交渉。叶えてやる。
森の中、上空からの薄明かりに照らされて見えるのは、蔦と苔に覆われた古びた洋館だった。
そこだけがぽっかりと開けていて、森を退けたような印象がある。
「まあ、ここだろうな」
コブトを呼んで確かめたが、確かにここに強大なる血の力を感じるとのことだった。
「と、とり囲め! 」
ウチの副団長ことクーシャが全軍に命じる。
ちょっとクーシャの鼻息が荒い。
ある意味、副団長としての初仕事だからか。
洋館はすっかり二千のアンデッド軍団に囲まれる。
軍務経験が豊富なウピエルたちが入ると、動きがスムーズだ。
俺もちょっと鼻息が荒くなる。
「こほんっ。あ、あー。
吸血鬼、出てこい! 今の状況は理解できるだろ! 」
俺は大声を張り上げる。
暫く待つ。
洋館の大扉が音を立てて開かれる。
十数頭の黒い狼が、扉を守るように半円に並ぶ。
それから、ミニ蝙蝠の群れだ。
ミニ蝙蝠の群れは、黒狼の半円の中心に寄り集まって、人の形になる。
そいつは黒い外套姿の男になった。
つば広の帽子を少しだけ直して、辺りを睥睨する。
ただ、その瞳に気力はなく、倦んだ目をしている。
ふう、と疲れた様子で肩を竦めて、俺を見た。
「待ちわびた。ようやくか…… 」
その言葉は、俺たちを見つけた時から手ぐすね引いて待っていたというようなものではなかった。
どちらかというと、遠い誰かに対して言ったような、そんな印象を受ける。
「交渉に来た」
俺は言う。
さすがに二千の死霊軍団に囲まれれば、如何に始祖たる吸血鬼でも勝ち目がないのは分かるだろう。
ただし、戦えば多大な損失が出るのは確かなので、俺は迂遠でも利の大きい方法を取ろうと思ったのだ。
「交渉? 俺を滅ぼさねば、先には進めぬよ…… 」
吸血鬼は言う。
それは交渉の意志の表れだ。
俺はその交渉の余地があることを喜ぶ。
「先に進む気はない。
欲しいものさえ貰えれば、それでいいんだ」
「…………。」
吸血鬼は何も言わず、ただ恨むような目を浮島の大地へと落とした。
「グレイファミリアの羽とナイトファミリアの牙さえ貰えれば、俺たちはこのまま去る。
悪い提案ではないだろ? 」
「悪い提案ではない、か……。
ふふふ……待ちわびた滅びがこうも簡単に引き裂かれては、最悪の提案だな」
「は? 」
思わず声に出た。
こいつ、死にたがりか? 吸血鬼はアンデッドなので、滅びたがりというべきかもしれないが。
人間のような思考ができるタイプのモンスターは、時に不条理だと思われる選択をする場合がある。
それは様々な歴史書において語られている。
しかしながら、モンスターには一貫して『より多くの人を殺す本能』と呼ぶべきものがある。
龍の生贄、魔王の和睦、人と友誼を結ぶ知性あるモンスターたち……。
一見すると、モンスターに備わる本能に逆らった思考に思えるが、結果的にはそういう思考の元になっているのは、『理性的な本能』に過ぎない。
近場の村に生贄を要求する龍は力を貯め込むための時間稼ぎに過ぎず、魔王の和睦は広げた勢力を畳む時に生まれる人同士の諍いを嗤う。
勇者に飼われたモンスターは、権力の名のもとに人を殺しまくった。
それら歴史が物語っているのが、モンスターの『より多くの人を殺す本能』だ。
この吸血鬼にしてみれば、この場にいる俺たち三人を殺すために二千のアンデッドと戦う愚かさより、これから来るであろう数多の冒険者を殺す『理性的な本能』を優先させるだろうという読みだった。
だが、この吸血鬼は滅びたがっている?
「いや、待て待て待て……。
周りはちゃんと見えているのか?
断言してもいいが、戦えばお前は確実に滅びるぞ? 」
この手で『エスプレーソダンジョン』の自称・魔神も葬っているから、嘘じゃない。
「ああ、それこそが神に騙された俺に、唯一残された望みだ」
「騙された? 」
「く、くふふ……そうさ、騙されたのさ」
吸血鬼が片腕を前に出し、その袖を捲る。
そこには腕輪状の【ロマンサーテスタメント】があった。
銀のようで銀ではない謎物質の腕輪。
運命に抗う者、ロマンサーの証。
その意匠は、太陽と月と星。
どこまでも赤く、どこまでも青く、どこまでも緑に染まったソレは、冒険者で言うなら全てにおいて超級としての力があると見られるほどに赤く、青く、緑に染まっていた。
「ロマンサー…… 」
メイが呟く。
「ど、どういうことだ? 」
クーシャが素で聞いていた。
それだけ驚いているということだろう。
俺も驚いているが、クーシャほどではない。
神が碌でもないやつだと知っているから、かな。
「俺を、滅ぼせ……。
交渉と言うなら、ソレが条件だ…… 」
「──────いいだろう。
それが本心だと言うなら、叶えてやる」
「本当か? 」
吸血鬼が縋るように前に出てくる。
俺もそれに併せて、前に出る。
「ベル」「ベ、ベ、ベルくん」
俺が無防備に前に出るとは思っていなかったのだろうメイとクーシャが驚いて声を掛けてくる。
大丈夫だと示すように手を上げて、俺は吸血鬼を観察する。
「その前に、真意だけは確かめさせてもらうぞ。
動くな! 」
俺は命令する。
俺はネクロマンサーにして、ロマンサー。
条件は整っている。
『黄昏のメーゼ』の使役するアンデッドに対してそうだったように、ネクロマンサーとしての俺の言葉には、契約外のアンデッドに対する短時間の強制力がある。
それから、ロマンサー同士は触れ合えばお互いに過去の追体験をするという特殊な性質がある。
これを俺は『業』と呼んでいる。
ロマンサー同士は触れ合えば分かる。
同時にこれから殺す相手の全てを受け継ぐ儀式でもある。
どうしたってロマンサー同士は争うようになっているのだから。
触れてしまえば、この吸血鬼の真意は知れる。
そうして俺は、この吸血鬼の頬に手を置いた。