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18.診療所

 宮地久子の家の門を出た時、恭助のTシャツをくいくいと、うしろから麻祐がひっぱった。

「記憶の通りです。やっぱり私は現場の公民館にいたんですよ。そして、事件直後の恐ろしい光景を、目の当たりにしていたんです」

「どうやらそれが真実らしいね。たださ、だとすると、ちょいとおかしいんだよなあ」

 そういって、恭助は遠くを見つめながら何かを考え込んでいた。

「いったい何がおかしいのですか?」

 すかさず、麻祐が聞き返す。

「いいや、そのう……、なんでもないよ。気にしないで」

 恭助は気が抜けたようにつぶやいた。

「気になりますねえ。恭助さん、隠しっこはなしですよ。何がおかしいのか、はっきりいってください」

 麻祐が強引に催促した。

「えっ、そうか……。うーん。

 じゃあさ、まゆゆにひとつ質問をするよ。車を運転している自分の姿を、映像にして思い浮かべてみてよ」

「突然なんですか? ええ、想像しましたよ」

「その映像をさ、口で説明してみてくれない」

「ええと、フロントガラスに雨が打ち付けていて、私はワイパーを高速モードで動かしています。でも、前が見にくくって、スピードアップを怖がりながら、前のめりになって運転をしている自分の姿を想像しました」

「ふーん、そうなんだ。じゃあさ、青葉ならどんな自分を想像するの?」

「えっ、私?」

 突然振られて、青葉は一瞬戸惑う様子を見せた。

「うーん、私はペーパードライバーだから、運転している自分といわれてもねえ……」

「それじゃあ、自転車に乗っている自分でもいいよ。だったら想像できるよね」

「ええ、まあ。ええと、そうねえ。晴れた日に、川に掛かった小さな橋の上を、のんびりと自転車で通り過ぎている自分の姿を想像したわ」

「その時にさ、映像のカメラ視点は、どこになっているのかな?」

「カメラ視点ですって? ええと、橋を見上げる川沿いの小道からの光景になっているけど」

「つまりはさ、青葉が橋を自転車で横切るのを、橋の外側からカメラが映している映像を思い浮かべたんだよね」

「そういうことになるわね」

 恭助が確認したことを、青葉はあっさり認めた。

「恭助さん、それがいったいどうしたというのですか?」

「もう一つ、追加の質問だ。青葉もまゆゆも、いいかい?

 競技会場でカルタをしている自分の姿を思い浮かべてみてよ。どう、思い浮かべた?」

「ええ」

「まあ……」

「その映像を話してくれない?」

「先輩から、どうぞ」

「じゃあ……。私は思い浮かべたのは、対戦相手と向かい合っていて、互いに乗り出して頭がくっつきそうになっている状態で、読手の声を待っている自分の姿よ」

「つまりさ、カメラの視点は、青葉を試合舞台の横から映しているんだよね」

「そうね」

「まゆゆは?」

「私は……、自分の目線から見えている映像を思い浮かべました。

 前に並べた字札と、その向こうで構える対戦相手が畳に着けた両の手を見ながら、準備をしている自分の姿です」

「やっぱりそうか……。

 まゆゆの映像って、どちらも自分目線から見えている光景だよね。つまりさ、まゆゆの視点は一人称なんだ。それに対して、青葉の目線は、他人から見えている光景だから、三人称視点なんだよね。

 心理学的には、まゆゆのような癖を持つタイプを主観視型アソシエイト、青葉のようなタイプを客観視型ディソシエイトと呼んで区別しているのさ」

「たしかに、指摘されてみればそのような癖があることは認めます。じゃあ、どっちのタイプだったらいいのですか?」

「こいつはどちらがいいとかいう問題じゃないんだ。その人の性格を表す単なる一つのカテゴリーに過ぎないのさ。

 だけどねえ、実のところ、そいつがやっかいで悩ましい疑問を、俺の脳裏にもたらしてくれちゃっているんだよなあ……」

「よく分かりませんね。恭助さんが悩んでいることが」

「まあいいや。じゃあ、お次はコウメイ先生のところへ行ってみようよ」

 恭助は、さりげなく二人をかわして、すたすたと歩き始めた。


 村医者の恩田おんだ孝明たかあき――通称コウメイ先生の診療所は、宮地久子の家から葛輪川を渡り、弓削鉄男の家の前に当たるT字路の交差点を左へ折れて、葛和部落のメイン道路を下っていけば、十分ほどでたどり着く。

 T字路までやって来ると、公民館へのぼる右手の方向に、三歳の麻祐が弓削守といっしょに散歩中によじのぼっていたという、例の石垣が見えた。たしかに、三歳児がのぼってしまうには危なそうな高さだ。

 診療所へ向かって道路を下る三人の前に、これまた三歳の麻祐がお地蔵さんだと勝手に思い込んでいたあの赤ポストが現れた。そして、道路の向かい側に葛輪駐在所が見えている。

「そうだな。コウメイ先生に会う前に、弓削巡査部長とちょっと話を済ませておくか……」

 そうつぶやくと、恭助は交番へを進めた。


 交番の中には誰もいなかった。恭助はきょろきょろと周りを見回してから、いきなり大声を張り上げた。

「おおい、お巡りさーん。せっかく来てあげたのに、どっかにいないのー?」

「はいはい、なんでありますか?」

 奥の方から声がして、弓削巡査部長がひょっこりと姿を現した。しかし、恭助たちの姿を見るや、巡査部長は表情をこわばらせた。

「やあ、お巡りさん。これから診療所へ行こうと思っていたところだけどさ、ちょっと立ち寄らせてもらったよ」

 例のごとく、恭助がなれなれしく語りかけた。

「ああ、恭助さんでありますか……」

「さっそくだけどさ、協力してもらいたいことがあるんだよね。

 あれれ、どうしたの、お巡りさん?」

 弓削巡査部長の乗りが悪いので、恭助は話をいったん止めた。

「それがですね……、本官は、昨日みなさんとお話したあとで、特別な事情が生じまして。遺憾ながら、みなさんに協力することができなくなってしまったのであります。結論から申し上げますと、これはやむを得ない事情でありまして……、そのお……」

 恭助が一瞬混乱を来しているところを、うしろで控えていた麻祐が、まっ先に悲痛な声をもらした。

「そんなあ、巡査さんが協力してくれないなんて……」

「ああ、麻祐さんでありましたか。どうかお気を悪くなされないでください。こればかりは、若輩者の本官の力では、どうしようもないことなのであります」

「なんだい、結局のところ、上司からなんかいわれたってことか。ちぇっ、警察もどうかしているよ……」

 恭助が勝手な愚痴を唱えた。

「おそれながら、上司からの命令ではございません」

「じゃあ、誰の命令なのさ?」

「それは……、本官からは、申し上げるわけにはまいりません」

「つまりはさ、誰かから命令されたってことだね。毒殺事件の捜査に協力してはならないと」

「そうはいっておりませんが……、まあ、突き詰めれば、そういうことであります」

 巡査部長は恭助の主張をあっさりと認めた。

「仕方ありませんよ、恭助さん。残念だけど、巡査さんには巡査さんの事情があるのです」

 悔しそうに顔をうつむけたまま、麻祐が口を開いた。

「麻祐さん……。そのう、麻祐さんの辛いお立場を考えますと、とても残念なことではありますが。そのですね、本官も、ここで今後ともどもこの仕事を無事に全うしたいという、ささやかな願望を抱いておりまして、まことに申し訳ございませんが……」

 弓削巡査部長は丁寧に言い訳を並べた。

「大丈夫です。おおよその事情は察しいたしました。それでは、これで……」

 青葉が気をきかせて頭を下げた。

「ふん、これが村民のための正義の警察官がすることかい。ちゃんちゃら笑っちゃうぜ」

 まだ必要に食い下がっている恭助を強引に引きずり出して、麻祐と青葉は駐在所をあとにした。


 駐在所のある高台のガードレールから眼下を見下ろすと、すぐ先に葛輪診療所の白い建物が見える。個人経営のこじんまりした診療所である。

「なんだい。ちっとも頼りにならないじゃんか。なにが、本官の知り得たことは全部ご提供させていただきます、だよ。あれは全部嘘だったってことかよ?」

 恭助はまだ怒りがおさまらない様子だ。

「どこかから謎の圧力が掛かったみたいね。まあ、おおよその見当は付くけど」

 青葉も皮肉を込めつつ、ぼやきを入れた。

「先輩、仕方ありませんよ。巡査さんは、いい人だけど、所詮は、この村に雇われた一人の公務員なのですから……」

 麻祐はすっかりあきらめた様子だった。

「だからさあ、あいつは巡査じゃなくて巡査部長なんだって……。

 でも、これでかなり事態がやっかいになったな。ひょっとすると、村中に、俺たちに協力しないよう闇の圧力が掛かっちゃったのかもしれないよ」

 葛輪診療所の前まで歩いて来ると、正面の看板が目に留まった。診療時間が記されているけど、それによれば、本日の診療時間は五時までとなっている。ただ今の時刻は四時半だ。

 恭助がずかずかと中へ入っていこうとしたから、驚いた青葉が行く手をさえぎった。

「恭ちゃん、まだ診療の時間中だから、もう少しここで待ちましょうよ」

 すると、恭助は振り返って、あっけらかんと答えた。

「えっ、青葉。大丈夫だって。こんなド田舎の診療所なんて、閉店一時間前となれば、外来患者がピタリと途切れて、どうせ閑古鳥状態となっているに決まっているのさ」

 三人が診療所へ入っていくと、恭助の予測通り、待合室で待っている患者は誰もいなかった。

「ほらね、やっぱり」

 恭助が得意げにいった。

「診察ですか……?」

 受付の窓口にいる女性が、恭助に声を掛けてきた。年齢は五十前後のおばさんである。

「ああ、俺たちは患者じゃないんだよ。ええと、どう説明したらいいのかなあ。コウメイ先生が、もしも今の時間にお暇でいらっしゃるのなら、ちょっとでいいから個人的にお話を伺いたくて、はるばる遠くから、わざわざこちらまでご足労を掛けながら、まいりましたのですけど……」

 恭助なりに気づかっている言葉なのであろうが、うしろにいた青葉と麻祐は、思わず、まずいと顔をしかめた。

「まあ、なんてことを。先生はお忙しいのですよ。診療じゃなければ、さっさとお引き取りください」

 強い口調で、女性は恭助たちを追い返そうとしたから、慌てた恭助がわめき出した。

「あのお、コウメイ先生――、突然の訪問でご迷惑だとは思いますけど、俺たちはどうしても先生とお話がしたいのです。隠れていないで、出てきてくれませんかあ?」

「まあ、神聖なる病院内で大きな声を出すなんて……。さあ、もうお帰りください」

 窓口の向こうにいた看護服の女性が、血相を変えてこちらへ飛び出してきた。すると、奥の部屋の扉がさっと開いて、白衣を着た小柄な老人が姿を現わした。

「なんじゃい、でっかい声がしたかと思ったら……。

 おい、坊主――。今、わしの名前を呼んだかのう」

 それが、葛和村で唯一の医師である恩田孝明おんだたかあき氏であった。


「それで、坊主。お前、いったいわしに何を尋ねたいんじゃ?」

 コウメイ先生は気さくに近づいてきて、恭助に声を掛けた。優雅な白い口髭を蓄えており、年の割には、顔がテカテカとツヤびかりしている。

「先生、勤務時間中ですよ」

 窓口にいた女性が、間髪を入れず、医師に忠告をした。

「はははっ、ミズホさん、まあ、ええじゃんか。どうせ患者なんかだあれもおりゃせんちゃ」

 医師は看護士を軽く受け流した。

「もう、先生ったら、いつも適当なんだから……」

 看護士の女性は不満そうに引き下がった。

「なるほど、お前さんか。道夫がいっとった、学生と語る妙な坊主ってのは……」

「道夫さん?」

「ああ、道夫のやつ、昼間にわしのところまでわざわざ電話をかけてきてな、お前さんたちのことを、どうも怪しい連中だから、なにかを聞かれても無視をせいよ、とかいっとったっちゃ」

 隠し事であるはずの機密事項を、コウメイ先生は、いとも簡単に暴露してしまった。

「忠一郎巡査にも、きっと会長から、同じような電話があったのでしょうね」

 となりにいる青葉に、麻祐がそっと耳打ちをした。

「それより、この先生、相当におおらかな人間のようね」

 青葉はすっかりあきれ顔と化していた。

「ええ、本当に、先生ったらいいかげんな方なのよ。この前も痛み止めの薬が、ちょっとだけ倉庫から紛失しちゃったのだから……」

 青葉たちの会話が耳に入ったのか、看護士が青葉と麻祐に日頃のうっぷんをぶちまけてきた。

「あのう、そんなことが頻繁に起こっているのですか?」

 青葉が小声で看護士に訊き返した。

「しょっちゅうってわけじゃないけど、時々だったらあるわね。まあ、ここは田舎の診療所だから、管理もそれなりに大雑把ってことよ。ああ、このことは、絶対に外部へは内緒よ」

 人差し指を口元で立てながら、看護士は平然と答えた。それにしても、このようなマル秘話を軽々に、見ず知らずの赤の他人にばらしてしまうことが、閉ざされた平穏なる部落社会ゆえに、なのであろうか。

「十九年前に公民館で起こった事件っちゃな。ありゃ、ひどいもんじゃった。家内だけじゃなく、当時ここへ勤めとった看護士までもが、殺されてしまったからのう」

 恭助の要請に応えて、コウメイ先生は事件当時のことを思い出しながら、淡々と語り始めた。

「看護士のお名前は?」

「奈美香じゃ。宮地奈美香。若かったのに、ほんに気の毒なことじゃて。ほれ、そこの前の道をずっと上へのぼって行って、右に折れたところに、彼女の家があるっちゃよ」

「奥さんはどんな方でしたか?」

「家内か……。名はのぞみというんじゃが、ありゃ申し分ない女じゃったな。もともとわしの診療所につとめていた看護士じゃが、まあ、その、ひょんなことから縁ができてのう。結婚してからもずっとここで働いておったっちゃ。残念ながら、子はできんかったがのう……」

「先生は事件の当日は、現場の公民館にいらしたのですか?」

「ああ、あの日は会があるから診療所を早めに閉めたんじゃ。家内が少し仕事を済ませてから行くといったんで、わしゃ一人で歩いて公民館へ向かったっちゃ」

「その時の時刻を覚えていらっしゃいますか?」

「診療所を出たのが、たぶん四時半頃かのう。公民館へ着いたのが五時より少し前じゃったしな」

「おひとりで行かれたのですか?」

「ああ、そうちゃ。ところがなあ、公民館の手前までやって来ると、突如夕立が降り出してきてのう。そりゃ、ひどい雨じゃった。まさに村雨スコールっていうのが、あれのことじゃな。

 急ぎ足で公民館へ駆け込んだんじゃが、あいにく、戸口に鍵が掛かっておってのう。仕方がないんで、雨宿りついでに、ポケットに収めてあったウイスキーの小瓶を取り出して、ちびりちびり楽しんでおったら、しだいに心地よくなってきてのう。

 気が付いたら、守がそばに立っておって、やあ先生、すっかり出来上がっとるっちゃな、と、あいつらしい挨拶を交わしてきた。今何時じゃい、と訊き返したら、ちらりと腕時計を見てから、六時まで十五分前っちゃな、と返事が返ってきた。なんでもやつは、もう少しはよう来るつもりだったが、雨が降っとったんで、今になっちまった、とかなんとか、いっておったわ。たしかに、その時にゃ雨はすっかりやんどったっちゃな。

 それから、守が鍵を開けて、わしゃ奴の肩を借りながら、公民館の中へ入ったっちゃ」

「その時に守が取った行動は、覚えておられますか?」

「はははっ、実を申すと、気が付けば、わしゃ畳の間で気分よく寝とってなあ。途中、小夜子が公民館へやって来て、声がしたような気がするが、あまり細かなことは覚えとらんちゃ」

 そういって、コウメイ先生は薄くなった後頭部をポリポリ掻いた。

 このあと、恭助がコウメイ先生に、富岐の会が始まるまでに起こった出来事を思い出してもらおうと、さまざまな質問を試みたのだが、いずれも、コウメイ先生の返答が、たいていは覚えとらんの一言で片づけられてしまうもので、また、わずかに答えてくれたのも、これまでに恭助たちが聞いてきた数々の証言と矛盾をきたすものは、なにひとつ発見できなかった。

「そういえば道夫が演説している最中に、守がたしか大声でなにかわめいとったな。なにをいっとったんかは、よう聞こえんかったが。それから、乾杯の合図でみなが一斉に酒を飲みほしたんじゃ。

 その直後じゃて。ありゃ、むごい光景じゃった……。酔いなんか一変に醒めちまったわい」

「守が瓶の中になにかを仕込む様子はありませんでしたか?」

 恭助がいつもの質問を、コウメイ先生にも訊ねた。

「わしが座っとった場所は、あやつから離れとったからのう。よう分からんちゃ」

「そうですよね。それじゃあ、事件の最中に、なにか先生がお気づきになったことはありませんでしたか?」

「それがのう、どこから手を付ければいいのか分からずに、みなが混乱しているさなかのことじゃ。あろうことか、天使さまが舞い降りたんじゃよ」

「天使ですか?」

「真っ白なドレスを身にまとった、それは可愛らしい天使じゃったなあ……」

「白衣の天使……?」

「いや、看護士じゃなくて、西洋の絵画に描かれとるような、ほれ、羽が生えとる子供の天使のことじゃよ。

 突如ふすま戸から現れて、もがき苦しみながら倒れている村の衆を横目に、合間をよちよちと歩いてすり抜けながら、テーブルの周りをひとまわりしてな、ちょいと目を離した隙に、またふすまから外へ出て行ってしまったんじゃ」

「それはたぶん……。

 ええと、その天使の頭に輪っかは付いていましたか」

 その天使はここにいる古久根麻祐ですよ、と喉元まで言葉が出かかった恭助だが、それはどうにか踏みとどまった。

「いや、付いてなかったっちゃ」

「こほん。さまざまな人たちの証言から、おそらく、その天使は守の一人娘だったと思われます。宮地久子さんの証言によれば、その混乱をしている真っ最中に、守の母親の志貴子が、守の娘を連れて、公民館へこっそりやってきていたそうです」

「なんじゃい、そういうことじゃったんか。わしゃてっきり天使さまが君臨されたとばかり思っとったぞい」

「先生って、なかなかロマンチストですね」

「はははっ――。そうじゃ、もう一つ思い出した……」

 突然、コウメイ先生がポンと手を叩いた。

「なんかひらめきましたか」

「いやな、事件の直前に守が嫁さんを連れてクザワへ戻って来たんじゃが、戻って間もなく、娘っ子が熱を出してしまったらしくてのう。守め、嫁さんをもらっただけじゃなく、こっそり三歳の娘っ子までもうけておったんじゃからな、まったくけしからん奴っちゃ。

 それでな、守の奴め、わしの診療所へ連れて来ればいいものを、なにをためらったか、奈美香に娘をてもらったそうじゃ」

「宮地奈美香にですか」

「まあ、奈美香の家は守の家からそう離れとらんし、診療所よりもずっと近いからのう。それでも、奈美香が診療所へ事態を報告したから、わしは風邪をこじらしただけと判断して、奈美香に薬をくれてやったっちゃ」

「ただでですか?」

「なあに、かまわんって。もっとも熱が長引けば、守も業を煮やして診療所へ出向くじゃろうと、その時は思っとったがの」

「本当に先生はいつも適当なんだから……」

 横から看護士が口をはさんだ。

「どうせ守のことじゃから、嫁さんをめとっただけじゃなくて、娘っ子までおることを、村の衆にいっぺんにバレるのが恥ずかしかったんじゃろうって。あれで意外と人の目を気にするタイプっちゃからな、守は……」

「娘さんが風邪をこじらせていた時期が正確に分かりますかね」

「奈美香がわしに守の娘のことを告げたのが、ええとたしか、水曜日じゃったなあ」

「つまり、事件のちょうど一週間前ですね。事件が起こった一九九九年の七月二十八日が水曜日だったそうですから、奈美香さんが先生に守の娘のことを告げたのは二十一日だったことになります」

「そうか、なるほどな」

「その後、まゆゆは――、いや、娘さんはよくなったのですか」

「奈美香が、あれは事件の前日じゃったかのう、わしに申し出て来てな、娘の熱が昨日になってようやく下がってほっとしたと、守から礼をいわれたそうちゃ。

 守のやつめ、娘の命を何とか助けてくれと、奈美香に土下座までして泣きついたそうじゃな。そんなに心配じゃったら、直接わしのところへ来ればよかったのにな。はははっ。じゃから、奈美香のやつも必死に看病しとったそうちゃ。まあ、いざとなったらわしも守の家へ無断で往診に行くつもりじゃったがのう」

「つまり、娘さんは七月二十一日から二十六日までの間、熱を出していたってことですね」

「まさか、看病しとった奈美香の方が、そのあとすぐに死んでしまうとはのう……」

「人間の命なんて、実にはかないものです」

「そうか、あの時の天使が、その守の娘じゃったんか。ははは、全く気付かんかったわい」

 コウメイ先生は、頭をかきつつ、笑っていた。

「そういえば、奈美香さんが亡くなったのは、事件直後ではなくて、しばらく合間があったそうですね」

 恭助はさりげなく質問を切り替えた。

「奈美香は、事件当日は神岡の病院へ搬送されたが、どうにか最悪の危機は回避できそうだと、そこの担当医師が診断をしたそうじゃ。ところが、奈美香の奴め、命を取り留めたといわれた途端に、自宅療養を申し出て、翌日には強引に帰宅しちまったそうちゃ。あれでなかなか頑固な娘じゃったのう。

 それから、数日後に容体が悪化して、死んじまったんちゃ。ほんに残念なことじゃて」

「奈美香さんが亡くなった日はいつでしたか?」

「久子が死んどるのを見つけたのが、八月一日の朝じゃな。わしも電話で呼び出されて、すぐに駆け付けたが、もう手遅れじゃった。その時の時刻は朝の九時前じゃったが、実際は、真夜中のうちに亡くなっとったようじゃな。なあに、遺体を見りゃ、そんなことはすぐに分かるっちゃ。まあ、警察も同じようなことを結論付けとったみたいじゃがな。

 いったんは回復したんじゃがのう。まあ、毒っちゅうもんは、ぶり返すことが往々にあるってことっちゃな。決して最後まで油断をしちゃならんもんじゃて。

 さあて、もうそろそろよろしいかな?」

 そういって、コウメイ先生は、診察室へ向かって、青葉と麻祐の合間を突っ切ったのだが、そのすれ違いざまに、二人は同時にきゃっと悲鳴をあげた。

「はははっ、姉ちゃんたち、いいケツをしておるのう。まあ、減るもんじゃなし。今の坊主との長ばなしの代金ちゅうことで、大目に見てくれっちゃ」


 葛輪診療所から出た時に、麻祐が堰を切ったように愚痴をこぼした。

「あの、エロじじい。最後に隙を見せたのが失態でした」

「どうしよう……。いきなりお尻を触られちゃった……」

 青葉の方は少しショックが大きかったみたいである。

「先輩、気にしなくてもいいですよ。別におっぱいをもまれたわけでもなし。棺桶に足を突っ込みかけたじじいに、チャリティのボランティアサービスをしてやったと思えば、それで踏ん切りがつきます。

 それにしても、じじいの証言によれば、当時の私は熱を出して寝込んでいたみたいですけど、その記憶はまったく覚えがないのですよねえ」

「無理もないさ。なにせ三歳の時の記憶だもん」

 恭助があっさりと答えた。

「でも、とにもかくにも、公民館のテーブルの下で、私が見たものさえ思い出せれば、この事件の真相が突き詰められるような気がするんですよ。だから、ずっと思い出そうと努力をしているんですけどねえ……」

「まゆゆ、どんまいさ。そのうちにふと思い出すかもしれないよ」

 恭助がさりげなく麻祐をなぐさめた。

「でも、恩田医師のお話から、守さんがとてもやさしい人物だったように思えてきたわ。麻祐ちゃん――、あきらめずに最後まで頑張りましょうね」

 少し落ち着きを取り戻した青葉が、麻祐に声を掛けた。

「先輩、恩田医師なんて呼ばなくてもいいですよ。あいつは単なるエロじじいです!」


 ふと見ると、道路の向こう側に弓削巡査部長が立っていた。巡査部長は恭助たちを見つけると、手を大きく振りながら近づいてきた。

「お待ちください。みなさん……」

 全力疾走をしてきた巡査部長は、息をぜいぜい切らしていた。

「本官が間違っておりました。会長さんから、恭助さんたちに協力するようなら、この駐在所で働けんようにしちゃると、警告をされまして、なにしろ本官はこの村が好きでありますから、会長の指示に従わざるを得ないと勝手ながら思っておりましたが、今はっきりと分かりました。本官にとって、ここで働けることなんかよりも、ずっと大切にしなければならないものがあるってことを!」

「へっ、それで、なにを大切にしたいのさ?」

 巡査部長の剣幕に押されて、恭助がたじろいだ。

「それはですね――、仲間の信頼に答えるということであります。

 本官にとってみなさんは、本官を信頼してくれる、大切な仲間であり、大切な友達なのであります!」

「はははっ、なんかシリアスになってきちゃったね。でも、まあいいや。大歓迎だよ。弓削巡査部長――」

 恭助が手を差し伸べた。

「本官を許していただけるのでありますか? 光栄であります。みなさん、本当にありがとうございます……」

 感極まってむせび泣く巡査部長の姿を見ながら、麻祐と青葉は、顔を見合わせて、にっこり微笑んでいた。


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