十六、誅殺《後編》
頼義の許を辞した宗康は二ノ丸の武家屋敷五家よりも一際大きな屋敷がある。正面の長屋門は固く閉じられて×の形に竹組みがされている。屋敷内は手付かずのまま、中庭は雑草が伸び放題で屋内も埃が積もって黴臭い。かすかに猫の鳴き声が聞こえてくる。どうやら、今、この屋敷は猫の住処になっているのだろうか。屋内を歩く宗康は懐かしさを感じる。かつてはこの屋敷が我が家であった。脱藩した後に尾張藩森山家の名跡を継ぎ、名も斉慶と改めた元忠は藩政にも深く関わり、藩主慶勝が主導していた改革派に名を連ねていた。しかし、保守派から見れば余所者に藩を荒らされるようにしか見えず、次第に緊張感に包まれた状態になっていく。そして、ある夜半のこと、同じ改革派の友人の屋敷で酒を飲み、帰りに供を一人連れていた。籠を用意しようと言われたが酔いを覚ましたいと元忠が言ったため、夜道を歩いて帰った。別名紅葉坂と呼ばれる緩やかな石階段を下りている時だった。闇を舞う風が吹いた直後に強い殺気が二人を包んだ。咄嗟に刀に手をかける二人に一瞬の躊躇もなく惨殺された。擦れる意識の中で元忠は黒い影を見ていた。
「な、何…者……」
「我が名は陰影…」
影はそのまま消え去るようにして姿を消し、暗殺された二人は翌朝になって発見された。幾天神段流奥義継承者で元武州大館藩主松平頼長の許で修行に明け暮れていた宗康に父の死去が伝えられたのは翌朝のことである。その日は清々しい朝であったが早馬が来ると状況が一変する。側で話を聞いた頼長は仕えている探索方の忍びに指図して状況を知らせるよう伝え、宗康は名古屋城内にある森山家の屋敷に向かった。父の検分はすでに済んでいたが家中は大騒ぎになっており、宗康の到着も気づかない程であったという。これでは話にならぬと宗康は遺体が安置されている部屋に向かうと近習の深島喜一郎が宗康に気づいた。
「これは若様!」
喜一郎は父が尾張に来てからの家臣であり、すぐに大高に向かった宗康とはそれほどの面識はないが、宗康に見覚えがあったのかすぐに気づいたようだ。喜一郎以外に人気は無い。遺体の番をしているのだろう。
「無念にございます」
「父は紅葉坂で討たれたそうだな?」
「はっ。坂部が付いていましたが二人ともあえなく…」
坂部も元忠の近習であった。宗康は寝かされている父の顔を見る。無念そうな顔はしていなかった。まるで襲撃を予想していたかのような穏やかな表情であった。
「父の傷は刀傷か?」
「いえ、鉤や爪のようなもので肩から脇腹にかけて抉られていました」
「ならば刀を持つ者の仕業ではないな」
「検分した古田様もそのように言っておられました」
評定所勝手掛古田准平太のことである。
「相手は忍びか?」
「わかりませぬ。藩主慶勝様は探索方に下手人を捜すよう命じられたとか」
「左様か。他に何かあるか?」
「一つだけ」
「何だ?」
「先程、ご正室お菅の方様の一存で家督を甥の慶郷殿がお継ぎになることがお決まりになりました」
お菅の兄荻原斉郷の次子である。嫡子である宗康に相談が無いということは早くから決まっていたのであろう。宗康は突然、父の体を抱え上げる。
「な、何をなさいますか!?」
「父を金子の墓に葬ってやろう。森山には必要あるまい」
「そんなことをなされば森山の者は黙っていますまい」
「構わぬ。この件で殉じた者はおるか?」
「はっ…。それがしの父と坂部の両親が自害しました」
殉じたというより暗殺された事に対する責を負わされたのであろう。
「坂部の家は断絶か?」
「はっ」
「お主も居場所はあるまい。共に来るか?」
「父の無念、晴らしとうございます」
苦悶の表情でそう言うと喜一郎も宗康に協力し、数日かけて秘かに大高へ遺体を移した。荷台に寝かされた元忠の哀れな姿を見た頼長はそうっと合掌し、頼長と親交のある霊明寺という古寺に手厚く葬られた。奇しくも金子藩菩提寺である慶照寺で修行した了齎が住職を務めており、幼い頃の元忠を知る人物でもあった。
「これも縁かな。よもや、このような形で右京助殿に会えるとは思っていなかった」
右京助は元忠が金子にいた時の通称である。
「さぞかし、無念でござったろう。下手人を捜しなさるか?」
「そのつもりです」
「ならば気を付けて行かれよ」
宗康は寺を辞して屋敷に戻ると頼長と二人だけで夜まで話し合い、共に来た喜一郎は頼長に預けた。そして、自らはある行動を起こすべく姿を消した。一方、森山家は遺体が神隠しにあったと大騒ぎになり、話しを聞いた藩主慶勝は森山家の不手際を厳しく詰問した。家督の継承は許されたが御役御免を言い渡され、知行は七百五十石からわずか二百五十石に減らされる結果になった。しかし、慶勝は事実を知っていた。探索方から受けた知らせは慶勝を微笑させたが、宗康が父の仇を討つために探索方に身を投じたことを聞くと大層驚いたという。それから数年、宗康は音信不通となる。次に現れたのは京の都であった。当時、尊皇攘夷で吹き荒れる京で事件が起きていた。京都所司代や諸藩の重臣たちが相次いで殺されたのだ。その中に尾張藩京都屋敷留守居役館林政勝も含まれていた。政勝は京都に改革派の拠点を築きたかった藩主慶勝の思惑で京都屋敷に赴いたが長州派維新志士からは格好の標的となり、幕府の権力を増そうとする企みだと誤解され、すぐに暗殺の対象にされた。しかし、頼長の一番弟子であり、君命がなければ奥義を伝授されていたかもしれない政勝の剣術は凄まじく刺客を何度も斬り捨てた。噂を聞き付けた剣豪たちですら一目置く存在となり、業を煮やした長州藩はある男に殺しを依頼した。当時、幕末の京都を中心に裏で暗躍していた男で長州藩では知られた人物でもあった。
「頼めるかね?」
「ああ」
灯籠の光だけが部屋を明るくしているが全体に行き届いておらず、顔は見えなかった。
「では、近いうちに」
「承知した」
藩の重鎮から殺しの依頼を受けた男は直後にその気配を消していた。
「相変わらず、無愛想の男よ」
そう言って重鎮も立ち上がる。灯籠の光が男の顔を照らした。その男は長州藩でも一番の切れ者とされ、幾度も新選組に命を狙われた桂小五郎であった…。
「お前も京都に来たのか」
「殿の命により馳せ参じました」
「左様か、尾張は変わりはないか?」
「はい、藩内は慶勝様を始め、団結しておりまする」
「うむ、藩内で不穏な噂は聞かないからな。お前は今は何をしている?」
「今は名古屋探索方棟梁をしております」
「何!?」
探索方と聞いて館林政勝が驚いた。
「探索方と申せば忍びだぞ。その棟梁に武士がなるなぞ聞いたこともない!」
声を荒げる。しかし、相手は至って冷静だった。
「父上が殺された折、仇を討とうにも私は無力でした。頼れる者もおらず、その力ですら無いに等しく、ましてや国元から命を狙われる身でございます。森山家はすでに継母の甥が継ぐことが許されていましたので帰る家はありませんでした。仇を討ちたい私には幸いでしたが、何度も師匠と話し合い、自らを心身ともに鍛え直す修行に出たのでございます」
「それで探索方になったわけか」
淡々と語る宗康に政にも勝は納得できなかった。
「身寄りもない独り身に失う者はありません。探索方の試練は厳しいものでありましたが今はこうして皆に棟梁として認められることになりました」
「苦労したのだな?」
「いえ…」
宗康の境遇を考えれば間違いは無かったと政勝は思うことにした。
「それで、頼長様を暗殺した下手人は捕まったのか?」
「それもまだ。京都に潜伏したとの知らせを受けて京都屋敷に参った次第。しばらくは滞在するつもりです」
「左様か。今、京は長州藩の連中が尊皇攘夷を掲げて暗躍しておる。お前も幕府側の人間故、命を狙われるやもしれぬ。心してかかれ」
「承知しました。政勝様はお変わりありませんか?」
「ああ、問題ない。玄十郎、鍛練は怠っておらぬな?」
「はい」
弟弟子の微笑に政勝は不安を消し去った。しばらく、政勝と玄十郎は話をして別れた。付き従っていた松川宣十郎直視は懐かしい顔をする。
「久しぶりに見ました」
「玄十郎をか?」
「ええ、伯耆守様に剣術を叩き込まれていた頃が懐かしく思います。立派になられた」
暗闇に二つの提灯が浮かぶ。
「今は尾張藩名古屋探索方の棟梁をしているそうだ。忍術と剣術を融合させた剣法は後にも先にもあやつ一人であろうな」
「金子玄十郎、乱世の奸雄になるか…」
剣術に忍術を合わせるなどありえないことだと直視は揶揄したが、政勝はそれも一つの理だと諭した。
「今は表向きは平和だが裏を返せば戦国の世と同じ。一つの油断が死を誘い込むのだ。玄十郎のやっていることは間違いではない」
「……」
「金子玄十郎、どこまで成長するかもしれんがあの器はわしを越えておる。あやつがいる限り、幾天神段流は安泰よ」
「……」
「直視、どうした?。黙って…」
政勝はふっと後ろに向いた。すると、後ろにいるはずの直視の姿がなかった。
「直視!」
咄嗟に柄に手をかける。しかし、辺りに気配はない。それでも、警戒は緩めない。じり…じり…と足を動かしつつ、壁を背にする。提灯を左右にゆっくり振るが人気はない。額に汗がたまる。いくら話をしていたとは言え、気配を感じさせずに直視を討つのは困難極まりない。それをいとも簡単にやってしまえるのは“死人”ぐらいなものだ。辺りには静けさだけが漂う。
(どこだ……?)
提灯を正面に照らした時だった。
「ここだ…」
背後から声が聞こえ重いものが全身を襲って吐血した。しかし、咄嗟に体をひねったことで急所は外れている。
「ば、馬…鹿な…」
後ろは壁で敵が入る隙間はない。提灯を敵に向ける。全身が黒く、目だけが白く輝いている。
「逝ね…」
敵が動く。黒い影が政勝に向かってくる。政勝は無意識に抜刀の姿勢になっていた。極限まで高める集中力が敵の力量を上回った瞬間、抜刀術はその威力を発揮する。刀は鞘から自然と素早く放たれて敵の体に吸い込まれていく。鬼気に勝る剣気に敵は横に真っ二つにされたかに見えた。
「死んだか…」
政勝はすでに絶命している。直前で政勝の魂が消え去ったのだ。生きていれば死んだのは敵のほうだったのかもしれない。
「見事…」
絶命した骸に合掌して消え去った…。
兄弟子が殺される。間近にいながら、それを救うことができなかった宗康は屋敷の一室に籠もって遺体と対面していた。遺体が見つかった翌朝、板に乗せられた政勝は尾張藩の京都屋敷に運ばれてきた。運んできたのは新選組の隊士のようで御用人が状況を詳しく聞いている。
「師よ…」
遺体を前にして言う。
「この仇は必ずや」
そう言って他人には絶対に見せることがない号泣をしたという。数日後、京都のある商屋にて桂小五郎は男と会っていた。
「珍しいな。あんたが続けてここに来るとは」
「それだけ周りが騒がしいということだ」
「なるほど」
「また一人頼みたい」
「新選組か?」
「いや、新選組よりも先に我らに迫ってくる者がいる。そいつを頼みたい」
「名は?」
「尾張藩に仕える金子玄十郎宗康という男だ」
「尾張藩…」
男が呟いた。
「知ってるのか?」
「昔の因縁だ」
「ほう」
桂も興味があるような表情をしたが殺気がそれを止めさせる。
「余計な口出しは無用だ」
「ならば、やってもらえるな?」
「ああ」
桂は前金を置いて部屋から出ていく。男は金子を手にすることなく、目を瞑っていた。一方の宗康は忍びたちを縦横無尽に放って長州藩に近い者たちから順々に捕らえては容赦無い尋問を加え、その悲鳴を聞いた者から恐怖すら覚えたとの訴えもあったが下主人を探す宗康には誰も口出しはできなかった。尋問された者のうち、番士の隙をついて突破した者があった。その者が駆け込んだ先は長州藩京都屋敷である。話を聞いた桂小五郎は一抹の不安を覚え、陰影に宗康暗殺を依頼した、というのが事の顛末だが逃がしたのは故意で下手人の動きを探るための宗康が仕組んだ罠だった。その罠を知ってか知らずか、陰影の動きは素早く、その日のうちに尾張藩の別邸に姿を現した。痺れ薬を施した煙で護りを手薄にすると悠々と中に入った。人気はない。中庭から屋敷内に潜入しようとした時に一塵の刃が飛んできた。陰影は跳躍で軽く交わし、小太刀を構える。
「我が屋敷に土足で上がるとはたいしたものだな」
「…何者?」
「尾張藩名古屋探索方棟梁、金子玄十郎宗康」
「貴様が…」
「陰影だったな」
「…我が名を知るか…」
「当然だ。父を殺し、兄弟子を殺し、挙げ句に下手人が抜け忍だと知ればな」
陰影がかつて名古屋探索方に属していた忍びだと棟梁になった時に聞かされていた。
「…これも因縁だな…」
「まったくだ」
微動だにしなかった宗康から縦に横に刀が放たれる。剣圧を帯びているため、離れていた陰影にも届いた。しかし、陰影はこれも交わして間合いを一気に詰めてきた。宗康は刀を逆さに返して頭を守る大鎌の構えを見せる。近づく陰影の顎を狙って攻撃を加えるが後転して間合いを再び開けた。
「龍牙散布を交わし、陰陽塵をも交わすか…ならば…」
宗康は刀を納めて抜刀の姿勢になる。政勝が最後の一刀に放った技と同じであった。静けさだけが漂う中庭で鬼気だけがぶつかり合う。これも因縁、陰影は一気に跳躍して頭上を襲う。その突如、光が陰影を包んだ。
「何だ…これは…」
光は陰影の魂を昇天させた。体が下にある。
「そうか…、これが…」
死というものを陰影が初めて体験した。そして、最後の体験となった。
「父に兄(弟子)に詫びて参るがいい」
そう吐き捨てると静まり返った屋敷内にいくつもの気配を感じた。
「討ったか」
現れたのは先代棟梁の鬼影都十郎である。棟梁を決める時は二つの方法がある。一つは棟梁と後継とされる者が戦って勝てば継承を許される方法と棟梁の座を譲って継承させる方法があり、宗康は両方の方法で継承した。つまり、都十郎と戦って勝ち、その器に惚れた都十郎が宗康に棟梁を譲ったという。
「うむ、見事」
別邸は普段藩主の別邸として扱われるが、江戸や藩内と違い、滅多に来ることはない。しかし、手入れを怠るわけにもいかないため、京の情勢を知るために探索方の拠点としたのだ。
「こやつも欲に絡まれなければ良い忍びになったろうに」
陰影の過去を知る都十郎は静かに語った。里を捨てる時に止めることが出来なかった長としての本音であろうか。
「後は任せます」
宗康は屋敷から出ると颯爽と名古屋に戻った。報告を受けた慶勝はわずかに頷いただけであったが闇に身を落とした宗康にはそれで十分であった。尾張の地に葬られた館林政勝の墓に参るとニ輪の仏花が咲いていた。そして、その間には線香が煙を漂わせている。
「これは…」
線香に残る僅かな匂いが宗康を警戒させた。しかし、気配はない。わずかな気配も感じることはなかった。
「陰影…」
姿形はなくとも最後の謝意だったのか、宗康はそう判断し、天を見つめていた…。
「この世は儚きものだな」
声をするほうを見ると政尚であった。
「早かったな」
「ああ、配下の者も城下に着いている」
「明日の日暮れと同時に仕掛ける。それまでに松山家に入れておけ」
「うまくいったようだな」
政尚も景武が頼清と通じていたことは知っている。政尚は浜松衆を率いているが忍術は一切遣えない。長となるには探索方棟梁と同じで強くなくてはならない。政尚は自慢の槍術で全員を打ち負かした。忍術も読みきっての勝ちに誰もが異論を唱えることができなかったという。
「浜松衆の数はどれぐらいになる?」
「八人だ」
政尚が動かせるギリギリの人数だが、総勢でも駿河衆に比べて数は少なく、十五人しかいない。
「甚左は来ているか?」
「無論。わしより劣るが腕は申し分ないんでな」
甚左は名を橋口甚左衛門と言い、元は尾張柳生の使い手として総州安総藩に仕えていたが政争に巻き込まれて失脚し、家は断絶。流浪の身となり、盗賊の用心棒まで没落していたが押し入った先が探索方が拠点としている商屋で、さらに偶々訪れていた政尚滞在のおまけ付きで散々に叩きのめされて甚左以外の者は捕縛されたが、甚左の腕を気に入った政尚により元武士で構成される武影衆に加わり、政尚の右腕として闇の世に身を置いている。
「ならば、問題ないな。あとは各々の腕で押し通るのみ」
そう言うと宗康は懐かしさが残る朽ちた屋敷から死臭が漂う松山家へと戻った。戻ると駿河衆の鬼影弥十郎が着いていた。都十郎の子だが八人兄弟の末子でまだ二十五と若い。長兄覇都丸は鬼影一族の後継者として藩主慶勝に仕えているが、懐の深い父と違い、代々棟梁を勤めてきた誇りと自負、信念を曲げない気質があり、新たに棟梁となった宗康の存在を認めていない。次兄都一郎、三兄焔次郎と共に一派を率いて分裂してしまっているが尾張藩を守ることに関しては宗康の意思と共通している。それに引き換え、弥十郎や一つ上の左京は宗康の実力を知っており、長として認めている。
「すまん、遅くなった」
「何かあったのか?」
「鉱山の警戒があまりの他強くて侵入方法に手間取った」
「侵入口はいくつある?」
「全部で三つ。一番警戒が強いのが南道で、鉱山奉行の役宅もここにある。西道は採石場に面しており、人夫たちの小屋も点在している。一方の北道は死体置場だ」
「鉱山で死んだ者たちのか?」
「いや、刀傷の死体もあった。おそらく、殺されたのだろう」
「秘密を知ったがために殺された可能性はあるな」
武器が隠されている可能性は強くなった。
「潜入した者によると内部はいくつもの坑道に分かれているが案内をつけてあるので問題ない」
案内とは内部にいる者に催眠術を掛けて道案内をさせるのだ。掛けられたほうは当然ながら道案内した記憶はない。
「ならば問題はないな。お土岐はどうした?」
「今は石河頼行を見張っておる。山奉行の手勢まで合流されるわけにはいかないからな」
山奉行は鉱山以外の山を管理監督しているが、配下は与力や材木番など二十人と定められている。一方の鉱山奉行は山奉行と同格だが、金鉱を掘っていることもあり、山奉行に比べて配下は若干多い。しかし、二つの配下を合わせると五十を越える手勢が集結してしまうことになる。それだけは避けなければならない。
「わかった。狙いは首魁松平備前守頼清、嫡子頼延、次子頼基の三人はわしが直接殺る。頼清の取り巻きで藩道場頭取の藤岡宗厳と勘定奉行の藤岡勝直、金奉行の船岡義晟は政尚の浜松衆に任せる」
「承知した」
政尚が頷く。
「武器弾薬を滅すること共に鉱山奉行の原長常、山奉行の石河頼行は弥十郎の駿河衆が担う」
「おう、任せとけ」
「よし、決行は日没と同時だ。良いな?」
「ああ。我らの他に動くのは?」
「金子藩次席家老長居直弘が待機しているそうだ。江戸家老木村綱敬も同調しているが、こちらは江戸にいる松平派を抑えるのが役目だ」
「先崎一族がいればもう少し楽なんだがな」
先崎家は一門衆として矢野家と共に本丸に屋敷を構えており、当主の勝秀は瀬戸内海に浮かぶ影島の領主として赴いているが、弟の真概利成は幾天神段流真崎派の二代目として島内外から多くの門弟を抱えているという。
「あったとしても藩主家が表立って動けば後々もめることにもなりかねん。それに長居家が動くということは藩主擁する改革派が動くということだ。それだけで十分」
「承知した」
決戦はまもなく開始される…。
「ほう?」
亀井信真が配下を見る。日が一番高くなる時間帯だが室内は冷たく感じる。鋭い視線を配下に送っている。
「いつもの様子ではないと?」
「はっ。姿形は確かに忠頼で間違いないのですが、気配が違います」
「忠佐の姿はあるか?」
「いえ、昨晩任務で江戸に向かった模様…ぐっ…」
信真が放ったクナイが配下の首を貫いた。
「がぁ…」
吐血して倒れる配下に目もくれず、信真は口笛を吹くと黒装束の男が現れた。
「鴉、忠頼が姿をくらましたようだ。頼義に密命を受けたやもしれぬ。暗示は仕掛けてあるが万が一ということもある。小石山に行って偽物を殺せ」
「本物であった場合は?」
「構わぬ。好きにしろ」
「御意」
鴉が去ると信真は奥の間にいる頼清の許へ行く。
「御前」
「如何した?」
「御城番頭亀井忠頼が消えました」
「消えたとな?」
「はっ。藩主頼義から密命を受けたものと思われます。小石山に影武者がおるところを見ると何かしらの情報を持っていると思われ、鴉を向かわせました」
「成程、血の雨が降るな」
頼清も鴉の実力を知っている。
「御意」
信真が畏まる。
「忠頼が向かった先だが、どこだと思う?」
「おそらく、尾張か江戸かと」
「あそこには頼義の兄元忠がいたところだ。殺されたと聞くが?」
「はっ。藩内の政争に巻き込まれて暗殺された由」
「ふむ。忠宗はどうした?」
「暗殺を前後して未だに行方が掴めておりませぬ。共に殺されたと思われます」
「ならば尾張に向かう道理はないな」
宗康が探索方棟梁として生きていることは知る由もない。
「江戸にこざいましょう。江戸南町奉行所同心松川勘十郎は烈将の子金子左近将監の流れを汲む者と聞いております」
「そのような血筋がまだあったのか」
「幕府を追われた左近将監が自らの門弟であった武州大館藩主松平伯耆守の許に逃れて松川姓を名乗ったのが始まりとされています」
「となると、その者が死ねば後継者は無くなるわけだな?」
「御意」
「根絶やしにしろ」
「承知」
信真は頼清の命を履行するために江戸に向かった。この動きは宗康にとって嬉しい誤算であった。忠頼すら手玉に捕る信真が不在であることはすぐに宗康の許に知らされた。
「不在か。頼清を討つのは容易くなった。どこに向かったのだ?」
宗康に報せたのはかくいう鴉であった。鴉は探索方黒影衆の所属する忍びで先代鬼影都十郎が金子藩の内情を探るために鴉を潜入させていたのだ。
「おそらく、江戸かと」
「江戸には松川勘十郎がいるな」
「御存知で?」
「会ったことはないが、幕府の隠密をしていると聞いた。信真とて危ういかもしれん。鴉」
「はっ」
「お前は怪しまれぬよう小石山に出向いて忠佐を秘かに守れ」
「その後は?」
「先代の命に従え」
「はっ」
鴉が消えるように気配を断つと兵庫が現れた。
「あやつはいずれ仇なす存在となりましょう」
「構わぬ。表向きは我らに従っているが、元々血を好むからな」
潜入とはいえ信真の右腕として殺害した者は数えきれず。鴉の行き先々は必ず、血の雨が降ったという。
「我が前に立ち塞がるならば倒すのみ」
情けなど必要なし。宗康は闇を生きる者として当然の答えを出した…。
日没。夕闇が訪れると共に喧騒が闇を切り裂いた。表と裏から同時に侵入し、塀を乗り越えた忍びは長屋門を内側から開いた。雪崩れ込む忍びの動きにいち早く気づいた藤岡宗厳は門弟たちを中庭と玄関に配して迎え討った。
「いきなりお前が出てきよるか!」
好敵手を見定めた政尚が槍を片手に宗厳の前に立ち塞がる。
「お前は!?」
「久しぶりだな、柔介殿」
柔介とは宗厳の通称である。
「この裏切者めが!。よくノコノコと我が前に姿を現せたものよ!」
「愚者が語るな」
「何だと!?」
「周りが見えぬ愚者と言ったんだ」
周りを見るが門弟たちが戦っている。
「阿呆が!。故にお前の実力がそこまでというのだ」
槍を地面に突き刺して政尚も刀を抜いた。宗厳が下段に構えたのに対して政尚は自然体になる。殺気は周りの者たちが警戒する程の凄まじさで宗厳の背後で右往左往していた勝直は腰を抜かしたところを踏み込んだ甚左によって斬られていた。先に仕掛けたのは宗厳である。下段から袈裟斬りに斬りつけようとするが政尚は一気に間合いを詰めて鳩尾に点撃を放つ。辛うじてかわした宗厳は裏拳で政尚の顔面を捉えるも微動だにせずに頭突きで返され、軽い脳震盪を起こした宗厳がよろめいた瞬間に政尚は横一文字から右袈裟で斬りつけた。神段斬りという技である。これに突きが加われば神段連撃という技に変化する。この二つの技は幾天神段流においては初歩の技であった。深手ではないが一度間合いを開ける宗厳を助けるべく門弟が政尚の背後から斬りつけようとする。政尚は冷静に動いて相手の喉目掛けて突き刺した後、反転して向かってきた宗厳を上段から降り下ろし、最後にまた反転して背後の敵にも上段から降り下ろした。同時に二人が倒れて周囲から悲鳴が上がる。
「な……何を…し…た…」
「お前は己の保身に甘んじる余り、幾天神段流の極意を忘れてしまったようだな」
「…そうか…」
政尚の言葉に宗厳は全てを理解した。幾天神段流の極意とは師から受け継いだ技だけではなく、自ら編み出すことにある。政尚が繰り出した技は政尚と政尚に協力した甚左によって編み出された「雷」という技である。編み出された技は宗家の承認を得て幾天神段流の技として登録される。宗家は当然、唯一無二の親友である金子玄十郎宗康である。
「これがお前と俺の差だったな」
最後の言葉は宗厳に届いていなかった。すでに絶命している。勝直と宗厳の死により、藩道場頭取を代々勤めた藤岡家は断絶することになるが、金子藩において慶安の世(五代藩主宗勝の治世)から代々受け継いだ幾天神段流の一派は宗家に滅ぼされる形で消滅した。玄関口を突破された松平方は本丸に等しい主殿に至る中門に家臣を集中させて守りを固めた。その隙に抜け道を使って逃げた者がいた。頼清の次子頼基である。頼基は元服前に父の命で軍目付松家義基(佐基の子)の養子となっていたが情勢不利と判断して敵前逃亡を図ったのだ。主殿の東側にある台所に井戸が二つある。一つは並々と水が蓄えられているが、もう一つは空である。縄梯子を使って底まで降りると真っ直ぐ伸びる抜け道は松の丸まで続いていた。しかし、松の丸を制していた探索方により出口は固められており、出てきたところを待ち構えていた兵庫によって家臣共々斬られてしまった。徐々に狭まる松平方の命運は決まったように思えた。
一方、日没と同時に鉱山を攻めた鬼影弥十郎率いる駿河衆は配下を二つに分けて、弥十郎の兄左京と宗康の命で弥十郎に従うお土岐がそれぞれ原長常と石河頼行の役宅に攻撃を仕掛けた。急襲の知らせを受けた鉱山の守りは手薄になり、案内役を得た弥十郎は難なく鉱山に隠された武器弾薬を見つけた。莫大な量である。金子藩だけで収まりがつかない程である。
「これが世に出れば幕府すら危ういであろうな」
銃器と共に置かれていた大量の火薬を辺り一面に散らばせて爆薬を仕掛けた。導火線となる火薬の道を作りながら来た道ではなく、そのまま、死体置き場がある北側へ抜ける。中指に宿した火を導火線に移すと勢い良く火薬は燃焼して銃器がある構内を目指した。爆発を見届けることなく立ち去った弥十郎は戦いが繰り広げられている石河頼行の役宅へ向かった。弥十郎が立ち去ってから幾ばくもしないうちに鉱山を破壊する程の大規模な爆発が起きた。近くにある原長常の役宅は地震が起きたが如く大きく揺れて屋敷が崩れてしまう程であったといい、戦いを繰り広げていた左京らは間一髪で避難したが、原は崩れてきた柱の下敷きとなり、嫡子長清ら一族もろとも圧死した。原家も藤岡家同様に後嗣なく断絶することになる。金子城下にある山奉行所でも戦いは起きていた。藩内に配下を散らばせているため、数は少ないが筆頭与力の不破龍寛は藤岡宗厳門下随一の剣豪であり、影島領の先代領主先崎勝成に仕えた不破総治郎の子である。兄総十郎が家督を継いだがこれを由とせず、島を出て金子へと武者修行に来たのだ。類稀な能力を見出だした宗厳に慶安の世(五代藩主宗勝の治世)から代々伝わる幾天神段流の奥義を叩き込まれた。つまり、宗厳の後継者である。その後継者を相手にお土岐らは苦戦した。仲間が次々と斬られていく中でも石河方を城にも鉱山にも向かわせずに足止めしていた。城からの喧騒は徐々に大きくなり、城下に住む民たちも何事かと城を見上げながら不安な眼差しを向けていた。その最中に起きた山奉行所での戦いに不安は一層強くなって混乱をきたすようになった。本来なら町奉行が駆け付けなければならないが一向に動く様子はない。これは長居直弘が動いて封じ込めたと思われた。ここでお土岐らが退いても情勢に変わりはない。もはや、結果は見えていたがお土岐は退くことはなかった。仲間がやられて無駄無駄逃げるわけにはいかなかった。黒装束はあちこち破けて肌が露になっている。鎖帷子のおかげで急所は守られていた。間合いを詰めようとすれば凄まじい剣圧がお土岐を襲う。徐々に削られていく体力は気力で補っていたがそれも限界に来ていた。膝の震えが止まらなくなり、膝が崩れ落ちる。足が動きを止めたのだ。
「もう終わりか。他愛ない」
龍寛が歩み寄る。足音だけがお土岐の耳に届く。冷たい風がお土岐の周りに漂う。懐かしさが混じる風を抱き締める感じが心地よい。
(そう…わかったわ…)
龍寛がお土岐を頭上から見下げた瞬間、抜け切っていた力が甦る。懐から出したクナイを龍寛の足の甲に突き刺すと小刀で腹部を突き刺し、後ろに飛び下がった。
「ぐはっ!」
一瞬のことに訳がわからない龍寛は再び間合いを開いたお土岐を一瞬だけ見て後ろに倒れた。
「大事ないか!?」
倒れそうになるお土岐を誰かが抱き起こした。しかし、お土岐の意識はここで途絶えた。次に目覚める時は全てが終わった後だった…。
「何事か!?」
松平家御用人難波圭介が叫んだ。頼政の代から仕える最古参の家臣である。若い家臣が廊下を駆けてきた。
「い、一大事にございます!」
「如何したのじゃ!」
「侵入者にございます!」
「何じゃと!?」
「表はすでに塞がれております。裏からは忍びかと!」
「信真は如何したのじゃ!?」
「それが…どこにも…」
「おのれ…寝返ったのか!?」
難波は知らなかった。信真が江戸に向かったことに。屋敷のあちこちから悲鳴と怒声が聞こえてくる。
「何としても殿の許へ行かせてはならぬ!。中門を死守せよ!」
「はっ!」
家臣が去ると難波は頼清の許へ急いだ。中門は広大な松平家の本丸を守る長屋門である。ここを突破されるわけにはいかなかった。
「殿、一大事にございます」
「如何した?」
「侵入者でございます」
「侵入者?」
頼清が障子を開いた。遠くから聞こえる喧騒に眉を潜める。
「いずこの者か?」
「閻魔大王の使いの者かと思われます」
「何!?、閻魔!?」
その時、黒い物体が頼清の前に転がり込む。
「こ、これは…」
それは頼清の嫡子頼延の首であった。目を見開いて苦悶の表情をしている。
「こ、これはどういうことじゃ!?」
廊下に控えているはずの難波の姿は無かったばかりか、背後から近づく狂気にも気づく様子は無かった。
「うっ!?」
脇差しが胸を貫いた。
「このような愚か者が藩を牛耳っていたとはな」
「ぐはっ!」
頼清の体が血飛沫を上げながら地に落ちる。
「お、お前は…!?」
「久しいな、備前」
目を見開く頼清に宗康は冷たい眼差しで見下ろす。
「お、愚かな…じ、時世が…わ…わか……らぬ…か…」
「さらばだ」
仰向けに倒れた頼清の胸目掛けて刀を突き刺した。有無を言わさない非情の止めである。
「ぐっ…」
「冥土の土産だ。松平家は生き延びる。それだけは安心するがいい」
宗康が片手で合掌すると駆けつけてくる足音をよそに戦利品を奪って姿を消した。死者に語るものは何もない…。
「御前」
闇夜に浮かぶのは宗康と尾張藩主徳川慶勝の二人。
「首尾は?」
「これに」
宗康は奪った戦利品を差し出した。頼清の首である。
「うむ、見事。褒美として五百石取らそう」
「有り難き幸せ」
与えられた五百石は森山家から没収した知行地であり、慶勝は宗康に返す機会を窺っていたのだ。
「これで金子藩も少しはよくなるであろうか」
「その前に幕府が崩壊するかと」
「予兆はあるか?」
「ございます」
「ならば、そうなのであろうな」
慶勝は微笑した。本家である徳川将軍家が消えるかもしれない情勢を楽しんでいるようであった。
「では、これにて」
「うむ」
宗康が気配を断つと慶勝は立ち上がって障子を開いた。
「雪か…」
降りしきる雪を見つめながら、次なる世に秘めた思いを抱き続けていた…。