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13.公民館

 翌朝、恭助たちは公民館へ続く昨日と同じ長い坂道を、とぼとぼと歩いていた。

「まゆゆ、今日なら行けそうかい?」

「はい、ばっちりです。お父さんの真相を知るまでは、おめおめと北海道へは戻れませんからね」

 恭助の問いかけに応じる麻祐の顔には、普段の明るさが舞い戻っていた。それにしても、果てしなく続く、しつこいのぼり坂だ。しかもその勾配ときたら、先へ進むにつれて過激さを増してくる。

「はあはあ……、しかしさあ、みんなの公民館のはずなのに、まるで来るものをすべて拒むかのような、魔の急坂だよね。もう、勘弁してくれよ」

「まさに要塞です」

「そうだね。あれ、青葉は文句いわないの?」

「えっ、まあ、足腰の運動にはいいのかなって……」

 急に振られた青葉が、困惑して答えた。

「足腰の運動ねえ。俺の体内に蓄積されたブドウ糖は、基本脳みそに吸い取られちゃうから、筋肉の方へはまわってこないんだよな」

「そんなこといって、恭助さん、ここへ来てから、頭をそんなに使っているんですか?」

「あれっ、まゆゆ。失敬な。こう見えても脳みそは常にフル回転しているんだから。まあ、大船に乗ったつもりになっていていいよ」

「恭ちゃん、そんな無責任なこといっていいの? 麻祐ちゃんは真剣なのよ」

「大丈夫です、先輩。私も恭助さんが何者かは、すでに十分過ぎるくらいに分かっていますから」

「そういうこと。じゃあ、まゆゆ。要塞へ乗り込むぞ!」

 物事を常に前向きにしか捕らえない恭助の後ろ姿に、麻祐と青葉は互いに苦笑いをした。


 葛輪地区の公民館は、急坂をのぼり切った空き地にあった。敷地は、三方を金網フェンスで囲まれており、道路側だけが開いていて、車が五、六台は停められそうな黒砂利のスペースができていた。建物は平屋の一戸建てで、屋根こそ見栄えのある黒瓦くろがわらだが、側面の壁はトタン張りの、質素な造りであった。でも玄関口は、出っ張った間取りが取られていて、そこだけの三角屋根も付いていた。

 玄関に貼ってある、大きな木彫りの表札が三人の目をひき付けた。

 ――細池村上葛輪公民館――。

 あらかじめのみで削り取っておいてから、うるしを流し込んで凹凸を付けることにより、文字の部分にものの見事な毛筆のイメージが醸し出されていた。

「上葛輪公民館ねえ。ってことは、下葛輪公民館もあるってことかな?」

 表札を見た恭助が、軽率に発言した。

「もしかしたら川むこうにあるのかもしれませんね」

 麻祐が、あくびをしながら応対した。

「でも、ちょっと失礼よね。上と下って、なんとなく差別しているようで」

 じっと黙っていた青葉が、口をはさんだ。

「先輩、そんなことないですよ。北海道では、川上にあたる土地を『ペンケ』、川下に当たる土地を『パンケ』、と呼んで区別します。ほら、恭助さん。あの阿寒湖の後で行った双子の湖ペンケトーとパンケトーがまさにそれです。決して差別用語ではありません」

「なるほど。だったら、ここはペンケ葛輪公民館なんだね……。まあ、たしかにこちらは川上になるけど、でもさあ、細池村って肩書きもあるんだし、やっぱりなんかの差別感を感じざるを得ないよな」

 玄関から外へ出た両脇に二台の青色ベンチが挟むように置かれており、住民たちが足を止めて休めるようになっていた。ベンチの横には、水道の蛇口があって、受け皿に御影石を削って作った水桶が設置されていた。恭助が蛇口をひねると、水が勢いよく飛び出てきた。一階建てであるが、窓が三つもあるから、きっと中には複数の部屋があって、それなりの広さがあるように思われる。

 恭助は玄関の戸に手を掛けたが、鍵が掛かっていて開かなかった。仕方ないので、麻祐と青葉を戸口で待たせたまま、恭助は一人でとなりの窓へ近づいていった。窓といっても、大人の背丈ほどある、テラス戸と呼ぶべき、大きな窓である。中をそっとのぞき込むと、レースのカーテン越しに、畳張りの大きな部屋が見えた。ほぼ中央部に敷居がまっすぐに通っていて、ふすまをはめ込めば二つの部屋に分かれるのだが、なにもはめ込まれていない今の状態は、二十畳はゆうにあろう巨大な大部屋となっていた。部屋の奥のふすまが半分開いていて、板張り廊下がかすかに見える。殺風景だが、定期的に掃除はきちんとなされているようだ。

 ぐるりと建物の周りをまわってみると、裏側に勝手口と思われる小さな戸があったが、もちろんそこにも鍵が掛かっていた。こちら側の窓は小さくて、曇りガラスになっているから、中の様子はよく分からなかったが、雰囲気的には台所だと思われる。

「ふん、なんてことはない普通の公民館だな」

「でも、中へ入れないと、なにも手がかりが得られませんよねえ」

「じゃあ、鍵を開けられる人に声を掛けてみるか……」

「鍵が開けられる人?」

「地区会長さんさ。ほら、そこにもう御殿が見えているじゃないか」

 そういって、恭助はひゅーっと口笛を鳴らした。


 公民館からさらに奥へ延びる道路は、すぐ先で舗装が途切れて、あとは茶畑に沿った砂利道が続いていた。その舗装道路がなくなるところに、二軒の家が向かい合って建っていた。左側の家は圧倒的に威圧感のある大豪邸で、大きな家が多い葛輪地区の中でも、ひときわ目立っていた。玄関口には手入れが行き届いた盆栽がずらりと並べられていて、まるで展示会を催しているかのようである。それに対し、右手の家は質素でちっぽけな家だった。庭の手入れも満足になされておらず、雑草がぼうぼうに生い茂っているから、おそらく空き家なのであろう。

「ひゃあ、どっちの家も表札が『弓削』になっているよ」

「交番のお巡りさんがいったとおり、きっとこの近辺って弓削さんだらけなんですよ」

「じゃあ、さっそく聞いてみようか。地区住民の代表の弓削さんにさ」

「この家の住民が地区の代表なんですか?」

 恭助の言葉に、麻祐が首を傾げた。

「多分ね。公民館のとなりの大豪邸――、ここでまず間違いないだろう。もしかしたら、事件の情報もいろいろ知っているかもしれないよ」

 そういって、恭助はずかずかと家の敷地に入り込むと、ためらいもなく呼び鈴を押した。

 間もなく中から姿を現わしたのは、白のランニングシャツに黄土色の半ズボン姿の、日に焼けた筋肉質の男だった。頭部はつるつるに剥げあがっているものの、てかてかと光る肌の色つやは健康そのものであり、ぱっと見で恭助は、四十前後と年齢を推定したのだが、後で聞いてみたら驚くなかれ、おんとし六十八歳であった。

「どちらさまで?」

 いぶかしげな視線をこちらへ向けながらも、穏やかな声で、男が訊ねてきた。

「僕たちは法医学を学んでいる学生です。名古屋からやってきました――」

 自分のことを『僕』と称して切り出した恭助に、青葉は目を丸くした。

「まことにぶしつけで失礼なことだとは思いますが、十九年前にこちらの公民館で起こりました細池毒果実酒事件におきまして、被害者の方々たちの服毒後にあらわれた諸症状について、地元の方々たちから直接おうかがいしたいと思い、はるばるやってまいりました」

 いきなり恭助がストレートに核心部分に入ったので、麻祐と青葉は再度びっくりして、互いに顔を見合わせた。

「いえ、本当に地元の方々にとっては思い出したくもないことだとは思うのですが、毒殺事件というものがそもそも全国的にまれでして、その被害者たちの症例となると、僕たち学生にはなかなか知る機会がないのが現状です。そこで、十九年前にこちらで起こった事件のお話がうかがえれば、とても貴重な体験となるわけで、いかがでしょう。なにか教えてはいただけないでしょうか?」

 恭助にしてはいつになく規格外の丁寧な言葉遣いと応接である。男がさぞや怒り始めるかと思いきや、全くその逆であった。

「そうですか、はるばる名古屋からねえ。そいつは大変でしたっちゃなあ」

 男の表情が急ににこやかになった。

「事件の直後はマスコミさんがようさん詰めかけてのう、こんなちっぽけな部落が、人でいっぱいになったっちゃ。あん時はなんか聞かれるたんびに、やんなって拒んどったけど、純朴な学生さんの勉強のためなら、この弓削道夫、一肌脱いで、なんでも質問にお答えしますっちゃ。

 申し遅れました。わしは、かみクザワ地区の会長をしとります、弓削道夫ゆげみちおと申すっちゃ」

 意外に好感度の高い応答に、恭助自身も弱冠たじろいだが、そこはいつもの図々しさで会話を続けた。

「毒殺事件ということですけど、なにに毒が仕込まれたのですか?」

「ぶどう酒っちゃ」

「ぶどう酒? ああ、ワインのことですね」

 恭助がさりげなく確認した。

「トキの会に振舞ったぶどう酒に毒が混入されておってのう。全くけしからん話ちゃって」

「トキの会?」

「ああ、富山県のトに、岐阜県のギで、くっつけて富岐ときの会と呼んどるっちゃ。このクザワ地区は実に摩訶不思議な部落でのう。こちらの上クザワは富山県だけど、向こうの中と下の地区は岐阜県に属しとるんちゃ」

 どうやらこの会長にも、葛輪村のことをクザワ村と発音する癖があるみたいだ。

「へええ。いわゆる親交会ってやつですね。それでその富岐の会というのは、しょっちゅう開かれていたの?」

 ポロリと発した恭助のため口に、青葉の肩が敏感に反応した。

「なーん、年に一回だけっちゃな。七月の終わりの水曜日に、集まることにしとるっちゃ」

 老人は、恭助の失言には一向に気づいていない様子であった。

「肝心の毒ですけど、個々のグラスに仕込まれたのですか、それとも、酒瓶の中に直接仕込まれていたのですか?」

「さあな。でも、瓶から注いだコップの全部から毒が検出されとるから、おそらく瓶の中に直接仕込まれていたっちゃね」

「どんな瓶ですか?」

「普通のぶどう酒の瓶っちゃ」

「栓はコルク?」

「そう」

「瓶が祝宴の場に運ばれた時には、すでにコルク栓は開いていたのですか?」

「なーん、居合わせた衆の話によると、会が始まってから、テーブルの上で、栓が開けられたそうちゃ」

「あれれ、会長さんは、事件現場にはいらっしゃらなかったのですか?」

 恭助がとぼけたように訊ねた。

「いたっちゃが、わしはその時には、みなの衆の前であいさつをしていたからのう。ぶどう酒の瓶がいつ開けられたかなんて、細かいことはいちいち覚えておらんちゃ」

「開けたのは誰だか分りますか?」

「それは……、マモルっちゃよ」

「守さん……?」

「もう、知っとるっちゃろう? わざわざ、こんな田舎まで足を運ばれたんじゃからのう。弓削守はなあ、事件の犯人っちゃよ」

「なるほど。犯人が直接開けていたんですね。でも、その証拠はありますか?」

「近くにおった衆が、みな口をそろえて証言しちょる。それに、事件直後の警察の取り調べの時に、あいつ自身もそう白状したっちゃ」

「守さんは、コルク栓を開けたあとで、瓶の中へ毒物を混入する仕草がありましたか?」

「さあな、誰も毒を仕込む瞬間を目撃したとは証言せんかった。じゃが、わしの名演説にみなが気を取られていた隙に、どさくさに紛れて混入することができたんかもしれんちゃのう」

 いいかげん極まりない憶測を、会長は悪びれもせずに堂々といい放った。

「宴会が始まる時刻まで、問題のワイン……、いや、ぶどう酒の瓶は、どこで保管されてましたかねえ?」

「わしゃぶどう酒が置かれていた場所なんぞ知らんちゃ」

「でも、聞いた話によると、ぶどう酒は会長さんご自身が用意されたのでは?」

「ああ、たしかにぶどう酒は、わしが指示を出して鉄男に買いに行かせたものっちゃな」

「テツオ?」

「郵便局のすぐそばの家に住んどるお調子もんっちゃ。今までの富岐の会でも、何度も使いに行かせとる」

「つまり、会長さんの指示で、鉄男さんがぶどう酒を買ってきたわけですね」

「わしのポケットマネーでこっそり購入しておいて、会でみなの衆に振舞う。まあ、いわゆるサプライズプレゼントだっちゃな」

「とすると、ぶどう酒のことを事前に知っていたのは、買いに行った鉄男さんと、会長さんだけってことですか?」

「まあ、酒屋の主人にはバレておるがのう」

「ぶどう酒は全員が飲むんですか?」

「飲むのは女衆だけっちゃ。男衆は日本酒にしか手を出さん」

「指示は口頭で?」

「なーん、携帯電話でしたっちゃ。ちょうどあの時、わしは仕事の打ち合わせで高山の会社へ行った帰り道で、自宅にはおらんかったからなあ」

「お車で?」

「ああ、車を使えば、高山からものの一時間で帰ってこられるっちゃ」

「携帯電話で指示を出された時刻は?」

「四時をちょっと過ぎたくらいっちゃ。鉄男は自宅におったから、急いで買ってきてくれ、と頼んどいた」

「鉄男さんは指示されてからすぐに買いに行った?」

「たぶんな。酒屋の主人の話によれば、四時半頃に鉄男が現れて、十分ぐらいたわいもない会話をしてから、鉄男は店を出ていった、と証言しておるっちゃ」

「ということは、四時四十分頃ってことになりますね、鉄男さんがお店を出たのが……」

「それからわしのうちまで鉄男はやってきて、直接わしにぶどう酒の瓶を手渡したっちゃ」

「その時には、会長さんは家に戻られていたわけですね。ところで、商店街からだと、ここまで歩いて三十分くらいかかるから、鉄男さんから会長がぶどう酒を受け取った時刻は、五時十分頃で間違いないですか?」

「そうちゃな。たしかに、五時過ぎじゃったな……」

「会長が家に戻られた時刻は?」

「家へ着いたのは、鉄男が来るほんのちょっと前じゃったな」

「その後、会長は受け取ったぶどう酒の瓶をどうされました?」

「守に、公民館まで運んでもらったっちゃ」

「鉄男さんについでに公民館に持っていかせればよかったのに」

「守がその年の会の準備の責任者じゃったからな。だから、守を電話で呼び出した」

「その時、守さんはどこに?」

「やつは自宅におった。最初は母親が電話に出たが、すぐにやつが代わったっちゃ」

「呼び出した時刻は?」

「電話をしたのが、鉄男からぶどう酒を受け取って間もなくじゃった。電話してから二十分くらいして、ようやく守はやってきた。わしは日本酒一本とぶどう酒二本を守に手渡すと、守はそのまま公民館へ向かって歩いて行った。五時四十分くらいじゃな」

「あれれ、ぶどう酒は二本あったんですか?」

「ああ、赤と白の二本っちゃな」

「その時、瓶の栓はどうなってました?」

「二本とも買ったままコルクが詰められた状態じゃった」

「つまり、どちらも栓は開いていなかったってことだよね」

「そのとおり」

「守さんは公民館の鍵は持っていたのですか?」

「公民館の鍵は、普段はわしが所持しておるが、酒瓶といっしょに鍵も渡したっちゃ」

「会長ご自身は、いつ公民館へ行かれたのですか?」

「七時過ぎじゃったな。ちょうど蓮照寺れんしょうじの和尚と公民館の戸口で出くわしたからいっしょに入っていったのを覚えているっちゃ」

「その時に、公民館には誰かいましたか?」

「もう、かなりの衆が集まっとったなあ。まもるはもちろん、家内もいたし、鉄男てつおに、久子ひさこ奈美香なみかの親子がおったな。そうじゃ、コウメイ先生がいい赤ら顔をして、すでに出来上がっとった。のぞみが、申し訳ありませんと、必死にわしらに謝っとったなあ」

「会長の奥さんは、公民館へ先にいかれていたのですか?」

「ああ。家内は準備の手伝いをしに、早めに公民館へ行っていたっちゃ」

「会長さんが公民館へ着いた時に、ぶどう酒の瓶はどこにありましたか?」

「テーブルの上に日本酒は置いてあったが、ぶどう酒はそん時にはなかったっちゃな。

 会が始まる直前になってから、ぶどう酒の瓶を手にした守が台所から現れて、わしからのサプライズプレゼントじゃと、みなに告げたっちゃ」

「その際、コルク栓はどうなっていましたか?」

「さあ。わしは会が始まるとあいさつをせにゃならんから、細かいことはあまり覚えてはおらんっちゃ。

 ああ、そうじゃ。わしのあいさつの最中に、守のやつ、どでかい声で、コルクの栓抜きがないかとわめいとったな。いま、思い出したっちゃ」

「ぶどう酒の栓はそのあとであけられたってことかな?」

「まあ、理屈ならそうなるっちゃ」

「だとすると、その瞬間まで毒は仕込めなかったことになるな……」

 そういって、恭助は腕を組んだ。

「それから会が始まり、わしのあいさつの後で乾杯がなされた。男衆は日本酒を、女衆はぶどう酒を、それぞれのコップに注いでから、乾杯の発声は、鉄男が行った」

「女性陣は全員がぶどう酒を飲んだの?」

「久子が肝臓を壊しているとかで遠慮したっちゃ。それから散髪屋の女房と桐子の二人が酒は飲めんちうて、麦茶を飲んどったが、あとの女衆はみなぶどう酒に手を出したっちゃ。ああ、志貴子はまだその時はおらんかったな」

志貴子しきこさん?」

「守の母親っちゃ。志貴子は、ちょうど女衆が毒で苦しみもがき始めた頃、守の娘を連れて公民館へやってきたんじゃった。なんでも、自宅でちょっとした用事があったらしい」

「乾杯の時刻と、女性たちが苦しみだした時刻は?」

「乾杯をしたのが七時半過ぎっちゃ。女衆が苦しみだしたのは、それから間もなかったなあ」

「女性全員が?」

「ああ。ぶどう酒を飲まんかった久子らや男衆はなんともなかったが、それ以外の女衆は全部吐いたり、のたうち回ったり、ありゃ本当の地獄絵図じゃったなあ……」

「だとすると、やはりぶどう酒が原因……?」

「そうとしか考えられん。ぶどう酒は乾杯の後、みんなが一斉に飲んだからな。いっぽうで、ふるまわれた折詰弁当には、どれもほとんどに手が付けられておらんかった」

「さっきサプライズで急きょぶどう酒を買うことにした、といっていたけど、つまり、住民たちは当日ぶどう酒がふるまわれることを、誰も知らなかったわけですね」

「ああ、知っていたのは、わしと家内に、鉄男に守、それに酒屋夫妻くらいなもんかのう」

「そして、そのぶどう酒の瓶の中に毒が仕込まれた……」

「状況証拠から見て、そういう結論になるっちゃな。救急車と警察が到着したのが、八時頃。先に救急車がやってきたが、あまりに被害者が多すぎて、手が付けられん状態じゃった。まず、家内と守の細君が真っ先に死んじまって、次にのぞみが救急車の到着と同時に息を引き取ってなあ。それから症状がひどかった奈美香とゆり子が、救急車で運ばれて行ったっちゃ」

「お二人も、最終的にお亡くなりになったのですよね」

「ああ、二人とも若かったから、不憫じゃったのう……」

「毒はなんだったのか、分かりますか?」

「警察がいうには、農薬らしいっちゃ」

「農薬ですか?」

「茶栽培で使うニッカリンという農薬じゃが、案外この辺の農家には普通に置いてあったっちゃ」

「犯人の弓削守って、どんな人だったの?」

 そういってから、恭助はちらっと麻祐に目を配った。

「あいつのことはちいさい頃からよう知っとるが、根は臆病者の意気地なしっちゃな。あんな弱虫が、あれほどの大それたことをしでかしたなんて、いまだに信じられんちゃ」

「ということは、犯人は別人である可能性が?」

「なーん、それはねえっちゃ。もしも守が犯人じゃなけりゃ、誰かほかに犯人がいるってことになっちまう。それでは、村の衆がみんな混乱してしまうっちゃ」

「守さんと会長さんは、その……、仲は良かったのですか?」

「ああ、志貴子の旦那が若い頃に村から出ていって行方知れずになってから、守はわしのことを父親のようにしたっておったっちゃ。ところがいつぞやったかのう。守から、結婚したい相手がいると相談されたことがあってなあ。ところが、わしにはその相手が守にふさわしくない人物に思えたから、正直にそのように助言をしてやったっちゃ。そうしたら、守はえらく怒りおってなあ、それ切り、あいつとの関係は冷え込んでしまったっちゃ」

「いつのことでした?」

「さあなあ。守が村を飛び出す半年くらい前かのう」

「守さんが村を飛び出した?」

「ああ、あいつは事件の何年か前に、一人で村を飛び出して行方知れずになったっちゃ。まるで、かつてのおやじのようになあ。でも、事件の直前に、ひょっこり村へ舞い戻ってきて、ついでに嫁さんまでも連れてきたから、志貴子も相当にとまどっとったっちゃ。わしともよりを戻したいと申し出て、なにもかもうまく行くと思いきや、なにを思ったか、あんな恐ろしい事件をしでかして、せっかく連れてきた嫁さんだけじゃ飽きたらず、かつての恋人や、わしの家内とコウメイ先生の奥さんまで手に掛けたんじゃからなあ……」

「かつての恋人――?」

 恭助の目がきらりと光った。

「ああ、なんかいったかのう。ええと……、もう昔のことじゃから、よう覚えとらんちゃ」

 道夫は、失言をしたことを明らかに自覚したらしく、強引にはぐらかすと、それ以降、その内容には一切話をふれようとはしなかった。

 このあと恭助は、被害者たちが苦しむなまなましい様子を、メモを取る振りをしながら道夫に質問を続けたが、あまり気持ちの良い内容ではないので、ここでは割愛させてもらう。

「いろいろ貴重なお話、ありがとうございました。ところで会長さん、できましたら現場の公民館の中へ入ってみたいのですが、無理でしょうか?」

「ああ、そうですか。じゃあ、今から行きましょう」

 会長はあっさり恭助の思惑に同意をした。


 公民館の玄関に到着すると、弓削道夫はポケットから鍵の束を取り出して、中から一つを選んで鍵穴に差し込んだ。カチャリと音がして、玄関の鍵が開けられた。

 中はむっとする異様な熱気に包まれていた。まだ午前中だが真夏の真っ盛り、閉ざされた平屋の中ならそれも当然のことであった。道夫が急いで部屋の窓を開けたから、風が入り込んで少しは熱気もましになった。気が付くと、畳からイグサの香りがほんのり漂ってくる。かなり新しそうな畳である。部屋の上座に床の間があって碁盤が置いてあった。反対側の壁に丸い時計が掛けられているが、時刻は三時十分で止まっていた。おそらく電池切れであろう。

「事件があってから、畳も全部新しく取り換えてのう。せっかくきれいにしてやったのに、あれ以来、富岐の会はなくなってしまっているっちゃ。残念じゃがのう……」

 道夫が寂しそうにつぶやいた。恭助は道夫の横をすり抜けると、台所をのぞき込んだ。食器棚と小さな冷蔵庫があり、ちょっとした調理ができるようになっていた。

「事件当日のように、テーブルを並べてもらっていいですか?」

 突然、麻祐が道夫に懇願した。

「ああ、かまわんちゃ」

 そういって、道夫は奥の障子戸を開けた。中には折り畳み式のテーブルがぎっしりとしまってあった。恭助も手伝って、道夫の記憶にある事件当時のテーブル配置が、再現された。

 広い部屋に全部で十台のテーブルが並べられた。床の間から離れた下手に、四個ずつのテーブルをくっつけた二組の歓談の場を用意し、さらに、床の間近くの上手には、二つのテーブルを縦に並べた席が作られた。並べ終えて息を切らした恭助が、畳の上へどっかと座り込んだ。テーブルは、長さは二メートルくらいあるが、奥行きは七、八十センチほどの細長い形状で、高さはコタツよりもちょっとある程度の、座卓用であった。チビ助の恭助でも、さすがにテーブルの下へ潜ろうとすれば、相当に骨が折れそうな高さである。


挿絵(By みてみん)


 テーブルが並べられた部屋をじっと見つめていた麻祐が、なにを思い立ったのか、開いたふすま戸からすり抜けて、廊下へ飛び出した。そのまま廊下からふすま越しに、麻祐は部屋の中の様子を静かにうかがっていた。突然、麻祐は崩れるように床へしゃがみこんだ。

「麻祐ちゃん、大丈夫?」

 青葉が慌てて麻祐のところへ駆け寄った。

「ああ、大丈夫です、先輩」

 麻祐は顔を下に向けたまま、手をあげて青葉を制止した。やがて、顔をあげた麻祐は、恭助に向かって大きな声で呼びかけた。

「恭助さん、思い出しました――。

 私はあの日、たしかにここに来ていました! そして、テーブルの下から前を覗き込んでいて、その時に、なにかを見たんです!

 相当にびっくりした顔をしていましたから、きっととんでもないものを見たのでしょうね……。

 でも、私はいったいなにを見たというのでしょう? 残念だけど、それに関しては、なにも思い出せません」

 そういって、麻祐は頭を抱え込んだ。

「でかしたぞ、まゆゆ――。しばらく時が経てば、見たものだってきっと思い出すって。

 だけど、思い出せない記憶ってさあ、もしかしたら、とっても怖い記憶で、まゆゆの脳が思い出すのをみずから拒否シャットダウンしているのかもしれないよ。はははっ」

 短絡的に喜びはしゃぐ恭助を見ながら、怖くて思い出したくない記憶ってなんだろうと、麻祐は静かに深い思考へと沈んでいった。


 青葉がふと横を見ると、恭助と麻祐のやり取りを聞いていた道夫が、眉間にしわを寄せながら突っ立っていた。今まで表に出さなかった険しい形相を目の当たりにして、青葉は背筋がぞっと凍り付くのを感じずにはいられなかった。


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