16.蓮照寺
蓮照寺の境内へ続く道を上っていくと、手前に見える小高い丘に、広大な墓地が広がっていた。葛和村の住民たちの共同墓地なのだろうが、中央にひときわ目立つ大きな観音像が立っている。
穏やかな表情で墓地の全域を静かに見守っている観音像は、恭助の背丈ほどもある蓮の台座の上に乗っかっていて、てっぺんまでは四メートルくらいの高さがあった。緻密で精巧な彫刻があちこちにほどこされており、はだしの足の指には爪までがきちんとかたどられていて、結い上げられた髪の毛は、その一本一本が丁寧に彫り込まれていた。左の手のひらをおごそかにこちら側へ向けていて、右手は思わし気に下方へだらりと垂らしていた。美しく装飾されたきらびやかな王冠と首飾り。地面まで垂れ下がる長い袖を持つ優雅な着物をまとい、さらにその上に腰巻きを巻いていた。
墓地には誰もいなかったが、地面に生えている鬼橙の実は、オレンジ色に少しずつ色づき始めていた。どれもこれもが同じようなうす鼠色をした墓石が、たくさん並んでいる。なかにはかなり古いものがあり、長年の風雨にさらされて縁がぼろぼろとかけていたり、少し傾いて立っているものも、いくらかあった。花立に添えられた草花は、どれもがみんな茶色くしなびて、枯れていた。あまり人はおとずれていなさそうである。
ほとんどの墓石の背面に、亡くなった人の名前と、亡くなった日付が、刻み込まれてあった。
「墓標に故人の命日が彫ってあるけど、ここにある墓と、あそこにある墓が、平成十一年の七月二十八日になっているから、例の事件の被害者ってことだね。名前は……、なるほどね、弓削小夜子と、恩田のぞみだ」
後ろ手を組んでぷらぷらと歩く恭助が、ぼんやりとつぶやいた。
「こっちにもあるわよ。平成十一年七月二十八日のお墓――、亀井ゆり子さんのが……」
ちょっと離れた場所でポツンとたたずむ墓石の前にしゃがみ込んだ青葉が、こっちを向いて、右手を振った。
「なんともやるせない気分になるよな。同じ命日が記された墓が、いくつも並んでいるんだからさあ」
恭助がぼやいた。
「宮地奈美香のお墓がありました。ここです。命日は平成十一年八月一日になっていますね」
恩田のぞみの墓から三つとなりの質素な墓を、麻祐が指差した。
「へえ、事件から三日後か……。ええと、ちがうや、四日後だね」
恭助は指を折り曲げながら、数を確認した。
「治療の甲斐もなく、四日間も苦しんでから、亡くなったのね」
青葉がポツリとつぶやいた。
「恭助さん、父のお墓はどこかにありませんかねえ? さっきから、一生懸命探しているんですけど」
きょろきょろと首を振りながら、麻祐は墓地のあちこちを歩き回っていた。
「まゆゆ、お父さんのお墓は、おそらくここにはないよ」
恭助が静かにいった。
「えっ、どうしてですか? 北海道には母のお墓しかないのだから、父のお墓はここになければなりませんよね?」
「それは、そうだけど、ええと、なんというかな。この村の住民たちが、お父さんのお墓をここへ設置することを、たぶん認めないってことだよ。なにしろ、弓削守は、この村を地獄のどん底へ叩き落した凶悪犯人なのだからね」
申し分けなさそうに、恭助が説明した。
恭助が背後を振り返ると、眼下の木々の向こうを流れる高取川に、国道の赤い鉄橋が掛かっており、そのはるか向こうに、まん丸くてポッコリとした小高い山が見えた。あれがきっと、古狐山だ――。
蓮照寺の住職は円寂という坊さんで、一目で、かなりの年齢を召していることは分かるが、しわしわの穏やかな笑顔の奥に、強い意志を感じさせる鋭い眼光は、いまだ健在であった。
「名古屋の学生さんたちか。ようこんな山ん中へやって来たっちゃなあ。公民館で起こった事件ちゃな。もう十九年になるんかのう」
白い僧服をまとった住職が、座敷へ恭助たちを招き入れると、うしろから若い僧侶が出てきて、三人に座布団を用意した。恭助たちと同じくらいに見える若い僧侶であったが、そのあと、すぐに部屋から出ていってしまった。
「毒を飲んだ時の症状、なんていわれてもなあ。まあ、あんたらもその場におったら分かるが、あんなもんを冷静に見ていられる者などおりゃせんちゃな。そりゃあ、ひどいもんちゃ。そこらじゅうに反吐をまき散らして、ところかまわずもんどりうって、転げまわる。それが十人くらいおったっちゃからなあ。まあ、とにかく、手の付けようがなかったってことっちゃ」
「和尚さんは公民館へはいつ行かれましたか?」
「あの日は七時よりはだいぶ前に寺を出とったから、公民館へ着いたのは、七時十分頃かのう。ちょうど道夫とばったり出くわしてな。いっしょに中へ入っていったっちゃ。そん時にゃ、もうかなりの衆が集まっとったのう。
それから会が始まろうとする間際に、ゆり子がやってきて、申し訳なさそうな素振りも見せずに、相変わらずのふてぶてしい女じゃったなあ、すぐあとで酒屋夫婦が息を切らせながら飛び込んできおった。なんでも、景子が仕事を終えるのに手間どうて、ぎりぎり間に合ってよかった、とかなんとかいっとったな」
一人、見たことのない女っ子がいて、ほかの衆からぽつんと離れて、肩すくめて座っとったんで、気になって声をかけてやったら、守の嫁さんじゃっちゅうから、そんな固くなっとることはないっちゃ、といってやったがな。まあ、最後まで嫁さんは緊張しまくっとったなあ」
そういって、円寂和尚は、遠くを見るような優しいまなざしで、恭助たちの顔を順番に見渡していったが、麻祐のところで視線がピタリと止まった。しばらく麻祐の顔をじっと見ていた和尚の眼球が、急に大きく開いた。
「あんたあ、以前におうたことがあったかなあ」
「いえ、私はここへ来たのが初めてですから」
麻祐はあっさり否定をした。
「そうじゃろうな。じゃが、あんたにゃあの時の守の嫁さんの雰囲気があるな。もしかして、親戚かなんかか?」
円寂和尚の指摘に、恭助が戸惑ったが、麻祐がはっきりと答えた。
「はい、私は、弓削守と恵理の娘です!」
思わず恭助が顔をしかめた。すべてを台無しにしやがって、といいたそうな様子であった。
「なるほどなあ、たしかによう見れば、守の面影も、鼻筋あたりにほんの少し残しとるなあ」
「そうですか……」
そういって、麻祐は恥ずかしそうにうつむいた。
「正直に告白します。村人たちには秘密にしておいてもらいたいのですが、ここにいる古久根麻祐さんは弓削守の実の娘さんです」
恭助があきらめて住職に説明をした。
「俺たちは……、いえ、僕たちは、十九年前の事件について真実を知りたいということで、この村までやってきました」
「そういうことか……。しかし、事件の真実というても、守が犯人であることに間違いはないがのう」
「和尚さんにはその確信があるのですか?」
円寂和尚はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて、すくっと立ち上がった。
「分かった。まあ、そこでちょっと待っておられ」
そういって住職は部屋から出ていったが、しばらくしてから戻ってきた。手にはうるし塗りの黒い小箱を持っていた。
「警察の捜査が終わってから、わしが受け取って、大切に保管してきたものっちゃが」
円寂和尚が箱を開くと、中から一冊のノートが出てきた。大きさはA4判で、背の部分を綴じた、俗に大学ノートと呼ばれている、ごく普通のノートである。
「もしかして、守が書いた遺書ですか?」
恭助が訊ねると、住職は軽くうなずいた。
手渡されたノートをよく観察してみると、水に濡れてしまったのか、ピンク色の表紙は、全面が大きくねじ曲がっており、さらに表紙の四隅は、日光の紫外線を浴びて、中央部よりもかすかに色あせていた。それに対して、裏表紙や中の紙面はきれいなままで、新品同様の状態が保たれていた。
表紙をめくると、紺色インクの万年筆でなにやら文章が書かれていた。ところどころに二重線の訂正があるものの、全体的にはインクの滲みもなく、丁寧な読みやすい文字となっていた。
自ら命を絶つにあたり、一筆申し上げます。このたび、富岐の会にてぶどう酒に毒を仕込み、妻をはじめとする四名の女性を手にかけし真犯人は、この私、弓削守で間違いありません。母と残された娘には、心底、不憫に思います。このようなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした。
私がこのような行動に及んだ動機ですが、それは村に対する復讐です。簡単に説明できるものではありませんが、長年この村で過ごしてきて、募り募った積年の怨念であります。
幼き頃から身体が弱く、それを理由に村の衆から小馬鹿にされ、子供の時には、おりに閉じ込められし小獣を、知らぬとはいえあやめた咎にて、こっぴどく叱責を受け、ひとり慟哭し、成人すれば、あわれな籠の鳥を大空へ解き放たんと努めけれど、理不尽かつ巧妙なる策におとしめられ、しっぽを巻きてひとり逃亡す。
かくなることから、やがて自暴自棄となった私は、見境なく村人を殺してみたくなったのです。私はこの欲求を抑え切ることができずに、衝動的に、富岐の会のぶどう酒に毒を仕込んでしまいました。遺憾ながら、妻までも巻き込んでしまいましたが、村人を一気にたくさん殺し、復讐を遂げるためには、それもやむを得なかったのかなと、今では思うしだいです。
会長から酒瓶を受け取って、公民館へ運んですぐ、私は赤のぶどう酒を取り出して、栓を開けて、瓶の中へ毒を仕込みました。毒は家にあった農薬を竹筒に入れて持っておりました。そのあと、竹筒はナタで壊してから、葛輪川へ投げ捨てました。そして、公民館へ帰ってくると、少し経ったところで、小夜子がやってきましたから、何食わぬ顔をして、二人いっしょに会の準備を始めたのです。
このような大胆な行動を取ってしまった私ですが、事件の二日後には、いよいよ自分が短絡的にしでかした事の重大さに気付き、それからの二日間は、地獄のような苦悶の日々が続きました。悩みに悩んだ末、私は自らの命を絶つことで償うしかない、との結論に達しました。
今では、殺してしまった妻や女性たちにも、後悔と懺悔の気持ちしかありません。本当に申し訳ないことをしてしまった、と思っております。これは決してうそではありません。
もしも生まれ変わることがあれば、今度はもっと強い人間に生まれてこよう。私はそう望んでおります。弱い人間にはつくづく懲りました。
ああ、今、陽が昇ってまいりました。実に美しい光ですね。それでは、ここで死にましょう。
平成十一年八月二日、雲ひとつ無き早朝にて。 弓削守。
「このノートはどういう状態で発見されたのですか?」
「守の遺体のそばにあって、風で飛ばぬように上から石が置かれてあったちゃ」
なるほど、表紙の中央部が日光で色あせていなかった理由は、上から石が置かれていたためか、と恭助は推測してから、再度、質問を続けた。
「和尚さん、もしかしたらとても大切なこととなるかもしれませんが、遺体の近辺やふところの中に、遺書以外に何かあったりはしませんでしたか?」
「警察がいうには、そばに懐中電灯と日本刀が落ちとったけど、それ以外には、遺体は何も所持しとらんかったっちゃ」
「死因は、日本刀による自害ですか?」
「なーん、実際は毒を食らって死んどったそうちゃ。附子の根っこを取ってきて、直接食っちまったらしいちゃな」
「毒草はどこで手に入れたんですかね」
「遺体が見つかったのが古狐山の山頂じゃが、そこへ行く途中に、附子の群生地がなんぼかあるっちゃな。そこで摘み取っていったんじゃろうて」
「それじゃあ、なんのために日本刀を持ち出したのかな?」
「さあな。守に直接聞いてみにゃ分からんちゃ。ただ、奴が日本刀を持っちょる、ということで、山狩りも、うかつに踏み込んで、守から襲われちまうわけにもいかんから、慎重を期さざるを得ず、結果的に遺体の発見が遅れちまったんじゃが、案外、それを狙って日本刀を持ち出したのかもしれんちゃな」
「発見が遅れることで、守に何か利益があったのかなあ」
「まあ、細かいことはよう分からんちゃて」
「ところで、守にうつ病の気配はありましたか?」
少し考え込んでから、円寂は静かに答えた。
「なーん、そいつはないっちゃな。でもまあ、あえていえば、わりと些細なことにはこだわる性格じゃったかのう」