少年と結界
森の奥深くには悪霊が棲む。村に残る言い伝えだった。
この時代、森は魔境である。一歩踏み込めば生きて帰れるかどうかもわからぬ危険な地。闇の者。魔物。盗賊。狼。それどころか足をくじく、いや、方角を見失うだけでも容易に命を落とす。
だが、そこから得られる恵みなしには人は生きていけぬのだった。木材。山菜。キノコ。薬草。木の実。野獣の肉や毛皮。
恵みと災厄。二面性を持つ森は、未知の領域であるがゆえに少年の冒険心を刺激した。悪霊探しに出かけて逃げ戻った子供が両親にこっぴどく叱られるのは毎年の風物詩である。時折戻らぬ者が出るのも含めて。
今年も、そんな少年が森へと出かけて行った。
◇
「……お腹すいた」
「我慢しろよ。きっと、あともうちょっとだって」
既に日は落ち、世界を支配しているのは闇と静寂である。本来人の類は、結界に守られた集落でじっと息をひそめているべき時間だった。
にもかかわらず、夜の森を歩いているのはふたりの男の子。
彼らは森の悪霊を探しに来たのである。
そのうちの片方。遅れつつある小柄な少年は思う。そもそもなんでこのような事になったのか。
彼が友人とともに出かけたのは朝だった。さすがに夜の森、太陽の加護がない時間帯に悪霊を探しに行く度胸はない。にもかかわらず、こんな時間帯に森をさまよっている理由はひとつ。迷ったのだ。
そもそもこの探索行のきっかけは、少年が魔法使いから手に入れた護符にあった。
災難避けの力が込められているというこれがあれば、悪霊と出会っても大丈夫だという確信めいたものを抱いていたのである。今になって思うと、野菜一束と引き換えにしたものにどれほど過大な期待を抱いていたのかと震えが止まらないのだが。
首から紐でぶら下げた木の札。何やら奇妙な文言が掘りこまれた護符を握りしめ、少年は相方の後を追う。
「……」
少年は知らなかった。その護符の作り手。数日前から村に出入りしているローブの男は、凄腕の魔法使いなのだと。彼は凝り性で、野菜の代価として差し出すような護符でもそれなりには―――あくまでもそれなりにだが―――手が込んでいるのだと。
「おーい。置いてくぞー」
友人は知らなかった。その護符は、持ち主しか守らぬのだと。
◇
森の中を、あれから四半刻ほど歩いたころだろうか。
前方を歩く友人も、さすがに不安になってきたらしい。
「……なあ、なんかやばくないか?」
「さっきから何度も言ってるでしょ……」
やっと友人が自分の言に耳を傾けるようになり、少年は安堵した。
これ以上の移動はあまりよろしくない。暗闇で足を踏み外せば怪我をするかもしれないし、そうでなくても歩き続けて体力を消耗するのは賢い選択と言えなかった。
どこかの木の根元にでも身を寄せ、夜をやり過ごすのが賢明と言えよう。
少年がそう提案しようとしたとき。
「……なんだありゃ?」
友人が指さした先。そこに浮かんでいたのは―――
「灯り?」
赤い光。木々の合間、ふたつが浮かんでいるそれは、ゆらゆらとしているように見えた。村の大人たちが探しに来てくれたのだろうか?
友人も同じ結論にたどり着いたのだろう。彼は踏み出すと、大声で叫んだ。
「おお~い!こっち―――」
友人が声を張り上げた刹那。少年は、致命的な勘違いをしていたことに気が付いた。
そうだ。あれは灯りなんかじゃない。あんな灯りはない。ふたつの間隔はずっと同じ。高さも。あれは目だ。赤く光る何者かの目だ!!
血も凍るような思い。
少年は急いで、友人の口を塞ごうとした。
手遅れだった。
そいつは、友人を"視た"。
言葉とは魔法である。呼びかけるという意図をもって友人の口から飛び出た声は、赤い目を持つ何者かに届き、呪術的な経路を形成した。封じられていた、悪しき怪物へとつながる経路を。
触れていた友人の肉体から温かみが抜け出ていくのが少年には分かった。口から、生命の根幹たる大切なエネルギーが失われて行くのである。たちまちのうちに、ぞっとするような冷たさとなる肉体。少年が思わず手を放したのはやむを得ない事だったが、それは友人を救う最後の機会を―――口を塞ぐ機会を手放したことと同義であった。
生気の全てを吸いとられ、少年の友人だった男の子は立ったまま死んだ。
抜け殻となった肉体は少年を振り払い、ギクシャクと歩いていく。死にぞこないと化した死体は、進行方向に張られた結界―――木々に結び付けられ、円形の空間を隔離していた古い縄にぶつかると、込められていた清浄なる魔術と反発。凄まじい勢いで燃え上がった。
百年も昔、魔法使いによって設置された古き結界は、内側に悪しきものを封じ込めるためのものである。故に、外側からの攻撃を想定していない。
かつて男の子だった不死の怪物は、抜き取られた生気の代わりに得た邪悪な生命を燃やしつくし、結界へ倒れ込みながら力尽きる。
長い歳月で老朽化していた結界が、最後のひと押しによって限界を迎えた。
縄がはじけ飛ぶ。場を清めていたエネルギーが霧散し、内部に封じ込められていた悪霊が解き放たれた。
それは、鎧武者だった。
全体に錆が浮かび上がった甲冑。その兜で覆い隠された顔の奥、爛々と輝く二つの瞳は、しかしすぐそばで震えている少年を見てはいなかった。
見えていないのだ。少年が胸に下げている護符の作用であった。
そいつは、まっすぐに歩き出した。村の方へと。
夜は、長い。