19.平家蛍
急ブレーキを軋ませた白い車が、恭助たちのすぐ目の前で急停車をした。サークル・アンド・スリーポインテッドスターをかたどった銀のエンブレム。高級車ベンツだ。左側のドアから出てきたのは、地区会長の弓削道夫である。
「おや、忠一郎じゃないか。お前、ここで何しとるっちゃ?」
穏やかに取り繕ってはいるものの、声の奥底からは、明らかに焦りから生じている異様な抑揚が感じ取られた。
「あっ、道夫さん……」
弓削巡査部長の顔が、驚きの表情に急変した。
「こんばんわ、会長さん」
さりげなく恭助が挨拶を投げ掛ける。と同時に、うしろで控えていた麻祐と青葉が、ぺこりと頭を下げた。
「ああ、あの時の学生さんたちですか……。こんばんわ」
道夫は、恭助たちには、満面の笑顔で応じた。
「ところで、忠一郎。わしが昨日忠告してやったことは、よもや忘れてはしまいな?」
眉間にかすかな皴を刻みながら、地区会長が巡査部長に詰め寄った。
「はっ、はい。もちろん覚えております。内容は……」
緊張のあまり、弓削巡査部長は息も絶え絶えとなっていた。
「内容なんかいわんでもええ。ちゃんと覚えとりゃ、それでええっちゃ」
安堵をしたのか、道夫の表情がちょっとだけ緩んだ。
「学生さん。もう日も暮れてきますに、今晩どちらかでお泊りになられるのかな?」
道夫の視線は、一転して、恭助たちへ向けられた。
「ああ、まだ予約は取っていないけど、もう一日、鈴屋さんでお世話になろうと思っていますよ」
恭助が気を使って、丁寧に返事をした。
「そうっちゃか。じゃあ、わしが今からお三方を鈴屋までお送りいたしましょう。このベンツでなあ……」
そういって、道夫は自分の高級外国車を指差したが、その両手には、ドライブ用の茶色い皮手袋が装着されていた。
「じゃあ、お巡りさん。そういうことで、これでおいとまさせてもらうよ。道案内、ありがとうね……」
恭助が弓削巡査部長にごく自然な声掛けをした。あくまでも、巡査部長は道案内をしただけであって、それ以上のやり取りは交わしていないと、暗にほのめかすかのような趣旨の発言であった。
「道夫さん――」
弓削巡査部長が突然、地区会長を呼び止めた。
「なんじゃい?」
面倒くさそうに、地区会長が返事をした。
「本官は、嘘を吐くのはよくないことだと、亡くなった父、忠達から教わってまいりました。ですから、本官の思いを、これから道夫さんに正直にお伝えいたします!」
意を決したかのように、忠一郎巡査部長が、道夫に向かって意味ありげな敬礼をした。
「お巡りさん。駄目だよ、それは……」
恭助が割り込んで制止をしようとしたが、忠一郎は頑として意思を曲げなかった。
「道夫さんが村のことを心配されるお気持ちは、本官には痛いほどよく分かります。本官もおとといまでは、公民館で起こった毒殺事件の犯人は弓削守で間違いないと、確信を抱いておりました。
しかし、昨日になって、こちらにいらっしゃる恭助さんたちのお話を伺ううちに、守の犯人説にいささかの疑問が湧いてまいりました。結論を申し上げますと、本官は恭助さんたちと協力して、事件の真相を、もう一度初めからあらいざらい調べ直すつもりであります。もちろん、十九年前の事件の真相が、本官ごときひよっ子に、そんなに易々と解明できるなどと、とうてい考えてはいないわけでありますが、それでも本官は、本官のできる限りの協力を、恭助さんたちにしてまいりたいと、本心から望んでおります。
道夫さんのご意思には結果的に背く行為となりますが、本官の思いはこのように確定いたしましたのであります!」
巡査部長の発言を聞いた恭助が、天を仰いだ。
「忠一郎。きさま……、村の衆の不安を無駄にあおったりして、それでなんとも思わんちゃか?」
地区会長は、怒りでぶるぶると身体を震わせた。
「たしかに、仮に守が犯人でないと判明すれば、村人たちはいちじるしく混乱することとなりましょう。しかし同時に、守が犯人でないのであれば、こちらにいらっしゃる古久根麻祐さんが、長年抱き続けてきた途方もない苦しみから解放されるのです。麻祐さんはですねえ、弓削守の実の娘さんなのであります!」
忠一郎が毅然といい放った。
「なにい、守の娘じゃと? そうか、お前があの時の……」
口をポカンと開けたまましばらくの間、道夫は麻祐の顔をじっと見つめていた。やがて、吹っ切れたように踵を返すと、無言で車へ乗り込んでエンジンを掛けた。
「忠一郎、覚えときや。勝手な行動を取りおって。絶対に許さんっちゃからな!」
道夫は窓を開けると、こちらへ向かって怒鳴り散らした。
「あのう、お車には乗せてはいただけないんでしょうか……」
恭助が道夫に小声で訊ねた。
「ふん、気が変わったっちゃ。宿探しはお前たちで勝手にしろっちゃ」
そう告げると、道夫の白いベンツは、大きなタイヤ音を軋ませながら、走り去っていった。
「はははっ、あれじゃあ、まるでやくざだな」
恭助が腹を抱えて笑った。
「でも、弓削巡査さん。あんなことをいって、本当に大丈夫なんですか?」
心配そうに麻祐が訊ねた。
「だから、こいつは巡査じゃなくて、巡査部長なんだって……。何度いえば分かるのかなあ?」
恭助が口をはさんだ。
「麻祐さん、ご心配なく。たとえ村を締め出されることになろうとも、本官は本官を貫きます。麻祐さんのこれまでのご苦労に比べれば、こんなことはたいしたことではありません、であります!」
「それにしても痛快だったよな。見直したよ、お巡りさん。あんた、案外いい奴だな。
ところでさ、ちょっと気になったんだけど。会長さんっていつもあんな手袋をしているの?」
恭助が忠一郎に訊ねた。
「はい、道夫さんは運転をなさる時には必ずあの茶色の皮手袋をされております。なんでも、手が汗で滑るのを防止してくれるらしいのであります」
「ふーん、運転中は必ず手袋をするのか……。なるほどねえ……」
口元を緩めながら、恭助はなにやら考えて込んでいた。
「恭助さん。宿探しでお困りなら、本官のおうちで泊まられてはいかがでありますか?」
弓削巡査部長が、中地区の商店会へ向かって歩き出そうとする恭助たちを、呼び止めた。
「えっ、いいの? お巡りさん。そいつは助かるよ……」
「はははっ、本官は独り身でして、現在は母親と二人暮らしでありますが、なにぶん田舎屋敷ですから、みなさんが寝られるお部屋くらいなら、いくらでもご用意できます。どうぞご遠慮なく、いらしてください、であります」
弓削巡査部長の提案は、恭助たちにとって、渡りに船の申し出であった。弓削巡査部長の実家は、蓮照寺から宮地久子の家へ行く途中にあって、防風林の高い木々に囲まれた広い庭の真ん中には、見事な柿の木が誇らしげに枝を大きく広げて立っていた。
弓削巡査部長の母親は、六十くらいの明るい婦人で、息子が三人の同年代の友人を連れて来たばかりか、そのうちの二人がとびきり美人の娘ということで、天にも昇る心地だと歓喜にむせびつつはしゃいでいるのを、忠一郎巡査部長が顔を赤らめながらなだめていた。
「だからあ、かあちゃん。この方たちは、村を訪ねて来た単なる旅行者であって、本官はたまたま宿泊のお手伝いをさせてもらっただけだって、さっきからそういうとるっちゃろうが……」
「そうはいうてもなあ、忠一郎。お二人ともそろいもそろって、えらいべっぴんさんやがあ。こんなチャンス、冴えねえおめえなんぞにゃ、二度と来やしねえっちゃぞ。
ねえ、お嬢さん方。息子の忠一郎ですがなあ、三十路を過ぎても、うだつの上がらねえ、駐在所勤めなんじゃけんど、とにかく真面目さだけが取り柄でのう。それに関しちゃ、どこの誰ぞにも、決して負けはしねえっちゃ。おらが太鼓判を押して保証するっちゃ。どちらさんでも、嫁っこになってくれる気がありゃあ、我が家としちゃあ、大歓迎なんじゃがのう……」
「さあさあ、麻祐さん、青葉さん。母ちゃんの与太話なんか無視をして、今夜はゆっくりとお休みください、であります」
翌朝になって、恭助たちは、引き続き村人たちからの話を聞くために、歩き回ることにしたのだが、上地区の住民からは、昨日までとは打って変わって、なかなか思うように話を聞くことができず、なにやら冷たい目線で見られているような気がした。仕方ないので、下地区へ行ってみると、おとといに出会った野良着姿の農婦が急こう配の斜面にできた茶畑でせっせと仕事をしていた。恭助が話しかけると、最初は鬱陶しがられていたが、話の内容が亀井ゆり子になった途端に、老婆はとって返したように協力的になった。彼女は自らの名前を、弓削時枝と名乗った。
「ゆり子のことを聞きたいっちゃか? 教えてやってもかまわんちゃが、ただというわけにはなあ……。そんじゃまあ、ほれ、その辺に生えとる雑草を、むしってくれっちゃ」
時枝は言葉たくみに三人に奉仕作業をするよう命じた。
「ゆり子は美人じゃけ、下地区では、そりゃあ人気者じゃったがのう。とくに、男衆には格別なあ。まあ、あれに関しても、母親も公認じゃったしな」
「公認ですか? なにを?」
「させこ、っちゃ――。夜這いにやって来た男を受け入れて、その代償にお礼を受け取る仕事っちゃな」
時枝は、まるでアルバイトの一つであるかのように、ごく自然な口調で説明をした。
「ゆり子は中学の時に最初の男を知らされたっちゃ。もともと、母親もさせこじゃったけ、そういう教育を小さい頃からされてきたんじゃろうな」
そういう教育とはいったい何なんだ、という突っ込みたくなる衝動を、恭助は必死に抑えた。
「このクザワ村にゃ代々、夜這いの風習があるっちゃが、されど、決して男衆の意のままに事が進められるわけではねえっちゃ。女が断れば、間男はすごすごと引き返すしかねえっちゃな。それが村の掟っちゃ。それを守らねえ時にゃ、翌日になって女が村の長に訴えて、間男が村八分にされちまうんちゃ。
ゆり子は、なんというか、その辺のさじ加減ちゅうか、駆け引きがめっぽう上手な女でな。初めて夜這いにやって来た男が首尾よくさせてもらえるなんちゅうことは、まずなかったそうちゃ。少なくとも三回はやり過ごしたのちに、運が良けりゃ、四回目に受け入れてもらえるかもしれんっちゅう噂までもが立っとったしなあ。
そんなゆり子っちゃが、ある日突然、上地区の会長さんに、えろう気に入られちまってのう。まあ、ゆり子の方も金にゃ始終困っとったから、そいつは好都合じゃった。そして、それが高じてか、ついに上地区の懇親会にゆり子が招待されてのう。下地区の住民が招待されるなんちゅうことは、これまで一度もなかったっちゃ。
でもなあ、下地区の衆が、上地区の会に出るのはやめておけって、ゆり子に助言したっちゃ。まあ無理もねえが、ゆり子がどんな女かは、村の中じゃあ有名になっとるからのう。しかし、会長が直々に誘ってくれるなんて、今後も二度とあるまいて。今こそ、下地区の現状を上地区の衆に知ってもらう絶好の機会じゃ。恥っさらしのようじゃが、会にゃ出ると、ゆり子はきっぱりいい切ったっちゃ。あれで、相当に気が強い女じゃったからのう。ゆり子は……。
じゃが、まさかその会で、こともあろうに、ゆり子が毒殺されちまうなんてなあ。ああ、世間にゃ神も仏もねえものか。あまりにむごい仕打ちじゃあ……」
川向うに広がる上地区の豪勢な家々を、時枝はいつまでも恨めしそうに睨み付けていた。
のどかな茶畑の下に横たわる、そこそこの車が行き来する国道を、歩道の向こう側から、両手を振りつつ、車からはクラクションを鳴らされながら、弓削巡査部長が駆け足で横断してきた。
「恭助さーん、こちらにいらっしゃいましたか」
急な段差を一気に駆けのぼった巡査部長は、ぜいぜいと息を切らしていた。
「たった今、富山南署の柿沼警部と連絡が取れまして、恭助さんの捜査に協力していただけるとのことであります。警部は、細池毒果実酒事件の主任担当刑事であらせられ、当時の事件の経過を最もよく知り得る人物なのであります」
黄色い軽自動車に乗せられて、恭助たちは富山南警察署を目指した。
「申し訳ありません。パトカーの手配までは取れませんで、みなさんをこんな堅苦しい車でお送りしなければなりません、であります」
「ああ、いいよ、お巡りさん。気にしないで……。はははっ」
運転席で恐縮するいつもの忠一郎を、恭助は苦笑いでやり過ごした。
富山南警察署までは、葛和村から国道四十一号線を北上して三十分ちょっとかかった。署の建物に入ると、一番奥の部屋のどっしりとしたデスクの向こうで、柿沼警部が待っていた。恭助に負けず劣らず小柄な人物で、大きく禿げ上がった頭部の側面には、かろうじて残存した白髪が、申し訳なさそうにかすかにこびりついていた。
「ああ、こんなところまで、わざわざようこそ」
柿沼警部が椅子に座ったまま、型通りの挨拶をした。一方で、弓削巡査部長は、かかとを正して、警部に向かって敬礼をした。
「葛輪駐在所勤務の弓削忠一郎巡査部長であります。本日はお忙しい中、本官のわがままをお聞きいただき、まことに恐縮であります」
「まあまあ。わしも今年いっぱいで定年を迎える、暇を持て余す窓際族なんでな。一向にかまわんよ」
そういって、警部は椅子から立ち上がると、忠一郎と軽く握手を交わした。
「ところで、そちらの方々は……?」
警部が恭助たちに目を向けた。
「はい。ええと、左手の背が高いべっぴんのお嬢さんが、瑠璃垣青葉さんで、中央の愛らしいお嬢さんが、古久根麻祐さん。それから右側の小柄で地味な男性が、如月恭助さんであります。三名とも、名古屋からやって来た学生さんということであります」
忠一郎がたどたどしく、三人を警部に紹介した。
「ほほう、名古屋から来たキサラギさんねえ……。はははっ」
突然、柿沼警部が笑い出した。
「いや、こいつは失敬――。ちょいとある有名人を思い浮かべましてな、つい笑ってしまいました。
名古屋在住で、最近頭角を現している如月というお名前の警部がいらしまして、この方が、飛ぶ鳥を落とす勢いで、次から次へバッタバッタと難事件を解決していき、まさに平成のシャーロック・ホームズだって、本署でも大いにうわさになっておりましてなあ。
どうです? 名古屋には、如月という苗字の人が、結構いらっしゃるのですかねえ?」
柿沼警部が茶化すように訊ねるのを、恭助は真顔で答えた。
「ああ、それって、俺の親父だよ……」
「はあ、今、何と申されましたかな? 恥ずかしながら、最近耳の聞こえが悪くなってきましてなあ」
警部がキョトンとした。
「だからあ、名古屋在住の如月惣次郎警部っていったら、俺の親父なんすよ。
でも、驚いたなあ。そんなに有名になっているのか。はははっ、親父もたいしたもんだな……」
「えっ、まさか、冗談ではなく、本当に正真正銘の、如月警部のご子息さまでいらっしゃいますか?」
柿沼警部が急に目を硬直させながら問いただした。
「いかにも……」
恭助が偉そうに返事をした。もっとも、この手の発言は、単に彼の本性というか、地が出てしまっただけに過ぎないのであるが。
「柿沼警部。恭助さんが、どうかされたでありますか?」
弓削巡査部長は、訳が分からずにポカンと口をあけていた。
「どうかしたかって、貴様――。この方がどなたか、分かっておるのか?」
突然、柿沼警部が荒々しくわめき立てた。
「どなたといわれましても。まあ、恭助さんは、あえて申せば、本官のお友達でありまして……」
弓削巡査部長が悪びれずに答えた。
「なにい、お友達だと……? こっ、この、大たわけが――。無礼千万、無鉄砲、身の程知らずにも程があるわ。
こちらにおわそうお方をどなたと心得る? おそれ多くも、国内あまたの警察官の中で屈指の頭角を現される敏腕警部の、ご子息さまであらせられるのだぞ。貴様ごとき僻地手当てを受給する田舎交番の巡査風情が、とうていお声を掛けてよろしいお方ではないのだ。ましてや、友達呼ばわりなど、もっての外。
ええい、頭が高いわ――。控えおろう!」
「はっ……、ははあ――」
柿沼警部の剣幕に押されて、弓削巡査部長が地面に額をこすり付けながら土下座した。
「あのさあ、そんなことはどうでもいいんだけど、そろそろ事件のことを聞いてもいいかなあ?」
何ごともなかったかのように、恭助が柿沼警部に質問を始めた。
「守が犯人である理由ですか? そうですな。まあ、数え出したら切りがありませんが、まずは指紋ですね」
柿沼警部は、少し考えてから切り出した。
「指紋ね……」
「はい。肝心の毒が仕込まれていたのは、赤ワインであったとみて、まず間違いはないでしょう。理由は、瓶に残っていたワインからも農薬の成分が検出されておりますし、赤ワインを飲んだ人物しか、被害を被っていないのですからね。実際、もう片方の白ワインにおいては、コルク栓が付いたままの未開封状態でした。
そして、その赤ワインの瓶に付いていた指紋なのですが、調べてみると、守ひとりの指紋だけしか検出されなかったのです。とにもかくにも、まあ、これが決定的でしたね」
「赤ワインの瓶には、本当に、守以外の指紋は付いていなかったんだよね?」
恭助が念を押した。
「そうです」
「誰ひとりも?」
「誰の一人も、です」
警部はきっぱりと断言した。
「ふーん、なるほどねえ」
残念そうな表情で、恭助が引き下がった。
「さらには、後日、弓削守は古狐山の山頂で自殺を遂げるのですが、その時に、守は遺書を残しております。そして、その文中で、自らが事件の真犯人であると、はっきりと告白しておるのです」
柿沼警部が、『告白』という言葉を意図的に強めながら、発言した。
「その遺書なんだけどさあ……、筆跡鑑定はちゃんとしたの?」
「もちろんです。鑑定の結果、筆跡は間違いなく守本人のものでした」
「間違いない?」
「はい、間違いありません」
「ふーん、そうなんだ……」
恭助はこれに関しても、少しがっかりした素振りを見せた。
「おまけに、自殺をする前日に当たる八月の一日ですが、その日の午前中に中地区商店街の文房具店にて、遺書で使用したA4判ノートを、守本人が直接来店をして、一冊購入して帰った、という裏付け証言も、きちんと取れております」
「ふむふむ」
「さらには、自殺したあとで、守の家の家宅捜査を行ったところ、守の部屋の机の引き出しの中から、農薬のニッカリンが入った瓶が一つ見つかりまして、中身の成分も現場のワインの残留物と見事に一致しました。さらには、このニッカリンが入った瓶からも、守の指紋だけしか検出されなかったのです」
「なるほど。どう考えても、犯人は守以外にはあり得ないような決定的な証拠ばかりだね」
「まさに、その通りですよ」
「あのさあ、ニッカリンという農薬は、危険すぎて、大昔に国が使用を禁止にしたそうだけど」
「そうです。守が所持していたのも、『ニッカリンT』という商品ラベルが貼られた茶色い小瓶で、商品の製造日は昭和四十三年となっておりました。使用が禁止されてから、倉庫の奥底で長いこと埋もれていた薬だったのでしょうなあ」
「公民館へ毒を持ち運んだ竹筒を、守は葛輪川へ捨てた、と遺書に書いてあったけど、その竹筒は見つからなかったの?」
「はい、それに関しては残念ながら……。たくさんの警官を要して数日間に渡り懸命なる捜索をいたしましたが、竹筒は見つかりませんでした。まあ、葛輪川に流されてしまえば、見つからなくたってちっとも不思議ではありませんがねえ」
警部は自己弁護をするように、言葉を付け足した。
「じゃあさ、事件後に、ワインの栓抜きは回収できたんだっけ?」
「はい、回収いたしました。守が座っていた席の座布団のすぐそばに落ちとりました」
「ふーん、そうなんだ……」
恭助が拍子抜けしたようにつぶやいた。
「まあ、そうですねえ」
逆に、警部が得意げに鼻を鳴らした。
「コルク栓も?」
警部の広い額にしわが走った。
「ああ、そのことですがねえ。不思議なことに、栓抜きからコルク栓だけが抜きとられていたのですよ」
「抜き取られていた?」
「はい。コルク栓が紛失していたのです。そうです。今思い出しましたよ」
「コルク栓は探したの?」
「もちろんです。事件直後に部屋にいた全員の身体検査を行いました。それも徹底的にです。その時我々は、犯人が毒薬を小瓶に入れて、ふところに隠し持っている可能性を危惧しておりました。ああ、実際には、守が毒を入れて運んだ竹筒は、すでに葛輪川に流されておったのですがねえ。ですから現場にいた人物全員の身体検査を行いました。男女を別々の部屋に分けて、女性の検査に関しては、本署から婦警を呼んできて、下着の中までありとあらゆる手段を尽くしました。しかしですよ……、毒瓶はおろか、コルク栓も、なに一つ出て来ませんでした」
「毒瓶はともかく、コルク栓が紛失したのは、奇妙だな……。
守は乾杯の前にコルク栓を抜いたのだし、そのあと、普通なら、栓抜きにコルク栓は付いたままとなっているはずだよね」
恭助が口元を手で覆った。
「事件の翌日の警察尋問では、コルク栓を栓抜きから抜き取った覚えはない、と守は供述しました。事件後、彼は自らにかけられた容疑を、いっさい合切完全否認していましたね」
「それはそうだろうね。ふむ、面白くなってきたぞ……。ほかに何か気付いたことは?」
「それが、栓抜きが落ちていた場所からさほど離れていない、やはり畳の上なのですが、ハンカチが落ちておりました。どこにでもありそうなごく普通の白い木綿のハンカチでしたけど、これまた持ち主が最後まで名乗り出ませんでした。でも、そのハンカチには、こぼれた赤ワインがべったりとしみ込んでおりまして、白い生地なのに赤紫色に見事に染まっておりました。もちろん、しみ込んでいた赤ワインは、会場で振舞われたぶどう酒そのものでして、毒成分も検出されています」
「白いハンカチねえ。布だから、指紋の検出となると、さすがに無理だよね」
「はい、その通りです」
「もう一つ疑問がある。俺たちが村人から聞いたところでは、会長さんの長い演説の終わりがけに、守が赤ワイン瓶のコルク栓を開けたけど、その時に発したポンという音を、たしかに聞いた、という証言が現場にいた数名の人物からあったんだ。つまりそれってさ、その時点でコルク栓が開けられていなかった事実も、同時に示す証言となるんだよね。
でも、そいつが真実だとすれば、守はどうやって毒を赤ワインに仕込んだのだろう?」
「確かにおかしいですな。ポンという音を聞いたという証言が間違っていて、その時点ですでに毒が仕込まれていなければ、つじつまが合いません。それに、仮に乾杯の前後で毒が瓶内に仕込まれたとすれば、毒の入れ物を犯人は必ず現場で所持していなければなりません。けれども、そんな容器を持つ人物は、先ほど申しましたように、誰もいなかったのです」
柿沼警部は恭助の見解を真っ向から否定した。
「弓削巡査部長――でありますが、恐れながら、発言をいたします、であります。
その入れ物自体が、とても小さなものであり、ひょっとして厳重なる身体検査を掻いくぐって、うっかり見逃されてしまった、という可能性は、全くあり得ないのでありますか?」
ずっと我慢をし続けてきた弓削巡査部長が、ついに耐え切れなくなって、口を開いた。
「なんだとお、この大ばか者めが! 身体検査は、警察の威信をかけて、厳重かつ慎重に行われたのだ。そのような入れ物を見逃すなど、あろうはずがなかろう。
この田舎警官めが……。数々に及ぶ無礼千万なる発言、もはや堪忍しがたし……。控えおろう!」
警部はブチ切れたように巡査部長を怒鳴りつけた。
「ははあ……。失礼いたしました、であります」
再び、忠一郎は一歩下がって土下座をした。
「毒を運ぶ入れ物って、実際にはどのくらいの大きさが必要なのかなあ?」
代わって恭助が質問をした。
「はい。なにしろ十人余りを苦しめた分量の容器ですからね……」
警部は、恭助に対しては、態度を和らげて答えた。
「たとえ有機リン剤系の農薬がどれほど劇薬だといったところで、少なくとも数十ミリリットルは用意しないと、今回のような惨劇は起こせません。料理用の計量スプーンのおおさじ一杯がおよそ十五ミリリットルですから、その数杯分に相当する農薬がワイン瓶に投与されたことになります。それを容器に詰めて運ぼうとすれば、入れ物の大きさは、手のひらで握る程度のサイズが、どうしても必要となるはずです」
柿沼警部がきっぱりと断言した。
「なるほどね。まさに竹筒の大きさがピッタリなんだね……」
恭助がうれしそうにうなずいた。
「さて、ぼちぼちこちらも用事がありますので、ほかに何か聞きたいことはありませんか?」
柿沼警部がちらりと壁時計に目をくれた。時刻は十一時五十分で、お昼休み前だった。
「そうだね。事件当日の弓削道夫会長と奥さんの足取りなんか、調べていないかなあ?」
恭助は少し間を置いてから訊ねた。
「ああ、ちょっとお待ちください。たしか、それなら調べてありますよ」
そういって、警部は机上に置いてあった資料冊子の一つを開いた。
「ああ、ありました。ええと、弓削道夫と妻の小夜子は事件当日の七月二十八日の午前中に、高山市にある奥飛騨建設の本社で、ああ、弓削夫妻が社長と副社長を務めているのですけどね、二人とも仕事をしとったそうです。午後になってから、まず道夫が神岡の仕事現場に立ち寄ってから先に帰る、といって、本社を出ました。小夜子の方は、四時まで本社で帳簿を調べていて、それから帰宅をしたそうです」
「夫婦が別々に帰ったのなら、移動の車はどうしたんだろう?」
「ああ、それは大丈夫です。会長は会社の車を使用して家へ帰り、小夜子が自宅の車で帰ったそうです」
「会長が帰った時刻は、正確に分かるかなあ?」
「弓削道夫が立ち寄った神岡の建設現場ですが、そこの社員の話によれば、道夫が建設現場を発ったのは三時半頃だったそうです」
「三時半かあ。ふーん。なるほどねえ……」
恭助が意味ありげにつぶやいた。
「ああ、それからもう一つだけ。守の母親の弓削志貴子の現在の居場所って分かる?」
思い立ったように、恭助が付け足した。
「志貴子ですか。たぶん調べればすぐに分かると思いますよ。ちょっとそこで待っていてください」
柿沼警部はそう告げると、部屋から出ていった。
帰りの車の中で、弓削忠一郎巡査部長は相変わらず恐縮しまくっていた。
「そのような高貴なお方とはつゆ知らず、本官が犯した無礼、無作法、横暴、狼藉の数々をどうかお許しください、であります」
「ああ、お巡りさん。繰り返すけど、あんまり気にしなくていいから。それより、運転に集中しようね……」
助手席の恭助は、自分の考え事に没頭しているようで、返事も適当に返している感じであった。
「弓削巡査、大丈夫ですよ。恭助さんは、所詮は、単なる恭助さんに過ぎないのですから……」
後部座席に座っている麻祐が、あきれ顔でため息を吐いた。
「そういえば、さっきの警部のお名前が柿沼だったけど、弓削巡査のおうちの庭にもすばらしい柿の木があったわねえ」
気を利かそうと、青葉が無理やりに話題を切り替えた。
「ああ、気付かれましたか。我が家自慢の柿の木であります。本官もちいさい頃には、何度もあの木に登りましたが、そのたびに父の忠達から叱られたものであります」
急に弓削巡査部長が饒舌になった。
「そうだ、木登りといえば……。本官はあることを思い出したのでありますが、ただ今からそのことを口外してもよろしいでありますか?」
「良いも悪いも、そんなの好きにしてよ」
恭助がさりげなくうながした。
「よろしいでありますか……。ありがとうございます。なにぶん、ふっと思い出したことでありまして、みなさんにとってつまらない内容だとまことに申し訳なく思ったのでありますが、許可をいただけたので、遠慮なくお話をいたします、であります」
弓削巡査部長のうれしそうな笑顔が、車内ミラーに映っていた。
「あれは、本官が小学三年生の時でありました。本官は現在三十三歳でありまして、逆算をすれば、今から二十四年前となりまして、つまり、細池毒果実酒事件が今から十九年前で、さらにそれから五年前でありまして、十九足す五イコール二十四の二十四年前、ということであります」
「要約すれば、父が村を去る直前に起きた出来事というわけですね」
麻祐が後ろからじれったそうに答えた。
「さすがは麻祐さん。頭の回転がお早いでありますね。まさにおっしゃる通りで、その出来事があってから一月も経たないうちに、守が村からいなくなったのであります」
「じゃあ、その出来事は何月の出来事だったの?」
恭助が巡査部長に目を向けた。
「たしか、十月のことでありました。そうです。高山の秋祭りを、本官の家族で見にいった後のことだったと、本官はしっかりと記憶しております。
その時、本官は楡の木に登っておりました。ご存知でしょうか。蓮照寺の墓地を下りてきたところに小さな祠があるのでありますが、そこに立っている楡の木であります。なにぶん、横方向に大きく枝葉を広げた見事な大木でありまして、村の衆はその木のことを布袋さまとお呼びして、崇拝しておるのでありますが、本官はまだ子供でありまして、そんなことまで配慮することができずに、平気で木登りをしながら遊んでいたのでありました。
楡の木の高い枝によじ登って下を眺めておりますと、まるで鳥になったような気分になりまして、とても心地よかったのであります。それに加えて、あの日は小春日和の穏やかな日でありまして、本官はうかつにも枝の上でうとうととうたた寝をしてしまいました。ふと気が付くと、木の下でなにやらやり取りを交わす声が聞こえてまいります。
声の主は、和尚さまとコウメイ先生でありました。お二人以外に、辺りに人の気配は全くありませんでした。お二人は話に夢中になっておられて、枝の上にいる本官には、全く気付いておりませんでありました。しかし、その内容が実に奇妙なものでありましたので、本官は今でもそのことを鮮明に覚えておるのであります」
「面白そうだな。何を話していたの?」
恭助が身を乗り出した。
「それは、こんな会話でありました。まず、コウメイ先生がおっしゃいました。
『昨晩、ホタルを見かけたぞい。下の茶畑を飛んでく一匹のホタルっちゃ』
すると、和尚さんが答えます。
『ほう、ホタルをなあ……』
すかさず、コウメイ先生が返します。
『それもなあ、昨晩だけじゃないぞ。その前の晩も、そのまた前の晩も、わしはホタルを見とるんじゃ』
『ほう、三日ものあいだ、毎晩欠かさずに見とるっちゃか……』
和尚さんは少々驚かれた様子でした。
『どうする――、お奉行さんに報告した方がええっちゃかのう?』
コウメイ先生の心配そうな発言に、和尚さんもしばらく考え込んでから、口を開きました。
『まあ、そうじゃなあ。その方がええじゃろう』
とまあ、こんな内容でありました」
忠一郎は話をいったん切った。
「ふーん、ホタル……か」
助手席にいる恭助が、両手を頭のうしろに抱え込んだ。
「なかなか謎めいた会話でありましょう。まず、『お奉行さん』という言葉が出てきましたが、実を申しますと、本官には心当たりがございます。この辺りには、江戸時代に富山藩が流通を取り仕切るために用意した西猪谷関所が設置されておりまして、おそらく、そこで務めていたお奉行さんを指し示しているのではないかと、本官はひそかに確信を抱いております」
「でも、江戸時代のお奉行さんに報告するって、どういうことさ?」
恭助がすかさず突っ込みを入れた。
「さあ、その辺の細かい議論となると、本官には判断が着き兼ねるであります」
弓削巡査部長はあっさりと引き下がった。
「しかしでありますね、そもそも下の里なんかにホタルが出るのでしょうか? 本官は、その点に関しましても、大いなる疑問を抱いております。
というのも、あそこには雨乞川こそ流れておりますが、ありゃとても清流と呼べるような代物ではございません。河原は土砂と砂利だらけで、四六時中水は泥炭で茶色く濁っております。それに、毎年氾濫を繰り返す、すこぶる質が悪い暴れ川なのであります。
ところで、みなさんはホタルの童謡をご存知でしょうか。『ほ、ほ、ほーたるこい。こっちのみーずは甘いぞ。そっちのみーずは苦いぞ』ってやつであります。まさにそんな感じで、ホタルっちゅう虫は、きれいな水があるところにしか見つからないはずなのでありますが、雨乞川はそんな童謡のイメージからは、はるかにかけ離れた様相を呈した川であります。
しかしながら、仮にコウメイ先生のお話が真実であるとするならば、お話に出てきたホタルは、ゲンジボタルではなくてヘイケボタルではなかろうかと、本官は考えております」
「ヘイケボタルだって?」
恭助の肩がピクリと反応した。
「そうであります。我々が通常ホタルと呼んでいる虫は、ゲンジボタルという固有種でありまして、そいつは清らかな清流でしか生息しない虫なのでありますが、それに対して、ヘイケボタルは、水が多少汚くても繁殖できる虫でありますから、雨乞川に生息するホタルがいるとすれば、それは必然的にヘイケボタルと結論付けられてしまうのであります。
もっとも、発光する光の強さとなると、ヘイケボタルはゲンジボタルにはとうてい及ばないのでありますが……」
「ヘイケボタルかあ……。なるほどねえ。
ふーん、そうか。はははっ、こいつは傑作だ……」
突然、恭助が堰を切ったように腹を抱えて笑い出したから、忠一郎と青葉と麻祐は驚いて、一斉に身を乗り出した。
「恭ちゃん、大丈夫なの?」
「はははっ、ヘイケボタルが飛び交う葛和村か。うんうん。そうだよ。これでつじつまが合う……。さあて、今回の捜査もいよいよ佳境へ突入したみたいだな。うふふっ。
はははっ。あははっ……」
心配して声を掛ける青葉を横目に、助手席の恭助は、いつまでもゲラゲラと止め処なく笑い続けた。