8.逃走
「なかなかないな…」
必要なもの見つかりにくいとは言うけれど、なんでこんな時まで…と思わざるを得ない。
匂いが簡単に漏れそうな建物や、そもそも壁がない馬小屋、中が一瞬で見渡せる商店ぐらいしかない。
簡単に見つかりはしないと思うが、長期間隠れるのには大変だろう。
いつ見つかるんじゃないかと緊張し、こちらの精神が参ってしまう。
ただ、このまま探し続けるのは危険というのも確かだ。
「もう最悪店とかでもいいかなあ…。食べ物いっぱいあるし」
そんなことを考え、あたりをもう一度見まわしたその時だった。
ふと。
それと目が合った。
オオカミを一回りも二回りも大きくしたような巨大な体躯。
闇のように黒いその体には、長い毛がたてがみのようについている。
地に着いた四本の脚からは、遠目でもわかるぐらい長く鋭い爪がついており、その爪は血で赤く染まっていた。
明らかに、だれがどう見ても魔獣だった。
数百メートルは離れていたのにもかかわらず、その視線ははっきりと感じ取ることができた。
僕は、その眼力に竦められ、体を動かすことができなかった。
魔獣は、こっちを向いたまま動かない。
僕と魔獣は、長い距離を保ったまま見つめあう。
そして、ピクン、と、何かに気づいたように顔を上げる。
――気づかれた。
「走るぞ!見つかった!」
もう音を立てないとかそういうことも忘れて、僕は叫んだ。
「えっ…」
家探しで魔獣に気が付いていなかったアリシャの手を強引にとると、有無を言わさずに引っ張り、走る。
残りの余力とか、自分の体力とか、そんなのは全く気にせずとにかく走る。
ただ、いくら全力のダッシュとはいえ、しょせん小さい子供の体。
出るスピードはたいして速くない。
後ろを向くと、魔獣は、その巨体から出るスピードとは思えないほど速く走り、近づいてくている。
くそ、逃げきれない。
そもそも人間が速さで勝てる相手じゃない。
たとえ大人の全力でもすぐに追いかつかれるだろう。
魔獣の姿は、どんどん近づいてくる。
「アリシャ、森に入ろう!」
舗装された道とは違い、森の中は土の凸凹や木の根などがあって走りにくい。
転んだりでもしたら、すぐに距離を詰められて、つかまってしまうだろう。
しかし、このまま走っても追いつかれてしまうのは確か。
ならば障害物の多い森に入って少しでも撒ける可能性を高くしよう。
そういう考えだった。
巨木や茂みに隠れてやりすごせるかもしれないし。
「下に気を付けて!転ばないように」
「うん!」
木の間をすり抜けて、時には茂みを潜り抜けて、進む方向を少しづつ変えながら逃げる。
こっちからも魔獣の姿が見えないのは怖いが、気にせずに走った。
すると、いつの間にか魔獣の生き使いや、足音が遠くなっているのに気づく。
撒いたか……?
「アリシャ、ちょっとそこの茂みに隠れてみよう」
「魔獣どっか行ったの?」
「わからないけどたぶん撒いたと思う。ここでじっとしてれば諦めてどっか行ってくれるかも」
息をひそめて隠れる。
すると、ガサガサっという音がして魔獣が別の茂みから出てきた。
ゆっくりと歩き、きょろきょろとしている。
どうやらあの魔物は視力がちょっと優れているだけで、嗅覚がいいわけでも、熱探知ができるわけでもないらしい。
どうやら僕たちを完全に見失ったようだ。
よし。
これでこのままここにいれば、助かるかもしれない。
あとは早く帰ってくれるのを待つだけだ。
僕たちみたいな子供なんて獲物としてもそんなに興味ないだろうし、たぶんすぐにあきらめてくれるだろう。
しかし、そんな期待とは裏腹に、魔獣はその場を離れようとはせず、あたりを見回している。
そして、あろうこと僕らが隠れているものとは別の茂みに頭を突っ込んだり、死角になっていた木の裏を見たりし始めた。
僕らを探している。
まずい。
なんでこんな、わざわざ人間のたいして価値もない子供二人をここまで執拗に探す、異常なことをするのかはわからないが、そんなことを考えている暇はない。
「エル、このままじゃ見つかっちゃうよ」
アリシャが、不安そうな声を出す。
「ここから出て早く逃げないと」
「だめだ。この距離だとすぐに気づかれて追いつかれる」
ゆっくり逃げようにも、僕らの後ろは障害物もあまりない、開けた場所だった。
べつの茂みに隠れようにもここからだと移動する前に見つかってしまう。
どうすれば……
そうこうしている間にも魔獣はまた一つ、また一つと僕らが隠れていそうな場所を探り、徐々にこちらへ近づいてくる。
「ひぃ……」
魔獣がこっちに向いたとたん、アリシャが小さな悲鳴を上げた。
その小さな体が、恐怖で小刻みに震えているのがわかる。
そうだ。
急にある考えが頭の中に浮かぶ。
二人が助かるのはもう絶望だが、一人なら…。
アリシャだけは救えるかもしれない。
僕は、意を決して口を開く。
「アリシャ、よく聞いてくれ。僕が囮になってあの魔獣を引き付ける」
「え……」
口から出た言葉は、自分への死刑宣告に等しいものだった。
魔獣相手に囮なんて助かる気がしない。
しかし、なぜか悪い気はしなかった。
もうどうせ助からないのだし、どうせ死ぬのなら救える命は救ったほうが気分がいい。
それに、僕はこれが二度目の人生だ。
前世でどうなったかは覚えてないが、こうして転生したということは多分死んだのだろう。
ここでこうして生きていることがイレギュラーなのだ。
これまでの生活は、それなりに楽しかったし、才能がありって未来への希望も残っているアリシャを守って死ぬのもいいだろう。
もしかしたらここでこうやって死んでしまうアリシャを守るために転生してきたのかもしれない。
「僕が石かなんか投げて魔獣の木を引いて逃げる。そしたら少し待って反対側に逃げるんだ。市街に出たら、家を探してそこに隠れる。いいね?」
「いやだよ!エルも一緒に逃げようよ!私一人なんて無理だよ……」
アリシャはほとんど泣きかけながら、小さな声で弱音を言う。
「僕もそうしたいさ。だけどもう二人では逃げられない。大丈夫、アリシャならできるさ」
「でも……」
「もう言い合ってる時間もない。ちゃんと逃げて、生き延びるんだ。そして僕の分まで生きてくれたらうれしいな」
そう言うと、僕は立ち上り、魔獣のほうを向いた。
「あ、待っ……」
アリシャの制止の声も聴かず、僕は魔獣とすれ違う形で走り、逃げる。
魔獣は、一瞬驚いたように静止したものの、僕が狙うべき獲物であることに気づいたのか、こちらを向いて追ってきた。
狙い通りだ、ざまあみろ。
走りにくい場所を選んで逃げる。
大きな体では通りにくい場所などを選んで通って逃げる。
小回りを利かせて逃げる。
僕は、魔獣が追いにくいように、必死になって逃げた。
だが、魔獣と僕の間の距離は開く様子もなく、むしろじわじわと狭くなってく。
しかし、それでいい。
僕の目的は、魔獣から逃げ切ることではなく、時間を稼ぐことなのだから。
体力を振り絞り、全力で走っていると、急に開けた場所へ出た。
魔獣との距離は、もうほんのわずかになっている。
確か こっちのほうは 古いつり橋が ある方。
魔獣が わたっている間に つり橋を落とせば、もしかしたら 倒せるかも。
難しいけど、 試してみる価値は あるかもしれない。
もう朦朧としている意識の中で、とぎれとぎれになる考えの中で、そんなことを考えてつり橋へと向かう。
足はがくがくで、今にも倒れそうになりながら僕はつり橋へと向かった。
つり橋は、思っていたよりもずっと古く、ところどころ板が剥がれ落ちている部分がみられる。
そのはるか下には、流れの速い川が流れていた。
ギシッギシッ
僕が乗ると、嫌な音が鳴る。
これなら、魔獣 が乗った時 に落ちて くれるかも しれない。
そう考えながら後ろを振り向くと、魔獣がつり橋に乗ったのが見えて…
急激な浮遊感に襲われた。
あれ… なんで?
そうか ぼくが ぼくも つりばし に のって いて だから おちて ………
僕は、魔獣が落ちていく様をどこか満足げに眺め、近づく水面を感じながら、
意識を失った。