幽界
―――暖かい。
女勇者が目覚めたとき、その身は寝台に寝かされていた。藁を詰めただけの粗末なものなのに、随分と心地よい。
そこまで気付いた彼女は、飛び起きた。周囲を見回して呆然とする。
粗末な小屋の中だった。屋根や壁は丸太をそのまま組んで作ったのだろう。隙間を塞ぐのに使ったのは苔であろうか。床は土間になっており、真ん中に小さな囲炉裏が設けられていた。
火にかけられている鍋からは、おいしそうな匂いが漂っている。
いったい、何が。
そして気づく。声が出ていた。手で首周りを触る。
―――ある。そんな、馬鹿な。
女勇者はすぐさま己の裸身を見回し、異常を悟った。異常がないという異常を。
五体満足。左腕がある。鎖骨も断たれていない。胸に穴なんて開いていない。腹が溶かされてもいない。擦り傷ひとつない、血が通った、完全な肉体。
―――生きてる。
そうとしか結論付けられない。死んで以来一度も感じたことのない、暖かさに包まれている。それに、常に感じていたあの気怠さや、精神的苦痛をまったく感じなかった。
―――私は、不死の呪いを、自分にかけたはずなのに。
涙があふれてくる。ここは天国?自分は知らないうちに、とうとう死ぬことができたんだろうか。
だが、真の驚愕は後からやってきた。
小屋の扉が開く。粗末なつくりのそこから入って来たのは、手に水がめを抱えた若い娘。蒼みがかった黒髪が美しい、この世の者とは思えぬ儚げな少女である。彼女は女勇者が起きたのを見ると、にこりと微笑み、そして告げた。
「あら。目が覚めたのね。気分はどう?」
◇
「森で倒れているあなたを見つけて、ここまで運んできたの。荷物は重くて運べなかったからおいてきてしまったわ。ごめんなさいね」
小屋の中。
少女の発言に対していえ、と答えてから、女勇者はまだ自分が言葉を忘れていなかったことに驚いた。この半年、彼女へ投げかけられたのは罵声や呪いの言葉ばかりで、己は一言も発さなかったから。
それにしても、異様だった。あまりにも当たり前すぎる世界が。窓から差し込む陽光を浴びても、女勇者には何の変化もない。不快感はなく、どころか暖かな日差しを心地よくすら感じていた。
「それにしても、一体何があったのかしら。あんな大きな斧を持って倒れているだなんて」
少女の問い。
女勇者は思案し、最小限の事だけを告げた。闇の種族と戦いながら旅を続け、あの森にたどり着いたという事。
「そう。大変だったのね」
少女は鍋をかき回すと、木の器に中身をよそおった。中身は、山菜と魚、キノコ。
それを受け取った女勇者は、ありがたくそれを口にした。
おいしい。
生の喜び。とっくの昔に忘れていたと思ったのに。
女勇者の眼から、再び涙があふれだした。
そんな彼女の背中へと回されたのは、少女の手。
「可哀想に。辛かったのでしょうけれど。もう、大丈夫だから」
背中をさすってくれる少女の掌は、とても柔らかで、暖かかった。
女勇者は、いつまでも泣いていた。
◇
夜の森。
散策に訪れた魔法の王は、大変に興味深い発見をしていた。
巨大な戦斧。持ち主のいないそれが、大地へと転がっていたのである。とてつもない量の血を吸って来た業物であることは一目瞭然だった。かけられている魔法も強力だが、それよりは武器そのものの経歴の方が稀有である。
しかし。そこに染み付いているであろう莫大な怨念が見当たらぬ。持ち主といい、一体どこへ行ったのやら。
魔王は周辺を見回した。
この森は、彼女が散策へと出かける際によく用いる出入り口のひとつだった。異なる階層同士の区別が曖昧で、容易に幽界から物質界へと降りられるのである。もっとも、自由に出入りするためには魔法の心得が必要であるが。
魔王は、珍しいものを好んだ。とはいえ、己の領地に厄介事が入ってくるとなれば話は別である。何か問題を引き起こす前に、速やかに排除せねばなるまい。
彼女は異なる世界の境界をまたぐと、帰途に就いた。




