餅
これは今は亡き、かつての友人との出来事である。
それを彼から聞いたのは、大晦日の夜のことだった。共通の友人はみな帰省していた。私は帰省が面倒であったからという理由で、彼は家族を苦手にしているという理由によって、私達はこの土地にとどまっていた。自ら帰省を拒んだのにも関わらず、独りでは年を越したくないと思った我々は、彼の家で夜を過ごすことになった。彼の住む部屋は、平均的と言える私の部屋よりも三倍は広く、家賃は二倍以上だった。彼を含め何人かで集まって酒を飲もうという話になったときにはよく彼の部屋に集まった。
最初は互いに下手な将棋を指したり、漫画を読んでいたりしていたが、結局私は彼と二人でこたつに入り、こいつは歌が下手だと言いながら酒の入った缶を片手にテレビ番組を見ることになった。私は買ってきた餅を夕飯代わりにしようと提案した。彼は了承し、餅をオーブンで焼いた。
餅が焼けると彼は醤油瓶と焼き海苔を冷蔵庫から取り出した。「部屋がこんなに広くていいね」と何の気なしに私が言い、テレビを眺めながら餅を食べようとしたとき、彼が口を開いた。
「じいちゃんの話なんだけどさ」
だいぶ酒が回っているのか、彼の顔は鬼のように赤い。彼は下に目をやりながら、自らに言い聞かせるように言った。彼の祖父(父方であるとかつて聞いた)については度々話を聞くことがあった。もう何年も前に亡くなったが、相当の地主で、政治家が挨拶に来るのを何度も彼は見たらしい。しかしどうして今、彼が祖父について語りだしたのかわからなかった。
「金持ちではあったんだが、と言っても成金で、人に無理やり金を貸して今じゃ信じられないような額の利息をとって、場合によっては土地ごと奪ってたそうだが。
その性格だから金持ちになったのかはわからないが、祖父は決して善人とは言えないような人間だった。父がちょっとした失敗――本当にちょっとしたものだ。祖父は茶碗に盛られた米が少ないと言うだけで一時間は叱責をしたこともあった――をする度に祖父はこう言った。『お前がそんなものだと、やる遺産はないぞ』そう言ってげらげらと笑った。本気だったのかもしれないし、冗談だったのかもしれない。どっちにせよ、父はへつらうような笑みを浮かべて謝るしかなかった。父だけでなく母や俺、兄と妹にも同じような態度をとった。
俺は何度も父に、祖父から離れた場所で暮らそうと言ったが、その度に父は悲しそうな顔で首を振るだけだった。俺は祖父が大嫌いだったし、大学は絶対に遠くの場所にしようと幼い頃から決めていた。それに気づいているのかどうか、祖父は毎年孫に、媚びるような多額のお年玉を与えていた。札束でもらったことも何度もあった。その日もお年玉をもらったらすぐに部屋に籠って祖父と顔を見合す時間を減らすつもりだった」
私はひどく困惑した。私は彼の物語の行く先を心配した。彼は私の表情に気付いていないようで、蚕が糸を吐くように言葉を続けた。
「六年前の正月の朝のことだった。祖父はこういう行事にうるさく、母と妹に御節料理を毎年作らせていた。手伝おうとすれば、料理は女の仕事だと祖父が叱ることは知っていたから俺は手伝うことはなかった。祖母は俺が生まれる前から居なかった。死んだような扱いだったが、遺影も墓もないことから察するに、きっと出て行ったんだろう。
朝の食卓には豪奢な御節料理が並べられた。『いただきます』の声もなく、母と妹がまだ片付けを終えていない内に祖父は料理に手を付け始めた。
他の男たち、つまり父と兄と俺は炬燵に足を入れながら妹と母を待つことにした。俺は祖父の向かいに座り、父と兄は祖父の斜め左右に座っていた。祖父は肉や海老を、その行為が義務であるように食べている。部屋には祖父が海老を啜る音やげっぷ、肉の咀嚼音だけが響いていた。
変化があったのは、ようやく妹と母が炬燵に入ったときだった。気付くと、祖父が顔を険しくさせ、右腕で強く胸を叩いている。祖父の前には雑煮の汁椀があった。どうやら餅が咽喉に詰まったらしい。顔が桃色に染まっていた。
向かい合う関係にあった父と兄が無言で顔を見合わせ、腰を上げた。俺も祖父を助けるためになにかしなければならないと思い、コップに茶を注ぎ祖父に渡そうとした。急須を握った手が動揺で震え、茶をうまく注げなかった。やや経ってようやく注げた。しかし母が、祖父に茶を渡そうとする俺の腕を叩いた。母の腕に、祖父がつけたものである青痣が見えた。茶が零れて伊達巻を濡らした。文句を言おうと母を見ると、その顔は恐ろしいものになっていたのだ。
人間的表情を失い、石像のように固い顔をしている母は俺を見ていなかった。見ていたのは、祖父とその側にいる兄と父だった。今の今まで茶を注ぐことに集中していた俺は事態の進行を見ていなかった。二人は救助活動をしているのではなかった。兄は容疑者を取り押さえる警官のように、祖父の両腕を後ろに回し、背中に押し付けていた。兄は幼い頃から柔道を学んでいた上、相手は老人だから、両腕を封じることは他愛もないことだったと思う。父はと言うと、立ち上がって左手を祖父のうなじに置いていた。恐らく体重をかけて祖父の立ち上がることを封じるためだ。左手にはさっきまで炬燵の上にあった緑の布巾があり、それは祖父の鼻と口を塞いでいた。
俺は最初は光景の意味を理解できなかった。しかし、二人が祖父を殺そうとしているという事実に気付いたとき、驚きではなく真っ黒な恐怖が俺を襲った。俺は後ずさった。
祖父は激しく抵抗した。すると兄は後ろから抱きしめるようにして、より強く祖父を拘束した。父は左手をうなじから離し、両手で口元を押さえ始めた。
祖父は気が狂ったように暴れた。縄にかけられた獣が逃れようとするように。しかし兄の束縛からは逃げられなかった。祖父の顔は桃色から赤へ、そして紫色へと変色していく。それに従って身体の抵抗も弱まった。
どれほど時間が経っただろうか。数時間のようにも感じられたが、実際は数分にも満たなかったはずだ。いつしか祖父は停止していた。
祖父の震えが終わり、静けさがすべてを包んだ後、ある匂いが部屋に充満していった。祖父のズボンに黒いシミが広がっていた。祖父の膀胱が緊張を失ったために放った尿の匂いだったのだ。
俺と妹は、ただ壁に背を押し当て、真冬の屋外にいるように互いの身体を抱いて事の成り行きを眺めるほかなかった。
しばらくして、兄と父が手を放した。祖父の肉体は糸の切られた操り人形のように倒れた。胸が炬燵の縁に当たると、あぁという祖父の声がした。胸が押され、空気が声帯を通ったために発せられた音であることは分かるだろう。だがそのときの俺には、音はまるで、魂が肉体から抜け出たために起こったかのように感じられた。
祖父の死体は横に崩れた。頭部が床に当たった。鈍い音が部屋に響いた。丁度祖父の顔は俺に向けられていた。その瞳は何物も見てはいなかった。顔は信じられないほどに赤く、赤鬼のようだった。
その後、父と兄は無言で部屋を片付け、警察と救急車を呼んだ。
父と警察との間でどのようなことが起こったのかはわからないが、結果祖父の死は不運な事故として片づけられた。祖父の葬式は極めて簡単な密葬で開かれ、父と母の下には多額の遺産が残った。俺がこの部屋に住めるのはそんな訳だよ」
それきり彼は口をつぐんだ。
私は手に取っていた餅を皿に戻した。私は言うべき言葉を探したが、小魚のように、指先に触れてもすぐに手から逃れた。……長い沈黙の後、私の口から零れたのは次のような言葉だった。
「お前は助けようとしたんだな」
声は間抜けに響いた。私の問いに彼はにやりと笑った。彼は海苔を真っ黒な醤油に浸し、白い餅に巻いた。
「ああ、まだ金をもらってなかったからな」
そう言って彼は大きな餅を口に放り、噛まずに飲み込んだのだった。