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10.駐在所

 もう少し歩いていけば、ほどなく公民館へたどり着けそうな気配があるのだが、麻祐の体調も考慮して、恭助たちはやむなくやってきた道を引き返すことにした。今度は下り坂になるから、気分的にもだいぶ楽だった。道路沿いの民家からは、時折、子供の声がしたり、ピアノの音が聴こえてくることもあったが、相変わらず誰も外へ顔を出してはこない。でも、どの民家からも、なんとなくではあるが、中から息をひそめて恭助たちの様子をうかがっているような、不気味な静けさに集落は包まれていた。


挿絵(By みてみん)


 バス停のところまで戻ってくると、交番の前に後ろ手を組んだ警官が一人立っていた。ようやく見つけた住民を逃すまいと、恭助は真正面からずかずかと接近していった。

「やあ、お巡りさん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

弓削ゆげ忠一郎ちゅういちろう巡査部長であります。なにをお聞きしたいのでありますか?」

 年の頃は三十歳くらいの若い警察官だ。恭助たちに警戒することもなく、態度は極めて腰が低かった。

「ええとさ、ここって何県?」

 まずは様子見で、どうでもいい内容から、恭助は切り出した。

「ここは富山県であります。葛輪地区は日本国内でも極めて珍しい、富山県と岐阜県の両方の県にまたがっている集落なのであります」

 警官は大真面目な顔で答えた。

「なるほどねえ。それで、こちらは富山県だけど、じゃあ、岐阜県の葛輪地区っていったいどこにあるのさ?」

「岐阜県の葛輪地区は、すぐそこを流れている葛輪川を下流方向へ進みますと、歩いて十分も経たぬうちに大きな橋に出ます。葛輪大橋と呼ばれておりまして、葛輪地区の住民たちにとっての誇りであり、と同時に、生活のかなめでもある、とても重要な橋でありますが、その橋の向こう側が、もう岐阜県なのであります」

ようは、神通じんずう川を境にして、富山県と岐阜県とに分かれているってことだね」

「神通川をご存じなら、まさしくそれが正解であります」

「あはは、お巡りさんの受け答えっていちいち丁寧過ぎて、肩こっちゃうよなあ」

「恭ちゃん、そのいい方、ちょっと失礼よ……」

 恭助の発言に、思わず青葉がくぎを刺したが、肝心の恭助には、その意図が伝わっていないようだ。

「それでさ、お巡りさん。昔、この集落で大きな事件が起こっているよね?」

「ええと、事件と申されましても。本官はこの交番へ勤務してから四年と三か月になりますが、これといって大きな事件というものは、この平和な村では一つたりとて出くわしておりませんけど……」

「ううんと、そうじゃなくて、それよりずっと昔の、十九年前に起こった事件だよ」

「十九年前とおっしゃいますと、例のあの……事件ですか?」

 弓削巡査部長の顔色が一変した。

「そう、例のその事件だよ」

「かの有名な、細池毒果実酒事件でありますね」

「うんうん」

「ええと、一応本官は生粋きっすいのこの葛和村出身でありまして、かりにも十九年前の事件当時にここで生活をしておりましたが、いかんせん、まだ若干十四歳の中学生の小童こわっぱでございまして、事件に関する詳細となると、語ることは本官の分を超えてしまうのであります」

「でもさあ、お巡りさんだって長年ここで暮らしているんだから、いろいろとうわさ話も聞いているんじゃないの? それをさあ、ちょっとだけ教えて欲しいだけなんだけど……」

「たしかに本官は職業柄、地域住民のみなさまから細池毒果実酒事件のさまざまなうわさ話を耳にしてはおります。しかしながら、本官はまっとうな警察官でありまして、職業上知りえた個人のプライバシーにかかわる情報に関しましては、守秘義務というものがございまして、そのう、一般市民の方々にそれらを公開することは、法律で固く禁じられているのであります」

「犯人の弓削守だけどさ、どんな人物だったのか、お巡りさんは知らないかなあ?」

「恭ちゃん、さっき巡査がいわれたこと、ちゃんと聞いていたの?」

 子供をしつける保護者のように、青葉が恭助を叱咤した。

「青葉――。巡査じゃなくて、正しくは巡査部長だろう?」

 すかさず、恭助が逆に切り返した。今度は青葉がたじたじの状態になってしまった。

「はははっ、本官は、肩書きこそ巡査部長でありますが、それも年齢に相応な階級をいただけただけであって、単なる小さな村交番に勤務する警官に過ぎません。巡査と呼んでいただいて全く結構であります」

 弓削巡査部長が笑って答えた。

「犯人の守でありますか……。たくさんの尊い命を一瞬にして奪い去った狂気の毒殺魔。彼がなした行為は冷酷非道極まりなく、決して許されざるものであります。これを聞いた皆さまは、さぞかしや、周りからしいたげげられたすえに精神錯乱を来したサイコパス的人物をご想像なされたことでありましょう。しかしながら、本官が抱く守の印象はもう少し穏やかでありまして、本官がまだ子供の頃、友達と遊んでいるとよく声を掛けてきて、一緒に竹とんぼを作ったり、高い木になった柿を、木に登って取ってくれたりしたものであります。いい大人なのに、子供と遊ぶのが大好きみたいでありました」

「なるほどねえ。それで、守に対する世間の人たちの印象は、どんな感じなのかなあ」

「ええと、繰り返しになりますが、根拠なき世間のうわさ話を推測で語ることは、守秘義務を有する本官には、とてもできるものではございません」

「ちっ、もうちょっとなのに。仕方ないなあ。じゃあ切り札を出すとするか……。

 あのねえ、こちらにおわすお嬢さんは、なにを隠そう、細池毒果実酒事件の容疑者――弓削守の、実の娘さんなんだよ!」

 そういって恭助は麻祐を指差した。

「ええっ、被害者のご遺族とかではなくて、犯人の守のほうのご遺族ですか……」

 弓削巡査部長が目を丸くした。本当に心底から驚いた様子であった。

「しいっ――。でもさあ、今の話は村人たちに絶対しちゃだめだよ。守ることできる?」

 恭助が人差し指を口の前へ立てて、巡査部長に注文した。

「わ、分かりました。本官も守秘義務を背負ったいち警察官でありますから、健全なる市民のみなさまのためとあらば、秘密事項は必ず最後まできちんと守り通してみせます」

「ありがとう。そういうことだから、俺たちは事件の真相をとにかく知りたいんだよ。実の娘として、なぜこのような事件が起こってしまったのかをね。お巡りさんもこの健気けなげな気持ち、分かるでしょう?」

 恭助はさり気なく詰め寄った。

「はあ、なるほど……。よおく分かります。お気持ちは重々お察しいたします。ですが、この地区の住民から見れば、なんせ守は冷酷無比な殺人鬼でありますから、そのう……、彼に関するうわさは、実の娘さんのお立場からいたしますと、まことに聞くに堪えないものでありまして……」

「そんなのは、はなから承知の上さ。そうでなけりゃ、こんなド田舎まで足を運びやしないっつうの。とにかく、俺たちは真実が知りたいんだよ」

「あの、恭ちゃん。今も、とっても失礼な発言をしているんだけど、どうせ聞いていないわよね……」

 半分あきらめ気味に、青葉が恭助に忠告した。

「分かりました。それでは、本官の知り得たことを全部ご提供させていただきます」

「ありがとう。じゃあさ、さっそくだけど」

「はい、なんなりと」


 この後、弓削忠一郎巡査部長が語った一連の話は、要約すれば以下のようなものであった。

 今から十九年前の平成十一年七月十八日に、弓削守は、実に五年ぶりに葛輪部落へ姿を現わした。かつて守は東京に焦がれて、こんな辺鄙な村から出て行ってやる、と捨て台詞を残したのち、村を飛び出していったのだった。そんな守が何の予告もなしに突然村に舞い戻ってきて、しかも驚いたことに、嫁さんまでいっしょに連れてきたのだ。守は嫁さんを村の衆たちに紹介してから、実は子供もいる、と告白した。村の衆たちは最初こそ驚きはしたものの、とにもかくにもめでたい話でもあるから、素直に守を受け入れた。そんな中、毎年恒例の上葛輪地区と中・下葛輪地区との交流会となる富岐ときの会が、夏の真っただ中の、七月二十八日に開かれた。

「事件当日、本官は中学生でありました」

 弓削巡査部長は、過去に起こった一つ一つの出来事を回想しながら、語り始めた。

「富岐の会ではお酒がふるまわれますが、さすがに未成年の本官は飲むわけにも参りません。ましてや、村の集会にも、未成年であるがゆえに、はなから関心がなかった本官は、その日は家で待機をしておりましたが、父の忠達ちゅうたつは会に出席いたしました。

 父の話によりますと、たしか二十五人の村の男女が集会に集まったそうであります。女性は十一人おりまして、そのうちのなんと八人が中毒症状を発症したというわけでありますから、いかに卑劣で残忍な犯行であったかが、お分かりになりましょう。

 どうやら、毒は女性たち専用に用意されたぶどう酒の中に仕込まれたみたいであります。富岐の会では、もともと男衆だけに酒がふるまわれていたのですが、女衆にも楽しんでもらおうということで、数年前から会長さんが女衆にぶどう酒を提供するようになり、その習慣が今でも定着しているのであります」

「ぶどう酒ってさ、いわゆるワインのことだよね?」

 恭助がキョトンとして、巡査部長に問い返した。

「ぶどう酒は、ぶどう酒なのでありまして、特にこの地区の住民たちは、ワインなどという西洋かぶれのちゃらい呼び方を使用する者は、一人もおりません」

「ちっ、分かったよ。ところでさ、そのぶどう酒が女性だけにふるまわれるという習慣は、村の人たちは全員が知っていたわけ?」

「少なくとも、毎年富岐の会に参加している衆は、知っていたと思われます」

「ぶどう酒は絶対に女性しか飲まなかったのかなあ? その、男の中でもワイン好きがいてもちっともおかしくないと思うけど」

「この村の男衆は、ぶどう酒は甘すぎてあんなのは酒ではない、と強情にいい張っておりまして、とことん日本酒にこだわっております。なにしろ、富山には『立山』という銘柄のうまい日本酒がありますから。本官も最近は、もちろん勤務外の時間でありますが、立山をちょくちょく楽しんでおります」

「会長さんって、どんな人?」

「会長さんの名前は、弓削ゆげ道夫みちおさん。事件当時からずっと葛和地区の会長を務められております。ということは、もう二十年以上も会長職を続けられていることになりますなあ。いやあ、たいしたものです……。

 加えて、道夫さんは『奥飛騨土木建築会社』の社長さんでもありまして、裕福な家庭が多い上葛輪地区の中でも、図抜けてお金持ちのお方であります」

「事件の年の交流会のぶどう酒は、そのお金持ちの会長さんとやらが用意したの?」

「ぶどう酒は二本用意されましたが、そのうちの一本に毒が仕込まれたみたいですね。二本とも会長さんの指示で手配されていますが、実際に酒屋に買いに行ったのは、会長さんではなくて、弓削ゆげ鉄男てつおという人物であります」

「また弓削さんか。容疑者の弓削まもるに、会長が弓削道夫みちお、それからぶどう酒を買いに行ったのが弓削鉄男てつおで、駐在所のお巡りさんは弓削忠一郎ちゅういちろう。あはは、これじゃあ弓削だらけだね、温泉じゃあるまいし」

 恭助がくだらない冗談をいった。

「葛和地区は、半数を超える住民が『弓削』という苗字であります。ですから、この地区では、住民のひとり一人を名前で呼ぶ習慣が、まかり通っております。そうしないと、みんな弓削さん一辺倒になってしまうからであります」

「事件で使用された毒は、どんな毒だったか知ってる?」

「さあ、本官も詳しくは存じ上げませんが、なんでもお茶栽培用に使用される農薬の一種だったと、うかがっております」

「農薬だって?」

「はい、農薬といっても強いのになれば、人が十分に殺せるということでありますね」

「五人の被害者はどういう人だったか分かる?」

「被害者でありますね。まずは守が連れてきた奥さん。つまりは、そちらのお嬢さんのお母上であります。たしか、お名前は恵理えりさんとかおっしゃいましたっけ。次に会長の奥さんの小夜子さよこさん、それから、未亡人の亀井かめいゆり子と、ええと、診療所に勤めていた若い看護婦の宮地みやじ奈美香なみかに、あと一人は誰でありましたかね? ああ、思い出しました。葛輪診療所の院長である恩田おんだ孝明たかあき医師の奥さんだった、恩田のぞみであります。これでちょうど五人となります」

「ふーん。容疑者の妻と、地区会長の妻、村医者の妻と、未亡人に看護士ね。どんな人たちだったの?」

「そうですね。当時中学生だった本官は、未亡人のゆり子が絶世の美人だったことは覚えておりますが、それ以外の女性となると、あまり特別な印象はございません」

 恭助は巡査部長の話を聞いて、手帳に被害者の名前を次のように書き留めた。


 富岐の会で毒殺された、五人の被害者たち――

  弓削恵理 ……容疑者、弓削守の妻。

  弓削小夜子……地区会長、弓削道夫の妻。

  亀井ゆり子……美人の未亡人。

  宮地奈美香……葛和診療所に勤めていた看護士。

  恩田のぞみ……葛和診療所の院長、恩田孝明の妻。


「最後にさあ、お巡りさん、今晩三人が泊まれる宿屋って、この辺にないかな?」

「ああ、それなら中地区に『すずのや』さんという旅館があります」

「すずのや?」

「はい、リンリンとなる『鈴』に屋根の『屋』と書いて、鈴屋すずのやと呼びます。でも、この辺りで旅館があるとすれば鈴屋さんしかあり得ないのでありますが、実を申しますと、本官も最近の鈴屋さんが旅館業を続けてられるかどうかは確信がございません。もしかすると、もうやめてしまった可能性もあります」

「もしやめていたらさ、どうなるんだろう?」

「それは、お三人は今晩寝る場所がない、ということを意味します」

「ええ、そんなあ。じゃあさ、もしダメだったらその時はこの交番に泊めてくれない? 人助けの一環としてさ」

「それは困るであります。男性の方はともかく、そちらのお二人のお嬢さま方をお泊めできる環境ではありませんから……」

「ちっ、やっぱりだめか。仕方ないなあ……」


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