氷原の夜明け
死んだ。
女勇者は、この瞬間ようやく、望んでいたものを得たことを察した。
すなわち、真の死。
頭を砕かれた彼女は、もはやただの死者であった。偽りの生命に煩わされることはもう、ない。
思えば、死を呪ったことから始まった旅だった。自害しようとしても果たせず、殺されることを望んで旅を続け、闇の種族を屠り続けた。妖精郷でささやかながら救われ、故郷でようやく生きがいを見つけた。同類との出会いと別離。第二の故郷を後にした、果て。随分と回り道をしてしまったが、ようやく己は死ぬことができたのだ。
だが、心残りがひとつだけある。
主人は。少年騎士は、自分なしであの竜王を倒すことができるのだろうか。
死なれては困る。来世には、彼を背中に乗せなければならないのに。いや、それ以前に、漆黒の竜王を倒さなければ、彼を背中に乗せる未来自体が潰えるのか。
だが、もう己にできることは何もない。
女勇者は、死者だったから。
◇
少年騎士は、空中で目覚めた。
瞬間的に意識を失っていたらしい。周囲を見回そうとして、首が締まっているのに気が付く。マントが絡みついている。全体重がそこにかかっていたのだ。
手でマントを掴み、一息ついてから、ようやく騎士は周囲を確認することができた。
己はマントにぶら下がり、宙づりとなっている模様。そのマントが引っ掛かっているのは竜王の鱗だった。
地表は、遥か下。落下していれば命はなかったであろう。
そして、転がっているもの。小さな小さな染みに見えるのは、首のない裸の女体。
ピクリとも動かぬ。急所である頭を砕かれたのだ。もはや、偽りの生命すらも失われたのは明白であった。
女勇者は、来世へと旅立ったのだ。
残るは己ひとり。寂しくはなかった。彼女とはすぐに会えるはずだから。
けれど、もう助けはない。
自分一人ではここまでこれなかっただろう。そもそものきっかけ。祖父を彼女が救ってくれたからこそ、少年騎士は竜騎士になると決意した。あの坑道で命を救われた。村では闇妖精たちを退け、そして今も、ここまで運んできてくれた。
主が、竜王を倒すと信じて。
ならば、その信頼に応えなければならぬ。
少年は、まだ握ったままの剣をまず、鞘に納めた。これより逆鱗まで登らねばならぬ。
次いで、勢いをつけると背後の鱗へととりついた。
巨大な鱗は、随分とゴツゴツしていて手がかりがたくさんある。ありがたい。
具足を捨てていく。邪魔だった。
そして最後にマントを外す。目が粗く、分厚い代物なおかげで助かった。そうでなければ体重で千切れていただろう。裏の覚え書きは大丈夫。あくまでも覚え書きだ。原本は実家にある。何なら後で記憶から復元してもよい。
それもまずは生き延びてから。
喉元はさほど遠くない。大丈夫。
これだけは捨てずに残した、鉤縄を投じる。
それは見事に目当ての場所へと引っかかった。後はあそこまで登るだけ。
竜王は動かぬ。寝起きのせいかもしれない。都合はよかった。
最後の距離を詰めると、騎士は片手で腰の大剣を抜いた。だいじょうぶ。外しようがない。
一枚だけ上下逆さになった鱗。それは、少年騎士の身長の、倍以上はあった。
その上部へ狙いを定める。
一撃。
竜殺しの魔剣は、想定よりもはるかにあっさりと、鱗を切り裂いた。噴出する血が、少年騎士の全身を濡らす。
直後。
竜王が、仰け反った。
―――GUUUUUUOOOOOOOOOOOOOOOO!?
響き渡る咆哮は、竜王の絶叫であろう。効いているのだ。
予期していた騎士は、振り落とされはしなかった。しっかりと鱗と、そして剣を手掛かりに体を固定していた。
いや。
固定しようとしていて、剣は随分あっさりと、下がった。抵抗なく切れたのである。
足場から振り落とされた騎士が落下せずに済んだのは、剣が下端で引っかかったからであろう。
血の噴出は凄まじい。もはや、少年騎士の頭頂部から足の先、背中に至るまで濡れていない部分などない。
だが、それですら竜王は健在だった。
刃が小さすぎるのだ。上半身だけで数百メートルもの巨体である。
だから、騎士は一度、刃を引き抜いた。改めて突き込むために。
二度目の攻撃は、斜めに突き刺さった。
再度絶叫が響き、巨体が震える。されど、少年はしっかりと鱗に掴まっていた。二度。三度と攻撃を繰り返し切り裂いた彼は、ついには逆鱗を引きはがすことに成功した。その裏側に密集した、脆弱な組織を露わとすることに成功したのだ。
そこへ、反撃が来た。竜王の爪が、自らの急所をえぐる事も厭わずに振るわれたのである。
少年騎士は、咄嗟に傷口へと潜り込んだ。竜王の喉に開けた穴へと。
直後。
穴の外から、凄まじい衝撃。爪が喉をかきむしっているのだ。
もはや外に出ることはかなわぬであろう。そんなことをすれば引き裂かれる。されど、少年が中に居続けることもできなかった。膨大な血で窒息しかけていたから。
だから後は、時間との勝負だった。竜王が致命傷を受けるのが先か。少年騎士が窒息するのが先か。
無茶苦茶に剣を振り回す。やわらかい体組織がずたずたに引き裂かれていく中を、騎士は突き進んだ。
やがて、息ができなくなったころ。
外で、喉をかきむしる気配が消えた。
竜王が力尽きたのだ。
―――ああ。竜王を倒した。
少年の内にあったのは、感慨。
偉業を成し遂げた。神を倒したのだ。暗黒神にも匹敵する、強大なる神性を。
今いる場所が、傾いでいくのを感じる。竜王が倒れていくのだろう。
随分経ってから、衝撃を感じた。
予想より小さい。体組織がショックを吸収してくれたおかげであろう。
後は、外へ逃れるのみ。だが。ああ。もう、息が続かぬ。外へ出るだけの力は、もうない。
その時だった。
手を、引かれた。冷たい、死者の手。血の通わぬ青白い手のように感じた。もう女勇者は死んだというのに。
それに導かれて、少年騎士は這いずった。血にまみれ、肉の中を這い進んだのである。
やがて差した一筋の光。
それを頼りに進んだ彼は、急に楽になったことに気が付いた。外へたどり着き、呼吸ができるようになったのだ。
傷口から転がり落ちる。
そこは、隙間だった。巨大すぎる、竜王の体躯。それが倒れた先に氷の割れ目があったのである。ここから這って行けば、脱出できそうであった。
周囲を見回す。
鱗と氷の隙間から伸びているのは、押しつぶされた女体の左手だった。女勇者の。
彼女が導いてくれたのだろうか。分からぬ。少年騎士には分からなかったが、それでも女勇者へと感謝の気持ちを捧げた。
そして、割れ目の外を目指す。生きるのだ。目的を果たすためにも。
そう。混血児の少女を救うという女勇者の目的に付き合って、ここまで来た。
身一つで、少女を運ばねばならぬ。困難な帰途になるであろう。まずは最寄りの野営地まで戻らねば。あそこに、戦いと関係ない荷物は全ておいて来た。あそこまでいけば、生き延びることはできるであろうが。
生き延びれば次は、探しに行かねばなるまい。女勇者を。彼女が行きそうな場所を探さねばならない。きっと見つけ出そう。そうして、ようやく己は竜騎士となるのだから。
外の世界。夜が終わる。そう。終わったのだ。
氷原に、太陽が昇る。




