2.幸福駅
「ここだよ、ここ。まゆゆ」
幼稚園児のようにはしゃぎまくる恭助のうしろを、さしずめ保護者といった感じの麻祐と青葉が追いかけていった。一九八七年に廃線となった旧国鉄時代の広尾線は、日高山脈の東側に横たわる広大な十勝平野の中心都市の帯広を起点とし、太平洋沿岸の漁村の広尾町まで伸びる、全長八十四キロの華やかな路線であったが、現在はさびしいバス路線と化している。その広尾線に、当時実際にあった幸福駅の跡地は、今では駐車場も完備されたちょっとした公園となっていた。
「へえ、恭助さんって駅フェチだったんですね」
半分あきれ顔の麻祐が、恭助に声を掛けた。
「俺じゃなくて、青葉がそうなのさ。秘境駅のファンなんだよ。変な奴だよね。わざわざ一人で宗谷本線に乗ってきたくらいだからね」
恭助が青葉にちらりと目を向けた。
「そして、今は恭ちゃんの方が、重症オタクになっちゃったってことよね」
青葉も負けずにいい返す。
「あはは、まあそういうことかな」
恭助はあっさりと認めた。
駐車場から少し歩いて奥へ進むと、木漏れ日の合間にいくつかの出店が開かれていて、ソフトクリームやかつての駅にまつわる記念品などが売られていた。多くの客がそこで足を停めて、商品を片手に取りながら満足げに微笑んでいる。さらに少し進むと、幸福駅のかつての木造駅舎がどうどう佇んでいた。中には小さな紙切れが壁いっぱいに貼り付けられている。近づいてみるとそれは個人の名刺だった。来訪記念に自分の名刺を貼り付けていくのが、どうやらここのならわしとなっているようだ。
駅舎からプラットホームの跡地へ行く途中に、橋渡しのような木のアーチが作られていて、その合間に鐘が設置されていた。『幸福の鐘』と呼ばれる鐘である。恭助は見向きもせずに通過したが、青葉と麻祐は興味深げに鐘を鳴らしていた。
この上なくシンプルな木製の板張りプラットホームには、保存状態の良いオレンジボディのキハ22系気動車が雨ざらし状態で展示されていて、当時の面影を彩っていた。
肝心の恭助はというと、カメラをぱちくりさせながら、好き勝手放題にあちこちを走り回っている。その様子を遠目で眺めていた麻祐が大きくため息を吐いた。
「やれやれ、恭助さんって本当に子供ですよねえ」
ふと気が付くととなりにいたはずの青葉の姿もなかった。きょろきょろと辺りを見回してから、麻祐はさっきの売店の方向へふらふらと足を向けた。すると、売店ではちょうど青葉が勘定を済ませているところだった。
「あれれ、青葉先輩、お買い物ですか」
「うん。ちょっとお守りを買っておこうかなって」
青葉が振り返って微笑んだ。
「うわ、先輩――。それって愛が成就するお守りですよ。なんでそんなものを……」
「ええと、なんとなく……。お願い、麻祐ちゃん。このことは恭ちゃんには黙っといて……」
麻祐がまわりの観光客にまで聞こえる大声を発したものだから、間が悪そうに青葉が両手を合わせて懇願した。
「ははあ、そういうことですね。お任せください。若輩ながらこの私が先輩と恭助さんの愛のキューピッドになって差し上げますよ」
麻祐がこぶしでドンとふくよかな胸を叩いた。
「麻祐ちゃん、だから、違うってば……」
帯広の中心街を過ぎると都会の雰囲気は全く消え失せて、まわりはきれいに区画分けがなされた田園地帯と化していた。とにかく広い。どこまでいっても緑色の作物と赤茶色の土との美しいコントラストが立ち切れることなく続いている。本州では絶対に味わえない光景だ。
「すごいわねえ。キャベツ畑かしら」
畑に並んだ作物の鮮やかな緑色を目の当たりにして、助手席の青葉がポツリとつぶやいた。
「ああ、これはキャベツじゃなくて甜菜です。この辺りは無尽蔵な土地を生かして、小麦、大豆、じゃがいも、それに甜菜を一年ごとに場所を変えて輪作をしながら育てているのです。同じ場所で同じ作物を続けて作ろうとすると、病気にかかりやすくなって生産量が激減してしまうのがその理由らしいですね」
運転席の麻祐が説明をした。
「へー、だから畑の区画ごとに見える色が違うのね。すごいなあ」
「広大な耕地面積を擁する十勝平野は、まさに日本の食料貯蔵庫ですからねえ。ちなみに、テンサイとは才能のことではなくて野菜です。砂糖大根のことをテンサイっていうのです」
麻祐のたわいのない冗談に、青葉がくすくす笑っていた。
やがて広大な畑も徐々に消えていって、気が付くとトラックは川沿いの道路を走っていた。高い林が連なって視界を覆い隠すので、遠方の山並みはもう見えなくなっていた。陽が傾いて、空があっという間に茜色に染まる。北海道の日暮れは早いなと、青葉はあらためて痛感した。
それからさらに三十分ほどひた走ってようやくたどり着いたのが、それはそれは立派な農家屋敷だった。駐車場らしき区画がなく、だだっ広い敷地のどん真ん中に無造作にトラックを停めたのに、全く邪魔になっているような雰囲気がなかった。ここまでの砂利道が長かったせいか、舗装された道路がここからはもう見えなくなっていた。敷地に一本だけばかでかい木が立っているのだが、あとで聞いてみたら、桂という種類の樹木らしかった。敷地内には建物がいっぱい建っていて、小さなものも含めると八つはあった。あの大きな瓦屋根は母屋であろう。あちらの大きいのが牛舎で、すぐそこの建物はさしずめ農機具倉庫だろうか。日が暮れて、辺りはほとんど真っ暗になっていたが、どこからともなく虫の音がザワザワと絶え間なく響いてきた。
「うちは畑作以外に酪農もしてますからねえ。結構忙しいんですよ」
麻祐が敷地の中央に建つ赤レンガの穀物貯蔵塔を指差した。いかにも北海道らしい建造物だ。
「麻祐ちゃんもお手伝いをしているの」
「ええ、まあ学生時代は札幌にいましたから、収穫期とかにこっちへ手伝いで戻ってくるくらいでしたけど、今はここに住んでいますから、毎日がとても忙しいんですよ」
トラックから降りた三人を、屋敷の玄関口から現れた二人の男女が出迎えた。二十二歳の麻祐の両親にしては、少々ご年配のようにも見受けられる。
「じっちゃんとばっちゃんです。そいでもって、こちらは瑠璃垣青葉先輩とそのお友達の如月恭助君ですよ」
麻祐が双方に人物紹介をした。
「おお、遠いところよう来てくれたべさ。まあ、ゆっくりしてってけれ」
じっちゃんと呼ばれた老人がにこやかにほほ笑んだ。こんがり日焼けしたしわくちゃ顔から生える白い立派なあご髭が、なかなか様になっている。
「さあさあ、とりあえず荷物を中に入れましょう。ええと、青葉先輩は母屋にある奥のお部屋に。ああそれから、恭助さんはそっちの離れの建物の中から好きなお部屋を適当に選んで使ってくださいね」
「ええっ、俺だけ離れなの?」
恭助が不安におびえるような声を発した。
「大丈夫ですよ。食事やお風呂は母屋で取ってくれればいいですけど、ただ寝る時だけは危険ですから……、ああ、いや、静かにゆっくりリラックスして眠れるように離れにしたんです。
あれれれ、もしかして恭助さん、おひとりで寝るのが怖いんですか?」
「まさか、そんなこと絶対にないっしょ」
麻祐の軽い挑発に恭助は強がって受け答えた。