4.湖巡り
翌朝の八月七日の月曜日は、雲一つない晴天であった。
「いやー、まさに絶好の観光日和とはこのことだな。さあ、北海道の大自然を満喫するドライブに出発だ」
昨日のごたごたをすっかり忘れてしまったかのような、すこぶる上機嫌な如月恭助であった。青葉も表情がいつもの笑顔に戻っている。
「北海道の中でもこの地方は湖の美しさが格別なんです。神秘の湖がそっこらじゅうに、もってけ泥棒とばかりに、ごろごろ転がっていますからねえ」
大きなクーラーボックスを小脇に抱えた古久根麻祐が、自慢げに答えた。
「湖かあ。ロマンチックだなあ」
「麻祐ちゃん。恭ちゃんはまたトラックの荷台なのかしら?」
青葉が心配そうに麻祐に訊ねた。
「ああ、大丈夫です。今日はじっちゃんからセレナ借りちゃいましたから、恭助さんは後部座席でぐうぐう寝ていてもらって全然大丈夫ですよ。これで鬼に金棒です」
そういって、倉庫前に停まっている赤いミニバンを麻祐が指差した。
「おお、こいつはゆったりした車だね。まるで王様気分だな。くるしゅうないぞ……」
「麻祐ちゃん、運転初心者なんでしょう。大丈夫? こんな大きな車で」
「ああ、大丈夫ですよ。ここは北海道ですから、道路は広くて安全です」
「おいおい、またおんなじ台詞かよ」
恭助がすかさず突っ込みを入れる。
「でも、北海道も事故が多い都道府県として有名なんでしょう。愛知県と同じで……」
青葉もか細い声で追随した。
「ああ、そういえば、北海道と愛知県って毎年交通事故死亡者数で壮絶な日本一争いを繰り広げていたんですよね。今年こそは負けませんよ。絶対に!」
麻祐が断言した。
「あの、なんか勘違いしている……」
「それでどこへ連れて行ってくれるのさ」
「まずは七色の湖、オンネトーですね。恭助さん、絶対にびっくりしますよ」
そういって、麻祐はセレナのエンジンをかけた。途端に車内のカーステレオからレッド・ツェッペリンの『移民の詩』の仰々しいメロディが響き渡る。どうやら麻祐の好みであるようだ。青葉は音に驚いて肩をすぼめたが、恭助はなにも聴こえていないかのようにポツリとつぶやいた。
「そうか。楽しみだな……」
国道241号線から右に折れる脇道があった。舗装こそしっかりとされているものの、左右の両側から鬱蒼と生い茂った樹木が付き出してきそうな細長い道路だが、クリムゾンレッドのセレナは颯爽と走っていった。しばらくすると眼前に瑠璃色の湖が姿を現わす。神秘の湖オンネトーだ。
人工的に何かを溶かし込んでいるのではないかと思わず疑いたくなるほどの、鮮やかな青色をしている。木製の展望デッキに昇ると、正面に形状が個性的な山が二つ並んでいて、それは爽快な絶景であった。磨かれた鏡のような湖面に二つの山が映って、ものの見事にさかさに見えた。
「ううっ、まさかこれほどまでに美しいとは……」
思わず恭助が悲鳴を発した。
「恭助さん、持っていますねえ。今日は風が吹いていないから、湖面が完璧な鏡となっています。こんなことはめったにないんですよ。ジモピーの私でさえも、これだけきれいな湖面は見たことありません。ええと、右の山が阿寒富士で、左が雌阿寒岳ですね」
麻祐が得意げに対岸に並んでいる山々を指差した。
「阿寒富士ね。確かに形は富士山だな」
「雌阿寒岳ってことは、雄もあるのよね」
青葉が麻祐に訊ねた。
「ええ、あります。雄阿寒岳。ここからは見えませんけど、まあすぐに見られますよ」
そういって、麻祐はにっこりと笑った。
次に訪れたのは阿寒湖だ。にぎやかな温泉街を通り抜けると、右手に大きな駐車場があったが、もちろんそこは有料であった。
「これが毬藻で有名な阿寒湖ね。うーん」
湖面を目にして青葉がまっ先に歓喜の声を発した。
「向こうに見えるのが例の雄阿寒岳ですよ。青葉先輩」
麻祐が対岸に見えるひときわ存在感のある山を指差した。
「へー、たしかに形に威厳があって男性っぽいわ」
「そうですね。雄というだけあって、さすがに神々しいですね。恭助さんも少しは見習ってくださいね」
麻祐がちらりと恭助に目を向けたが、恭助は気付いていないみたいだった。
「阿寒湖は日本有数のカルデラ湖で、カルデラ湖だけだったらたしか七番目の大きさを誇っていますよ。ちなみに、このあとで向かう屈斜路湖が日本で一番大きくて、摩周湖が六番目ですね」
「あれれ、日本一大きな湖って、琵琶湖じゃなかったっけ?」
「だから、カルデラ湖の中で一番ってことです。もちろん淡水湖でならその琵琶湖とやらが一番だそうですけどね」
口惜しそうに麻祐がいい返した。
「カルデラ湖って火山帯の窪地にできた湖のことなのよね」
青葉が説明した。
「そうです。さすがは青葉先輩。教養に満ちあふれていますねえ」
「カルデラ湖の七位ってことは、それより上位にはどんな湖があるのさ」
恭助が麻祐に試すように視線を送った。
「来ましたね。ええと、カルデラ湖なら一位が屈斜路湖で、二位が支笏湖。次が洞爺湖ですね。いずれも北海道を代表する美しい湖です。そして次が小ざかしい十和田湖で、その次がちゃらい田沢湖。そしてわれらが北海道を代表する摩周湖と阿寒湖が、それに続くのです」
「へえ、まゆゆ。詳しいね。湖マニアじゃんか」
恭助が感心して手を叩いた。
「そうですね。カルタしかり、湖しかり。私は興味関心を持ったものはとことん追求するタイプなのです」
「だから、今日は湖巡り三昧なんだね」
「そうです。でも恭助さん、オンネトーの時とは違って、ちょっと不満そうですね」
「ああ、うーんなんというか、この阿寒湖は観光地化が進み過ぎちゃっていてさ、秘境マニアの俺としてはちょっとな、って感じだよ」
湖周辺の繁華街を指差して、恭助が愚痴をこぼした。
「そうですよね。洞爺湖もそうなんですが、いくら美しい湖でも、ホテルのビル群落が視界の中に入っちゃうと、興ざめしますよね。分かります」
珍しく麻祐が恭助に同意した。
「まあいいや。それより阿寒湖っていったら毬藻の名所だよね。日本でここしかいないっていう。どこかにいないかなあ。まりもちゃーん。どっかにいませんかあ」
そういって恭助は湖面をちらちらとのぞき込んだ。
「ふふふっ、恭助さん。いくら探したって毬藻はここにはいませんよ」
麻祐が小ばかにしたようにほくそ笑んだ。
「えっ、じゃあ毬藻の産地っていうのは、真っ赤な嘘ってこと?」
恭助がキョトンとした。
「うーん、毬藻の生息地ってのは本当なんですけど、湖のこの辺りには毬藻は生息していないんです」
「なんだか問答をしているようだな。えーと、まさか華やかな温泉街の車の排気ガスを嫌って、毬藻はここらからいなくなってしまったとか? ふーん、毬藻って結構デリケートな生物なんだねえ」
「ええと、デリケートかどうかは知りませんが、毬藻は植物ですから肺呼吸をしているわけではないので、排気ガスをどれくらい嫌っているのかはよく分かりませんけど、それが理由ではありません。毬藻がきれいな球形になるためにはころころ頻繁に転がる必要があるのです。湖の南側に当たるこの辺りでは水の底に沈んでしまえば転がりたくても転がりようがないですよね。だからここでは毬藻が球形には育たないんです」
「よく分かんないなあ。阿寒湖にしか生息できない毬藻が、阿寒湖では生息できないってこと?」
「毬藻の生息地は、ほら、はるかかなたの向こう側に見える阿寒湖の北岸です。そして、そこは、観光客が立ち入り禁止区域になっています」
「なるほど。やっぱりそうだよね。天然記念物はきちんと保護してあげなくちゃね」
腕組みをしながら恭助がうなずいたが、麻祐がチッチと舌打ちした。
「毬藻の秘密は、実はあの雄阿寒岳にあるのです。阿寒湖の北側にある毬藻生息地域では、雄阿寒岳から吹き下ろす強烈な風のおかげで、毬藻が浅い湖面付近をころころと転がることができるそうで、それでまん丸く成長できるというわけです」
「へー、すごいな。毬藻生息の秘密は、水質やエサじゃなくて、物理的な理由だったんだ!」
恭助が目を丸くすると、すかさず麻祐が突っ込んだ。
「お言葉ですけど、恭助さん。毬藻は植物ですから、エサではなくて養分というべきですよね」
このあと一行は国道241号線をさらに東へ進んだ。途中で麻祐が車を道路脇へ停めて、車から降りると、左に雄大な雄阿寒岳を見据えながら、眼下には美しい青色の小さな湖が見えた。麻祐の説明によれば、ペンケトーという名前の湖で、ここからはよく見えないが、さらに奥にはもっと大きなパンケトーという湖もあるそうだ。例の如く、恭助がペンケだのパンケだのよく似た名前がややこしいね、と安易なぼやきを入れていた。
一行はその後、国道241号線から国道243号線に入り、ひたすら北上して美幌峠展望台に行って、そこで雄大な屈斜路湖を堪能してから、とって返して、神秘の湖、摩周湖の展望を楽しんだ。帰り道の車内、後部座席の恭助はこの上なく上機嫌だった。
「さすがは北海道だね。なにしろスケールが違うよ。美幌峠からの壮大な景観――。いやあ、すごかったなあ」
「天下無双の美幌峠ですからね。あれに対抗できるとすれば、せいぜい十和田湖の発荷峠くらいなもんですけど、あそこは駐車場がちょっと狭くてすぐに満杯になっちゃうんですよ。とても落ち着いて風景を楽しめるしろものではありません。とどのつまり、東北はどんなに頑張っても、所詮は北海道にはかなわないということなのでしょうねえ」
「なんかさ、まゆゆ。北海道以外の地域に対するコメントがさ、さっきからすごく辛口なんだけど。気のせい?」
「気のせいですよ。恭助さん。でも、あえていわせてもらえば、北海道の大自然に内地は太刀打ちできないということです」
「ええと、内地って、なに?」
「内地は内地です。ええと、なんていいましたっけ。内地人が使っている言葉は……」
「本州のことよね」
青葉が付け足した。
「ああ、それそれ。その本州です」
「なるほど、本州のことだったんだね。うん。たしかにさ、大自然だったら北海道に勝る地域なしってことに関しては、俺も賛成だよ」
「ですよねえ」
恭助のお褒めの言葉を聞いて、麻祐が嬉しそうにほほ笑んだ。
「でもさ、摩周湖の水の蒼さって、あれは異常だよね」
恭助が続けた。
「摩周湖の水の透明度は現在二十メートルといわれています。日本一透き通った湖ですよ!」
得意げに麻祐が答えた。
「かつては世界で一番透明度が高い湖だったのよね。たしか、摩周湖って……」
青葉が横から口をはさむと、途端に麻祐の口がとんがった。
「そうです。全盛期の摩周湖の透明度は四十一メートル。この記録は歴代の世界記録なんですけど、観光地化が進んでしまったからでしょうかね。今では摩周湖の水は少しだけ汚れてしまって、王座を空け渡してしまったのです」
「ふーん、じゃあ今の世界一って、どこなのさ」
恭助が問いかけた。
「バイカル湖ですね。ロシア連邦の」
「ああ、バイカル湖が一番なんだ」
「そして、摩周湖の透明度は世界ナンバーツーです」
「そりゃあ、仕方ないよ。バイカル湖ってさ、シベリアのど真ん中じゃん。つまりは地球上における究極の僻地なのさ。さすがの北海道の大自然も、シベリアと比べちゃあ可哀そうってもんさ。はははっ」
「笑いごとではないです。恭助さん!」
突然、麻祐が声を強めた。それに反応して恭助は背筋をピンと伸ばした。
「えっ、ごめんごめん、まゆゆ。怒っている?」
助手席の青葉が二人を見かねて助け舟を出す。
「日本は経済も発展しているから、湖が汚れちゃうのも仕方ないんじゃない?」
すかさず、麻祐がそれに反論する。
「シベリアのバイカル湖だって、近年はけっこう観光地化による水質汚染が問題視されているんです。日本だからという問題ではなさそうですよ。ただ、奴はでかさが半端ないですからね。でかい分だけ、汚れるのに時間がかかるということです」
「でかい奴って、何が?」
「バイカル湖です。奴は面積でこそ世界第八位に甘んじていますが、深さでは世界ナンバーワンなので、貯水量が半端なくでかいんです。貯水量なら、カスピ海に次いで世界第二位ってわけですよ。あまりにでか過ぎるから、摩周湖が透明度で出し抜かれてしまったというわけです。実にけしからんことです!」
「しかしまあ……、まゆゆの湖フェチと北海道愛には、ほとほと感心しちゃうよ」
後部座席の恭助が大あくびをした。