景を目撃しているのだから、いいかえれば、あのおぞましい事件が起こった公民館が、ここを進んだ先にあるってことなんだよね」

 突如、麻祐の足が止まった。顔がまっさおに蒼ざめて、身体はぶるぶると震えている。

「私、これ以上先へはいけません……」

 尋常ではない麻祐の様子を見て、青葉が即座に反応した。

「恭ちゃん、これ以上は無理だわ。麻祐ちゃんが可哀そうよ」

「えっ、ここまで来たのに? じゃあ、せめてさ、公民館だけでも見ておかない?」

「でも、公民館があったとしても、どうせ中へは入れないわよね?」

「それはそうだけど、もしかしたらまゆゆが何か思い出すかもしれないよ」

「そうですよね。恭助さんのいう通りです。頑張らなくちゃ……」

 麻祐は無理やりに歩みを進めようとしたが、二歩踏み出したところで、ばったりひざまずいてしまった。どう見ても、この先へは進めそうにない。

「やっぱり今日はやめておくか。どうせ、まだしばらくはここにいるつもりだしね」

 ようやく恭助があきらめて、三人は元来た道を引き返すことにした。

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