八、御家老暗殺
徳川吉宗の治世。七代将軍家継が逝去し、幼くして死んだ家継には子が無かった。そこで御三家から将軍を迎えることとなり、紀州藩から徳川吉宗が江戸に入り、八代将軍となった。江戸が将軍就任に沸き、金子藩主金子宗親も吉宗に拝謁した。綱吉・家宣・家継・吉宗と四代に仕え、すでに壮年に差し掛かった宗親だが幕閣の信頼も厚い。一方で、藩内では筆頭家老松平頼宗が絶大な権力を誇っていたこともあり、頼宗に逆らえば藩主ですらその地位を奪われる環境が逆に藩内に安定感を与えていた。しかし、城下で起きた小さな火が燻ろうとしていた。戦国時代に築かれた金子城は丘城である。豊臣秀吉が天下人となると所領没収という憂き目に遭うが、徳川家康に味方したことで家運を繋ぎ、関ヶ原の戦いの後に金子城へ返り咲いた。その金子城の南側に城下町がある。大手門から真っ直ぐ伸びる道は城下で一番広い幹線道路であり、その一帯を麹町と呼んだ。麹町は小路町とも呼ばれており、武家屋敷が多く連なっている。麹町の東西には寺町があり、有事の際は砦となるよう造られていた。麹町の南に商家が集中する茅場町、さらにその南に庶民が住居を構える新町がある。北側は山間部が多く、小さな集落が点在しており、代々の藩主は不便さの解消と開拓を行って農地と街道の整備を行い、北境の鱶橋口番所までの道を通した。その鱶橋口番所で下士が一人姿を消した。知らせを受けた番頭も淡々と処理して上役の街道奉行に補充の願いをするまで誰も知らなかった。もし、その番士の素性を知っている者が身近にいればすぐに探索をさせていただろう。その遅れが藩に激震を起こすことになる。
ある雨の日。頼宗は登城のため、城下にある下士屋敷から城に向かっていた。前日に鷹狩りを行い、下屋敷に寝泊まりをしていたのだ。主が滅多に来ない下屋敷を預かる用人以下は緊張した面持ちで一夜を過ごした。頼宗一行は十数人の家臣を率いているが大半は剣術に優れた者であり、藩道場で師範を勤めている者もいた。藩主を警護するはずの御番衆もいるのだから、その権威を内外に示すには十分過ぎた。一行が田園地帯から森林道に入る。雨と言えども人の往来は多い。森林道を越えると城下が見えてくる。
「今日は雨が凄まじいのう」
視界が悪くなる程の豪雨である。一行の足取りは遅いが駕籠の中にいる頼宗はのんびりとした口調で呟いた。わずかに駕籠が揺れると急に脇腹の痛みを感じた。
「うん?、何じゃ?」
脇腹を触ると血がべっとり着いていた。
「ななな…」
訳がわからない様子で我が手を見ていた。その直後に駕籠は怒声と共に大きく揺れて回りだした。中にいた頼宗は駕籠の中で混乱する。一体、何が起きたかわからなかったのだ。外では一人の刺客が抜刀したまま、街道の土手下から駕籠に一差ししたのだ。それを見た担い手が逃げようと右往左往して護衛を勤める近習が刺客に斬りかかるも胴を斬られて悶絶し、その背中を狙った藩士も脳天を割られた。あまりの強さに藩士たちは遠巻きに囲むしかなく、刺客はその隙を突いて駕籠の扉を開いて頼宗にもう一差しした。
「ぐえっ!」
声にもならない声を上げて頼宗は絶命した。この声を聞いた藩士たちは守るべき者を失ったことを悟った。
「御家老!」
誰かが叫んだ。護衛の一人、真崎賢吾は網笠の隙間から刺客の顔が見えた。
「お、お前は!?」
信じられないと言った表情で刺客を見た。
「真崎殿か。また一歩遅かったな」
そう言うと刺客は周囲を見渡して手薄と思われる囲みを突破した。豪雨は刺客の姿すら消した。藩士たちはすぐに下屋敷に引き返して頼宗の容態を確かめたがすでに死んでいた。後日、追手を逃がした失態を詰問された護衛の藩士たちは切腹に処され、藩道場頭取の真崎もその一人であった…。
頼宗の死後、家督は嫡子頼政が継いだ。頼政はすぐに父を殺害した刺客を割り出して藩内を隈無く捜索したが見つからなかった。下手人の名は岩城弥平太と言い、代々足軽の家系で頼宗とは接点が無いように思われた。弥平太の両親はすでに亡くなっており、兄弟や妻もいない。天涯孤独の身であったが弥平太には知られざる恩人がいた。重臣の長居直康である。長居家は三河国の出で、初代信政、二代弘政は初代藩主金子宗康に仕えた忠臣であった。直康の父直通は目付衆を勤め、宗勝に仕えて郡奉行・町奉行等を歴任して藩政にも参画し、筆頭家老徳村政家の信任も厚かった。しかし、頼宗が台頭してくると策略に掛かって失脚し、失意のうちに死んだ。家督を継いだ直康も閑職に甘んじていたが藩主宗親の声が掛かり、御側御用取次に抜擢された。これは頼宗を牽制するためだと言われている。この採用にはさすがの頼宗も度肝を抜かれたという。直康は御側御用を預かる上で三人の猛者を近習に起用した。その一人が岩城弥平太である。足軽の身分であったが藩道場では高弟であり、その器量を見込んだ宗勝が直々に指導して免許皆伝を与えていた。対立を深める頼宗は事あるごとに刺客を放つも大半が退かされてきた。そのため、お互いが膠着状態になると護衛としての必要性を疑問視する者も現れるようになり、弥平太以外の者は役を解かれた。まだ周囲に不安があったせいだ。しばらく、弥平太は屋敷に留め置かれることになったが護衛の役目は他の者が行い、敵視していた頼宗からも次第に忘れ去られるようになり、決着の進展も掴めないまま、数年が過ぎた頃、弥平太は屋敷から放逐された。それは表向きの事情もあった。放逐の前日、弥平太は秘かに直康に呼ばれた。
「弥平太、お主をこの屋敷に留めておくことが難しくなった」
「承知致しております」
代々重臣の家柄である長居家の家中には下士の身分でしかない弥平太の存在を疎ましく考える者もおり、直康の正室でさえ陰口を叩くようになると直康は空きがあった街道奉行支配鱶橋口番の役職を与えると同時に密命を与えた。それが頼宗暗殺である。
「今は時期尚早だが、いずれ隙を見せよう。判断はお前に任せる」
「承知致しました」
「お前には苦労をかける」
常に目をかけていた弥平太の放逐には直康も納得していない様子だった。そう言いながら、仕度金二十両を弥平太に渡す。弥平太は手切金だと解釈した。
「有り難く頂戴致します。殿の命、必ずや成就させてご覧にいれまする」
「頼むぞ」
翌日早朝には弥平太は屋敷を出て任地である鱶橋口番所の番士長屋に移った。番士は五人いたが全員が下士であるため、すぐに打ち解けた。一番上の番頭は街道奉行に賄賂をするだけが生き甲斐のようで、このような閑職から脱するためなら恥すら微塵も感じさせない。番頭の下には与力が一人、同心が三人いる。中でも古参である同心の佐伯又兵衛は番士から慕われており、近くの集落にある酒場でよく呑ませてくれた。弥平太が直康の近習であったことは一再話すことは無かったが色々と世話を焼いてくれたのも又兵衛だった。そんな和やかな日々の中でも主君と崇める直康の命を忘れず、非番の時は金子城下まで足を運んで頼宗の動向を探った。そして、二年の歳月が過ぎた頃、弥平太は頼宗が鷹狩りを行うことを知る。この機会を逃せば二度と役目を果たせないと判断した弥平太は入念に下見しながら、狩り場に近い小石川の集落を訪ねた。この集落は代々御城番頭を勤める亀井家の知行地である。当代亀井信親の出自は忍びであり、初代亀井左馬介は初代藩主金子宗康に仕えた亀井忍軍棟梁であったが、時代の流れと共に忍術を遣える者はごくわずかとなっていた。左馬介から数えて六代目の信親は宗家として忍術を遣って主君の護衛に当たっているが、時には権力者が主君の領域を侵すことも多々あり、信親の祖父で先々代御城番だった信嘉は宗勝の前に立ち塞がり、奮戦虚しく斬られた挙句、見せしめと言わんばかりに首を晒された。それをわざと見せつけられた父信郷は長い間屋敷に軟禁され、御城番は宗勝の息がかかった者が行う不遇の時代を送った。宗勝が隠居するとようやく復帰したがすでに老年の域に達しており、家督は事実上、嫡子である信親が継いでいた。弥平太は日頃から信親と親しくしていた。御城番として調べあげた弥平太の前に立ち塞がったこともある信親は唯一弥平太の過去を知る人物である。
「久しいな」
「今日は在宅だったのか」
普段は城に詰めていて、なかなか会えない。しかし、度々来訪していることも必ず茶を喫して帰ることまで知っていた。
「御家老が鷹狩りをすることになってな。我らも駆り出されたのだ」
「飢饉に打ちこわしもあったというのに鷹狩りとは大層な身分なことだ」
享保の大飢饉の余波は金子藩内でも起きていた。
「それが今の金子の実態だ。ところで今日はどうした?」
「俺は死地に参ろうと思う」
信親はとうとうこの日が来たかと思った。弥平太が直康から何かしらの命を受けて非番の日の際、頻繁に城下に出入りしていたことを知っていたからだ。
「もはや後には退けぬ」
「左様か」
信親はあるものを取り出した。それは鷹狩りをする上で主要な関係者のみに配布された地図だった。誰がどこを警備し、どこを通って行くのか詳細に記されていた。
「これを頭に叩き込め。今の俺がしてやれる唯一のことだ」
「大蔵…」
大蔵とは信親の通称である。
「今のところ日取りに変更はない。そして、鷹狩りの翌日は雨になるであろう」
信親が天文にも通じているのは前から知っていた。
「間違いないのか?」
「ああ」
「相わかった。済まぬな」
「何を詫びる必要があろうか。本来なら俺が討たねばならぬ仇敵。決して死ぬなよ」
「そのつもりだ」
「全てが終わったら後のことは任せよ」
「生きていればな」
二人は目の前に出された茶を喫した…。
当日、城中にある上屋敷を出た頼宗一行は麹町から寺町を抜けて森林道を通った。途中、茶店や脇本陣等で休憩しながらのゆったりとした行動だったが護衛には御番衆や藩道場で高弟だった藩士たちも数多くいた。
「守るべき者を間違うておる」
崖上から一行を見守る弥平太は、駕籠の近くに見知った顔を見つけた。
「彼奴もいるのか…」
その者は真崎賢吾と言い、藩道場ではお互いに剣の腕を競った間柄だった。信親の話では頼宗に取り入って藩道場頭取を勤めているという。一行は森林道を抜けた先にある下屋敷に入った。下屋敷から狩り場や小石川の集落までそう遠くなかった。御城番からも何人か警備に入るという。前日にも多くの藩士が狩り場に入ったことも確認している。
「狩り場で狙うのは無理だな。ならば…」
弥平太は下見をした記憶を思い出して狙う場所を決めた。鷹狩りは盛況に終わったが夜半よりどしゃ降りの雨が降った。雨は一晩中降り注ぎ、朝になっても止む様子がない。森林道の崖上にある朽ちた御堂で雨露を凌いだ弥平太は刀の手入れを入念に行った後、まだ明るくならないうちに森林道の土手下で身を潜めることにした。雨の中での行動である。体が徐々に冷えていくのを感じながら、信親の言葉を思い出していた。
「お前は知らぬだろうが、直康殿の近習を勤めていた二人がいたであろう?」
「ああ。遠山殿と中津殿であったか」
「二人とも殺されておる」
「何と!?」
弥平太より早くに役を解かれた二人は剣の腕を買われて、遠山は御番衆、中津は大手門城番頭を任されていた。その二人が殺されたというのである。
「御家老の恨みが強かったのであろう」
「ならば手練がいるということか」
「手練はいるだろうが、二人を殺したのは頼宗によって手懐けられた連中よ」
手口は同じで、同僚が設けた酒宴に参加して泥酔したところを滅多刺しにされて殺されたという。
「その後、見せしめと言わんばかりに堀に捨てられていた。直康様の屋敷近くのな」
共に戦った仲とは言え、彼らは上士であり、あまり話す機会も無かった。そのためか、死んだと聞かされても何の感情も湧かなかった。
「直康様は知らぬ存ぜぬを通されていたよ。関わりありと言われればいくら御側御用取次とは申せ、御役御免では済まなくなる」
「そうだな…」
未だに苦悩されている直康のことが心残りだった。雨は止みそうにないが夜が明けてまばらだが人の往来も出てきた。そして、目指す一行の姿も見えた。弥平太は刀の鍔に手を添える。狙うは頼宗の駕籠だけであった…。
頼宗殺害の下手人である岩城弥平太は十数年経った後も見つからなかった。世間は将軍吉宗が隠居して嫡子家重が九代将軍となり、金子藩でも藩主宗親から嫡子義政に代わっていた。頼宗の後を受けた頼政はそれなりの勢力は誇っていたが父以上の求心力は無く、御側御用取次から次席家老に就いた長居直康、一門衆から目付衆支配に抜擢された先崎勝成(宗親の次子)らと競って絶妙な均衡を形成させていた。弥平太は…というと頼宗を暗殺した後、一時は藩を離れていたが乞われて小石川の集落に身を寄せた。信親の強い要請があったという。何年かした後、弥平太は亀井忍軍の名跡の一つで、すでに廃れてしまっていた中野家を継いで名を中野忠弥に改めた。「忠」は中野家代々の通字で初代忠勝から受け継がれてきたものだ。「弥」は自らの名前である弥平太から取ったものだ。集落に溶け込んだ忠弥は信親の娘であるお陽を妻に迎えて二人の男子に恵まれた。嫡子忠義は中野家の嗣子とし、次子は信親の養子となり、七代宗家忠信となった。忠義の代には途絶えていた御城番としての職務に復帰した。忠弥は死ぬまで小石川の集落から出ることはなかったが、信親を通じて直康からは別れた際に渡された仕度金と同じ額の金子が下賜された。感謝の書状も同封されていたが一読した忠弥の双眼からは涙が流れていたという…。