14.葡萄酒
次に恭助たちが訪れたのは、鉄男だった。
「会長の話だと、弓削鉄男の家はここだな」
呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてから、男が一人ひょっこりと中から顔を出した。
「法律を学ぶ学生たちだと? 事件のことを聞きてえだって? けえれ、けえれ、よそもんに話すことなんかなんもねえっちゃよ!」
全く取り付く島もなかった。
「いや、まいったなあ。わざわざ名古屋からやって来たんだけどさ。ほら、みんなも頼んでみてよ」
困り果てた恭助が、うしろに控えている麻祐と青葉に目を向けた。
「どうかお願いします」
真っ先に麻祐が頭を下げた。
「お願いします」
続いて、青葉も頭を下げた。その瞬間、長い黒髪が下に向かってサラリと垂れた。それを見た鉄男の表情が一変した。
「なんちゃあ、めんこい娘っ子やなあ。あんたも学生さんけ?」
鉄男からなれなれしく声を掛けられて、青葉はとまどっていた。
「はい、法医学を学んでおります。どうかお願いします。当時のことを何でも構いませんから、教えていただけないでしょうか?」
青葉のおどおどする姿を見て、鉄男はますます嬉しそうになった。
「うんうん、仕草にも品があって、ええ姉ちゃんちゃ。しゃあねえ、ちょいと協力してやっか」
「なんだい。なんだかんだで、結局相手をしてくれるんじゃないか」
恭助が小声で麻祐にそっと耳打ちをすると、
「女のえくぼには城を傾く――。結局、男はみんな美人に弱い、ということですね」
と、麻祐が小声で返した。
「たしかにあの事件の日は、俺は道夫さんから頼まれて、問題のぶどう酒を山村酒店まで買いに行ったよ。うん、代金は道夫さんからもらったけど、受け取ったのが事件のあとだったから、なんとも後味が悪かったっちゃなあ。
指示を受けたのは、たしか四時頃だったかな」
鉄男は知り合いと話すような軽い口調で語り出した。背丈はやや小柄だが、色黒の筋肉質で、腕回りも太く、精力旺盛な感じの男だ。
「会長さんからの指示は電話でしたか?」
「ああ、電話っちゃ。たしか、外から携帯電話で話をしとるっていっとったな。あの時代は携帯電話もまだ物珍しくて、持っていたのは道夫さんくらいなもんだったなあ」
鉄男が昔を懐かしむように語った。
「それから中地区まで坂を降りてったから、酒屋へ着いたのはたぶん四時半頃になっとるっちゃな。
酒屋には主人の清志がいて、しょうもない話をちょいとしてから、ぶどう酒を受け取ったっちゃ。代金は二千五百円だったかな。女衆にやるもんだから、もうちょい安いもんにすりゃあええ、っていってやったんだが、清志は、ありがてえこったって、道夫さんに感謝しとったな。
それから引き返していくと、途中で奈美香がおったから、軽く立ち話をしてから、そのあとで、道夫さんの指示通り、道夫さん宅の玄関口へぶどう酒の瓶を置いたっちゃ。いちおう気づかって日陰には置いたけど、あの暑さじゃあ、自慢のぶどう酒もすっぱくなっちまったんじゃねえかなあ。はははっ」
「あれれ、会長さんのお話では、直接鉄男さんからワイン瓶を受け取った、といってましたけど……」
恭助の言葉を聞いた途端に、鉄男の顔が引きつった。
「あれ、そうだったかなあ。そうちゃ。たしかに、指示に従って玄関口に置こうと思っとったけど、たまたま道夫さんがそこにいたんで、直接手渡したんだっちゃ。はははっ」
明らかに動揺している。
「途中で出会った奈美香さんとは、なにか話したの?」
「ああ。今晩富岐の会があるから忘れ取らんよな、って念は押しといたな。奈美香の親子はそもそも公民館のすぐ近くに住んどるくせに、なかなか会に顔を出さんかったから、あの年は俺が強引に彼女を誘ってやったんちゃ。奈美香はなかなか首を縦に振らんかったが、守が嫁さんを披露するっていったら、ようやく折れて、会へ出るっていったっちゃ」
「奈美香さんって、美人だった?」
恭助が急に変な質問をした。
「ああ、地味系だけど、まあまあの玉っちゃな」
鉄男は即答した。
「俺が手にしとった袋を見て、なにを持っているのかと訊ねてきたから、道夫さんの使いで酒屋からぶどう酒を一瓶買ってきた、と中身を見せたら、そのワイン私も大好きです、と急にテンションが上がりおってな。なんでも、ピノのなんとか、っちゅう名前の有名なぶどう酒らしくて、いろいろうんちくをたれとったが、俺にはさっぱり分からんかったっちゃ。
そのあと奈美香が、道夫さんはたぶんいまは留守っちゃ、といったから、なあに心配はいらねえ、玄関口に置いとけばええと最初から指示を受けとる、といったら、ああそうですか、と安堵しとったな。
それから奈美香と別れて、道夫さんの家へ行ってみたら、道夫さんがもう帰っていたんで、ぶどう酒を手渡したっちゃ。うん……、それに間違いねえ」
鉄男は、みずからにいい聞かせるように、念を押して答えた。
「犯人の守って、どんな人だったの?」
「守ねえ。いや、最後はあんな悪いことをしちまったけど、根はいい人間っちゃよ。俺とは小学校からの同級生だから、小さい頃はいっしょにようさん遊んだもんさね。蛇を見て腰を抜かすような弱虫っちゃが、どこでどう間違って、ああなっちまったのなあ……」
「鈴屋さんから聞いたんだけど、守さんは小さい頃にトリカブトの花を食べて、危うく死にかけたってね」
「トリカブトじゃなくて、附子っちゃ。
そういえばあったなあ。無鉄砲極まりない、守ならではの暴挙っちゃな」
「いったいなんで、そんな危険な行為に及んだのかなあ?」
トリカブトと附子は同じ草なんだと説明したい欲望を抑えながら、恭助は訊ねた。
「なあに、つまらんことっちゃよ。あの時、小学校でうさぎを二羽飼育しとったけど、守が生き物がかりになっとってな、いろんな草花を取ってきては食べさせて、守は喜んどったんじゃが、たまたま附子の花を、たぶん守はそれに毒があるのを知らずに、二羽のうさぎに食わせてしまったっちゃな。うさぎはすぐに死んじまって、守は先生からなんでそんなことをしたんかと、ド叱られたっちゃ。そのあとで、守はわざわざ附子の花を取ってきて、その場で食っちまった。あとになってから聞いたら、なんでも、うさぎさんと同じ苦しみを味わって、償いをしたかった、とかいっとったな。ああ見えて、自分のしでかしたことの責任に関しては、妙なこだわりを持っているやつだったっちゃ」
「へえ、たかがうさぎに償うために、自分が死んじゃうかもしれない危険行為をねえ……」
そういって、恭助は麻祐へ目を向けた。
「あとさ、会長さんってどういう人なの?」
「そりゃあ、とんでもなくお偉い人っちゃ。この村を良くしてくれとるなあ。
たとえば、すぐそこを流れとる葛輪川っちゃが、今でこそ去勢された猫のようにおとなしゅう流れとるけど、かつては手が付けられん暴れ川だったのさ。道夫さんが堤防工事をやってくれてから、おかげで、それからこのあたりの洪水がピタリとなくなったっちゃね」
「へえ、工事をしただけで、水害が起こっていないんだ?」
恭助が感心するようにつぶやいた。
「そういえば、工事直後の大昔に、一回だけ決壊したことがあった気がするっちゃな。誰か一人が死んじまったけど、誰だったかなあ。まあ、被害といえばそんくらいっちゃ。
それに引き換え、下地区を流れる雨乞川なんかよお、ほぼ毎年決壊しとるっちゃよ」
そういって鉄男は自慢げに鼻息を鳴らした。
「そういえば、下地区の丘にひとつだけ立派なお家が建っていたよね」
恭助が、思い出したように話題を切り替えた。
「ああ、百合御殿っちゃな。
そこにはかつて、ゆり子っちゅう、すんげえ美人の未亡人が住んどったちゃ」
「へえ、すごい美人ねえ……」
恭助が興味深げに顔を乗り出した。
「それもなあ、ただの美人じゃねえぞ。極上の名器の持ち主っちゃ」
鉄男は、調子に乗ってべらべらとしゃべり続けた。
「じゅくじゅくと蜜がとめどなくあふれてきてのう、びしょびしょになったあったけえイソギンチャクが、ぬめぬめとまとわりついてきて、最後はきゅきゅっと締めあげる。
あんな名器はねえ。あれじゃあ、男はみんなふぬけにされちまうな。かくいう俺様もよう、かつて一度だけやらせてもらったことがあるっちゃがな」
突然、話題が下ネタへ急展開して、青葉と麻祐が即座にドン引きしたが、興奮している鉄男は、それには全く気付いていなかった。さすがの恭助も、少々戸惑い気味の様子である。
「他人の奥さんと、そのう、やったってこと?」
「ゆり子のことは小学校からよう知っとるし、それはまあ……、夜のおとなのお楽しみ、ちゅうやっちゃ」
鉄男は、恭助に顔を近づけてきて、耳打ちした。
「うわさでは、ゆり子さんの御殿を建てたのは会長さんで、そのう、いいにくいのですが、ゆり子さんは会長さんの愛人だったともうかがっていますけど」
小声で恭助が訊ねた。
「道夫さんだって、最初から相手にされとったわけじゃねえ。三顧の礼をして、ようやくやらせてもらえたらしいっちゃ」
「三顧の礼?」
「ああ、一度目は駄目で、三度目でようやく受け入れてもらえたっちゃな」
鉄男は素っ気なく答えた。
「なんでも、その間に相当な金を献上したという話ちゃ。まあ、ゆり子は、美人には違いねえけど、下地区の女だから、てっきり道夫さんは、相手にせんと思うとったけどなあ。
もともとゆり子は、河童橋のバス停の付近で、亭主と二人で住んどった。亭主は、もとは猪谷出身でな、ゆり子よりも十四も年上だったっちゃ。ゆり子は、俺や守と同い年だが、父無子でな、母親もいつぞやに脳梗塞で死んじまって、途方に暮れとるところを、あの亭主に見いだされてな。なんでも亭主のほうの一方的な一目惚れってやつだったらしいが、ゆり子も経済的に行き詰まっとったから、翌年に祝言を上げて、晴れて夫婦になったっちゃ。
ところがこの亭主ってやろうがとんでもねえサディストでなあ。清純無垢だったゆり子も、いろいろ女としての開発をされちまったらしいっちゃ。ところがよう、ある日その亭主がポックリ死んじまってなあ。なんでも、原因不明の衰弱死だったらしいが、ゆり子にとっては、ほんに都合よく死んでくれたことになるっちゃなあ……」
そういうと、鉄男は遠くを見つめたまま、口元に不気味な笑みを浮かべた。
鉄男と別れたあと、恭助たちは中地区の商店街にある山村酒店を訪れた。主人の山村清志は、きさくで人当たりがよさそうな人物であった。
「あの日、鉄男がやってきたのは夕方の四時半頃だったな。会長からあらかじめ注文を受けていたチリ産ワインを、鉄男は代金を支払って購入していったよ」
さほど恭助たちに警戒心を抱くこともなく、清志は淡々と説明を続けた。
「値段だって? 二千五百円くらいだったような気がするなあ。うん、かなり上等なワインだよ。ええと、赤ワインだね。モンテス・アルファ・ピノ・ノワール。渋みが少なくて軽い飲み口の、女性に人気の高い赤ワインだ。ああ、そうだ。たしか、宮地奈美香が隠れワイン通で、同じ銘柄商品をその半月前に買っていったよな。とどのつまりは、高いけどそれなりの価値があるワインってことさ」
「その日に鉄男さんが買っていったのは、ピノ・ノワールが一本だけですか?」
「日本酒と白ワインは、すでに会長さんは購入済みだったけど、赤ワインだけ、当日の朝になって急きょ追加注文されたのさ。銘柄は特に指定しなかったけど、金は三千円までなら出すといっていた。だから、俺が自信を持って、ピノ・ノワールを薦めたのさ。なんでも、富岐の会の女性参加者が例年になく多かったから、ワインをどうしても二本用意したいとのことだったな」
そういって、清志は隅にある棚へ目をやった。棚には日本酒の一升瓶がいくらか並んでいたが、ワインは個々の銘柄の札が置いてあるだけで、現物商品は別なところで保管されているようだ。
「ああ見えて会長は、案外面倒くさがりやでな、キャップシールを剥がすのが面倒くさいからって、店で売る時に、あらかじめ剥がしておいてくれと頼まれたから、たしか鉄男には、キャップシールは剥がした商品を手渡したな」
「キャップシール?」
「ああ、ワインのコルク栓の周りを覆っている樹脂フィルムのことだね。ものによっては剥がすのに骨が折れることもある」
「取っちゃっても衛生上問題はないですか?」
「そういえばあの時、鉄男のやつ、汗かいた指のまんまで、瓶の飲み口付近をつかもうとしたんで、さすがにそれはきたねえから、瓶の腹を持て、って俺が叱ってやったけどな。
まあ、どうせその日のうちに全部女衆の胃袋に消えちまうんだから、キャップシールがなくたって、中身が汚れちまうわけじゃねえからなあ」
「コルクの栓は開いていなかったの?」
「まさか、コルク栓までは開けたりしねえよ。そんなことをしたら、それこそ運んでいる間にもワインがまずくなっちまう。ピノ・ノワールって、とてもデリケートなんだぜ」
「鉄男さんが店にいた時に、誰かほかに客はいなかったですか?」
「ほかの客だって? たしか、あの時は誰も来なかったと思うけどなあ。
そういえば、家内は何をしていたかな? たしかその時は、店にはいなかったけど。ああ、今、呼んでこようか……」
間もなく、奥から清志の妻の山村景子が現れた。景子は少し小太りで、やたらと明るく振舞う感じの女性であった。
「あの事件のことを聞きたがっている学生さんが、名古屋からわざわざ来とるんだけど……」
「あんたねえ、あんなおぞましい事件、思い出したくもないっちゃよ!」
主人の問いかけに、景子は真っ向から拒否をした。
「そんなこといわんと、なんか思い出さんかなあ」
山村景子はしぶしぶ当時のことを語り始めた。
「あの日の昼間は、あたしは仕入れ先の訪問をしとったっけ。忙しくて、午後もずっと駆けずり回っていて、帰ってきたら、すぐに富岐の会に行くからって、化粧直しもせんうちから引っぱり出されて、挙句の果てに、死ぬ思いの苦しみを味わったんだからねえ」
「そうそう、家内が帰って来たのが七時ちょっと前で、それから慌ててトラックに乗って、公民館へ着いたのが、まさに会が始まる寸前だったなあ」
清志が急に思い出したように付け加えた。
「その会に誰が参加していたのか、思い出せますか?」
恭助の質問に、景子が口を開いた。
「ええと、その時いたんは……、あたしと主人に、会長夫妻とコウメイ先生夫妻、鉄男と守がいて、それから守の奥さんの恵理さんが、誰ともしゃべらんとさびしそうにポツンと一人で座っとったわ。久子と娘の奈美香がいて、そういえば守の母親の志貴子はおらんかったねえ。あとは、蓮照寺の和尚さんと、薬屋の桐子に、鈴屋の徳三さんと息子の勇二。そういえば、あん時は勇二はまだ結婚しとらんかったし、徳三さんも元気でピンピンしとったわなあ。なつかしいわねえ。それから、散髪屋夫婦がいて、ああ、そうそう、下の亀井ゆり子もいたわ。あともうちょっといたような気がするけど、よう覚えとらんねえ」
「亀井……?」
「ああ、亀井ゆり子ね。下地区に住むあばずれ女よ。魔女ともいうべき存在ね。
とにかく会長のお気に入りで、下地区住民のくせに、豪勢な屋敷を建て替えてもらっちゃってさあ、そこに一人で、優雅にのうのうと住んどったのよ」
「会長さんのお気に入り、ですか……?」
「ええ。最初は、会長は下地区の住民になんかに関心はなかったんだけど、ゆり子の亭主が死んでから間もなく、ゆり子に恋焦がれていた鉄男が、隙を突いて、夜這いに忍び込んだんよ……」
「夜這い――、ですか……?」
恭助が目を丸くした。
「んだけど、あっさり拒否されちまってね。あはは――。まあ、鉄男だから、さもありなんだけど、それでもその晩、強引にゆり子を奪っちまったから、さあ大変――。
この部落では夜這いの風習があるけど、決して男性上位じゃなくて、女性が拒んだ時には、間男はすごすごと引き返さなければならない掟があるのよ。それを守らんかった時には、そいつは村八分にされちまうから、男衆も好き勝手なことはできんように、うまくできとるんよね」
なんの恥じらいもなく堂々といい放つ景子の言葉に、恭助たちは戸惑いを隠せなかった。こと青葉に至っては卒倒寸前の状態だ。
「ところが、鉄男のやつ、その掟を破って、ゆり子に乱暴まがいの行為に及んだので、翌朝、ゆり子は会長のもとへ出向いて、一部始終を話したのさ。その時に、会長の目には、ゆり子の嘆く姿がいとおしく映ったらしく、下地区出身者なのに、その訴えがまかり通っちゃって、鉄男はそれから村八分扱いされたのよ。それが一年以上続いたけど、やがて、会長の鶴の一声で、鉄男の村八部は解除されて、それから鉄男は会長に頭が上がらんくなったのね」
「まずゆり子さんが訴えて、そのあとになってから、会長さんとの恋愛関係ができたのですか?」
「そうね。鉄男が村八分にされとる間に、百合御殿が建っちゃったんだから、たぶん、そのあたりからねんごろになっとったかもしれんねえ」
景子はお茶を濁すように答えた。
「でも、年がずいぶん離れていますよね。そのう、会長さんとゆり子さんは……」
「ゆり子の目当ては男じゃなくて、金じゃけ」
あくびをしながら、清志が口をはさんだ。
「そういえば、鉄男の村八分が解かれた頃に、今度は、守が村に喧嘩を売って、去っていったわね」
「なんか理由があったのですか?」
「村を出た理由ですって、さあ、なんだったんだろう? 会長になんらかの不満があったようには思えるけど」
「会長さんは、どうしていつまでも会長職を続けているのかなあ?」
「どうしてずっと会長を続けているのかだって。さあ、ほかに誰も対抗できる人なんかいねえし、葛輪村がこうして栄えとるのも、会長が村おこしをして、いろんな仕事を村の衆に与えながら、面倒を見てくれるからだし」
清志が先に答えると、景子が付け足した。
「会長は、奥飛騨建設の社長さんで、奥さんが副社長なのよ。葛輪村だけじゃなくて、この地区全部の街づくりに大きく貢献されている方なんよね。まあ、今では社長は引退して、娘婿に役職は譲っているけど、みずから会長として会社を動かしているから、ああ、会社の取締役会長ってことだけど、つまりは、ダブルで会長さんなのよね」
「事件当日のことで、何か覚えていることはありませんか?」
「さあ、特にはなあ……」
そういって、清志は景子に目を向けた。
「あたし? いい思いなんかあるわけないじゃないの。
毒を飲まされて、もう、苦痛以外のなにものもなかったわ。
誰がどこにいるのかなんて、とても判断できるような状況じゃなくて、目の前は真っ白で何も見えないのよ。どうやって空気を吸えばいいのか、それしか頭には浮かばなかったわ。畳の上を、たぶん転げ回っていたんでしょうけど、すぐにとなりの誰かとぶつかって、身体の向きすらしたいように動かせなかったのよね。どっちが上で、どっちが下なのかも分からなかったし、意識がぶっとんじゃえば逆に楽だったんでしょうけど、苦痛とあぶら汗だけが襲ってきて、あんな思いはもう二度とごめんだわ!」
景子は心底からの文句を吐き捨てた。
「犯人の弓削守の印象は?」
話題を変えるように、恭助が訊ねた。
「守かあ。あんまり付き合いはなかったからよう分からん。でも、会長と喧嘩をして村を出て行っちまったくらいだから、後先の見境がない餓鬼であることには間違いねえな」
腕組をしながら、清志がうなずいた。
「あーら、あたしの印象では、守は背が高くて色白のいい男だったわよ。まあ、性格まではよう分からんかったけどね」
景子がさりげなく口をはさんだ。
「ふむ、まあ、遊び人って感じだな」
清志がいい返す。
「そうかしら、あたしら女衆には、ちょっとしたアイドル的存在だったわよ」
「本当にそうなんか?」
「あら、あんたは気付いていなかったんね。まあ、そういうところは、昔からかなり鈍感なほうだけどねえ……」
慌てふためく清志の様子に、景子はくすくす笑っていた。