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12.夏夜夢

 鈴屋の地下には、大浴場と称する風呂場がある。階段を降りたところの間取り図を見ると、浴場は男性用と女性用の二区画があるのだが、なにせ今晩の宿泊客は鈴屋にとっては、実に二年ぶりであり、しかも恭助たち三人しかいないので、女将から、片側だけに湯を沸かすから、そこを男女で時間差を付けて使用してくれ、といわれたので、先に恭助を風呂へ行かせて、恭助が出てから、麻祐と青葉はゆっくりとお風呂を独占することにした。

「麻祐ちゃん、体調はもう大丈夫なの?」

 湯船につかっている青葉が、シャワーで髪を洗っている麻祐に声を掛けた。

「ええ、先輩。もう大丈夫です。事件があった公民館へこれから行かなきゃいけないって考えていたら、急に冷や汗がどくどく出て来ちゃって、その時はまじやばかったですけど、行くのをやめて引き返し始めたら、途端にすーっと気分が良くなりました。でも、明日だったらたぶん公民館へも行けると思います」

「そう。よかったわ」

 そういうと、青葉も身体を洗いに湯船から出てきた。モデルのようなすらりと見事なプロポーションの裸体が、麻祐の横をゆっくり通り過ぎていった。

「先輩、相変わらずエロい身体をしていますね。それに眼鏡を取った顔も、とても可愛らしいですよ」

 麻祐のかけたさりげない一言に反応して、恥ずかしさで顔を赤らめた青葉は、ボッティチェリが描いたヴィーナスのような仕草でその場にうずくまると、ヒノキの香りがする椅子の上へ小さなお尻を、申し訳なさそうにちょこんとのっけた。

「もー、残念だわ。私、眼鏡がないから、麻祐ちゃんの裸、全然見えていないのよ……」

 悔しそうに青葉が愚痴をこぼした。

「あはは、なんなら先輩、もっと近くへ寄って眺めてみますか?」

 本来の元気を麻祐はすっかり取り戻していた。


 青葉と同部屋になってもかまわないと思っていたのだが、結局女将の計らいで、三人は別々の個部屋で一夜を明かせることになった。麻祐が泊まることになったのは、廊下の一番突き当りにある、大きな床の間のある格式高い部屋だった。床の間の掛け軸には、見事な水墨山水画が描かれているのだが、このような無駄にだだっ広い部屋の中では、風情を楽しむ余裕など湧いてこず、むしろテンションが吸い取られてしまうような感じがした。そういえば、壁に掛けられた表情のない小面こおもての能面も、そこにある必然性が全く理解できず、かといって常にこちらを見つめているようで、なんとも薄気味悪かった。

 これといってすることもないので、寝ようかと思った時、突然女将が失礼しますといって部屋に入って来たから、思わず麻祐はビクッと肩を引きつらせた。

「蚊が出るといかんで、殺虫剤を巻いとくっちゃな」

 そういって、女将は手押し式の噴霧装置スプレーで、カシャンカシャンと音を立てながら、障子しょうじの向こうの網戸あみど越しに、外へ向けて防虫剤を振り巻いていた。昼間は暑くてどうしようもなかったけど、この時刻にもなれば、窓さえ開けていれば冷房装置クーラーがなくても、十分涼しくて問題はなかった。注ぎ込むそよ風に乗って、樟脳しょうのうのような防虫剤の匂いがほんのり漂ってきた。ちょっと鼻につくけど、どこか懐かしくて、決して不快な臭いではなかった。

「お邪魔いたしました。ゆっくり寝てくられ」

 そういって、女将は部屋から出ていった。電気を消して部屋を真っ暗にすると、窓から差し込む月明かりが相当に明るいことに初めて気付いた。もう十時を過ぎているはずなのに、依然として草むらの虫の鳴き声がかすかに聴こえる。今、私は父が生まれ育った村に来ているのだ……。麻祐はしだいにまどろんでいった。


 その晩、麻祐は夢を見た――。

 麻祐は婚約者と彼の母親とともにピクニックに来ていた。眼下には鏡のように透き通ったオンネトーの美しい湖面があった。麻祐は、婚約者の母親といっしょに展望台に設置されたベンチで話に興じていた。麻祐の前では母親はいつもにこにこの笑顔を絶やさない。麻祐も優しそうな母親にすっかり心を許していた。

 あら、息子が帰って来たみたいよ。そういって母親は、コテージの方向へ歩き出した。その先には婚約者が待っていた。婚約者のところへ行った母親は、そこでなにやら二人切りの会話を交わしたが、やがて、婚約者の顔つきが険悪になった。息子を説得しようと母親は必死に腕にしがみついた。しかし、その母親を振り切って、婚約者は麻祐の方へまっすぐに走ってきた。息を切らせて、婚約者がいった。マユちゃん、今すぐここから逃げ出そう。

 婚約者は麻祐の右手をつかむと、母親がいた方向と反対側へ向かって走り出した。強引に引っ張られているけど、麻祐は嫌な感じを受けなかった。むしろ、このままずっと婚約者といっしょにどっかへ消えてしまいたいと思った。でも、母親のヒステリックな様子が気になったので、婚約者に手を引かれながらも、麻祐は後ろを振り返った。すると、さっきまで一人でいたはずの母親の隣には、帽子にサングラス、マスクにトレンチコートと、いかにも怪しげな身なりの男が突っ立っていた。きっとあいつは探偵だ――! 麻祐のおいたちの秘密を調査して、卑劣にもそれを母親にばらしているのだ。母親の顔つきが、先程とは全然違っていて、とても冷たい目をしていた。すると、横にいる探偵が、突然、帽子とサングラスとマスクを、順番にはずしていったのだ。猛禽類のような鋭い目つき、にやついた口元。徐々に露出する探偵の素顔……。麻祐は思わずあっと叫んだ。あいつは、堂林凛三郎じゃないか!

 麻祐は婚約者といっしょに、走れるだけ走った。ふと気づくと畳の間にいた。疲れたね、ここで休もうか、と婚約者が優しく声を掛けた。のどが渇いたろう、そういって婚約者は水を注いだグラスを手渡してくれたのだが、なぜかその水は赤紫ラズベリー色をしていた。さあ、飲みなさい、と婚約者が飲むように勧めてきた。でも、そのグラスの水を飲んではいけない、と麻祐は本能的に感じとっていた。だから懸命になって、飲むのを拒んでいると、やがて婚約者は怒り出して、なんで僕のいうことが聞けないんだ、と麻祐をとがめた。婚約者は麻祐からグラスを取り上げて、それを強引に麻祐の口に押し当てたが、麻祐が口を閉ざして拒んだので、逆にブチ切れて、代わりに自分がそのグラスの中身をグイっと飲み干してしまった。

 途端に、婚約者の顔がねじれたようにゆがんで、みるみる恐ろしい形相に変わった。喉をむやみに掻きむしり、地べたをはいずってのたうちまわりながら、婚約者はもがき苦しんだ。よく見ると、すでにそいつは婚約者の顔ではなく、別の顔に変化していた。それは、見たこともない男の顔だった……。もしかしたら、この人は私の父親なのかもしれない。

 急に眼の前の光景が変わって、わたしはテーブルの下に隠れていた。理由は分からないが、なぜかわたしは小さな幼児体型になっていたから、相当に低い座卓用のテーブルなのに、その中に余裕を持って潜り込むことができた。私は薄々感づいていた。ここは例の事件が起こった公民館の畳の部屋なのだ。そして、私は、十九年前の七月二十八日の夜にタイムスリップをしてしまい、今まさに、私の目の前で、恐ろしい毒殺魔による卑劣な犯行が、実行されようとしているのだ。

 畳の上で、両脚を後ろへだらしなく伸ばしたうつぶせの状態で、首だけをもたげて、わたしは息を殺しながら前方の様子をうかがっていた。その姿は、まるでビーチランドショーをしているのん気なアシカのようでもあった。でも、次の瞬間、なにかに驚いたわたしは、ザリガニのように後ろ側へほふく後退をしたのである。

 そうだ、たしかに私はあの時、とても重大ななにかを目撃したはずだ。でも、私はいったいなにを見たというのだろう?


 突如、背後に掛かっている鏡から、白い手が伸びてきた。

 さあ、こっちへおいで。マユ!

 鏡の中から私を呼ぶ女性の声がした。次の瞬間、私は白い手につかまれて、鏡の中へと吸い込まれてしまった。


 気が付くと、目の前に倒れている婚約者は息を引き取っていた。でも、それは婚約者ではなく、別の男であった。それに麻祐がいる場所も、畳の間ではなく、いつの間にか、山のいただきにある草原くさはらとなっていた。そういえば、お父さんが自殺をしたのも、たしか山の山頂だった。でも、なんていう名前の山だっけ……。

 ああ、そうだ。フルギツネ山だ――。

 ここがもしかして、その古狐山なのだろうか? たしか、葛和村の全貌が見渡せるって、誰かがいっていたな。でもここからは、森に鬱蒼うっそうと生い茂る木々以外に、なんにも見えやしない。

 呆然と立ちすくむ麻祐の横を、冷たい山風がさっと吹いてきて、そっと頬をなでて、通り過ぎていった……。

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