外伝、獣と私
「もういいぞ、姫」
それは魔神の声だった。
私はそれに小さく頷く。
両断されかけた傷はもう治っている。
『姫』と呼ばれることに抵抗はあったけど、いい加減慣れてしまった。
「ベルは? 」
「ああ、今下がった。アルファ殿が説得したようだ」
「うん、アルファちゃん、ありがとう…… 」
私は口の中で小さく呟く。
それから、自分の中で燻る『獣の私』に呼び掛ける。
「もう、出てきていいよ…… 」
ドクンッ!
胸の奥で、動かないはずの心臓が暴れている気がする。
それを本能のままに解き放つ。
大丈夫。たくさん練習した。この力はベルを守るための力だ。それだけ忘れなければ大丈夫……。
私は少し乱暴に立ち上がる。
立ち上がる時に魔神を引っかけてしまったけど、大丈夫。
簡単に死ねないのを知ってる。
トンネルの壁にめり込んで見えるけど、心なしか魔神がニヤけてるようで、またかと思う。
どうせまた、変な喜びに目覚めているだろうから、無視しとこう。
歪皇帝鬼を見る。
アンデッドだからだろうか。あまり美味しそうに見えない。
ベルの契約がある子たちは、もう少し美味しそうに見えるんだけどな。
歪皇帝鬼は、私が立ち上がると同時くらいに大きな剣を振り上げていた。
大きな体に、大きな剣。
スピードと膂力、それからアンデッドのくせにアンデッドが溶ける熱い息を吐く。
自分の口とか溶けないのかな?
ベルに聞いたら分かるかもしれないけど、絶対にバカにされるから今度、カーネルじいちゃんに聞いてみよう。
ああ、お腹減ったな。
振り降ろされる大きな剣を、霊体化して避ける。
まずは一撃、鼻面でいいか。
実体化して膝を打ち込む。
普通ならこれで鼻からの呼吸が難しくなって、吐息や息吹といったブレス攻撃の間が広がるけど、アンデッドにそれを期待しちゃいけないのは、何度も練習でやった。
あ、角がある。
私は角をポールみたいに使って、体を捻る。
顎を砕く。
顎関節の可動域より激しくインパクトさせる。
特に意識してやっている訳ではないけど、『獣の私』はやっぱりブレス攻撃を嫌ったのだろう。
歪皇帝鬼は、顎が粉砕されたのにも関わらず、腕で私を捕まえようとしてくる。
肩を踏み台にして、私はそれを避けた。
両手足を使って柔らかく着地と同時に走り出す。
歪皇帝鬼の膝裏にタックルを仕掛ける。
ぐらり、と歪皇帝鬼の体が揺れて、崩れそうになるバランスの中、それでも歪皇帝鬼は大きな剣を私に突き立てようとしてくる。
飛び退き、上体が沈んでいるところに飛びつく。
頭を掴んで、体重を掛けて落とす。
『獣の私』は普段の私より速い。
それはたぶん、判断が早いからだと思うけど、たまに失敗もやらかすので注意が必要だ。
そのために『私』がいる。
後頭部を強かに打ち付けた歪皇帝鬼の顔を、何度も何度も蹴って、踏んで、また蹴る。
目、耳、鼻。治りかけた顎に自分の兜を外して、それを振り上げ、振り落とす。
そのまま、口の中に兜を突っ込んで、外から蹴る。
変形した兜が顎の治癒を阻害する。
なんだか楽しくなってきた。
歪皇帝鬼の手が迫って来るので、捕まらないように跳ぶ。
ごわー、みたいな歪皇帝鬼の唸りが聞こえたけど、たぶん、怒ってるのかな?
反応して感情的になりそうな『獣の私』を『私』が必至に宥める。
迫る大きな剣を掻い潜って、また接近、爪で脇腹を裂く。反転して、裂く。もう一度、もう一度、もう一……さすがに読まれた。
抉りこむようなパンチが私の上半身を襲う。
上半身を申し訳程度に覆っていた鎧がただの残骸になった。
あばら骨がぐちゃぐちゃになって、オドが零れていくのが分かる。
トンネルの壁に当たって、さらに重圧が私を襲う。
歪皇帝鬼が、突っ込んでやった私の兜を吐き出す。
楽しくなると、いつもそこにつけ込まれる。
魔神やクーシャ、アルファと特訓している時からの『獣の私』が持っている弱点だ。
そのために『私』がいるのに、またやってしまった。
歪皇帝鬼が私の足を掴んで投げ捨てる。
またもや体内のオドが絞られるように出ていく。
体が大きい相手との戦い方を思い出さなきゃ……。
例えば、大角魔熊プラステロメア、オーガ、ワイバーン、それからクーシャと連携したドラゴンたち……何度も死ぬような目にあった。
ううん、アンデッドじゃなければ死んでいる。
アンデッドにも痛みがある。
ベルに言わせると、オドを消費することで消滅が近づく恐怖が『痛み』という錯覚になって、なんちゃらかんちゃら……覚えてない。
でも、大事なのは『痛み』があること。
『痛み』があるなら、どこが動いて、どこが動かないかが分かる。
投げられた拍子に足の骨も折れたけど、『痛み』は薄らいでいってる。
あと少しで動かせる。
時間を稼ぐ!
『獣の私』の中で『私』が叫ぶ。
「ぽるた! 」「ぽるた! 」「ぽるた! 」
まずは足、徹底的に足を攻める。
肉が抉れた程度じゃ、アイツは止まらない。
足をもぎ取るつもりで、不可視の衝撃『ぽるた』を放つ。
歪皇帝鬼が倒れた。
『獣の私』は飛びつく。
たぶん、今の私はベルに見せられない顔をしている。
飢えた獣、血を求める渇望の鬼、地に這いつくばり、爪を泥だらけにしながら舌を垂らす。
この身体になってから、私は本能的に相手の食い破りやすい場所が分かるようになった。
歪皇帝鬼なら右肩。そこが生命の源泉に一番近い気がする。
お腹が減った。飢えでどうにかなりそうだ。美味い不味い関係なく、啜らなければ自分を保てなくなりそうだ。
右肩に噛みつく。
少しだけ伸びた犬歯が、ぞぶりと肉を突き破り、その奥にある源泉に突立つ。
溢れ出すのはオドだ。
トールの言葉が思い出される。「マセキガ、ナイ…… 」なるほど、魔石の場所を移したということだ。
本来、あるであろう場所に魔石がなく、ここにあるということは、あの『金色』とかいう奴が、そういう処置をしたのだろう。
啜る。啜る。啜る。啜る。啜る。啜る。
ずぞぞぞぞ……。
歪皇帝鬼が反対の腕で私を殴る。
何故かは分からないが、私に噛まれた相手は全身が痺れて動かなくなる。
ベルに言わせると魔法の何かが……とか説明しそうな気がするけど、要するに『蚊』みたいなものかと私は思っている。
歪皇帝鬼は体が大きいので、痺れるのに時間が掛かっているようで、最初の数発はかなりの衝撃になった。
たぶん、頭とか潰れた。
でも、牙を中心にするように、飛び散った血肉が戻ってきて、まるで時間の逆回しみたいに再生していく。
余計にお腹が減るから勘弁して欲しい。
ずぞぞぞぞ……。
「あ……ああ……ああ……やめろ……接続が…… 」
歪皇帝鬼の私を叩く力がだんだんと弱くなって、弱音を吐いたような声が聞こえた。
次第に辺りには、私がオドを啜る音だけが響く。
ああ、相手のオドの光が消える……。
まだ、満たされない。
もっと欲しい。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになって、牙だけの存在になったような気がしてきて、私は……。
「姫。我が主人を思い浮かべなさい…… 」
「ヒメ、ベルサマ、カナシム…… 」
魔神の再生がようやく終わった手が、ボロボロになった改造軍服の上着を私に掛ける。
あっちで未だ消し炭みたいになっているトールは、蚊の鳴くような声で同じ文言を繰り返していた。
ベル。
ベルの顔が思い出される。プクプクして、そのくせ眼光が鋭い時があって、かわいくて、かっこよくて、愛おしい……。
私が『ロマンサー』になりたくて、お父さんとケンカして、家出を決意した時。
「まあ、気が済むまで塔にいればいいよ。
どうせ部屋は余ってるしな…… 」
なんて言う。こっそりお父さんと話して私を放置しておくように説得してくれていたと知ったのは、随分と後になってからだった。
遊びに誘うといつも嫌そうな顔をする。
でも、いつも最後には付き合ってくれる。
それから私の知らないことをいっぱい知っている。
たまに頑固で、ひとつのことに集中している時の顔がたまらない。
普段は本のことしか興味がないくせに、私のことだけは本気で相手してくれる。
いっぱいくだらないケンカをして、いっぱい笑いあった。
ベル。
その名を思い浮かべれば、頭の中はベルのことでいっぱいになる。
次はどんな表情が見られるかな?
一緒に笑ったり、泣いたり、ふざけたり、凄く遠くて、凄く近い場所にいる。
ベル。
ベルは私が守らなきゃ!
頭いいことを自慢するわりには、抜けてるところもたくさんあるから、私が守ってあげないといけない。
ああ、ベルのところに帰らなきゃ。
ふと、辺りを見回す。
皺だらけのお人形。暗い洞窟。ベルからもらった剣が落ちている。
鎧……鎧は壊されちゃった。ベルなら直せるかな?
死体、空っぽの死体が奥にバラバラになって落ちている。
「姫、戻ったかい? 」
声の方に目を向けると魔神だ。
黒焦げトールを背負っている。
やけに小さくなったレギオンが浮いているのも見える。
アルファちゃんがいち早くベルのところに戻る後ろ姿を見つけた。
見守っててくれたんだ。
「あ…… 」
「うん、目の色も戻っているね。
口元は拭いておきなよ。我が主人に余計な心配をさせる必要はない」
言われて口元を拭う。
『獣の私』は奥に引っ込んだようだ。
目の色が真っ赤になるらしいので、ベルには見せたくない。
「さあ、元気な姿を見せてやらないと。
我が主人は心配性のきらいがあるからな」
私は魔神に、うん……と頷いてから、装備を拾ってトンネルの出口へと向かうのだった。