23.疑問点
翌朝、恭助が目を覚ますと、麻祐と美祐が、縁側の陽だまりで腰を下ろし、肩を並べながらおしゃべりを交わしていた。
「恭助さん、ちょっと聞いてくださいよ。美祐ったら本当に変な子なんですから」
「いえ、変なのはお姉さんの方ですよ。私はいたってまともです」
とても昨日初対面の間柄とは思えないほどの、打ち解け合った雰囲気であった。
「恭助さん、どうやら、私たち、仲良くやって行けそうですよ」
麻祐は、寝ぼけまなこの恭助に一瞬目をくれてから、また美祐とのおしゃべりに興じ始めた。
朝食を終えた後で、志貴子がついて来いというので、恭助たち三人と美祐は、志貴子と一緒に外へ出た。家の裏にはビニルハウスで覆われた小さな畑があって、ここから見える作物の色から推測するに、おそらくミニトマトとナスが栽培されているようである。畑の向こうがちょっとした高台となっていて、その上に共同墓地が作られている。墓地には八基の墓石が横一列に並んでいた。志貴子はその一番突き当りとなる墓石の前で立ち止まった。端っこに位置するその墓石のさらに奥にあるものといったら、きれいな薄紅色の花を咲かせた百日紅の木だけだった。
「ここがご先祖様の墓や」
志貴子は、来る途中の軒先で積んできた、実が付いたままの鬼橙の蔓を花立へ添えると、火を灯した線香を一本ずつ取り分けて、麻祐たちひとり一人に香炉へ供えるよう指図した。全員が供養を終えると、志貴子は先祖の墓と隣に立っている百日紅の木との間にできたわずかなすき間に落ちている石を指差した。見た感じは特に変わりがないすべすべした石で、ダチョウの卵を思わせる大きさをした楕円形であった。持ち上げようとすればそれなりには重そうだが、落ち葉が少し積もったところでも隠されてはしまわない程度のしっかりした大きさを維持した石である。往来人がうっかりと蹴散らかさないようにと、歩道からちょっと入り込んだ地面にひっそりと、あえてその石は置かれているようにも見えた。
「ほんで、そいつが守の墓じゃて……」
楕円形の石を指差して、志貴子がいった。
「この石ころが、お父さんのお墓ですか……」
麻祐が絶句した。
「ああ、あやつのお骨もその石ん下にちゃんと埋まっとる」
「ど、どうして、ご先祖様のお墓に一緒に埋葬してあげないの?」
美祐の声にも戸惑いが現れていた。
「それはなあ、うちも守があの事件の犯人でねえってことは信じとるけんど、万が一になあ、守が事件を引き起こした張本人やったら、さすがにご先祖様のお墓に入れることは申し訳ないがね。そやさかい、いつまで経っても一緒にできんがや」
志貴子がやるせなさそうに答えた。
「だったら、せめてお墓と分かるように、名前を記した墓石代わりの木板でも立ててあげればいいじゃないですか。こんな小さな石だけの目印なんて、可哀そ過ぎです」
「そいつができないのさ、まゆゆ」
麻祐を諭すように、うしろにいた恭助が答えた。
「もしお父さんの名札をここに立ててしまえば、それを見つけた第三者が、細池毒果実酒事件の凶悪殺人犯の墓がここにいるぞと、世間にいいふらしてしまう可能性があるよね。そうなれば、おばさんやみゆゆが、またこの土地から出ていかなければならなくなってしまうかもしれないんだよ」
「まあ、そういうことやな。そやさかい、守はここでひっそりと息をひそめながら眠っとるちゅうわけやなあ」
志貴子はそういって、いったん言葉を切ったが、少しの間をおいてから、さびしそうに付け足した。
「葛輪でのいじめは、そりゃあひどかった。そやさかいなあ、守は絶対にあんなひどいことはせん子やさかい、うちらがいじめられる理由などなんもねえはずじゃが、うちはともかく、美祐にまで危害が及ぶような雰囲気になってしまったさかいなあ、悔しかったけど、輪島へ引き下がることにしたがね」
「みゆゆにまでいじめが?」
「ああ。ある日美祐と一緒にちょっと外へ出とった時だがね。鉄男がうちらの前に立ちふさがって、『村の衆、見たか? そこにいるんが守の餓鬼っちゃ。呪われた娘っ子ちゃあ』、と美祐を指差して大きな声で喚いたがね。
まあ、鉄男のいじめはことさら陰湿やったからなあ。まるでおのれに溜まり積もった憂さぁ全部晴らさんっちゅう感じやったがね」
「結局さ、一度いじめに遭った者って、自分よりも弱いものを絶えず探さずにはいられなくなっちゃうんだろうね」
眼下のかなたに広がる紺碧の日本海を見つめながら、恭助がそっとつぶやいた。
家に戻って、居間で輪を作ってくつろいでいる恭助たちのところへ志貴子が一枚の写真を持ってきた。そこに写っていたのは、縁側の陽だまりでくつろいでいる四人の家族だった。向かって左側に、細面で鼻筋がまっすぐに通ったハンサムな男が白い歯を見せて笑っており、反対の右側には、少し小柄で丸顔の愛らしい笑顔の女性が膝の上に手のひらを組んで座っていた。二人の男女の間には、三歳くらいのよく似た顔をした幼児が二人、それぞれが好き勝手な格好を取っていた。
「ふーん、なかなかいけてる男じゃないですか。お父さんは……」
一目で両親の写真だと察した麻祐が、まっ先に口を開いた。
「お母さんも、お二人によく似ているのね」
青葉が感心するようにつぶやいた。美祐も食い入るように写真に目を向けていた。その様子を見た恭助が、思わず口ずさんだ。
「まゆゆが初めてなのは分かるけど、みゆゆもまさかこの写真を見せてもらったことがなかったの?」
「私も初めてです。そもそも、両親の写真を私は見せてもらったことがありませんから」
「それじゃあさ、みゆゆはふた親がいない理由をどう説明されて育ってきたのさ」
「両親は私が小さい時に自動車事故で死んでしまったと、小学五年生の時におばあちゃんから教えてもらいました。父が母を乗せて運転していた車が突然スリップをして崖から落ちてしまい、私とおばあちゃんはたまたまその車には乗っていなくて、命を取り留めたんだと……」
「美祐ちゃんは、ご両親の面影を覚えていなかったの?」
横から青葉が訊ねた。
「はい、まったく。その点に関しては、お姉ちゃんと一緒ですね」
「無理もないさ。なにせ、三歳の時の出来事だからね。でも、公民館で見たことの記憶ははっきりと覚えていた……」
「そうですね。あの時の記憶が私にとって一番古いものになるのかもしれません」
美祐が静かに答えた。
「それだけ衝撃的だったということか……」
恭助が感慨深げにつぶやいた。
「さてと、たしか大船に乗ったつもりでいいよといってくださった恭助さん。そろそろ真相についてなにか語り始めてもよろしい頃じゃあございませんか?」
麻祐が挑発するように、恭助に訊ねた。
「そうだね、俺なりの解釈をそろそろ述べてもいい頃かな……。
昨日のみゆゆがした証言で、だいたいの確信が持てた。いろんな人の証言に符合する合理的な解答が一つひらめいてはいるんだ。でも、いいのかい? これから俺が語る物語は必ずしもまゆゆたちが望んでいるものとは違うかもしれないんだよ」
恭助はさりげなく双生児たちに目を向けた。
「話してください。どんな恐ろしい結末でも耐える覚悟はできています。私は真相が知りたいのです」
麻祐がうなずいた。
「みゆゆも大丈夫なのかな?」
「はい、大丈夫です」
恭助が場の中央に出てきて、得意げな面持ちで、聞き入っている聴衆の顔を一人ずつ順番に視線を送っていった。それは事件を解決する時になるといつも彼が取っているお決まりの儀式のようなものだった。
「それじゃあ、これまでに判明している事実からまとめていこうか。とにかく今回は全体像が漠然としたそれなりにややこしい事件だから、状況証拠のひとつひとつを順番に片付けていく必要があるよね。
まず、会長宅へワイン瓶が届けられた時刻がいつだったのか、から検証してみよう。これに関しては証言が二種類あった。ひとつは、鉄男と酒屋の主人が主張した午後五時頃というもの。そしてもう一つが、久子が主張した午後三時頃というものだ。実に二時間の誤差がある。そして、この日の天候が、コウメイ先生や志貴子おばさんのいう通り、五時頃から大雨になっていたとすれば、鉄男たちの主張が真っ向から矛盾していることになる。気象庁に問い合わせてみたら、たしかに事件当日、午後四時半までは炎天下の猛暑日だったけど、そのあとで一時間ほどの間に巨大な積乱雲群があの辺り一帯を通過していったことも確認が取れている。
つまり、鉄男たちの証言が嘘であり、肝心のワイン瓶が会長宅へ届けられたのは午後三時頃である、と結論付けて良さそうだね。それでは、三時に会長宅へ届けられたはずのワイン瓶は、道夫に直接手渡されていたのだろうか?
覚えているかい? 柿沼警部の話によれば、事件の当日午後三時半に弓削道夫は神岡の仕事現場に立ち寄っているんだ。いい換えれば、午後三時に自宅へ届けられたワイン瓶を道夫は鉄男から受け取ることはできなかったはずだ。さらには、妻の小夜子も午後四時まで高山の事務所にいた証言が取れているから、小夜子も三時に自宅にはいなかったことになる。それでは、受取人がいなかったはずなのに、鉄男はいったいワイン瓶をどのようにして届けたのだろう?
そう。鉄男がうっかり口を滑らせたよね。ワイン瓶は会長宅の玄関口に置いたけど、あの暑さじゃ、ワインがすっぱくなっちまったかもなと。おそらく、それが真実で、ワイン瓶は会長宅の玄関口に置かれたのではないかと思われる。さらにその時、キャップシールが剥がされて、コルク栓は未開封の状態だった」
「では、道夫と小夜子はいつ自宅へ帰って来たんですかねえ」
「道夫が帰宅した時刻は、たぶん四時頃だったろうね。神岡の現場からだったら、三十分もあれば戻って来れそうだからね。それから小夜子が帰宅したのは、四時まで高山にいたというのだから、おそらく五時過ぎだ。
つまり、道夫は問題の赤ワインの瓶を一時間近く自宅で放置していることになり、その間、自宅に一人切りでいたことにもなる。ワインに何か細工を仕込む時間は十分にあったと考えられるね」
「じゃあ、弓削道夫が犯人だったのですか?」
「ああ、道夫には動機がいくらでも考えられるし、その可能性は否定できないね。でもその結論を出すのはまだあとだ。懸案を順番に検証していこう。
次は守の遺書だ。古狐山の山頂で守が自殺をした時に、自らの自殺をほのめかす遺書となるノートも見つかっている。ノートに書かれた万年筆の筆跡は、鑑定により明らかに守のものであり、しかも、それが書かれたのは山頂でなく、山に登る事前に書かれていたことも、状況証拠から明白だ。さらには柿沼警部の報告によれば、守は中地区商店街の文具店で、自殺する前日となる八月一日の午前中に、問題のノートを購入していたことが分かっている」
「父はすでに自殺を決意していたからこそ、遺書を書くべくノートを前日に購入しておいたというわけですね」
麻祐が同意を求めるように恭助に目を向けたが、恭助はそれには答えず、淡々と説明を続けた。
「ところで、守が自殺を決意したのはいつだったのだろう。仮に守が犯人だったとして、彼は事件を引き起こす前から、古狐山での自殺を遂げることまでを筋書きに描いていたのだろうか?」
「父は人一倍責任感が強い人だったと聞いています。もしもあのような悲惨な事件を引き起こすつもりでいたのなら、同時に、事件後に責任を取って自殺をするつもりであった可能性は十分に考えられます」
「でもさ、そうなると気になることが一つあるんだ。薬局の桐子がいった証言を思い出してみてよ。守は事件の五日前となる金曜日に、男性用避妊具を二箱購入している……」
「ふっ、当時の私たちはまだ幼かったし、父だって母との夜の営みを交わす欲求は抑えられなかったから買ったのでしょう。まだ若い夫婦同士だし、決しておかしいことではありません」
麻祐がさらりといいのけた。
「そうかなあ……。いいかい、五日後に事件を引き起こして、その後で自殺をしようと企てているのなら、一箱で十分じゃないか。一箱の中には五個もコンドームが入っているのだから、二箱も買う必要なんてないよね」
「いわれてみれば、そうですね。事件の後ですぐに自殺するつもりだった人間が、男性用避妊具を二箱も買ったのは、たしかに違和感がありますね」
美祐も納得した様子でうなずいた。それを横で聞いていた青葉は、男性用避妊具という言葉をいとも簡単にいってのける美祐も、麻祐と同じように大人なのだなあと、感心していた。
「結論付けられるのは、コンドームを購入した時には、守は自殺するつもりはなかったってことさ」
「でも、遺書に記された文字は紛れもなく父が書いたものですよね。じゃあ、父はいつ自殺を決意したのですか?」
「弓削巡査部長の話によれば、事件翌日に行われた警察尋問の時に、守は事件に関するありとあらゆる嫌疑を全面否定したそうじゃないか。つまり、その時点では守に自殺の意思はなかったと推測される。だとすれば、守が自殺を決意したのは、事件翌日の尋問を終えてから、自殺の前日にノートを文具店で購入するまでの間ということになる。守が犯人であろうがなかろうが、いずれにせよ、七月二十九日から八月一日までのわずか四日間のあいだに起こった何らかの理由で、守は自殺を決意したんだ!」
そういって、恭助は志貴子が運んできた茶碗に入ったお茶をぐっと飲みほした。志貴子は一番後ろに腰を下ろして、恭助の説明を黙って聴いていた。
「それじゃあ、事件の真相を解明するためにどうしても解き明かさなければならない謎が、まだいくつか残されている。それらをここでまとめておこうか。
まず、犯人の動機だ。それから、どうやって被害者たちに毒を飲ませたか。さらには、ワイン瓶に毒を、いつ、どうやって仕込んだのか。もしかしたら、毒はそれ以外の手段で盛られたのだろうか。
まだあるぜ。瓶になぜ守の指紋しか付いていなかったのか」
「それは、会長さんが瓶の指紋を拭きとったということですよね」
我慢し切れなくなって、麻祐が答えた。
「どうして?」
「だって、鉄男や自分の指紋が瓶に残っていたんじゃ、父を犯人だと断定ができなくなってしまいます。だから前もってふき取っておいたんですよ」
「でも、それは違うな。なぜなら、拭き取る方が自分たちにより嫌疑が掛かってしまうからだ。だってさ、自分たちの指紋は成り行き上、瓶に着いていなければならないんだ。ない方が不自然なんだよ」
「えっ、じゃあ、どうして拭き取ったんですかねえ?」
「そういうこと。会長が黒幕だとすると、今度はなぜ彼は自分たちの指紋をわざわざ拭きとったのか、ということが新たなる疑問となってしまうんだ」
「たしか、会長さんは運転時に手袋をはめる癖があったわね。それに瓶を手にしたのは運転をして自宅へ戻った後だった。もしかしたら、手袋は外さないで瓶を取り扱ったから、それで指紋が付かなかったのかも……」
青葉が自信なさそうに、意見を唱えた。
「うん、その可能性はもちろん考えられる。でも、鉄男の指紋まで拭きとることは、やはりおかしくないかな」
「ひょっとして、鉄男も何らかの事情で手袋をしていたのかも」
「はははっ、だんだんややこしくなってきたな。でもその可能性はさすがにないな。だってさ、鉄男といっしょに口裏合わせの嘘を吐いていた酒屋の山村清志が、鉄男が汚い指で瓶をじかに触ろうとした、と発言をしている」
「あれれ、そんな発言、ありましたっけ?」
「ああ、瓶の腹を持てといって鉄男を叱った。とはっきり証言していたよね」
そういって、恭助は満足げに微笑んだ。
「じゃあ、次の疑問だ。コルク栓は果たしてどこへ消えてしまったのか。さらには、紛失した理由は?」
「さっぱり分かりません。コルク栓に付着した毒を隠したかったとか?」
「なぜ毒を隠蔽したがる?」
「それは……。分かりません。毒は瓶の中にも残っていたはずで、コルク栓にも同じ毒が付着していたところで何も不思議はないのですからね」
「しかも、何者かがコルク栓を意図的に外へ持ち出しているけど、その際に、警察の必要な身体検査を潜り抜けている」
「まさに、ちんぷんかんぷんですね」
麻祐がじれったそうに口を尖らせた。
「そして最後の謎だ。なぜ、守は自殺したのか?
これらすべてが説明しつくされなければ、事件が解明できたとはいえない。なにしろ十九年も経過して様々な出来事が風化してしまった事件だ。仮に犯人が確定するようなことがあっても、裁判で有罪にできるほどの証拠は残ってはいないだろう」
恭助の言葉を引き継いで、麻祐が答えた。
「それも覚悟のうちです。ええと、結局、犯人を断定する前に解決されなければならない疑問点が、
一、 犯行の動機
二、 毒殺の手段
三、 瓶の指紋
四、 コルク栓の行方
五、 守の自殺理由
だけあるということですね。じゃあ、恭助さん。説明してください。これらの謎を全部納得させてもらえる合理的な解答とやらを……」




