十七、誅殺《後日談・名跡継承》
騒乱は一夜明けても続き、藩主頼義自ら松平一派の処断を行い、対象は十八家に及んだ。首魁である松平家は当主及び後嗣を全て失ったが、一門衆の先崎家、矢野家が次々に存続の嘆願したこともあり、一門衆の意向を無視出来ないと判断した頼義は罪一等を免じて頼清の正室喜昌院に閉門を申し付けるに留まった。頼清の側近中の側近と言われた笹堀高隆(史隆の子)には御役御免・知行召し上げの上、切腹を申し渡し、嫡子高義がいたが即改易となった。頼清の護衛を担った藤岡家も本家分家両方の当主を失い、家督は宗厳の弟宗麟が継いだが他家への不手際が発覚して切腹を命じられ、嫡子宗玄に知行召し上げの上、改易を命じた。宗玄は妻子がいなかったが類稀な剣術の腕を危険視した改革派の度重なる襲撃が遭ったが辛くも長州藩の庇護を受け滅亡は免れた。頼清の三子頼基が養子に入った松家家は松平派ではなく、頼清が改革派を打ち崩すために松家家の乗っ取りを図ったものであったが、連座したとして隠居していた義基に対して知行半分召し上げの上、謹慎を命じた。その上で家督を義基の弟基紘の長子義紘が継ぐことで藩に復帰することを許された。また、代々松平家と縁が深く、御書院番を務める久保田久恭(久頼の子)は家督を受け継いで間もなかったが隠居していた父と共に切腹となった。家督はまだ稚児である嫡子久永が継いで存続を許された。頼清の文学教授を務め、軍学にも精通していた林清左衛門は士分剥奪・投獄され、新しき世を迎える前に獄死している。頼清と共に藩の転覆を主導した原長常は戦いの最中に鉱山の爆発の影響で崩れてきた柱の下敷きになって圧死し、嫡子長清ら一族も全て失っていたため、そのまま、断絶となった。一方の石河頼行は配下の不破龍寛が防いでくれたおかげで城下のはずれまで逃れたが、全ての街道を封鎖していた御城番衆によって阻止された。番頭亀井忠頼は探索方の拠点である椰谷で暗示が発動して宗康に捕らえられたが鬼影都十郎の術で暗示から解放された。しかし、都十郎も愚かではない。そのまま解き放つことはせずに新たな暗示を仕掛けて金子に戻していた。暗示が発動しない限りは藩主頼義に忠実な忍びであるため、頼義の命を受けて城下から逃れようとする輩を全て捕縛した。頼行もその一人である。頼義の面前に連れて来られた頼行は激しい拷問の末に頼清の隠し財産の在りかを全て自白させられた後、市中引き回しの上、火焙りに処せられた。石河家も存続を許されず、断絶した。その他、松平家の意向で出世した諸家にも相応の処分が下されている。
松平派の粛清で藩の主導権は改革派が担い、筆頭家老に長居直弘、次席家老に木村綱敬が就き、江戸家老には、引き続き、矢野義定が就いた。さらに、城代家老を復活させて金子城留守居役島田経興(義興の孫)に兼任させ、目付衆支配には御側御用執筆役として頼義の相談役を担った佐々木頼豊が就いた。頼豊の叔父貞豊は諸道具頭から御用絵師世話掛を経て茶道頭に出世。嫡子義豊も茶道頭となったが早世し、従弟の頼豊が家督を継ぐも茶道頭は別の者に取って替われたため、郷村目付支配村落巡察使という閑職に追われた。しかし、影島領主御用人から先崎家の推挙を受けて郷村目付に就いた服部武俊(信俊の孫)は頼豊の聡明な性格と知識の豊富さに感動し、頼義に推挙した。茶道に通じていたことが功を奏して藩主の御意見番でもある御側御用取次の支配下にある執筆役に就いていた。この五人を中心にして藩は新しき世に向かって行くかに見えた…。
尾張から遠く離れた信州伊那。山間部にありながら天竜川の恵みを受けたこの地は豊穣の地でもあった。二千石の知行地を持つ伊那松平家は代々この地を治めており、初代康広は初代将軍徳川家康に従って各地を転戦し、関ヶ原の戦いの後、信州から遠州に抜ける抑えとして伊那の地を与えられた。弟の長広が武州大館藩を立藩したのに比べれば雲泥の差である。それでも康広は不平不満を言うこともなく、徳川一門に連なる者としての風格を持っていた。康広の嫡子康長、孫の康善も幕府に貢献し、石高も五千石に加増された。しかし、康善の嫡子綱善が五代将軍綱吉の逆鱗に触れて失脚し、石高も削られてわずか三百石となる。小普請組に属して無益な日々を送っていたが天竜川の治水が功を奏したか綱吉の後を受けた家宣の御用人新井白石の目に止まって治水術を惜しみなく諸人に伝授した。石高も二千石まで戻した綱善は伊那郡代にも任じられて実高は元の五千石に至った。綱善は綱吉・家宣・家継・吉宗の四代に仕えた後、家督を嫡子宗善に譲って隠居した。宗善が幕府の要職に就いたため、在地に目が行き届きにくくなったことに目を付けたのが伊那領の南に位置する金子藩である。金子藩から執拗な米の買い占めや嫌がらせを目の当たりにした領民が江戸にいる宗善に訴えた。宗善から相談を受けた綱善が我が子に代わって在地に赴くことで金子藩を牽制し、影響力を増したことで落ち着きを取り戻したかに思えた。綱善の死後、孫の治善が引き続き、在地に入って金子藩の動きを監視していたが、父が病死すると家督を継ぎ、江戸に留まった間隙を突いて家老辻村嘉兵衛を抱き込んで重臣の一部を味方に付けた。現在の当主は松平慶頼だが、父は金子藩筆頭家老松平備前守頼清の長兄の忠頼であり、豊穣な土地を得るために伊那松平家そのものを乗っ取りを図る。しかし、忠頼は庶子であったが聡明であり、叔父頼清が言わんとしていたことを瞬時に把握し、養父治善に頼清の思惑を伝え、介入を拒むと同時に頼清に抱き込まれた辻村一派を制するため、共に従ってきた頼清の家臣たちを説得して頼清から離反させた。そして、剣術に優れた直見正国を町奉行に命じて領内の安定を図ると共に養父の指示で伊那松平家と繋がりがある武州大館藩に依頼して「治安の安定」を名目に藩士の派遣をしてもらい、頼清に対抗。領内で斬り合いも辞さない覚悟を垣間見た頼清は我が兄の行動に意外さを感じながらも敵対したことを後悔させるために藩道場頭取藤岡宗信の弟で師範代を勤める宗鱗ら高弟を派遣し、一方の武州大館藩も藩主松平伯耆守政誠の弟で幾天神段流大館派の浦部衒内、大石連三郎らを赴かせたが領内に入る前に双方が鉢合わせをしてしまい、金子藩側が三人、大館藩側は大石が斬られる事態となった。一触即発ではあったが金子藩が一方的に退いたことで重くはならなかった。しかし、金子藩が退いたのには訳があった。筆頭家老松平備前守頼清の急死である。事情を飲み込めない忠頼であったが、金子藩が手を退いたことで大館藩の影響を強く残した。忠頼は伊那の南に屋敷を構えて家督を嫡子慶頼に譲り、金子藩の動向を探った。頼清の死を知らされたのはそれからまもなくのことであったという。藩主主導による粛清と聞き及び忠頼は弟の愚行に涙し、剃髪して法簾と名乗った。それからしばらくは平穏な日々が続くかと思われたが時世は幕末である。旗本である伊那松平家にも主人である将軍からの命があれば直ちに戦の準備をしなければならない。そんな折、金子藩から使いの者が来た。慶頼は江戸にあるため、法簾が陣屋大広間にて面会した。使者はまだ若い。
「金子藩次席家老木村綱敬にござる」
「遠路はるばるよう参られた。松平法簾じゃ」
白髪が目立ち始めた法簾の傍らには留守居役に昇進した正国の姿があった。直見家は元来松平家の者ではない。戦国時代、金子家の水軍を率いた吉岡家に仕えた家柄で小湊の一つを任されていた志賀直国には廃嫡となった伊織がいた。伊織は航海術に優れていたが父の不遜を買って家督を継ぐことが出来なかった。家から追い出された伊織は身近な者を連れて志賀領の一角に砦を築いて父に反抗した。
「あの戯けが!」
直国は伊織を許さず、砦に向けて兵を差し向けたが海戦で敗れる失態を犯した。話を聞いた吉岡家の当代通長が伊織を気に入り、仲介して和睦させた上で新たに直見姓を与え、名を直見通国と改めた。後に父を凌ぐ勢力を持ち、志賀家が衰退した後は複数の湊を任される重臣になった。通国の死後は嫡子国嗣が後を継いで通長・直忠の二代に仕えて水軍頭となった。金子藩が成立すると国嗣は吉岡家から金子家に鞍替えし、代々船奉行を任された。この時、吉岡家はさらに上格の藩の御用船「次郎丸」を任されている。この差が二つの家の差と言えた。国嗣は四代宗恒まで仕え、嫡子宗嗣が家督を継いだ時にはすでに五十を過ぎていた。五代宗勝は宗嗣に早期の家督譲位を命じたことが後年宗嗣の乱心に繋がる。二年後の冬、宗嗣は三人の我が子の寝床を襲って斬り捨てる事件が起きた。報せを受けた筆頭家老徳村政家は宗嗣の境遇に理解を示しながらも切腹を命じ、辛うじて断絶を免れた直見家は松平家が預かることになった。家老松平宗清は政家の了承を得て後嗣を全て失った直見家の名跡を松平一門で二代清忠が三河で宿した次子長清、その子の安清の流れを組む正清(安清の曾孫)の長庶子正嗣に継がせた。長子でありながら庶子であるがために家督を継げない正嗣に白羽の矢が立った。直見家を継いだ正嗣は船奉行を任され、松平派の一角を成した。正嗣の後は正頼、正高と続き、正高の嫡子正盛が家督を継ぐが若くして早世したため、次子正国が継いだ。頼常の庶子忠頼付きを命じられて伊那に赴き、忠頼より金子藩を捨てよと命じられた時は誰もが驚いた中、正国は平然としていた。忠頼の境遇を理解していたからである。その真摯な姿勢を認めた松平治善が気に入り、正国を町奉行に起用するよう忠頼に勧めたのだ。正国はその期待に答えて実力を発揮し、金子藩から遣わされていた悪徳商人らを排除した。正国に従う与力もまた忠頼に従ってきた松平派の者たちである。彼らも領内が安定した後は各々出世している。
「先の件、備前守がしたこととは申せ、全ての責は我が藩にございます」
謝罪を受けた治簾は畏まる綱敬にやんわりと声を掛ける。
「何の。頼清の噂は色々耳にしていた。よくぞ、悪逆の限りを尽くした頼清を討たれた」
「情けなきことながら、金子藩の力だけでは備前に勝てなかったのが心苦しい」
「と言うと?」
「今回、尾張藩の尽力がなければ藩主頼義のみならず、藩すら無かったやもしれぬ」
「藩内でも苦労なされていたようだな」
「恐縮にございます」
「こう言ってはなんだが…わしは早くに金子を離れた。それが幸運であったやもしれぬ。父や甥の側に仕えていたならば今頃はこの命を散らしていただろうな」
法簾は正直な感想を漏らした。控えていた正国が話を割る。
「して、今日窺われた用件は何でござろうか?」
「そちらは?」
「申し遅れました。伊那陣屋留守居役直見正国と申す」
「直見?、ならば当藩船奉行であった直見正高殿の御子息か?」
「左様。父を御存知か?」
「よく存じておる。松平一門でありながら不遇に遭われた境遇痛み入る」
「いえ、もう過ぎたことにござる」
突然、船奉行の役を解かれて忠頼付きを命じられた正国は精神的に強い衝撃を受けたという。隠居していた正高が呆けてしまったという話は藩内でも囁かれていた。
「正国殿は桜花殿が健在なのは御存知か?」
桜花とは正高の妻であり、正国の母である。
「風の便りで聞き及んでおります」
「先日、桜花殿より直見家再興の嘆願が出された。吟味されている最中だが、藩主頼義様は直見家が知行していた二十石を桜花殿に下賜された」
「母上が…」
一人残した母が力強く生きていることに感じるものがあった。
「直見家は我らも尽力して必ず再興させよう。桜花殿の願いを受けてやらねば正高殿も報われぬ」
綱敬の言葉に正国も頷いた。明治に入ると正国は母と再会し、直見家は正式に再興する。
「さて、今日伺ったのは他でもない。頼清には二人の子息がいたが先の騒乱で残念ながら討たれてしまった。戦国の世から続く遠州松平家を失うことを惜しまれた頼義様は松平家に縁のある者に継がせようとなされております」
「名跡継承か。悪くないが他にも候補がいよう」
「今のところ、慶照寺と伊那家以外は見当はついておりませぬ」
慶照寺は初代清政の次子元忠改め有庵が創建した寺院で金子家の菩提寺ともなっている。しかし、問題があった。
「三代門主有円までは松平家の血を受け継いでいたが今は門弟たちが法門という形で受け継いでおり、今になって還俗させるのもどうかという話にもなっている」
「確かにな。名ばかりの者が松平を名乗ることには憚りがある」
法簾は目を瞑る。悪い話ではない。
「条件がある」
「何でござろうか?」
「頼清に近しい者を全て除いてもらいたい」
「大半は粛清されており申す。残るは備前の正室や女中、近臣らのみ」
「遺恨なきようにせねばなるまい。継承するに当たって伊那家から女中や家臣を同道させるのが条件」
「それは…」
綱敬も返答に困るだろうと判断した法簾であったが肩透かしを食らう。
「問題ない。小さな火種は早いうちに積んでおくのがよろしかろう」
「構わぬのか?」
「大事ござらん。急ぎ頼義様に伝えましょう」
綱敬の器量の大きさに感服した二人は遠州松平家の名跡継承を快く受け入れた。後日、当代慶頼の次子頼房が伊那家から二十数人の家臣と女中を率いて金子城内の松平家上屋敷に入った。慶頼は幕府に仕える身で江戸から離れることが出来ないため、法簾が代わりに同道した。翌日には藩主頼義にお目通りし、松平家の名跡継承と三千石の知行を得た。頼房は無役寄合で明治を迎えた後、金子家とは袂を分かち、東京に移住して明治政府に仕え、男爵となった。嫡子頼明、嫡孫清明は大正・昭和の混迷期を乗り越えて後世に名跡を残すことになる…。
少なめです。