24.真犯人
「この事件の動機とはいったい何だろうか?」
いよいよ恭助の説明が核心に入った。麻祐たちは固唾を呑んでそれに聴き入っている。
「事件の被害者は全部で五人いた。弓削恵理、弓削小夜子、亀井ゆり子、宮地奈美香、それに恩田のぞみだ。犯人はこの五人全員を亡き者にしたくて犯行を行ったのだろうか。いや、さすがに全員がターゲットであったとは考えられない。それに、この五人以外にも死にかけた者はたくさんいたのだし、この五人だって、当日にワインを飲んでくれる確証は無かったはずだ。では、犯人の狙いがこの五人の中の特定の数人に限られるとするならば、いったい誰が狙われていたのだろう。
毒は、いったん赤ワインの瓶の中に混入されてから、守の手によって富岐の会に参加した女衆のグラスへ次々と注がれていった。だとすると、そもそも犯人は特定の人物に狙いを定めることができたのだろうか、という疑問にぶつかる。犯人は何が目的でこのような大惨事を引き起こしたのか。まさか、村人全員に復讐を遂げようと、無差別殺人に及んだとでもいうのだろうか。
そんな中で俺が考えたのは、この犯人の異常心理を合理的に理解しようとすると、事件の五年前までさかのぼって、そこで起こった出来事を検証する必要があるんじゃないかということだった」
「事件の五年前といえば、父は村に喧嘩を売って、村から飛び出していますよね」
「弓削鉄男が一年間に渡って村八分にされたのも、その五年前だわ」
即座に、麻祐と青葉が交互に答えた。
「さらには、当時少年だった弓削巡査部長が、楡の木の上でヘイケボタルの話を聞いたのも、五年前だ。
鉄男が村八分にされたのは、ゆり子に乱暴したからだったね。乱暴された翌日に会長宅へ直訴に訪れたゆり子の美しい姿を見て、道夫は一目惚れをしてしまった。ゆり子のいうことを真に受けて、鉄男を村八分にすると、今度は自らがゆり子に近づいて、やがて愛人にしてしまう。ゆり子は道夫の寵愛を受け入れて、間もなく丘の上に百合御殿が建てられた。
その後になって、ヘイケボタルの話が和尚とコウメイ先生の間で交わされたんだ。じゃあさっそく、弓削巡査部長が聞いた話を思い出してみよう。
和尚とコウメイ先生は、楡の木の上にいる忠一郎少年に全く気付くことなく、話にのめり込んでいた。季節は十月の秋。小春日和のとても暖かい日だった。コウメイ先生がいった。昨晩、下の茶畑を飛んでいく一匹のホタルを見た。しかも、昨晩だけでなく三日連続で目撃をしている、と……。
清流がない下地区でゲンジボタルが生息しているとはまず考えられないから、弓削巡査部長はそのホタルをヘイケボタルだと決め付けたけど、そもそも、上地区にいたコウメイ先生に下地区の茶畑を飛んでいく一匹のホタルが見えるはずないんだよね。ついでにいうとさ、ホタルの成虫が飛ぶ季節は六月だ。十月にホタルが飛ぶことは絶対にあり得ない。
それでは、コウメイ先生はいったい何を目撃したのだろうか」
「ホタルはきっと隠語ですね。夜の茶畑を横切っていく光った何かを、単にエロじじいは目撃したのでしょう」
「その通り。そして、下地区の茶畑がある丘の上に、でんと高くそびえ建つのが、美しき未亡人が一人で住む、かの百合御殿だ」
「夜這い……、ですか?」
「必然的にそうなってしまうね。茶畑を横切るホタルの正体は、闇夜の百合御殿へ夜這いを仕掛けた人物が手にする、提燈灯篭の灯りだったんだ」
「弓削道夫が毎晩ゆり子のところへ夜這いに通っているのをコウメイ先生が見つけて、和尚さんに急いで通報したというのですか?」
「ああっ、そっちへ行っちゃうんだ……。それは違うよ、まゆゆ。だってさ、コウメイ先生の口から出たお奉行さんってのが、そもそも一番偉い人を意味する隠語なのだから、必然的に弓削道夫ということになる。とどのつまり、コウメイ先生は、道夫の目を盗んで亀井ゆり子の家に毎晩夜這いをし続ける不届き者を発見したけど、道夫に報告をしたほうが良いのだろうか、と和尚に相談を持ち掛けていたんだよ」
「その不届き者って、まさか、弓削鉄男ですか?」
「さあ、そいつはどうかな。鉄男が夜這いをしたのなら、ゆり子がすぐに会長に告げ口をしてあっさり一件落着となるだろうね。だから、鉄男ではない。もう分かるよね。美人の未亡人の元へ、会長の目を盗みつつ、毎晩ひたすらに通い続けた大胆不敵な間男は、弓削守だ――」
しばしの沈黙を置いてから、麻祐が不満げに口を開いた。
「間男が鉄男でなかったことは納得できますが、父と決めつけるのはいささか飛躍があるように思います。だって、村には他にも男がいっぱいいるのですよ」
「でも、守が間男であれば、そのあとで道夫と仲が悪くなって村を飛び出した一連の動向が、一気に説明できる。覚えているかい、守が村を飛び出した理由を俺が訊ねた時、道夫はうっかりと口を滑らせて、自分の嫁さんだけでなく、かつての恋人まで手に掛けた、といったよね。かつての恋人とは、亀井ゆり子のことさ。守は村と喧嘩をしたのではなく、道夫と喧嘩をしたんだ」
「でもですね。わざわざ家まで建ててあげた愛人を横恋慕されれば、それは会長さんだって怒り出すのも無理がないと思いますよ。それを逆怨みする父の方がよっぽど子供じゃないですか」
「そこについては、真相はもう少し複雑な気がするんだ。もしかすると横恋慕をしたのは道夫の方だったかもしれない。
もう一度、道夫がいった証言を思い出してみよう。守は道夫のことを父親のように慕っていた。そして、守が村を飛び出す半年前に、守は道夫に結婚したい相手がいるからと相談を申し出た。ところが、その相手がふさわしい人物でないとの理由で、道夫は結婚に反対をした。それが因縁となって、道夫と守との仲は悪くなった。たしか、そういっていたよね。いいかい、この道夫の証言こそが極めて重大な情報を提供してくれるんだ。
守とゆり子は相思相愛だった。なにしろ、村を切っての美男と美女だ。しかも、小学校の時には同級生で、互いに顔見知りと来ている。鉄男がゆり子に乱暴をする以前から、守はゆり子の元へ通っていたのかもしれない。そして、ゆり子も守に対して好意を抱いていた。おそらく、二人は結婚までを考えたのだろう。
でも、鉄男の一件があって、ゆり子は会長から目を掛けられることになった。経済的に困窮していたゆり子にとって、会長からの援助は渡りに船だった。しかし道夫は、ゆり子が守と付き合っていることを知ると、彼女を独り占めにしたい欲望から、ゆり子に守と会うことを禁じ、守にはゆり子がふさわしい相手ではないからと、申し出た結婚の相談に猛反対をする。家まで建ててもらった手前、ゆり子は会長の要求を拒むことはできず、今後一切の逢瀬は重ねられないと、涙ながらに守に告げた。驚いた守は、いったんは引き下がるが、美しいゆり子を諦めることができずに、百合御殿が完成した後になってから、こっそり夜這いを仕掛けた。ゆり子はそれを拒み切れずに、二人は肉体的に再度結ばれる。その様子をコウメイ先生が見つけて、さっそく道夫へ報告する。かんかんに怒った道夫は、守に詰め寄るが、守も、ゆり子は元来自分の愛人で、横取りをしたのは貴様の方だ、と引き下がらないから、喧嘩となった。結局、力に屈した守が、捨て台詞を残して村から飛び出していった、というのがおそらく真相だろう。
覚えているかい、守は遺書の中で、あわれな籠の鳥を解放しようとしたけど、理不尽かつ巧妙な策に貶められて、しっぽを巻いて一人で逃げ出した、と書いていたよね。そのあわれなる籠の鳥とは、もちろん、亀井ゆり子のことだ」
「なるほど、だいたいの筋は通っていますね。でも、それがこの事件の犯行動機と何かつながっているのですか。まさか、会長との喧嘩に腹を立てた父が、五年もの歳月を経てから、復讐のために村へ舞い戻り、村の女たちを次々と手に掛けたとでも、恭助さんは結論付けるつもりじゃありませんよね」
「個人的な道夫への恨みを、道夫に直接晴らすのならばともかく、何の関係も無さそうな村人に向けて晴らすという解釈は、さすがに無理がある。もちろん、真相はそんなに単純ではなかった。
ただ、この問題に関してはここでいったん止めて置いて、今度はコルク栓の行方について考えてみようか」
「えっ、いきなり話がぶっ飛んじゃうのですか。まあ、いいでしょう。でも、なんでコルク栓の行方なのですか」
「それはね、犯行動機とか自殺動機などのような、いくつかの因果関係が重なり合って生まれる複合系の理由を考えるより、コルク栓の紛失といった、それ自体が単発で説明しつくせる理由から片付けていく方がシンプルだろう?」
恭助がすまし顔で答えた。
「なるほど、分かりました」
「じゃあ、コルク栓が紛失した理由を考えてみよう」
「犯人は、美祐が目撃した女で間違いないのですね」
「うん、そいつを決め付けるのはもう少し後になってからだ。まずは紛失した理由からだよ。犯人はなぜコルク栓を現場から持ち去らなければならなかったのか?」
「コルク栓に付着した毒は、おそらく瓶に残っていた毒と一致することでしょうね。その場合には、わざわざ危険を冒してまで持ち去る理由もなさそうですが……。はっ、もしかして、コルク栓に付いた毒と、瓶の毒とが一致しないとか。いえ、もっと想定外で、コルク栓にそもそも毒が付着していなかったとか」
麻祐は腕組みをしながら、次々と考えられる可能性を呈示した
「瓶に残留していた毒は農薬のニッカリンで、被害者たちが盛られた毒もそれと同じだったのだから、違う毒がコルク栓に付いている可能性は、さすがに考えなくても良さそうだな。また、コルク栓に毒が付いていなかったとしても、栓を開けてから毒が仕込まれたのだと考えれば、とりあえず説明ができてしまう。おそらく、それらの理由のためにコルク栓が持ち去られたわけではないだろうね」
「じゃあ、どうして紛失したのでしょう。犯人にとって、持ち去らなければ致命傷となってしまうほどの重大な理由が、何かあったのでしょうか?」
「それを理解するためにさ、これまで得られた証言を思い出さなければならない。コルク栓に関して、何か意味ありげな証言をね」
問答を挑むかのごとく、恭助が麻祐と青葉に交互に目配りをした。
「たしか、肝心の赤ワインは、購入時からキャップシールが剥がされていて、コルク栓が剥き出しとなっていた。でも、コルク栓までは開けられてなかった、ということでしたよね」
麻祐が先に確認を求めた。
「開けようとした時は栓抜きが見つからなかったけど、ちょっと探してみたら、久子の前にあったから、彼女が守に手渡したのよね」
即座に、青葉も応答した。
「そこでポンと弾けるような音がしたから、コルク栓は間違いなくその瞬間になって初めて開けられたわけです」
麻祐も負けずに意見をいい返す。
「そういえば、守さんが栓を開ける時、コルク栓がボロボロと崩れて開けるのに苦労したらしいわね」
何気なくつぶやいた青葉の言葉に、恭助が強く反応した。
「そう、そいつだよ。なぜ、コルク栓がボロボロと崩れたりなんかしたのだろう?」
「急にどうしたんですか、恭助さん。ワインの栓抜きなんて、ちょっとしくじればボロボロとコルクが崩れてしまうのは、日常茶飯事です。私なんか、いつもボロボロにしてしまいますよ」
麻祐が小さくあくびをした。
「でも、もしかして、コルク栓に傷が付いていたとすれば……」
突然、ずっと黙っていた美祐が口を開いた。
「恭助さん、犯人はコルク栓に穴を開けて、農薬を瓶に注ぎ込んだのではないでしょうか?」
「なぜそう考えるんだい、みゆゆ」
恭助が美祐に問いかける。
「だって、コルク栓が開封された際に、すでにコルク自体に穴が通されていたとすれば、栓抜きをねじ込んだ途端にボロボロと崩れてしまったことも、ちっとも不思議ではありませんよ」
「美祐。いったいそれは何の穴ですか。まさか注射器を差し込んだ穴とでもいいたいのですか?」
麻祐がじれったそうに訊ねた。
「まゆゆ、それだよ……。注射器さ」
恭助がにっこりと笑った。
「コルク栓を貫通させるほどの強度を持ち、粘性の高いワインや農薬の吸引や注入ができる程度の太さを持ち合わせながら、ちょっと見ただけでは、コルク栓に残った穴が見過ごされてしまうくらいの、程よい太さをした注射針。おそらくそれは、採血用の注射針じゃないのかな。
キャップシールが剥がされた状態で未開封のコルク栓に、注射針を差し込み、瓶の中の液面に貫通した針先が届いたら、ワインを少しだけ吸い取る。それから、同じ穴を通して、吸い取った分量だけニッカリンを注ぎ足せばいい。こうして犯人は富岐の会が始まる以前から、瓶の中へ毒を仕込むことができたんだ」
「それじゃあ、コルク栓を犯人が持ち去った理由は?」
「コルク栓を調べられて、注射針の痕跡を見つけられるのを恐れたからさ」
「でも、コルク栓に穴が開いていれば、栓を抜く前に、誰かがその穴に気付いてもおかしくないのでは?」
「注射針で開けたわずかな穴なら、コルク栓の屑でちょいと入り口をふさいでおけば、表面が滑らかになって、よほど注意をしなければなかなか発見はできないよ。コルク栓の屑なら、最初に注射針を差し込んで針を貫通させた時に、いくらか針の中に残るだろうからね」
「じゃあ、注射器で瓶の中にニッカリンを注ぎ込んだ犯人は、いつそれを実行したのでしょう。もしかして、会長の弓削道夫が、自宅に一人切りでいる時に、毒を仕込んだのでしょうかね。だとすれば、父の無実がはっきりと確定しますけど」
「まゆゆ、冷静なって考えてみろよ。仮に道夫が毒を仕込んだとして、やつの動機は何だろう」
「それは、奥さんか愛人のいずれかを亡き者にしようと……」
「残念ながら、会でワインを飲むのはその二人だけではないから、その行為はそのまま無差別殺人につながってしまうよね」
「どうせ何かとんでもない遺恨があったのですよ。私たちの想像を絶する、積もり積もった……」
恭助に否定されて、麻祐が口を尖らせた。恭助はぐるりと見回したけど、もはや意見を述べる者もいなかった。
「じゃあ、そろそろ犯人が誰なのか突き止めるとするか。いいかい、これまでの事実によって、犯人像はすでに完成しているんだよ」
恭助が高らかに宣言した。
「この事件の真犯人は、これから述べる条件を隈なく満足した人物だ――。
そいつは、事前に赤ワインに毒を仕込む機会を持っていた人物で、警察の厳重な取り調べを掻いくぐってコルク栓を現場から持ち出せた人物でもあり、さらには、注射器という庶民には通常手が届かない医療器具を職業がら簡単に手にすることができた人物であった。
そして、それらの条件をすべて満足している登場人物は、実のところ、たった一人しかいない――。
つまりそれは……、看護士の宮地奈美香だ!」




