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Avalon Rain ~終焉の雨と彼女の願い~  作者: 音無 一九三
第二章【襲来のイクリプシアと動き出す歯車】
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20 陰鬱なる嫉妬

 

「うぁっ…!」


 ゴッ、と何か固いものがぶつかるような音と、小さな悲鳴が響き渡る。

 そこは、資材倉庫の1つ。10畳程の広さの平屋だ。


 そこまでぎゅうぎゅうに物が入れられている訳ではないので、スペースも十分にある。

 何より、こんな時間ならば人気も無い。


 誰かに後を付けられていたようだったが、それも幾度か『転移魔法陣』を利用することで撒いてきた。

 だから、誰にも気付かれるものか。



 暗い倉庫内を照らすのは、天井に取り付けられた『輝石』による小さな照明が1つのみ。

 その光源が、うっすらと3つの影を作り出していた。


 内2つは、まるでもう1つを嬲るように、時折腕や足が動いている。

 そして、その2つの影にいいようにされているもう1つの影は、元々は資材を固定するためのものだろう鎖によって両腕を吊るされた、膝立ち状態のものだった。



「ふふ……随分みすぼらしい姿になったじゃない。ねぇ!」


 再び、鈍い音と圧し殺したような悲鳴があがる。

 額を小突かれた紅蓮の髪の少女は、しかし繋がれた鎖によって途中で引き戻されるようによろける。


 鎖のせいで、座ることすら許されず、続けざまに行われる暴力によって、立つ力も失われている。


 尤も、仮に体力が残っていたとしても、抵抗等出来る筈もなかった。



 少女の首元には、白い首輪が付けられていた。

 鎖霊の首輪(リーター・チェイン)』と呼ばれる、元々は生け捕りにしたイクリプシアを無力化するための首輪だ。


 イクリプシアの無力化を目的に作られたこともあって、その主な働きは『装着者に対する言霊結(リート)』──延いては想力の抑圧だが、副次的に魔力の抑制効果も持っている。


 当然だ。『言霊結(リート)』が使えずとも、イクリプシアとて魔法を扱えるのだから、想力だけではなく、魔力も抑えなければ意味がない。


 そう、魔力をも抑える──つまり、これは人間に対しても(・・・・・・・)有効な代物(・・・・・)だということだ。



 そして、これも当然のことであるが、この首輪は通常の手段では外れない。

 この街──レーヴェティアは勿論、基本的に一部の限られた者のみが所有する鍵を使わなければ、外すことは叶わない。


 しかも、よりによって首輪なのだ。腕輪や指輪なら、まだ切り落とすという選択肢もあっただろう。

 だが、首を落とす訳にはいかないし、乱暴な手段に訴えようとも、如何せん首にピッタリとフィットしたこの金属製の首輪を外すには、かなりの危険が伴うこととなる。



 つまり、付けられてしまえば最後、鍵の所有者の力を借りなければ、魔力の使えない矮小な人間に成り下がるということだ。



 そう、今この瞬間、少女は無力だった。魔力の使えない人間が、魔力を使う人間に勝てる道理はない。

 それこそ、凶器を持った大人と、ようやく二足歩行を覚えた子供くらいの力の隔たりがあった。



 だから、無抵抗に暴力を振るわれる。


 可愛らしく着飾っていた服はボロボロに破かれ、そこかしこに穴や裂け目が出来ている。

 そこから覗く身体も、至るところから血が滲み出ている。


 どころか、右足は有らぬ方向へひん曲げられ、見るに耐えない状況だった。


 それは最早、拷問と称しても憚られないような有り様だった。


 ただひとつ拷問と違うのは、この行為は何らかのことを聞き出すために行われているものではない、ということだった。



「ホント、いい加減目障りなのよね、あんた。昔っからそうだった。いつもいつも…!」


 言葉と共に振るわれた短剣が、少女の頬を薄く切りつける。

 すぐさまその軌跡から、紅い雫が溢れ落ちた。


 こうした行為が、既にどれだけの時間続いているのか。

 時には斬られ、時には柄頭や鍔で殴られ、或いは爪を剥がされ、骨をへし折られ。

 目的が行為そのものであるだけに、この時間に明確な終わりはない。


 あるとすれば、それは彼女達の怒りが収まった頃だろう。


 額を小突かれた際に流れた血によって滲んだ視界には、怒りに顔を赤くしながらも、この状況が心底嬉しいといったような、上気した表情の女性の顔。



 ……よく見知った顔だ。それこそ幼い頃から。

 いつもいつも突っ掛かってきて、嫌がらせをしてくる。昔から変わらない。


 大人になっても、変わらない。可哀想な人達。


 少女は──ロッティは、そんなことを考えていた。



 そんな憐れみさえ感じさせる眼でぼうっと見られ、それまでの嬉しそうな顔を歪める女性。


「……何よ。何なのよその眼は!」


「っが…ぁ……!」


 鈍い音。今度は平手打ち等ではなく、ロッティの小さな身体に、膝が叩き込まれていた。

 鳩尾に深々と突き刺さるその一撃に、吐き気が込み上げてくる。


 何とかそれを堪えたものの、口の中には錆びた鉄のような味が滲んでいた。

 どうやら今の蹴りで、内蔵が少なからぬダメージを負ったようだ。


 ゴホゴホと咳き込みながらも、依然としてロッティの憐れむような眼は変わらない。


「その眼で見るのをッ…! やめろッ…!」


 ウェーブの掛かったブロンドの髪を振り乱しながら、ゴス、ゴス、と何度も何度も短剣の柄をロッティの頭に振り下ろす女性。

 彼女の名は、レレナ・バレンティア。ライオ・クォンタム率いる『紅蓮の炎』のメンバーの1人。


「いつもいつもいつもいつも…! 何であんたがっ…! あんたなんかぁああッ!!」


「レレナ! ちょ、ちょっと、落ち着きなって…! あんたやり過ぎだよ! こいつを殺す気なの!?」


 未だ短剣を振り下ろそうとするレレナを後ろから羽交い締めにして止めたのは、彼女と同じく『紅蓮の炎』のメンバーであり、レレナの幼馴染みでもある、深い緑色のショートカットの女性──シル・ローラント。


 これまで2人でロッティを嬲っていたが、流石に度を越えたレレナの暴行に、頭が冷え始めていた。



 明らかに、冗談で済むレベルを越えた状況だった。

 こんな状況になるまで気づかなかったというのも情けない話だったが、それも仕方のないことかもしれない、とシルはレレナを押さえながら思っていた。


 ──悪酔いしていたのだ。幾分かレレナより控えて飲んでいたから、シルが冷静になる方多少早かったというだけの話だった。


 とはいえ、その深酒の理由だって、今目の前にいるこの惨めな少女が多分に関わっていることなだけに、悪酔いしていなくとも、虫の居所が悪かったことに変わりはない。



 そう、全てはこいつが──ローゼリッテ・セブンスワースがいけないのだ。





 ********************


「「乾杯っ!!」」


 それは、アルフ達がヴァンの店で後片付けをしていた頃のことだ。とある行きつけの酒場で、『紅蓮の炎』の面々はささやかな祝賀会を行っていた。


 (さき)のヴェグナ戦での活躍も相まって、つい先程、とうとう彼等はSランクパーティとして認められたのだ。


 騎士である以上、Sランクというのは、単なるランク以上の意味を持つ。

 何せ、Sより上のランクは騎士としての本分──対イクリプシアを見据えた戦力に計上出来ることを意味するものなのだから。



 つまり、Sランクとは、イクリプシアが相手でも戦力としてカウントしても問題ない実力の持ち主である、ということの動かぬ証なのだ。



『紅蓮の炎』は、男性2名、女性2名の4人組のパーティだ。全員が同い年の20歳。

 ライオ、レレナとシル、そしてライオの友人であるノエル・ハインツ。

 結成して数年、早くもAランクまで上り詰めた彼等は、レーヴェティアでも有力な若者として名が通っていた。



 そんな彼等──というよりも、リーダーであるライオが掲げていた目標の第一歩が、Sランク騎士へ昇格であった。

 今日は、それが達成された日だったのだ。


 だから、4人とも、いつも以上のペースで酒を飲んでいた。



 宴会が始まって1時間程で、酒に弱いライオがぶっ潰れて、テーブルに突っ伏して眠り始めた。

 そんな様子を、ノエルが嘆息混じりに見下ろす。


「まったく…大して強くない癖にガツガツ飲むんだからなぁ…。毎回部屋まで連れて帰らされる僕の身にもなって欲しいよ…」


「いいじゃないのよ。ライオが飲むのなんて本当にたまになんだし、その時くらい面倒見てあげてもバチは当たらないんじゃない?」


「そりゃそうだけど。毎回ライオを背負って帰らなきゃいけないから、思う存分飲めないんだよねぇ…僕は」


「ウチ等の中じゃ、ノエルが一番強いもんなぁ…。いつもご苦労さんだよホント」


「まぁ…いいんだけどね。ライオを連れ帰った後、いつも1人で飲み直してるから」


「あんたそんなことしてたの? 寂しい男ねぇ…」


 ケタケタと笑いながら、ワインを口に運ぶレレナに、しかしノエルが半眼になって反撃を入れる。


「そういうレレナこそ、中々ライオには振り向いて貰えないみたいだね」


「んぐ…! ごほごほっ…! ちょ、ちょっとノエル! あんた…!」


 何で知ってるのと言いたげに目を見開くレレナに、ノエルが呆れたように付け加える。


「あれ、気づいてないとでも思ってたの? レレナわかりやすいから、すぐに気づいたよ、僕は。多分気づいてないのは、本人だけじゃないかなぁ…」


「……」


 大人しそうな、落ち着いた好青年といった感じのノエルだが、その実中身は結構腹黒い。

 ポロッと毒を吐く毒舌キャラにして、限界知らずの酒豪。


 その上、どうやらそういった浮わついた話には敏感なようだった。



「まぁレレナがわかりやすいってのはウチも同感。好き好きオーラ全開だもんなぁいつも」


「シル!」


「っはははは!」


 顔を赤くしてキーキー言っているレレナをからかいつつ、シルはどこ吹く風といった様子でビールを(あお)るシル。

 しかし、そんなシルにもノエルの毒矢が飛んでくる。


「そういうシルも、中々抜け目ないよね。ついこの間街の外へ出たときは、こっそりライオと夜の散歩なんて洒落込んでたじゃない」


「ぶふっ…!?」


「はぁ!? ちょっとシル、どういうことよ! いつの間にそんな…!」


「え、いや、あれは…しょ、食料の調達だよ!」



 賑やかな女性陣を遠巻きに眺めながら、ノエルは心の中で呟く。


(尤も、2人が頑張ってるのに、肝心のライオ本人はローゼリッテさんにご執心なわけだけどね…)


 そもそも、この『紅蓮の炎』というパーティは、ライオに首ったけなレレナとシルがライオを誘ったことで出来上がったパーティだ。

 ノエルは、ライオが男1人になるのを避けるようとして頼み込んで……というような経緯によって加入したのだった。


 言ってしまえば、ノエルはこのパーティにとって、ライオの心の安寧と、お熱くなる2人を宥めるための要員であった。



 そりゃあ、毒吐きたくなるのも仕方がないだろう。



(……まあ、それでもライオへの好意だけでここまで強くなるっていうのも、十分凄いことではあるんだけど…)


 ある意味感心するのは、レレナとシルにとっては、別にSランク等どうでもいい、ということである。


 あるのはただ、どちらが先にライオと結ばれるか、という、何ともお花畑な2人組であった。


 だが、にも拘わらず、純粋にSランクを目指して躍進するライオにちゃんとついてきている辺り、本当に見上げた根性だ。

 惚れた男のためにここまで頑張れるというのは、純粋に評価出来る。



(僕としては、さっさとどっちかとくっついて欲しいんだけどなぁ…。ライオも罪な男だよね…)


 もう飲めねぇ、なんて苦しげに寝言を言いながら突っ伏しているライオをちらと見て、ノエルは再びため息を漏らした。



 途中少しだけライオが復活したり、また潰れたりと、『紅蓮の炎』はお酒を楽しんでいた。

 普段はそこまで飲まないレレナとシルも、この日ばかりはペースが早かった。


 それほどに、Sランク昇格が決まったときのライオの顔は嬉しそうだったのだ。

 見ている方が、嬉しくなるほどに。


 ライオがSランクを──強い騎士を目指している理由が、たとえあの赤髪に由来すると知っていても、それでも彼女達は嬉しかった。



 始まってから、もうけっこうな時間が経っており、ちらほら客層も変わってきていた。


 ノエルがふと壁に付けられた時計を見ると、時刻は既に深夜を回っていた。

 そろそろお開きに、とも思ったが、話に花が咲いた女性陣は、もうしばらく掛かりそうだ。


(……まあ、ライオが起きてくれるまで待つのもいっか。僕もたまには沢山お酒飲みたいしなぁ)


 そんな考えのもと、今日はめでたい日でもあるし、と、ノエルは今日くらいは明け方まで飲んでいてもいいだろうなんて思い、相づちを打ったり毒を吐きながら、お酒を呷る。



 事が起こったのは、それからしばらく経った頃だった。



 お手洗いに立ち上がったレレナは、トイレから戻るときにふと、トイレ近くにいた別の客の声が耳に飛び込んできて、思わずその場に身を潜ませた。


「そうそう、さっき入り口近くの席に『紅蓮の炎』の面々がいただろ? あいつ等、今日──もう昨日か。昨日付けでSランクになったらしいぜ?」


「へぇ、とうとう『紅蓮の炎』もSランクか。若いのにやるもんだなぁ…」


「まぁリーダーが西騎士団長の弟だしな。そいつと一緒につるんでるんだし、実力に関しちゃ血統書付きみてぇなもんだろ」


「そりゃそうだな。あーあ、やってらんねぇな。オレ達ゃあいつ等より一回りも上だってのに、まだBランクだもんなぁ…。Sランク昇格って、確かこの間のヴェグナ戦での功績が認められて、とかだっけか?」


 男達の話に、盗み聞きをしていたレレナは踊り出したくなる気分だった。

 だってそうだろう、誰かはわからないが、自分達の実力を認めているといったニュアンスの話が聞こえてくるのだから。


 嬉しくならない訳がない。



 ──だが。


「……それがよ、実は少し気になる話を小耳に挟んだんだ」


「あん? いったい何だよ?」


「実は、Sランク昇格の話……あの『勝利の御旗(フューリアス)』にも上がってたそうだぜ」


「『勝利の御旗(フューリアス)』に!? あの問題児共がSランクぅ? 冗談だろ?」


「…それがそうでもねぇんだな。何せ、ヴェグナ騒動で騎士団長達を除いて最も活躍したのは、その『勝利の御旗(フューリアス)』だからな」


「マジかよ…。あの問題児共がなぁ…。つい昨日だって、グレイの奴がやらかして西騎士団長達が激怒してたし、問題行動ばっか目にいっちまうな。あ、てことは、あいつ等もSランクか?」


「いや、あいつ等はCランクのままだとよ。まあ、普段の素行が足を引っ張った形だな」


「んだよ、別に面白くも何ともねぇ話じゃねぇか」


「まだ続きがあるんだよ。知ってるか? 『紅蓮の炎』が倒したってヴェグナ…殆どは『勝利の御旗(フューリアス)』が削ったらしいぜ?」


「なっ……じゃ、じゃあ『紅蓮の炎』は、美味しいとこを取っただけってことか!?」



(はぁ!? 何言ってんのよ…! 第一あたし達が行かなかったら、あいつ等生きてもいないわよ!!)


 思わず飛び出そうになる身体を何とか押さえつけて、レレナは歯を食い縛る。

 だが、そんな彼女にさらなる言葉が飛び込んできた。



「そういうことだな。つまり、あいつ等のSランク昇格のお膳立てをしたのは、他でもない『勝利の御旗(フューリアス)』なんだよ。しかも、結局あいつ等、『紅蓮の炎』と『鬼姫』の協力があったとは言え、自力で2体のヴェグナを討伐したらしい」


「マジかよ。はー、それで当の本人達はCランクのまま。何だそりゃ、納得いかねぇ話だなぁ…。『紅蓮の炎』の連中のSランク昇格も、取り下げた方が良かったんじゃねぇか?」


「だよなぁ。オレもそう思っててよ。なんかアルフ達が不憫だよなぁ、って。確かにあいつ等の問題行動は目に付くが、功績はかなり高いし、実力だって高い。それこそ、オレ等なんか惨めに思えるくらいな」


「っははは、確かにな。実際のところ、『紅蓮の炎』よりあいつ等の方が実力あるんじゃねぇか?」


「少なくともオレはそう思うね。もしオレが騎士団長だったら、どっちをSランクにするかって訊かれりゃ、迷わず『勝利の御旗(フューリアス)』だな。問題行動を謹むよう、お灸を据えてな」


「だっはははは! 違いねぇ! ヴァスタードまで行ってやらかされちゃ、責任問題だしな!」



 何のことはない、ただの酒場の談笑である。


 比較的広い酒場であること、そして彼等と『紅蓮の炎』の席が遠かったこと、酒が入って自制心が落ちていたこと。


 それらの要因が重なって、彼等はまさか、その『紅蓮の炎』の1人が、話を盗み聞いているなどとは夢にも思わなかった。



 ──沸々と、怒りが込み上げてくる。


 何故、何で頑張った自分達が貶されなければならないのか。

 事実、自分達が助けに入らなければ、アルフ達は死んでいただろう。


 それなのに、何故…何故アルフ達が評価されて、自分達は美味しい所を盗った等と、そんな謂れの無い誹謗を受けなければならないのか。



 いつもそうだ。

 アルフ・トゥーレリアと、ローゼリッテ・セブンスワース。

 孤児院に居た頃から目障りで仕方なかった。


 特に、ローゼリッテ・セブンスワース──。


 年下の癖に、勉強も、運動も、魔法も……どれもこれも、こちらの努力など嘲笑うように何でもこなす。

 そして、何故出来ないのとでも言いたげに、憐れむように見てくる。


 ライオが一向に自分の方を向いてくれないのも、ローゼリッテ・セブンスワースがいるからだ。

 何せ、ライオはローゼリッテ・セブンスワースに夢中なのだから。



 ──そもそも、アルフに目を付けたのだって、自分の方が早かったのに。



 こんなに頑張っているのに、何故あんな問題児が評価されて、何故頑張っている自分達は貶められるのか。


勝利の御旗(フューリアス)』がCランクに燻っていて、自分達はSランクにまで上り詰めた。

 なのに、それでもあいつ等の方が評価され続けるというのか。



 最初は、気に食わないというだけだった。それが、いつしか劣等感から来る怒りや憎しみと結び付いて、恋を知った頃、激しい嫉妬と憎悪が絡み付いた。


 そしてこの日、とうとうその負の感情ははち切れんばかりに高まっていた。



 床を蹴るように、乱暴に歩き出すレレナ。ちらと見えた男達の驚いた顔。そして、やってしまったという表情。


 だが、もう遅い。そんなことを思うなら、こんな人の耳に付く場所で話さなければいい。


 怒りに赤く染まった視界の中、レレナは席に戻るなり、彼女がトイレに行っていた間に新しく運ばれてきたであろうワインを一気に流し込んだ。


 味など、楽しめなかった。寧ろ、吐きそうな嫌な風味が口いっぱいに広がって、余計にレレナの神経を逆撫でる。



「ど、どうしたのさ? 随分怖い顔をしているけど…」


「……何でもないわ。シル、ちょっと。これ、今日の分のお金」


 無造作にテーブルに置かれた貨幣。そして、驚くシルの腕を無理矢理引っ張って外に出るレレナ。


 そのあまりの様相に、他の客達も驚きに目を見張る。



「……いったい何が…」


 その場に残されたノエルが、驚愕混じりの表情でそう呟く。

 だが、それでもわかることがあった。



 ──何か、嫌な予感がする。


「ライオ、起きてよライオ」


 何があったのかわからないが、今のレレナはヤバイと、それだけはよくわかる。


 いつもは潰れるほどは飲まないレレナが、この日はかなりハイペースで飲んでいた。


 つまり、いつもよりずっと、酔いが回っているのだ。もしかしたら、動作に問題が無くとも、思考は既に酩酊状態にあるのかもしれない。


「ライオってば!」


 だが、こんな時に限ってライオは中々目を覚まさない。



 焦りだけが、ノエルの中に積もっていった。

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