十五、誅殺《中編》
金子城には数多くの重臣屋敷がある。二ノ丸には一門衆である先崎家と矢野家、筆頭家老の松平家があり、三ノ丸には長居家、木村家、久保田家、島田家、笹堀家の五家、三ノ丸の南に位置する南ノ丸には藩道場を併設する藤岡家、立藩以来代々御典医を勤める榊原家の他、吐前家、松家家、船橋家、原家、林家等十家がある。この十八家が藩の中枢を占めているが、三ノ丸の西にある松ノ丸にも一際大きな屋敷がある。寄合でありながら三千石の松山家である。戦国時代、松山家は国人衆として今川家に仕えていたが元景が藩祖宗康の父照政に仕えるようになると鞍替えして家老に収まった。祖先は関東や越後に多く分布した長尾家の一族だと言われ、代々「景」の一字も通字としてきた。嫡子景成も宗康の軍師として数多くの知略で名を馳せ、東遠州の北半分を知行地とした。また、妹のお菊の方は宗康の正室であり、城崩しの変を引き起こした張本人でもある。景成の嫡子景義は父を尊敬して戦略を身につけ後継者として励んでいたが、松山家の家督をどうしても次子茂成に継いで欲しかったお菊の方の謀略で追放され、事実を知った宗康が激怒し、止めることが出来なかった景成を謹慎、お菊も遠ざけられる事態に発展した。後に宗康によって許され、城崩しの変後に帰参。宗康・義康・宗恒の三代に仕えて松平清之と共に次席家老として藩政を支えた。しかし、嫡子景長が家中の政争に敗れて失脚し、屋敷も三ノ丸から松ノ丸に替えられた。政争を制した松平家は中士程度の屋敷が並ぶ城下へ移すよう進言したが、一門衆に列していることに藩主宗恒が理解を示して城中に留め置いたのだ。この政争以降、松山家は大身の寄合として中枢から名前は消えるが決して諦めたわけではなかった。景長の後は嫡子景邦が家督を継いだが、次子景種は追放となった五代藩主宗勝の娘で筆頭家老徳村政家の正室お駒の方を頼って護間藩に仕え、後に寺社宗門改方に抜擢された。三子景親は江戸表において直参旗本三百石の平間総兵衛の養子となって家督を継いだ。景邦の長子景盛は家督を継がずに大坂や京都で茶道の修行して藩内に広め、「松景流」を創設して茶の真髄を極めた。松景流はかつて敵対した松平家でも広まり、景盛は一目置かれる存在となったが藩職に就くことは無かった。しかし、門弟で藩主の茶道具を扱う作事奉行支配諸道具頭佐々木勝豊がぜひにと景盛の次子景豊を養子にした。景豊の長子が悪名高い禅正宗豊である。松景流は景盛の長子景竹が継いで後世に名を残したが、本家の方はひっそりとしたもので景邦の後は次子景保が継いだが確たる役職にも就くことなく、趣味の陶芸に興じた。没落した松山家を不憫に思った藩主宗親は景保の嫡子景榛を鱶橋代官に任じた。本来は鱶橋口番頭が第一の役職であったが辺境とはいえ関所も備わり、近年では城下で罪を犯した者が鱶橋口を抜けて他国に逃れている事が度々発覚しており、番頭を配下に下げて新たに代官を新設したのだ。十数年ぶりの役目だが、代官は中士格の役職だけに寄合とはいえ三千石の松山家が受け入れるか周囲は期待と不安が入り交じっていたが景榛は甘んじて受け入れた。屋敷を隠居した景保に任せて自らは鱶橋口関所に併設した役宅に移り住むことで関所と配下の士気強化を目指した。不正をしていた同心や番士を御役御免に処し、関所を抜けようとした盗賊らを捕縛するなどの活躍を見せ、噂は宗親の耳にまで届いていた。話を聞いた宗親は大層喜び、町奉行に転任させて治安の更なる強化を図り、公正かつ的確な裁きから「名奉行」と呼ばれた。中でも城下で試し斬りを名目に罪無き人々を殺害した腰物奉行針間菊右衛門に対しては斬殺を行った後、巧みに逃れる針間を誘き出そうと自らが囮となって闇に紛れて斬りかかって来たところを迎え討ち、相手が景榛と知って驚く針間と主を守ろうと飛び出して来た家臣数人が対峙した。
「まさか針間殿が下手人であったとは!?」
何とか主を逃がそうとするがすでに町奉行所の捕り方が囲んでいた。単身囮になると申し出た景榛に対して筆頭与力長谷部文次郎は反対したものの、景榛の度重なる説得に根負けして、自らが選んだ手練五人と共に毎夜探索に出ていたのだ。
「武士らしく腹を召されよ!」
斬りかかる主従を前に一歩も退くことはない。景榛の剣術の腕は中の上ぐらいでそれほど強くは無かったが柔術に秀でていたのと度胸だけは据わっていた。景榛に斬りかかる針間の一瞬の隙をついて腕を捻ると思いっきり投げ飛ばした。地面に叩きつけられた針間は悶絶し、そのまま捕縛された。辻斬りが針間である事実を知った宗親は激怒し、「武士にあるまじき行為」として切腹は許さず、市中引き回しの上、打ち首獄門に処された。針間家は改易となり、この凶悪事件を境に景榛の知名度は遥かに増したが、父景保が望んだ屋敷替えはされることはなく、金子城松ノ丸の主として鎮座したままだった。景榛は町奉行を二十年務めたが城下の治安は安定していたという。晩年に五百石の加増を受けたが次子榛成に加増分を分知したため、石高は変わらなかった。しかし、後を継いだ景俊が榛成に分知した五百石を召し上げる旨を伝えたところ、榛成が反発して評定所へ訴える事件が起きた。裁決の結果は喧嘩両成敗とし、景俊は御役御免となり、榛成は江戸勤番を命じられて五百石は没収となった。景俊が三十の若さで逝去すると幼い嫡子景久が後を継いだ。江戸にいた榛成はこれ幸いと甥の後見を申し出たが榛成の魂胆を見破った松平頼政により退けられている。替わって景久の後見を命じられたのは八十を迎えた祖父景榛である。若くして死した我が子への悲しみを拭いきれない程の落ち込み様であったが幼年の孫の成長を新たな楽しみとして呆けるどころか、現役の頃の気力を取り戻したように動き回った。これには松平頼政や後継の頼常も根負けした様子であった。徳村政家、慶照寺有庵に次ぐ長命の長さで齢九十で逝去した。逝去後、景榛の知名度を利用したい松平頼常の推挙で小姓となり、小姓頭を経て御納戸衆、御先手組と渡り歩いて二ノ丸護番頭として藩主義忠より嫡子元忠の守役を命じられた。藩道場においても頭取藤岡宗信の嫡子宗厳の教授を受けて高弟の一人となったが元忠が二十歳の時に病死した。子供がいなかったため、家督は分家である茶道松景流家元景村の長庶子景武が継いで二ノ丸護番頭を拝命するも庶子であることを理由に大手門城番頭に左遷され、同僚に愚痴をこぼしたことを告げ口されて御役御免となり、父より受け継いだ茶道に興じながら悶々とした日々を過ごしていた。五年後、元忠・忠宗父子が松山家を訪れ、養父の墓前に手を合わせ生前の苦労を労った。その後、御礼と称して景武は二人に自らが立てた茶を勧めると一息ついた。
「おいしゅうござるな」
「父に比べればまだまだでござる」
「いや、茶に濁りがない。純粋さが現れておる」
「お褒めに預り光栄にございます」
畏まる景武に元忠は話を続けた。
「景武、お主は京へ行ったことはあるか?」
「残念ながらございませぬ」
「左様か。彼の地は文化の中心ではあるが、今は動乱の中心になりつつある。今の世にたりぬものが何たるかをまだ我が藩の者は知らなすぎる」
「頭の固い連中とずる賢い連中が藩の中心にいるのですから仕方ありませぬ」
先日の御役御免で景武は嫌と言うほどそれを感じ取った。
「とはいえ、今だに藩内は安定しておらぬ。わしとて無事では済まぬであろう」
「何と申される?」
元忠の言葉に景武が驚いて聞き返した。
「度々命を狙われておる。おそらく備前の差し金であろう」
「何と!?」
「わしの周りには改革派の者たちが警護に付いてくれているおかげで何とかなっているが、いつか命を失う時もあろう」
景武は気づかなかったが門前に控えている従者は全員長居直弘が揃えた手練ばかりであった。
「景武、お主に頼みがある」
「何でしょうか?」
忠宗を交えた密談が始まった。この日の夜、元忠は脱藩を決意して忠宗と共に離れたのが記憶に新しい。
「しかし、あの時は本当に驚きましたが、今になってあの時の約定が果たされようとは…」
老年の域に入った景武は秘かに金子城に入った忠宗改め宗康と話をしていた。名古屋城下の叢屋敷を発った宗康は半日でこの地に到着し、先に潜伏した弥十郎と繋ぎを取り、城下に秘かに設けた拠点で政尚と合流した。その後、政尚を慶照寺に走らせ、自らは松山家の屋敷に入った。御城番衆が警戒しているが惣領家である亀井家を除けば忍術を遣える者は数える程しかない。容易く潜入できる城に苦笑せざる得なかった。
「本当に殺せますか?」
「案ずることはない」
「決行はいつ?」
「夜が明けて日が暮れるまでに動く」
「ご武運を」
「うむ。ただ、気がかりなことがある」
「何でしょ………」
その先が無かった。宗康が抜いた脇差しが景武の胸を貫いていた。
「こ、これは…」
「お主が備前に通じていることが気がかりであった」
「ば、馬鹿な…」
「脱藩する時も我らの動きは備前には筒抜けであった。幸いにも頼直の撹乱と探索方が早く動けたことで我らの命は救われた」
「ぐぅ…」
「金に吊られた愚かな奴め」
最後の言葉は景武に届いていなかった。
「兵庫」
「はっ」
闇の中から刀を帯びた武士が現れた。だが、彼も立派な忍びである。暗殺を主とする黒影衆に属している。
「景武になれ。この屋敷を任務を遂行するまでの拠点とする」
「はっ」
すうっと気配が消える。屋敷内に気配は無い。女中や郎党ら全ての家臣が探索方によって殺され、死体は全て隠された。景武には嫡子景光がいるが江戸勤番であるため、すぐに気づかれる心配はない。この景光も叔父榛成との些細な口論が原因で殺害されている。榛成もまた居合わせた他の藩士によって殺され、景光の後は分家の松景流家元景村の末子景明が継いだが、父の死後の明治三年に松景流を継いだのを機に本家と統合したという。景武となった草壁兵庫は味方を引き入れて何食わぬ顔で訪れる者の対応をしていたが、一人の老人だけは違和感を感じ取っていた。
(これは…)
普段と変わりない対応をしていた下人たちの姿を見ていたが一つだけ感じ取ったものがあった。それは血の匂いとお香の匂いである。血の匂いを消すためにお香を炊いたようだが完全には消せなかったようだ。
(やはり…これは…)
老人はある目的があって松山家を訪れたのだが門前に至るまでに確信に変わった。だが、下人に尋ねたところで嘘を吐かれるのは目に見えている。そこで滅多に使わない松山家の敬称である「肥前様」を用いることにした。これは二代景成が朝廷から肥前守を叙任されたことによるものだったが四代景長の代に返上してからは形骸化していた。
「これ、肥前様は息災か?」
「肥前様?、鍋島様は九州におられるでよ」
肥前の国主で肥前藩先代藩主鍋島閑叟は「佐賀の七賢人」の一人としても知られている。
「ははは、そうであったな」
老人は確信した。ここで何かが行われたと。
「ならば金子の賢人である景武様はおられるかのう?」
「ああ、奥の間におられるでよ。おーい、お客様が見えたぞー」
下人は老人を屋内に通した。廊下の左右にあるいくつかの部屋からは気配を消している何者かの動きがあった。老人は景武はもういないのではないかと推測した。裏庭が見渡せる広間に景武がいた。
「景武様、ご機嫌如何か?」
「おお、ご老体。息災で何より」
姿形、話し方、仕草まで景武にそっくりである。本人と間違いそうになる。
「先日、江戸まで行ってきましてな」
しばらく世間話をしていたが、あまり長話をすると目的を見失ってしまうと判断し、老人は確信をつくことにした。
「ところで、お主は一体どこのどなたかのう?」
「何と申される?」
「ここの者たちもそうじゃ。肥前様と申したのに知らないという。前はこんなことが無かったと思うんじゃがのう」
「それは気のせいですよ」
「いや、気のせいではあるまい。ならば何故死臭が致す?」
老人がそう言った瞬間、四方八方から手裏剣が飛んできたが老人は糸も簡単にこれを蹴散らす。
「うぬらは何者か?」
老人からみなぎる気迫が飛び出た。
「何者と思う?。犬居の暴れ龍」
兵庫の背後から宗康が姿を現した。
「お主は…」
「尾張藩名古屋探索方棟梁金子玄十郎宗康」
「ま、まさか…」
「そのまさかよ」
宗康が手を翳すと兵庫を含めた全員が姿を消した。
「忠頼が姿を消したので参ったのであろう?」
「如何にも」
「ここに来るということは私と父が脱藩した時の経緯は全て承知だな?」
「ああ、知っておる」
もう少し炙り出してみる。
「一つ聞きたい」
「何じゃ?」
「何故、尾張様を狙った?」
「何のことじゃ?」
「昨日、忠頼が名古屋城下において菩提を参詣中だった徳川慶勝様を暗殺しようとした」
そんな話はない。偽りの話だ。
「な、何じゃと!?」
犬居の暴れ龍が叫んだ。
「暗殺は我ら探索方が未然に防いだが殿はえらくご立腹なされた。売られた喧嘩を買うのが我が藩の矜持」
「そ、そんな話、備前様からは何も…」
ついボロを出した暴れ龍に宗康は確信した。
「ほう、御城番でありながら備前とも繋がっているのか。あの暗示をかけたのはお前か?」
「か、語る必要はない」
「忠頼程の男に暗示をかけるのだ。お前を除いて誰がおる?」
「……」
沈黙を決める犬居の暴れ龍が逃れようとするがすでに囲まれていることに気づいた。
「やめておけ。我らの網から逃れられぬ」
刀を構える。
「やる気か?。ならば致し方あるまい。手加減してやろう」
宗康は刀を収めたまま、分身の術を行った。一人から二人、二人から四人、四人から八人、八人から十六人…っと数え切れない程の無数の分身が暴れ龍を囲んだ。見分けがつかない。
「行くぞ。幾天神段流秘奥義無双乱舞」
無数の分身から飛び出した無数の刃は暴れ龍めがけて四方八方舞う。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーー!!!!!」
刀で弾いていくが捌き切れずに傷を増やしていき、徐々に速さも増していく。
「ま、まだ速くなるか!」
何とか捌いていた暴れ龍も最後は血飛沫が舞った。
「な…なん……た……るこ…と…か…」
「これが金子と尾張の差よ」
そう吐き捨てる。
「一つ言っておきたいことがある。確かに殿は売られた喧嘩は買うと申された。だが、狙われたのは殿ではない。私だ」
「そ…う……か…」
「何かの拍子に暗示が発動したのであろうな。自我を失った忠頼を生かして倒すのは苦労したぞ」
「な…」
暴れ龍が目を見開いた。てっきり死んだものとばかり思っていたからだ。
「兵庫、暴れ龍を殺すなよ。最後の始末は御城番衆にしてもらわなくてはならんからな」
「はっ」
姿を消していた兵庫が現れた。他にも白装束の忍びもいる。
「白影衆は治療を専門とする集団だ。案ずることはない」
体を起こされた暴れ龍の表情は明るかった。呪縛された金子藩を救えるのは金子一族でしかないと思ったからだ。
「利兵衛、まだ意識があるなら我が問いに答えよ」
暴れ龍の本名は利兵衛という。戦国時代、初代宗康に仕えた忍び利十の末裔であり、亀井党の有力名族である犬居衆を代々率いている。
「影の御城番頭は亀井信真だな?」
「さ…左様…」
「暗示を掛けたのも信真だな?」
利兵衛が頷く。致命傷は避けたとはいえ、傷の痛みが苦しいようだ。
「御頭」
傷の容体を見ていた白影衆のくの一が呼び掛ける。
「連れて行け」
「はっ」
利兵衛は部屋から運び出された。残ったのは兵庫だけである。
「兵庫、弥十郎から繋ぎはあったか?」
「まだにございます」
「心配はないと思うが、こちらはこちらで事を進めよう。日没までには浜松からも味方が集まる。油断するなよ」
「承知」
宗康はその返事を待たずに屋敷から姿を消した…。
昨晩未明。景武を始末した宗康は金子城本丸にある藩主の住居にいた。その中枢である寝所の警備は厳重で屋敷の周囲と要所には御番衆が配置され、内部の至るところには御城番衆、その他巡回は奥女中で構成された薙女衆が行い、定期的に本丸屋敷を仕切る奥居頭に報告される仕組みになっていた。薙女衆を作ったのは初代宗康の姉織部である。織部は戦国時代に生きた女性であり、父や弟たちが戦で不在の際、留守の兵らと共に女子にも武器を持たせて城の要としたのが始まりである。織部は生涯夫を得ることはなかったが武芸は男どもに劣ることはなく、二百石の知行地を持ち、晩年に金子藩剣術指南役となった一条刀斎政経の手解きを受けて目録を得た。また、仲違いする甥たちに苦悩する弟を助けて城崩しの変、犬居の乱を乗りきり、一息つくことも許されない状態で迎えた弟の死に強い衝撃を受けて家督を養子の忠親に譲った。忠親は土佐の長宗我部家の出身で父が戦で討死し、家督を巡る御家騒動を嫌って土佐を去って遠縁を頼って遠州に逃れた。そして、曽我姓を名乗って宗康に仕えた。主に旗本衆として本陣を守った。泊家が断絶となると奥居頭に就き、支配下に御台所奉行や薙女衆を置いて本丸屋敷や藩主別邸の警備責任者となる。織部の養子となった忠親は金子姓を憚り、一門衆に列することはなかったが宗康・義康・宗恒・宗勝の四代に仕え、代々の藩主からも信任厚く、「一門同格」の地位を得ている。忠親の後は嫡子勝親が受け継ぎ、奥居頭として宗勝・宗親・義政の三代に仕え、父同様、忠実に藩主を支え、藩を牛耳る代々の松平備前守も藩主に近づけなかったのは曽我家の存在があったからである。勝親は屋敷が武家町にあったが役目に支障をきたすと屋敷替えを命じられたが怖れ多いとして断っている。その姿勢を気に入った藩主義政から脇差しを賜り、曽我家の家宝となった。勝親には三人の子がいたが、長子勝喜は有望な後継と目されたが藩を牛耳る上で勝親が邪魔な存在と決めつけた松平頼常の命を受けた手の者により殺害された。我が子の死に動揺するかに見えた勝親は平然を装ったことが火に油を注ぎ、次子義親も城中の堀に投げ捨てられる残忍さで殺された。報せを受けた藩主義政は事件に激怒し、下手人を捕らえるよう命じたが頼常の命を受けた家臣により下手人も死体で発見され、いつしかうやむやなものになってしまった。嘆き悲しむ勝親を支えたのは正室お妙である。お妙は薙女衆として勝親に仕えており、小太刀免許皆伝の腕前である。娘のお里にも小太刀を教えており、いずれは薙女衆となる運命である。お妙は秘かに御城番衆の長老中野忠弥を呼んで真相究明に当たらせている。失意に打ちしがれた勝親は役目にも支障をきたすようになったため、家督を三子政親に譲って隠居した。父や兄たちの無念を心に秘めて義政・義忠に仕えるも、父の死後に起きた元忠・忠宗父子の脱藩騒動に連座したと嫌疑を掛けられて役を辞し、家督を妹お里の夫である慶親に譲って隠居し、武家町の屋敷に移った。慶親には二人の子がいたことから頼常に近い慶親に家督を譲ったことに家中から反発を受けた。長子親氏は京都屋敷詰めを命じられたが、京都留守居役を勤めていた頼義が藩主となると金子に呼び寄せられて慶親に替わって奥居頭に任じられている。次子親長は後継となった慶親の命で曽我家の知行地である太平洋上に浮かぶ倭翠島に移った。百石にも満たない小さな島で代々の当主すら滅多に足を運ぶことはない。そんな島に初めて来た親長は島の統治を代々任せていたことが仇となって悪政を敷いていた郷士格の津田五郎左衛門ら放浪者十数人をわずか三人で討って人々を解放した。後に庄屋で郷士格の有馬文治郎に乞われて娘のお輝を正室に迎えて嫡子秋親を産む頃には新たな世を迎えていた。夜半、本丸屋敷を訪れた宗康に対し、面識のある親氏が出迎えた。本丸屋敷には代々藩主一門だけに受け継がれてきた抜け道があり、宗康は二ノ丸隅櫓下からここまで来たのだ。
「ご無沙汰しております。宗康様」
「まだ私を出迎えてくれる者がいたか」
「何を言われますか?。この城は宗康様が育った城ではありませんか」
「私は城を追われた者だ。今尚、この地では罪人よ」
脱藩は藩士にとって最大の罪で捕らえられれば最悪死罪になる。
「それは備前守の陰謀であることは誰もが承知です。ささ、殿がお待ちです」
宗康は親氏に案内されて離れに向かった。
「殿、宗康様をお連れしました」
障子が開かれると藩主頼義がいた。
「玄十郎、参ったか」
「叔父上、ご無沙汰しております。京で出会って以来でこざいますな」
「そうだな。京では色々と世話をかけた」
頼義が頭を垂れる。身内とはいえ、藩主が年下の宗康に頭を下げたことに控えていた親氏が驚いた。京で何があったか親氏も承知している。
「あの時は無念でございました。もう少し早ければ宗連は死なずに済み申した」
長州藩士が出入りしている屋敷に宗連らしき人物が出入りしていたとして新選組によって捕縛され、厳しい尋問の末に殺されたのだ。信じ固い事実に頼義は京都守護職松平容保に抗議するが受け入れられなかった。痛々しい無惨な姿で戻ってきた宗連を見た頼義は怒り狂って運んできた京都見廻組の役人を三人斬り捨ててしまった。激情な一面を見せた頼義だったが宗連のことを忘れる暇もなく、金子藩主として京都を離れたのである。
「もう済んだことだ。お前が気に病むことはない。それよりも首尾は?」
「勝手ながら城中に拠点を作りました。明日には味方を引き入れ、日没と同時に備前と鉱山を抑えます」
景武を殺したことは伝えなかった。暗殺に余計なものはいらない。
「相解った。親氏、直弘と綱敬に伝えよ」
「はっ」
親氏が下がる。頼清暗殺に必要なものは揃った。後は実行あるのみ。
「備前を殺したとて幕府も傾いておる。いずれは謀反を起こされて地に堕ちる時も来るであろうな」
敢えて長州とは言わない。
「そのような世が来れば我らの存在も必要なくなりましょう」
「そう簡単になくなるものではあるまい。いつの世にも影となる者は必要なことだ」
頼義は障子の向こうにある松平家の屋敷に視線を合わせていた…。