6.畳の間
北海道ならではの天井が高い板張りの部屋で、三人の男女が顔を向き合わせながら座っていた。如月恭助と瑠璃垣青葉、それに古久根麻祐だ。麻祐が先ほどの電話の内容を話し始めた。というのも、電話を切った後もずっと泣きじゃくる麻祐に、恭助と青葉が問いただしたからだ。それによると、電話は麻祐の婚約者の母親からで、内容は一方的な婚約の破棄を申し出たものらしかった。
「そいつはひどいなあ。なんか理由がなきゃ、そんな身勝手は許されないと思うよ」
例のごとく、恭助が適当かつ軽率な発言を口走る。
「実は、理由はあるのです……」
麻祐がポソっと答えた。
「ええっ、そうなの?」
恭助が目を丸くした。
「はい。でも、ある意味仕方のないことかもしれません」
「たとえどんな理由だろうと、仕方がないってことはないよ。だってさ、まゆゆと彼氏は愛し合っているんだろう?」
「そうですね。愛し合ってはいますけど、でも、こればかりはどうしようもないのです」
いつもの麻祐らしからぬ、相当に落ち込んだ様子であった。
「麻祐ちゃん、もし差し支えなかったらだけど、その理由を教えてもらえないかしら」
青葉にしては、かなり踏み込んだ質問だ。
「理由は二つあります。一つは、二年前に犬山のかるた大会で起こった殺人事件に関して、私がもしかしたら犯人なのでないかと、彼氏のご両親が疑っているからです」
恭助がひゅーっと口笛を鳴らした。
「ばかばかしい。二年前の事件ならもう真相はすべて解決済みじゃないか。まゆゆが犯人でないこともはっきりしているし……」
「恭助さんは、やはりよく分かっていませんねえ。恭助さんがあの事件で犯人を社会にさらさなかったから、今でも私たちは世間から冷たい目で見られ続けているんですよ」
そういって、麻祐が大きなため息を吐いた。
「私たち?」
「私と青葉先輩のことです」
「えっ、どういうこと」
恭助がきょとんとした。
「つまりですねえ、あの事件は、犯人をかばうために、亡くなった被害者のお二人がともに自然死ということで処理されましたが、現場には不審な点もいくつか残されていますから、被害者が死亡することで大会上位進出というご利益を得た私と青葉先輩が、なんやかんだで、裏で糸を引いていたのではと疑う人も、世間には出て来るわけですよ。もっとも、私よりも青葉先輩の方がより大変じゃなかったかと思いますけど」
「いいえ、私は……」
青葉が少し考え込んでから否定した。
「へー、そうだったんだ。でもさ、あの事件は被害者側からも世間に真相を広めないで欲しい、との依頼があったんだよ。犯人をさらしてしまえば、必然的に動機も問題視されてしまう。被害者側にもそれなりの落ち度があったわけだから、お互いに隠蔽したいということで、無事に意見がまとまったわけだ」
「たしかに、それは最善の策だと思います。関係者がまだみんな若いですからね」
麻祐はしぶしぶ恭助の主張を認めた。
「もう一つの理由はなんだっけ。そのお、まゆゆの婚約破棄のさ」
「もう一つは、私に両親がいないことなんです」
「両親がいないことだって? はっ――。そんなのまゆゆにちっとも責任はないじゃんか。それに両親はいなくたって、おじいさんとおばあさんがいるのだから、どこの誰とも知れぬみなしごというわけではないのだしね」
恭助が強く抗議した。
「そうですけど、こういう田舎では家の血筋が何よりも問題視されてしまうのです」
「でもさあ、別にいないだけで、血筋が悪いわけじゃないよね」
恭助の返す言葉も徐々にトーンダウンしていった。
「それが、あちらの家で、とある探偵社に依頼して私のいでたちを調べさせたらしいのですが、どうやらその調査で、重大な問題ありと結論付けられてしまったみたいなんです」
「まゆゆの両親に何か問題が見つかったってこと?」
「それは、私には分かりません。それに、物心着いた時には私は、じっちゃん、ばっちゃんといっしょに暮らしていましたから、はっきりいえば、両親の記憶はほとんど残っていないのです」
「そうなんだ。お父さんとお母さんを両方とも覚えていないんだ」
恭助が憐れむようにこぼした。
「でも、麻祐ちゃんが覚えていることって本当に何もないのかしら。お父さんやお母さんに関して」
青葉が念を押した。
「覚えている記憶といえば、ちょっとだけあります――」
麻祐は居住まいを正すと、過去の記憶をとつとつと語り始めた。
「まだ幼い頃の話です。私は、誰かと手をつないで、長い長い上り坂を歩いていました。おそらく手をつないでいた相手が、父だったんだろうと思います」
「どんなお顔をされていたのかしら」
青葉の問いかけに、麻祐は残念そうに首を振った。
「もどかしいんですけど、顔は全然思い出せません」
「ちっちゃい頃の記憶なんて、だいたいそんなもんさ。気にしない、気にしない……。じゃあ、それがどこだったのかも覚えていないの?」
「ええ、それも分かりません。でも、暑かったから、季節は夏で、空が茜色だったから、たぶん夕暮れ時でしょう。そして、坂の途中で、少し地面が平らになったところに、赤いお地蔵さんが立っていました」
「赤いお地蔵さんだって?」
恭助の眉がぴくりと動いた。「よだれ掛けが赤いお地蔵さんってことかな?」
「だったら赤いのは首元だけで、あとは鼠色ですよね。いいえ、違います。私が覚えているお地蔵さんは、全身がまるごと真っ赤っ赤だったんです」
理解しがたい奇妙な光景を、麻祐は事もなげな様子で主張した。
「変なお地蔵さんだなあ……。うん、じゃあ、続けてよ」
拉致が明かないと判断した恭助が、先をうながした。
「はい。近くには川が流れていました。そんなに大きくはないけど、翡翠色をしたきれいな川でした。それから、ちょっとした石垣がありました。落ちちゃうと怪我をしそうな高さなのに、私ったら、ちゃっかりそこにのぼっちゃって、おてんばさんだったんですね、上から手を叩いてこちらを見下ろして、きゃあきゃあはしゃいでいるんですよ。見かねたお父さんが、両手で私を捕まえて、注意深く下へおろしたんです」
「その時何歳か覚えている?」
「はい、たぶん三歳です。私が北海道へ住むようになったのが四歳になるちょっと前でしたが、その記憶は北海道へ来る以前のものです。そうです。そこのところは絶対に間違いありません」
そういって麻祐は一息入れると、また続けた。「それから、私はある建物へ入っていきました」
「建物だって? 石垣から下ろされてすぐ直後の出来事なのかな?」
「いいえ、たぶん別の日ですね。でも、場所的にはそんなに遠くなかったと思います」
「その建物ってどんな感じだった?」
「そんなに大きくもなく、小さくもありません。でも中へ入ると、とても広い畳の間がありました」
「ふーん。それで」
「まっすぐな黒の縦線と縦線があるんです。そして、合間から白い光がこぼれていました」
「ええと、なんだい。縦線と縦線の間って?」
「冷静に考えてみて、たぶんそれは、ふすま戸のすき間じゃないかと思います」
「なるほどね。ふすま戸が少しだけ開いていて、部屋の中の様子が垣間見られたってことだね。それで、何が見えたの?」
「たくさんの人が踊っていました」
「踊っていた……。盆踊りかなんか?」
「うーん、ちょっと違います。どちらかといえば、阿波踊りですね」
「阿波踊りだって? 徳島県の、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよい――、てやつ?」
「そうです」
「奇妙ね。畳の間で阿波踊りだなんて」
青葉が右手の人差し指を口元の前でピンと立てた。
「きっと夏祭りの盆踊りの練習さ。近所連中が寄り合って、一列の輪になって、振り付けを確認していたんだよ」
恭助が勝手に決め付けた。
「でもその時は、みんな好き勝手にあちこちに散らばりながら踊っていたように思います。まあ、記憶もあいまいなのですが」
またもや意味不明な麻祐の供述に、恭助と青葉は互いに顔を見合わせた。
「お母さんの思い出はないの?」
恭助が話を切り替えた。
「母の記憶は全くありません。じっちゃんの説明だと、父と母は十九年前に不慮の事故に遭遇して亡くなったそうですから、つまり、二人同時に亡くなったことになりますね」
「どんな事故だったのかしら?」
「さあ、じっちゃんもばっちゃんも肝心なところになると、なぜか口を閉ざしてしまうのです」
「でもさ、単なる事故死なら婚約者の親もわざわざ目くじら立てて騒ぎ立てることもないのにね」
恭助が口をとがらせた。
「もう一つ、気になることがあります」
「なにさ」
「家の裏の小道を奥へ行くと、ご先祖代々の墓地があります。墓石には、じっちゃんの親に当たるひいじいちゃんとひいばあちゃん、それに母の名前が刻まれていますが、父の名前だけがそこにないのです」
「お父さんの名前がない?」
「はい」
「そういえばさ、まゆゆのお父さんの名前ってなんだっけ?」
「ええと……、マモルです」
「苗字は?」
「知りません……」
「ええっ、お父さんの苗字を知らないの?」
恭助が目を丸くした。
「はい。じっちゃんもばっちゃんも教えてくれませんから」
「じゃあ、お母さんの名前は?」
「恵理です。古久根恵理」
「ふーん。そういえばさっき、古久根家の墓石にはまゆゆのお母さんの名前が刻まれているっていったよね。刻まれたお母さんの名前を見れば、お父さんの苗字もおのずと分かるはずだよね」
「墓石には、古久根恵理と刻まれています」
「変だなあ……。亡くなった時にはもう結婚していたんだから、父方の苗字で墓碑銘に刻まれるのが筋だよね」
「もしかしたら、麻祐ちゃんのお父さんは、古久根家に養子縁組をしていたのかもしれないわ。だから、苗字が古久根のままだったんじゃないかしら」
青葉が口をはさんだ。
「あるいは、お父さんの元々の苗字も古久根だったかもしれないね」
恭助が茶化すように一人含み笑いをした。
「いずれにせよ、どうして父の名前が墓石に刻まれていないのでしょうか?」
「ここ北海道はお母さんの実家だよね。たぶんまゆゆのお父さんは、お父さんの実家のお墓に埋葬されているんじゃないかな」
「だとすると、母もその地に埋葬されるのが普通じゃないですか。夫婦なんだし」
「まあ、それもそうだな。とにかくさ、婚約先の相手に直接訊いてみようよ。いったいなにが気に入らないんだって」
「それができれば苦労はしませんよ」
麻祐の首がしゅんとうなだれた。
「もしかしたら、十九年前に起こった事故に、何か理由があるのかもしれないわね」
解決の糸口を見出そうと、青葉が提案した。
「うーん、十九年前に起こった事故かあ。そいつが事件だったら、おやじに捜査協力の依頼もできるけど、単なる事故だとなあ……」
恭助の父親は愛知県警の刑事である。その後しばらく考え込んでいた恭助が、何をひらめいたのか、突然手をポンと叩いた。
「そうだ。こういう時にこそ、まさにうってつけの男がいるよ!」