17.鉄砲水
「父は人間じゃないですよ。小学校の先生から叱られたくらいで、いったい誰が、村人の全員に復讐をしようなんて考えますか?」
蓮照寺の境内から出てきた時、麻祐は自暴自棄となったみずからの気持ちを抑え切れずにいた。
「麻祐ちゃん――。きっとお父さんには、文章の中では書かれていない、なんらかの事情があったのよ」
青葉が無理やりに言葉を選んで、麻祐をなぐさめた。
「そして、その忌まわしい父の血は、私の身体の中にもドクドクと流れているのです。ちょっと感情的になるだけで、なにをしでかすか分からない超危険人物――。ふふっ、これじゃあ、婚約を破棄されたって、なんにも文句なんかいえやしませんよね」
青葉がやり場に困って恭助に目を向けると、恭助はボーっと立ち止まっていて、まるでこちらなんか気にしていないかのように、腕を組んでなにやら考え込んでいた。やがて、青葉の視線に気付いたのか、ハッと顔をあげた恭助は、こちらへゆっくり近づいてきた。
「まだ真相が確定したわけじゃないよ、まゆゆ。説明が必要なことがいっぱい残されている。
例えばさ、お父さんの最後の言葉を書き記したあのノートなんだけど、なにか変わったことに気付かなかったかい?」
「いまさらノートがどうなっていようと、父が凶悪な毒殺魔であるという事実は、曲げようがありません」
麻祐が投げやりに答えた。
「まあ、そういわずにさ」
それでも恭助はしつこく迫ってきた。
「恭ちゃん、わざわざそんなことを聞いて、なにか意味があるの?」
青葉が恭助をとがめた。
「なあに、ちょっとした脳トレさ。さあ、お二人さん、思い出してみてよ。あのノートをね」
「大きさはA4判。ごく普通の綴じノートよね」
まず、青葉から答えた。
「見開きから数ページに渡って遺書が書かれてありましたけど、それ以降は何も手が付けられておらず、まっさらで新品同様なノートでした。あっ、それから、まるで書き手の几帳面な性格を表すかのように、丁寧で読みやすい文字が書かれてありました。あれはきっと万年筆の文字でしょう。線の太さがなめらかに変化していましたからね」
青葉に続けて、麻祐も意見を述べた。
「でも、表紙が雨で濡れたために、相当ふやけていたわよね」
青葉が再度付け足した。
「そうですね、先輩。中の用紙はきれいですけど、表紙だけはくしゃくしゃでしたね。それに、風で飛ばされないように上に石が置いてあったと、和尚さんがいっていましたけど、その石の痕跡は、表紙にはっきりと残されていました。なぜなら、表紙の四隅は日光の紫外線を浴びてほんの少し色が落ちていたのに、中央部は買ったままのきれいなピンク色だったからです」
「そうよね。お父さんが自殺をされてから遺体が発見されるまでに、三日が経過していたそうだから、石が置かれていなかった部分だけが色あせてしまったのね」
青葉が麻祐に賛同した。
「それに、ちょっと細かい話になるけど、石の下になっていたはずの表紙の中央部こそが、実は問題の核心なのさ。弓削守の遺書となったノートの表紙の中央部は、色は紫外線の影響を受けなかったから新品そのままのピンク色だったのに、同時に、雨に濡れてふやけてねじ曲がっていたんだよね?」
恭助が横目で確認をした。
「そうですね。たしかにノートの表紙は、全体的にふやけていました。でも、場所が山頂だし、三日も経てば、雨に濡れてもおかしくはないでしょう?」
恭助の主張を、麻祐はあっさり認めた。
「でも、ノートの内部の用紙や側面、それに裏表紙はふやけていなかった。結局、雨は表紙だけを濡らしたことになる」
恭助が再度問い掛ける。
「それも別に不思議ではありません。ノートが表紙を上にして地面に置かれてあれば、表紙だけが雨に濡れてふやけますよ」
麻祐がそれに平然と反論した。
「でも、おかしいわ。だって、ノートの上には石が置かれていたのだから、石の下になっていた部分は、そう簡単には雨に濡れなかったはずよ」
青葉が甲高い声を発したが、それに対しても、麻祐は淡々と受け答えた。
「きっと、ノートが地面に置かれた時から、山頂にそれなりの雨が降っていたのですよ。父はいったんノートを地面に置いてから、ノートが風で飛ばされて、なくなってしまうことを気にした。だから、父はおもしになる石を近くから探してきて、ノートの上へ乗せたのです。でも、探しているわずかの間に、ノートの表紙全体が雨で濡れてしまったわけです」
「その通りだよ、まゆゆ。お父さんが遺書のノートの上に石を置いた時には、おそらく雨が降っていたんだろうね。それで、ノートの表紙が雨で濡れてしまった。そのあとで天候は回復して、三日の時が経過して、石の下になっていた部分は色あせずにふやけてしまったけど、石が置かれなくて日光に照らされた部分は色があせた上にふやけてしまったんだね」
「そうですよ。その説明ですべてが納得できます。なんら問題はありません」
麻祐はあっさりと結論付けたが、青葉がビクッと肩を震わせた。
「ああ、でも……、やっぱりおかしい。遺書の文章では、お父さんが自殺をしようとした瞬間に、朝陽が昇っていた、とも書いてあったわ!」
「その通り。たしか、雲ひとつ無き早朝にて――、だったよね」
恭助が笑顔で付け足した。
「つまり、父が石を置こうとしていた時に、雨は降っていなかったというのですか?」
「いや、それじゃあ表紙がふやけてしまった説明が付かない。とどのつまり、真相はその逆なのさ。
お父さんが自殺する直前、ノートの上に石を置いた瞬間には、雨はたしかに降っていた!」
「でもそれでは、父が書いた文章と矛盾してしまいますよね?」
口をポカンと開けながら、麻祐がいった。
「やっぱり、恭ちゃんの主張は無理がないかしら。遺書の万年筆で書かれた文字は少しも滲んでいなかったし、そのページの用紙もふやけてはいなかった。もしも雨が降っていたのなら、文字を書いているうちに用紙が濡れてしまうはずよ」
青葉も首を傾げた。
「そして、現場には、そもそも万年筆が落ちていなかった!」
恭助が得意げに締めくくった。
「恭助さん。いったいどういうことですか? 矛盾だらけじゃないですか?」
「つまりさ、遺書のノートの上に石が置かれた時には、山頂には雨が降っていた。その雨量は、ちょっと石を探している間にノートの表紙全体を浸してしまうほどだったけど、同時に、ノートの内部や下面にまでしみ込むほどにはひどくなかった。
一方で、ノートに書かれた万年筆の文字にインクの滲みはなく、おまけに、付近に万年筆が落ちていなかった。さらには、遺書を書き終えた時に雨が降り出したというのなら、少なくとも、雲一つ無き早朝、の文章を残したことは明らかにおかしい。
だけど、ノートに書かれた文字が、弓削守が山頂で書いたものではなくて、山へ登る前にあらかじめ書かれてあったとすれば、すべての矛盾がいっきに解消される……」
「まさか、あの遺書は、父が書いたものではなく、父をおとしめるために偽造されたものだってことですか?」
「それもまあ、一つの解答だね。少なくとも、ノートの筆跡鑑定結果を問い合わせてみる価値はありそうだな」
そう告げて、くるりと後ろを振り返ると、恭助は満足げな表情で、スタスタと歩き出した。
墓地の端っこまでいくと、北の方角へ向かって下っていく小径があった。竹林の合間を突き抜ける曲がりくねった狭い砂利道で、車が通行するには無理があるが、人が歩くには心地よい散歩道といった感じである。右の斜面に小石をすき間なく積み込んだ石垣が作られていて、しまいのほうは地面が石段となっていた。それを下り切ると、パッと舗装道路に出くわすが、そこは車がすれ違うのがやっとの、のどかな田舎道であった。小径を出たところから真正面に、祠がポツンとたたずんでいた。祠は、扉が観音開きとなっていて、中に子供が隠れられそうなくらいのそこそこの大きさがあった。祠の背後には、扇子が開いたように見事に枝葉を広げた一本の巨木が、威風堂々とそびえ立っていた。
「こいつはまた立派な木だねえ。いったい何の木だろう?」
「分かりません。でも、いかにも御神木って感じの、威厳がある木ですね」
恭助と麻祐が、いつもの何気ないやり取りを交わしていた。
恭助は道路を上っていく方向へ進路を取った。ここら一帯は民家もまばらだ。道路を取り囲むヒノキ林のすき間から、はるかかなたに、葛輪川の清流と部落の中心地が見えた。道路わきに赤い毛糸で編まれたよだれ掛けと帽子を身にまとった六体の地蔵が並んでいた。思わず立ち止まって、よく眺めてみると、みんなひとりひとり顔が違っていて、それが妙におかしかった。歩き続けてかなりの高台までやってきたところが、Y字路となっていた。後ろを振り向けば、丸っこい古狐山が見える。前方の眼下には、こちら側へぐぐっと曲がり込んだ翡翠色の葛輪川が、静かに流れていた。三人が公民館へ続く道路を下っていくと、川のある側の土地に一軒の家があった。表札を見ると『宮地』となっている。おそらく、被害者の一人の、宮地奈美香の実家が、ここなのであろう。
「もう十九年も経ってしまったんですねえ。奈美香が殺されてしまってから」
玄関に現れた宮地久子は、疲れ切った表情で、恭助たち突然の訪問者を向かい入れた。顔には深いしわが刻まれ、頬は痩せこけており、明らかに地毛の色ではない茶色い髪のつむじ付近には、まるで河童のお皿のようにまばらに白髪が生えていた。
「お気の毒です。その時の出来事を、なにか思い出せましたら、お話しいただけないでしょうか?」
恭助が丁寧にうながすと、安心したように表情を緩めて、久子はとつとつとしゃべり始めた。
「奈美香は、事件の当日まで健康そのものでピンピンしていたのですよ。本当に恐ろしい。あれは一瞬の出来事でした。人の命なんて儚いものですよね。いまだに信じられません。
ええ、公民会で懇親会が開かれた日のことは、今でもよく覚えておりますわ。あの日は、昼過ぎに奈美香が外出していたのですけど、帰ってきて、いま、すぐそこで鉄男に出会って立ち話をしてきたわ、といっていました。なにを話したの、と訊ねたら、たわいもない話よ、と返ってきました。でも面白いことが分かったわ、ともいっていました。その直後に私は買い物へ出かけましたから、結局何が面白かったのかは聞かずじまいになってしまいましたけどね」
「それって何時頃の話ですか?」
「三時です。買い物へ出かけた時は、まだ外がだいぶ暑かったですから」
「ふーん、なるほどねえ。それから?」
「買い物から帰ったのが四時半頃でした。懇親会があるからあの日は食事を作る必要もなかったのです。お風呂を沸かして入ってから、身支度を整えていたら、結構いい時間になってしまって。それでも七時過ぎには奈美香といっしょに公民館へ着いておりましたのよ」
「富岐の会には、毎年ご参加されていたのですね」
恭助がたしかめるように訊ねた。
「いえ。そもそも私たちは懇親会とかが苦手で、それまで一度も顔を出したことはありませんでした。あの年はたまたま守が村へ戻って来て、なんでもお嫁さんを披露するとかで、どうにも断り切れませんでしたの。それに、奈美香も鉄男からしつこく誘われまくっていたみたいですね」
「公民館でなにか気付いたことはありませんか?」
「さあ。私たちが公民館に着いた時には、おおよその支度が整っていましたけど、別に気付いたことなんていわれても……」
「問題のぶどう酒の瓶は、見ましたか?」
「もちろん見ましたわ。ああ、恐ろしい……。いまでも残像が目に焼き付いているくらいです」
「瓶は最初からテーブルの上に置いてありましたか?」
「いいえ。少なくとも私たちが着席した時には、テーブルにはありませんでした。懇親会が始まった直後に、会長さんが演説を始められたのですが、それによれば、ぶどう酒は会長さんがサプライズで用意したとのことでした。でも会が始まる前から、集まった衆は、今年のぶどう酒はなんじゃろうな、なんてひそひそ話を交わしていましたから、あんまりサプライズにはなっていなかったみたいです」
「ぶどう酒の瓶を最初に見たのは?」
「演説の途中、会長さんが、皆さんにサプライズプレゼントがあります、といわれた直後に、守が台所へ行って、ぶどう酒を持ってきました」
「そのあとは?」
「守が、栓抜きがない、と大声で喚き出しまして。まだ、会長さんのお話の最中でしたのよ。それから守は、テーブルの上に置いてあったコルクの栓抜きを見つけて、たまたまそれが私の目の前に置いてありましたから、そいつをよこせ、といってきて、私は慌てて栓抜きを取って、彼に手渡しました」
「ええと、年上の方へ向かって、よこせ、といったのですか」
「まあ、守っていう人はそういう人です。ざっくばらんというか、無頼というか。もちろん本人に悪気はありません。その時も別に無礼だったとは、私は感じませんでした」
「その時のコルク栓ですけど、あらかじめ開けられていた痕跡はなかったですか?」
「開けられていた痕跡ですって?」
「そう。コルク栓はその瞬間に開けられたものなのか、あるいはもっと前から開いていたのか、ということです」
「私は、なんとなくですけど、その瞬間に開けられたとばかり思っておりました。
ああ、そういえば……、栓の外皮というか、なんていったらいいのかしらね。瓶の口の周りに普通は付いているはずのラップですけど」
「キャップシールですね」
恭助が呼び名を告げた。
「そうです。守が持ってきた瓶には、それがすでに取られてありました」
「だけど、コルク栓は開けられてはいませんでしたよね?」
「ええ、そのように思いますけど」
「たとえば、コルク栓を開ける時に音がしませんでしたか」
「さあ、あまり覚えておりません」
「そうですか……」
恭助が残念そうにうなだれた。
「ああ、でも、ポンと音がしたような気もします。なにしろ大昔のことだから、かなりあいまいな記憶ですけど、ええ、たぶん間違いないです。守に栓抜きを渡して少し間をおいてから、一瞬、ポンと乾いた音が、たしかに鳴りましたわ」
「それはたしかですか?」
「うーん、たしかかといわれると、はっきり断言はできませんけど」
久子はあいまいに答えた。
「そうですか……。では、そのコルク栓はそのあとどうなっていましたか」
「そうですね、どうだったのかしら?」
「守が栓を抜いたあと、栓抜きとコルクはどこかに置かれたはずですよね。覚えていませんか?」
「さあ? 覚えていません」
「そうですか。それじゃあ、栓を抜いた直後に、守が瓶の中へ何かものを投与する仕草がなかったですか?」
「守が瓶に毒を入れたかってことですか?」
「そうです」
「うーん、分かりません。でも、私がいた場所は守からそんなに離れてなかったですけど、守にはそのような素振りはなかった気がします。守は、極めて自然な流れで、女衆一人一人のコップにぶどう酒を注いでいきました。私はその時肝臓の調子がよくなかったので、お断りいたしましたけど、奈美香は注いでもらっていましたわ。守はあれで結構いい男でしたから、奈美香に限らず、ほとんどの女衆は、守が自分のコップにぶどう酒を注ぐのを、うっとりしながら見つめていました」
「おばさん以外の女性全員に、ぶどう酒がふるまわれたの?」
「ええと、薬屋の桐子が断っていました。彼女は私のちょうど前におりました。あともう少し飲まなかった人がいたかもしれません。でも、たいていの女衆は注がれていましたわ」
「そのあとで乾杯が?」
「そうです。会長さんの挨拶が無駄に長くて面白くなかったから、みんな終わるまで焦れてしまって、乾杯の合図がされた途端に、ほとんど全員が目の前にあったコップのぶどう酒を一気に飲み干してしまったのです」
「なるほど、結果的にそれが大惨事を生んでしまったというわけですね……」
恭助がうなずいた。
「奈美香はかなり苦しそうだったけど、意識ははっきりしていました。私の呼びかけに目がかろうじて反応していました。だから、あの瞬間は、むしろ他の人の方が心配でしたわ。中には意識があるのかないのか判別ができない人もいっぱいおりました。みながすごい奇声を発して、のたうち回りました。本当に悲惨な光景でしたわ」
「お察しいたします」
「全く恨めしい限りです。主人を葛輪川の鉄砲水で失って五年も経たなかったのに、今度は娘の奈美香が毒殺されてしまうなんて……」
そういって、久子は両手で顔を覆った。
「ご主人は水害でお亡くなりになったんですか?」
「そうです。あれもたしか真夏の暑い季節でしたわ。今まであったこともないほどのものすごい大雨が降って、すぐそこを流れていた葛輪川の堤防が決壊したのです。それまで葛輪川がうちの前で氾濫したことなど一度もありませんでしたけど、あの雨は特別だったのでしょうね。茶畑を心配した主人が、大雨の中、ひとりで様子を見に外へ出かけましたが、いつになっても戻ってきませんでした。二日後に主人の水死体が見つかりました。下地区の方まで流されていたそうです……」
「そうですか。今でこそ、おうちの前には立派な堤防が築かれていますけどね」
恭助は気を利かしたつもりで発言をしたのだが、久子はむしろ気を悪くしたみたいだった。
「違います。主人が亡くなったのは、あの堤防が築かれた後のことです。ですから、あれだけ立派な堤防であっても、受け止められないほどの豪雨だったということなのでしょうね」
「堤防が築かれた後だった?」
「そうですわ。堤防が築かれる以前、郵便局やバス停がある村の中心地区は、時々川が決壊してしまうことがありました。でも、そんな時でも、うちの前の川は決して氾濫しなかったのです。だから、主人は本当に運が悪かったと思いますわ。今さらぼやいても仕方ありませんけどね。主人はとてもいい人でしたのよ。遺体を見た時、奈美香は呆然と地面にひざまずいて、しばらくの間、動くことができませんでしたから」
「そうなんですか……」
「元々うちの茶畑は、特別に美味しいお茶が取れるということで、村の中でもとても評判がよろしかったのです。でも、水害に遭ってからは、土地は荒地と化してしまい、それからまったく手が付けられていません。もう元通りの畑に戻すことなど到底できませんわ」
そういって久子は寂しそうにうつむいたのだが、やがてなにかをひらめいたのか、下げていた顔をすっと上げた。
「そうですわ、大事なことをいま思い出しました。懇親会でみなが苦しんでいるさなかに、あいつが公民館へ来ておりました」
「あいつ?」
「志貴子です」
「志貴子って、守のお母さんですか?」
「そうです。あいつは会には出席していなかったことになっていますけど、実際は、あの混乱の瞬間に実は公民館へ来ていて、部屋の廊下側の戸口から中をそっとのぞき込んでいたのですよ。
その時の目つきの不気味さといったら……。ええ、今にして思えば、何か良からぬことをたくらんでいたとしか思えない、悪意に満ちあふれたとても恐ろしい眼でしたわ」
「どうしてそれがお分かりになったのですか?」
「廊下に立っている志貴子を、私がじかに見たからです!」
「ええと、その時、志貴子さんはどうされましたか?」
「それが、救急車や警察がやってきた時には、もういなくなっていたのです」
「すると、いったんは顔を出して、混乱の様子を見て、また帰ったということですか?」
「そうだと思います」
「どうして、彼女はいったん顔を出して、それから帰ったんですかねえ」
「それは、事件に何らかの関係があったからだと思います」
「本当に志貴子さんでしたか? もしかして、見間違いじゃないですか」
「絶対に見間違いなどではありません。いっしょに守の子供も連れていましたわ」
「私を連れていたですって?」
思わず後ろにいた麻祐が反応してしまったが、話に夢中になっていた久子はそれには気付かなかったみたいであった。
「そのお子さんって、どんな感じでしたか」
「可愛らしいドレスをきた三歳くらいの女の子です。廊下からとことこと部屋の中へ入ってきて、たくさんの人間がもがき苦しんでいるのに、ちっとも怖気づくことなく、テーブルの下へさっともぐりこんでしまいました。結局最後は、志貴子が連れて帰ったんじゃないかと思います」
「志貴子さんは、今どこにいらっしゃるかご存知ですか?」
「さあ、知りませんわ。志貴子は事件の後、しばらくは村にいましたけど、やがて村を去りました」
「村を去った? どうして」
「ふん、どうせ……、息子が凶悪殺人犯だから、村には居づらくなったのじゃないですか?」
そういって、久子はかすかに口元を緩めて笑っていた。