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金子藩譜  作者: ゆきまる
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七、善と悪

徳川綱吉つなよしの治世。甲府藩主であった綱吉は若くして逝去した兄家綱の後継として江戸に入った。水戸藩主で叔父の徳川光圀みつくにの後見を受けて元禄文化を発展させる一方で、幕閣を遠ざけ側近の柳沢やなぎさわ吉保よしやすを重用し、「生類しょうるいあわれみの令」という人間より家畜のほうが価値がある法令を出す等、暗愚とも言われた将軍である。その治世中に起きたのが播州赤穂の浪士たちによる高家吉良上野介の屋敷への討ち入りである。この出来事は江戸ばかりか全国の諸藩にも広まり、幕府が浪士たちの待遇を決めかねている最中、江戸より西に下った遠州金子藩では筆頭家老徳村政家が中心となって善政を敷いていた。政家は宗勝・宗親の二代に仕えた老臣であり、代々家老職を務める松平家とは対立関係にあった。その松平家では秘かに騒動が起きていた。清長きよながの死後、長兄清国きよくに次兄頼国よりくにが相次いで謎の病死を遂げ、三兄清智きよさとも城中で突然倒れて快方なく病死してしまった。兄三人の病死に不審を抱いた四子宗清むねきよは秘かに探索を行い、頼宗よりむねの仕業であることを突き止めた。毎日の食事に砒素を少量ずつ盛って弱らせていったのだ。頼宗の野望は将軍家の縁戚でもある遠州松平家の存在を全国の諸侯に認めさせ、金子藩を我が物とするためである。一方の宗清も松平家の存在価値を高めたいという欲望はあったが今の松平家があるのは金子藩主家があったからで藩主を敬う上で松平家の存在意義を全国の諸侯に知らしめたかったのだ。その微妙な考え方のため、対立の軸は大きくなり、松平家の家中だけでは収まることが出来なくなっていった。頼宗に暗殺されることを怖れた宗清は思いきった策に打って出た。恥を忍んで敵対していた徳村政家の屋敷を訪れた。藩政において絶大な権勢を誇る政家の屋敷に駆け込んだと知った頼宗は驚き激怒したと言う。宗清の話を聞き入れた政家は直ちに捕り方を頼宗の屋敷に差し向けて、頼宗を含む十数人を捕縛。頼宗は藩主宗親の助命で隅櫓に幽閉され、御用人や家臣たちは切腹や追放の処分を受けた。宗清の身の安全は保障され、父の代から長年対立してきた宗清と政家は和解し、家老に復職した宗清をうまく取り込んで厚遇することで藩内における調和を図り、善政にも強みが増していた。しかし、運命の歯車はまた噛み合わなくなる。数年後、政家が病に臥せるようになると後顧の憂いからか再び頼宗派が暗躍し始めた。齢九十八という高齢で政家が大往生すると形勢は一変する。頼宗派の意向を受けた宗親が頼宗を許して筆頭家老に復職させると裏切者の宗清の粛清と後継のいない徳村家の改易を断行した。徳村派含む反対派を次々に潰していくやり方に反発した政家の正室のこまは自害に追い込まれた宗清の遺児である千代丸ちよまるを庇護した。先代藩主宗勝の娘で、夫とは三十も離れた歳の差結婚で仲は睦まじいと評判だった。男子に恵まれなかったが娘が一人おり、宗勝の肝煎りで丹波護間藩江戸家老永山春満はるみつに嫁いだゆりがいた。いずれは生まれるだろう男子に期待してのことだったが結局生まれることはなく、宗勝も孫の顔を見ることはなかった。当初は藩主宗親も徳村家改易には反対の立場を示していたが後嗣のいない家をそのまま存続させておくのは難しく、結局受け入れざる得なかった。通達を受けた駒は改易は頼宗の策略だとすぐに気付き、夫に仕えていた御用人や近習たちと謀って思いきった行動に出たのである…。


丹波護間藩。丹波口を抑える要所を任されている小藩であり、藩主の護間吉種よしたねは聡明で知られている。城は無く、戦国時代に築かれ、今は廃城となった城山に陣屋を藩庁とした。初代政兼から数えること五代目の当主で、父吉政の隠居を受けて家督を継いだ。後見には御陵ごりょう義種よしたね慶生院吉慶よしよしが就いた。御陵家は筆頭家老を務める家柄であり、義種の祖父は二代藩主政種である。慶生院家は代々藩道場頭取として剣術指南役を担い、初代慶政は遠州金子藩初代藩主金子宗康の甥であった。また、藩主家である護間家初代政兼の父一条刀斎は金子藩剣術指南役を務めていたことも重なり、両藩は緊密な関係でもあった。駒が取った行動は護間藩への駆け込みである。出奔の知らせを受けた頼宗は直ちに捕り方を差し向けたが幾度となく近習たちの抵抗に遭い逃してしまっていた。業を煮やした頼宗は行き先が護間藩であると突き止め、先回りをして仕留めるよう命じた。命じられた捕り方を率いるのは御城番ごじょうばん衆を務める中野佐介さすけで曾祖父忠勝は初代宗康に仕えた忍びである。しかし、時が経つにつれて忍者の血は薄れ遣える者は少ないが、御城番は藩の内情や諸国を検分して藩主に報告するのを任務とし、有事の際は真っ先に藩主を守るのを常としている。故に藩主直属の家臣である彼らを頼宗が動かすのは藩主でさえ頼宗を恐れているのだろうか。丹波口に入った佐介はそう思った。丹波街道から脇街道に続く場所にいる。分岐には地蔵菩薩が祀られている。脇街道を進めば護間藩の城下町に入り、丹波街道を北に進めば護間藩が治める北護間領に入る。ここには藩の蔵屋敷があり、関所と宿場町があった。故に待ち伏せをするにはこの場所しかなく、捕り方は周囲に臥せるしかなかったのだが、その前に先客がいた。すでに抜刀している。

「ここで何をしておられる?」

「何者か!?」

佐介が叫ぶ。

「護間藩剣術指南役慶生院吉慶」

「何!?」

捕り方が身構える。いつでも刀が抜ける状態だ。

「お主らが探している者はすでに我らの手中にある」

「ば、馬鹿な。まだ京にも至っていないはず」

「お駒殿の近習頭佐貫さぬき勘兵衛かんべえは元護間藩士だと言うことを忘れたか」

佐介は失念していた。駒の娘が嫁ぎ、返礼の使者が金子藩に来た際に駒の一存で護間藩士一人を近習として仕えさせたことを。佐貫勘兵衛は護間藩においては下士の身分ながら、藩道場では師範を務める程の剣術の持ち主で駒がぜひにともらい受けたのだ。

「勘兵衛を出し抜くためにこの地に来たのだろうが、勘兵衛で勝てぬならわしなど到底及ばぬ」

吉慶は刀を抜いた。だらんと刀を下に向けただけの構えだが慶生院流では自然の構えと言われる。しかし、佐介はその構えを見たことがあった。藩主宗親の兄宗匠が脱藩した際に多数の追手を退けた構えである。佐介もその一人だった。

「その構えは幾天神段流か?」

「如何にも」

慶生院流の正式名は本流幾天神段流慶生院派である。

「覚悟はいいか?」

語ると同時に捕り方八人が一瞬にして倒れる。流牙散布八連を放ったのだ。縦一列に並ぶ敵八人に対して瞬速で確実に仕留めていく吉慶の動きに遅れを取る。ふいを突かれた佐介らは吉慶の動きを捉えることが出来ない。最後に残った佐介は幾天神段流の真髄を垣間見る。刀を納めた吉慶が再び刀を抜いた際、刀身に赤みが帯びていた。色の中心が白くなるほどの熱が発せられていたのだ。

幾天神段流秘技ひぎ紅熱剣こうねつけん

抜刀する摩擦により熱しられた刀身は触れるだけで肉を焼き、骨を溶かすという。初代刀斎政経が塚原卜伝を恐れさせた魔性の技である。佐介は身の危険を感じた。刀を構えているが勝ち目がないことを悟る。しかし、退いても死罪しかない。頼宗が逃げてきた者を許すはずがなかった。悩んだ末に進退際まった佐介は負けを認めて刀を地面に置いた。

「こ、降伏いたす」

「負けを認めるか?」

「貴殿は強すぎる」

「ならば、己の器を知ったのであろう。だが、このまま金子に戻っても頼宗が許すはずもあるまい。かと言って護間に入れるわけにもいかない。武士の情けだ。腹を召すがよい。介錯致そう」

佐介に残された唯一の方法である。覚悟を決め、脇差しを手にする。

「お主こそ誠の武士よ」

吉慶は刀を降り下ろした…。


数日後、駒は勘兵衛らに守られて護間城下に到着した。十数人いた近習はわずか三人となっていたが皆、疲労と傷だらけであり、長年仕えた御用人も途中で力尽きた。駒を守り抜いた勘兵衛らは藩主吉種に謁見し、高く評価された。佐貫家は勘兵衛が金子に移ってから絶えてしまっていたが再興を許されたばかりか、本来は番士程度であったが中士身分である陣屋詰めを命じられた。御番衆としての異例の採用であったが、吉慶の強い推挙があったことに勘兵衛は知らなかった。他の二人は金子藩士であった。護間藩を主君とすることは由とせず、死罪覚悟で金子に戻ることを希望した。しかし、駒が強く引き留めたため、筆頭家老御陵義種の裁量で後嗣が出来ることが条件で徳村家を興すことを認め、二人を駒の陪臣とすることにした。


駒は永山家に逗留した。当主春種はるたねは江戸家老として江戸に永住しており、留守は母の閖と弟の春継はるつぐが任されている。春継もまた藩道場においては五指に入る腕前であり、部屋住みながら御番衆を務めている。その春継に徳村家再興の白羽の矢が立った。兄春種には嫡子春寄はるよりがおり、他家へ養子に入る以外出世する道はない。御番衆として別家を興すにも藩の許可が無ければ不可能だった。そんな折りに降って沸いた話に春継は前向きに考えた。母の閖は駒の妹であったこともあり、話しはトントン拍子に進んだ。江戸にいる春種からも「異論なし」との返事を得て、春継は駒との養子、正確には亡き徳村政家との養子縁組を行った。

「護間永山家の祖春政は不遇が無ければ犬居藩主となっていた御人。私がここに来たのは運命なのかもしれません。春継、戸惑うこともありましょうが何なりと言ってください」

「義母上、私もよろしくお願いいたしまする」

駒と春継の親子の契りは結ばれた。二人は駒の陪臣を連れて永山家を出て新たに拝領した屋敷へと移って行った。

「この屋敷も寂しくなりますね」

陪臣の柚賀ゆが家郷いえさとが言う。家郷は勘兵衛とは逆の立場であった。元金子藩士なのである。こちらは閖に引き留められて、そのまま護間藩に仕えた。近習から先代春満の御用人を永らく務め、家督を嫡子家種いえたねに譲っている。

「春継ならば問題ないでしょう。春寄も無事元服を済ませたと聞きましたし、永山家は安泰です」

夫の死後も永山家の台所を支えてきた閖は満足気な表情を見せた…。


暗殺が失敗して刺客全員を殺害された頼宗は新たな刺客を出そうとはしなかった。先代宗勝の息がかかった古参の家臣たちはすでに手の内に収めていたこともあり、逃走を図った大半の近習を殺害。駒を含め四人だけで金子藩に反旗を翻すことは不可能に等しく、頼宗にとって公儀の目に晒されるよりはましだと判断。地盤を固めた頼宗の恐怖政治が始まろうとしていた。藩主宗親は傀儡に過ぎず、金子藩主家が再び力を取り戻すには宗親の曾孫である頼義よりよしの代まで待たねばならなかった…。



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