二、幾天神段流
一条刀斎政経。摂関家一条家の傍系の家に生まれた公家であったが、嫡流であるならまだしも分家のさらに分家ともなれば下級の役職に就くのも至難であった。父である経定は厳しい生活を打開するために室町幕府に白羽の矢を立てた。応仁の乱以来、権威が失墜した幕府だが、まとめる力は無くとも将軍としての品格は立派なものだった。何とか食い扶持を得た経定は一門から恥知らずと罵られようとも気にすることもなく、義晴・義輝の二代に仕えた。嫡子である政経も幕府に仕えて、当時義輝に剣の手解きをしていた塚原卜伝に師事してめきめきと頭角を現した。塚原の剣術に独自の技をとりいれた新しい流儀を完成させた。剣の名を「幾天神段流」と名付け、師である卜伝にも披露した。しかし、技を見た卜伝は怖れて使用を禁ずるよう命じた。反発した政経は兄弟子である義輝に断って役を辞し、京から近江国に移った。卜伝は世に出てはならない剣技と断じて門弟たちに政経を討つよう命じた。大津から安土に向かう道中で政経を捉えた門弟たちだったが無言で帰ることになる。全身が黒焦げになった死体となっていたのだ。
「あれは剣術ではない。闇に捕らわれた魔性の剣よ」
と言い、物言わずとなった門弟たちの骸に涙したという。本来なら仇討ちも辞さないところだが、いきり立つ高弟たちを前に卜伝は関わることを許さなかった。魔性の剣の先に見えた闇に恐れを為したのかもしれない。生き延びることが出来た政経はさらに剣術を磨き、誰にも及ばない剣術家を目指した。その最中に政経は二人の弟子を得た。父の臨終に参加することが出来ず、秘密裏に京へ戻った際に滞在した摂関家三条定通に乞われて嫡子儀通に剣の手解きを行った。これが後世に至って「京都直伝三条幾天流」となる。そして、もう一人は政経の晩年に至り、天下を統一した豊臣秀吉が死に、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の下で天下泰平を得た老人である。大津の田舎に隠棲していた政経は「刀斎」と号して悠々自適の生活を送っていたある日のこと、剣の奥義を授けた次子政兼が関ヶ原の戦いで功を立てて丹波に領地を得たことを知った。政兼は父を呼び寄せようとしたが、政経は拒絶している。けれども、内心は喜んでいた。剣一筋で生計を立てた我が子の出世は政経が最も望んでいたからだ。逆に不遇と感じ取ってやらねばならないのが嫡子経信である。経信は一条家を継ぐ使命を帯びていたからだ。本来なら家督は政経が継ぐべきところだが、親戚筋がそれを許さず、弟の政近が継いだ。当初は朝廷に仕えたがすぐに父に倣って幕府に仕え、義輝・義栄・義昭の三代に仕えた。しかし、織田信長との戦いに巻き込まれて死ぬ。後嗣が無く、断絶を免れるためには養子を得るしかないが、政経に家督を継がせたくない周囲は苦渋の選択をした。それは政経の嫡子である経信に後を継がせるというものであった。政経は拒否するが名門の名を重んじる一条家の呪縛から解き放たれることはなく、政経は交換条件として一条家が友好の記しとして豊臣秀吉から譲り受けた二差しを貰い、経信は一条家を継ぐに至った。その二差しは秀吉が我が子のために拵えたと言われる名刀「成松」と「鶴松」である。華やかな拵えではなく、鈍い輝きを放つ地味な刀であったが政経はこの二差しを気に入った。鶴松は姓を「護間」に改めた次子政兼に譲り渡し、成松は自身が帯びることにした。世間の情勢が緊迫に帯びる頃、京を守るべく兵を率いた何人もの大名と出くわした。
「また戦が始まるか」
遠くからその光景を眺めた政経がぽつりと呟き、踵を返すように畦道を歩いていると老人が黒装束の忍びに襲われているところに出くわした。すでに何人もの侍が倒されて老人も殺されるのが目に見えていた。政経はすぐに駆けよって腰に帯びた成松を抜いた。目の前にいた三人を目にも見えぬ早業で仕留めると上空から襲ってきた忍びを一瞥することもなく叩っ斬ると老人の前を庇うように間に割って入った。
「大事はござらんか!?」
肩を負傷しているようだが命に別条は無い。
「かたじけない」
近くの御堂で手当てする。筋肉質の体を見て只の老人ではないことがすぐにわかった。
「これで良い。ご老体、どこまで行きなさる?」
「いや、ここで結構でござる。そなたの名を聞かせてもらえぬだろうか?」
政経は少し躊躇したが敢えて本名を名乗った。
「一条刀斎政経と申す」
「左様か。わしは金子宗安という」
政経は目を見開いた。宗安の本名は金子宗安入道宗康と言い、出家するまでは生粋の戦国大名であったからだ。嘘か真かわからないが最強と詠われた武田信玄を撃ち破ったと言われ、天下人となった豊臣秀吉から怖れられて所領を召し上げられる不遇も受けたが、敵対していた徳川家康に近づき、結城秀康に従って上杉討伐で戦功を立てて旧領に復帰したというのだから恐れ入る。
「お主の剣術は何という流派か?」
「幾天神段流と申します」
「召し抱えることは出来ぬものか?」
突然の声かけである。政経はまた驚いた。
「それがしは…」
「姓名からすると摂関家と縁があるのであろう?。もし、一条家が気になるならばわしが間に入って話をつけてやろう」
「しかし、それでは!?」
「わしはお主の剣に惚れた。魅了されたと言ってくれてもいい」
宗安は愛しい恋人を見つけたかのような話し方をしてくる。断れきれなくなった政経は交換条件を出した。嫡子経信を呪縛から救いだすことである。
「よかろう」
二つ返事で引き受けた宗安に一抹の不安を覚えながらも政経は金子藩七万石の剣術指南役となることが決まり、嫡子の経信も郷村目付という役職に就いた。領内における集落の監督を担う役職であり、藩主御目見格という厚遇なものであった。一条家と円満に話がついたと聞かされた政経だったが、宗安の背後に控える家康の存在と物静かに語りかけるかつての戦国大名の体から涌き出る鬼迫に恐れを為したのかもしれない。しかし、結果的に不遇を強いられてきた一条家の再興は成ったのである。政経は金子城内にある藩道場に併設された屋敷で晩年を過ごす。政経の死後は経信が継いだが、度重なる御家騒動の末に藩政が安定する五代藩主金子宗勝の代まで生きたが、後嗣無く一条家は断絶となった。しかし、幾天神段流は政経の後は宗安が受け継ぎ、宗安の死後は孫娘の涼、涼の後は宗勝が継ぎ、流派は現代の世まで受け継がれて行き、こちらは「遠州直伝幾天神段流」と呼ばれることになる。後世、宗家に伝わる系譜にはこのように記されている。
流祖・一条刀斎政経
初代・金子宗安入道宗康
二代・金子涼
三代・金子宗勝(後の金子藩五代藩主)
四代・金子宗匠(通称左近将監、幕府隠目付)
五代・金子頼匠(通称左近将監、幕府隠目付)
六代・金子頼綱(通称左近将監、幕府隠目付)
七代・松平長誠(通称伯耆守、武州大館藩主)
八代・松平頼長(通称伯耆守、尾張藩大高領代官)
九代・金子宗康(通称玄十郎、尾張藩名古屋探索方棟梁、維新後子爵)
十代・金子宗平(侯爵・従四位参議)
十一代・松平頼勝(旧金子藩家老遠州松平家出身、十一代金子玄十郎を名乗る)
十二代・助屋龍一(十二代金子玄十郎を名乗る)
十三代・助屋恭一(十三代金子玄十郎を名乗る)