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金子藩譜  作者: ゆきまる
14/21

十三、脱藩

徳川家定の治世。嘉永六年、浦賀沖に出現したペリー提督率いる四隻の艦隊は江戸の人々から「黒船」と呼ばれて怖れられた。艦隊が持つ砲弾一発で江戸は火の海に出来たからである。老中阿部あべ正弘まさひろは翌年に返事を先送りすることで難を逃れたが、難事は続き、十二代将軍家慶が逝去し、十三代将軍には世嗣の家定いえさだが就いた。家定は元来病弱で極度の人嫌いであった。そのため、父の家慶も後継問題を心配して一橋ひとつばし家の一橋慶喜よしのぶを世嗣にしようとしたが幕府の実権を握りたい阿部の反対で家定が世嗣に決まった経緯がある。将軍に就任しても滅多に人前に姿を現さない家定をよそに阿部は幕府を牛耳り、阿部の死後は堀田正睦が幕政を取り仕切った。そんな中、遠州金子藩では筆頭家老松平備前守頼常が絶大な権力を握って他家を寄せ付けない勢力を誇り、藩主義忠がなかなか子宝に恵まれない状態に目を付け、自らの人脈を駆使して武州大館藩主松平伯耆守頼長の嫡子頼直よりなおを世嗣に迎えた。頼常の独壇場にあることに義忠は不満を抱き、挽回の機会を窺っていたが頼直を迎えた翌年に待望の嫡子(後の元忠もとただ)が誕生し、翌年にも側室が男子(後の頼義よりよし)を産んだことで頼直は遠ざけられてしまった。激怒した頼常だったが再び松平家で内紛が起きる。頼常には三人の子がいたが、長子の忠頼ただよりは側室の子であったため、嫡子になれずに縁戚の伊那いな松平家へ養子に出された。次子頼定よりさだは将軍家定より「定」の一字を頂戴した嫡子であり、学は乏しいが剣術に優れ、藩道場頭取であった藤岡義直よしなお(嘉直の子)を打ち負かして免許皆伝と頭取の地位を得た。三子頼清よりきよは元服したばかりであったが、兄とは違い、剣術には疎いが学に優れており、文学教授林清左衛門せいざえもんが舌を巻くほどの秀才であった。その二人の子の間で争いが起きた。松平家の家中は二つに割れて頼常が健在であるにも関わらず、家督を巡る騒動に発展した。争いは激化し、下屋敷にいる頼定が控屋敷にいる頼清を襲撃する事件が起きた。頼清は大半の家臣を失ったが辛くも父がいる上屋敷に逃れて事件の顛末を伝えた。

「敵に背を向けて逃げてくるとは言語道断である!。恥を知れい!」

「はっ…」

頼清は畏まるしかない。

「そればかりか、頼定も刃傷沙汰に及ぶとは誠に許しがたき所行じゃ!。このままでは我が松平家は潰れてしまうであろう。早急に手を打たねばなるまい」

頼常は剣術に長けた頼定を正当法で殺すことは困難だと悟り、別の方法で始末することにした。明け方、控屋敷から意気揚々と戻る頼定は一人だった。共に押し入った家臣たちは後始末と称して頼定によって殺されていた。見た目は斬り合いで殺されたようにしか見えない非情なやり方で頼定は己の怒りを喜びに変えた。頼定にとって松平家などどうでもいい存在だが弟の頼清だけは許せなかった。故に後悔はしていない。このまま、屋敷に戻れば父とて許さないであろう。頼定は朝までに城下を離れることを決めて飛び地である宗安村に向かった。この地は藩主一門先崎家の知行地であり、父とて簡単に手を出せる場所ではなかった。しかし、飛び地であるが故に金子城下から宗安村までは距離があった。頼定は目的地を前にして天竜川に死体として浮かんだ。胸には矢が一本突き刺さっていたため、見つけた直参旗本高崎家番頭佐伯孫兵衛まごべえは何者かが殺害したと見て探索を開始するが、すぐに金子藩からの要請で探索は打ち切られた。納得いかない孫兵衛は隠居していた父又兵衛に事の顛末を告げる。

「内紛かも知れぬな」

「内紛?」

「金子藩では代替えする事に内紛が絶えなかったと葛屋から聞いたことがある」

葛屋は高崎家御用達を務める呉服問屋で、本店は金子城下にあった。

「では、あの者も内紛に巻き込まれたと?」

「そうだろうな。身許はわかったのか?」

「松平頼定と申し、筆頭家老松平備前守様の御子だとか」

「ならば内紛であろう。松平様に恨みを持つ者の犯行と見て間違いない」

内紛で間違いないのだが、検討違いの結果を見出した。しかし、最後は打ちきりの判断を下されて高崎家による探索は終わった。頼定を射殺したのは頼常率いる松平派に属する御先手おせんて弓頭ゆみがしら久保田くぼた久頼ひさよりで、久頼は事件後に弓術指南役まで昇格している。久頼の祖は初代藩主金子宗康に仕えた鉄砲頭久保田久成ひさなりである。久成は嫡子久家ひさいえを遠江一向一揆で失うが鉄砲指南役を務め、宗康の関東移住にも従った。上杉征伐の直前に病死し、家督は次子久高ひさたかが受け継いで鉄砲頭として徳川軍本陣の一角を担った。これは宗康が総大将を務める結城秀康の参謀を務めたための配置で外様で本陣を固めるのは余程の信任がなくては出来ない異例の事とされた。敵に本陣を攻められることはなかったが久高は無事に務め上げた。関ヶ原の戦いの後、家康から感状を受けた久高は同時に綾部あやべ姓を賜って直参旗本になり、久保田の家督は三子久康ひさやすに譲った。久高の嫡子久光ひさみつ次子久綱ひさつなは旗本として徳川家に仕え、綾部流砲術を創始して、末裔に武州西江藩を経て大館藩江戸家老となった綾部玄部げんぶがいる。玄部は藩主松平伯耆守長誠の正室せい姫の父であり、代々重臣の一角を成した。父や兄が去った後、久康は宗康の命で家老を務める松平備前守清之の補佐を命じられ、城崩しの変や犬居の乱などの藩の難事を乗り越え、五代藩主宗勝の代まで生き、晩年は砲術指南の他に弓術指南役も兼任する程の武勇の持ち主で、松平家と敵対していた筆頭家老徳村政家も一目置く存在であったという。久康の嫡子久清ひさきよは幼少の頃より松平清長の末子頼宗と共に育ったこともあり、松平家で起きた内紛や暗殺などを黙認したことで家中から批判を浴びたが、松平家の家督を継いだ頼宗が窮地の親友を助けたことで一気に躍進して弓術指南役まで登り詰めた。しかし、本来受け継がれてきた砲術指南役には就けず、格下の弓術指南役に甘んじることに久清は納得していなかった。久清は何度も頼宗に砲術指南役への推挙を依頼していたがこの事が逆に疎ましく思われるようになり、次第に距離を置かれたことに理解できなかった久清は尚も推挙の依頼をした結果、頼宗の意向を受けた藩主宗親より「職務怠慢」で御役御免となった。寄合となっても何故役目を下ろされたのか理解しておらず、家督を嫡子の久親ひさちかに譲って隠居した。久親は頼宗とは距離を置いた城勤めを行ったことで父の反感を買ったが、これが逆に功を奏して御側御用取次を務める長居直康の目に止まって大手門城番頭となり、その二年後には御先手弓頭に就いた。思ってもみなかった我が子の採用に久清は内心喜んでいたという。しかし、そこから芽が出ないまま三年が過ぎ、指南役の声が掛からない久親に愚痴る日々が続いたが、久親は年寄りの戯言として相手にしなかったため、次第に二人の関係は疎遠になりつつあった。久清は家にいても面白くなく毎日歩きに外へ出た。朝早くに出て夜遅くに帰る毎日に家族が心配する程であったが本人が気にする様子もない。そんな日々が数年続いたある日、金子藩に激震が走る。筆頭家老松平頼宗が暗殺される事件が起きた。小石山の狩場近くにある控屋敷から登城しようとしていた頼宗は護衛に藩内屈指の手練を率いていたが刺客に脆くも討ち崩され、頼宗も殺されてしまった。下手人は数ヵ月後に判明したが行方知れずとなり、責を切らされた藩士は十数人に昇った中、唯一頼宗に殉じた人物がいた。久清である。家中が大混乱になっている最中の出来事に誰一人として気づかなかった。死んでいたのは金子藩主家の菩提寺でもある慶照寺で、見つけた僧が住職の有寛うかんに知らせたのだ。

「こ、この御方は…」

「御存知の方ですか?」

「先の弓術指南役久保田久清様じゃ」

有寛は元藩士で俗名を寺田新左衛門しんざえもんと言い、蔵奉行を務めたこともある人物だった。四十歳で家督を我が子に譲ると早々に出家し、法師である六代住職の有信うしんより有寛の名を与えられて改めた。七代住職となった後は十数人の門弟を抱え、金子藩の重要な法要には必ず取り仕切った。有寛が久清の死体を改める。脇差しを抜いて切腹していたが、その脇差しには松平家の家紋である葵紋が刻まれていた。そのため、門弟を町奉行所や久保田家だけでなく、松平家にも走らせた。

「父のために殉じてくれる者がいたとは感謝せねばなるまい」

頼宗の嫡子頼政は久清に感謝し、久清の嫡子久親は父の最初で最後の潔い姿に驚きを隠せずにいた。父が頼宗から拝領した脇差しを持っていたことは知らなかったという。家督を継いだ頼政は久親を呼んで供養料に二百両を下賜し、久清の旧職である弓術指南役に推挙した。自らが死ぬことで我が子が旧職に復帰したのだから因果なものである。その久親の嫡子が久頼だった。家老の命とはいえ、人一人殺すことに躊躇が無かったと言えば嘘になる。頼定に対しては何の恨みも無く、面識も城中ですれ違う程度でそれほど親しいわけでもない。縁があるとすれば祖父久清が頼常の祖父頼宗と幼なじみであったと聞いているぐらいだ。父の出世も祖父がいたから成し遂げたものと同僚に言われたことがある。そんなことを頭の片隅に置いて家老直々の命を受けた時、久頼は理由を質すことはなかった。質したところで教えてくれることはないが、余程の理由があるのだろうと推測し、襲撃した夜に金子城下から西に向かったことを聞かされた久清は頼定が脱藩したと思い、西に向かうなら飛び地の宗安村があり、追っ手を警戒して真っ直ぐ向かうことはないと判断し、犬居の先にある高崎村に潜んだ。そして、案の定、編笠で顔を隠した頼定が現れた。天竜川沿いに設けられた脇往還である。北に向かえば信州に繋がり、南に向かえば東海道に出る。高崎村を過ぎれば宗安村があり、迎え討つにはこの地でしかなかった。背後を警戒しながら夜陰に紛れて来る頼定の正面に躍り出た。提灯を持っているとはいえ、離れたところまで光は届かない。一気に弦を絞ると矢を放った。提灯の光は久頼にとっては好都合であった。第二矢を用意していたがその必要は無かった。矢は頼定の心臓に吸い込まれるように突き刺さり、「ぐぅ…」という低い声を出しながら天竜川へ落ちた。死体は確認できなかったが、数日後、呼び出された久頼を待っていたのは弓術指南役への昇進であった。以来、藩主義忠の側に仕え、松平家も頼常が隠居して新たに嫡子となった頼清が家督を継いだ。冷静沈着と言われた頼清は藩内に渦巻き始めた尊皇攘夷一切を否定し、幕府を主とする佐幕の立場を貫いたことで反対派を弾圧し始め、讒言した義忠の嫡子元忠や孫の忠宗ただむねにも刺客を差し向けたことで脱藩させることとなり、義忠の怒りを買うが実権を完全に掌握していた頼清には太刀打ち出来なかった。義忠は何とか頼清の横暴を止めようと画策し始めた頃、幕府の土台が大きく揺れ始めた。十三代将軍徳川家定が病死し後嗣がいなかったため、十四代将軍には紀州藩から徳川慶福よしとみが就いて名を家茂いえもちと改めた。家茂は彦根藩主井伊いい直弼なおすけを大老に就かせると黒船の来航以来、通商を求める諸外国との交渉に当たらせた。開国に反対する者は徳川一門である御三家や松平一門から果ては庶民にまで徹底した弾圧を行った。世に言う安政の大獄である。諸外国との不平等条約は明治の世にまで引きずることになり、光と闇が入り雑じる動乱の始まりとなる…。


一方で、頼清は脱藩した藩主義忠の嫡子元忠と孫の忠宗に対して追っ手を差し向けた。日頃から頼清に批判的であり、かつ藩政にも介入する等、頼清にとっては目の上のたん瘤であったが藩主義忠を中心とする改革派の勢いを削ぐためには元忠の排除が必要と判断。義忠が参勤交代で江戸に向かったのを見届けるとその日のうちに藩境を封鎖し、行動を起こした。国家老長居直弘なおひろ(直康の孫)が松平家へ送り込んでいた内通者からもたらされた情報が少しでも遅かったら元忠父子は捕縛されていたかもしれない。間一髪難を逃れた二人は屋敷内から船で堀を抜けて夜陰に紛れて城下へと潜伏した。頼清は二人が脱藩したとして手配するが行方は杳として知れなかった。元忠と忠宗の所在が確認されたのは天竜川を越えた勢田せた村からもたらされた。古くは初代藩主宗康に仕えた勢田伴篤ともあつが城を構えたことに始まる。街道を押さえていた要衝であるため、何度も戦火に晒された経緯がある。伴篤の嫡子伴定ともさだは宗康の関東移住後も現地に留まり、高崎家とは違い、帰農して勢田村の庄屋となった。伴定の嫡子伴長ともながからは郷士として帯刀を許され、勢田村は松平家の知行地となり、勢田家から何人か松平家の家臣に起用されている。伴長の曾孫伴暢とものぶは手配されていた元忠父子が街道を西に向かったことを確認し、追っ手を差し向けると共に金子城へも使いを走らせた。海辺に面した漁村で追い付いたが他藩の領地であったため、いざこざを避けたい追っ手たちの隙を突いて船で沖合いに出た。しかし、先読みに長けた頼清は船奉行林村勝むらかつ(清左衛門の子)を差し向けていた。金子藩の船に囲まれた元忠父子は刀を抜いて揺れる小舟上で対峙する。

「もはやこれまでか」

絶望感が漂い始めた時、海上を濃い霧が覆い始めた。視界がまったく利かない状態となり、

「天は我を見捨てなかったか!」

元忠は船頭に命じて囲みを突破し、陸に上がると三河に逃れた。まんまと逃げられた村勝は御役御免の上で切腹させられている。三河から尾張に入ったところでとうとう追っ手に追い付かれてしまった。もう少し行けば尾張藩の大高領である。十数人の刺客を率いているのは剣術指南役兼藩道場頭取の藤岡宗信そうしん(嘉直の宗直むねなおの孫)である。宗信は頼清率いる保守派の中でも一番の武闘派であり、汚れ仕事を数多く担ってきた。その宗信が立ち塞がる。

「やはりお前が出張ってきたか」

「元忠殿、覚悟めされい」

双方が刀を抜いたが、宗信はまだ刀を納めていた。

「我が最後をとくと見るがよい」

「無駄な足掻きだ」

「無駄かどうか試させてやろう」

元忠が剣術に疎いことは藩内で知られている。しかし、宗信が元忠の構えを見た時に出来ると感じた。

「猫を被っておられたか」

宗信から殺気が放たれる。

「ゆくぞ」

元忠が自然体の姿勢になった。忠宗は父の背後を固めている。死角はないが多勢に無勢だった。余裕の表情を崩さない宗信が刀を抜くと白い刀身を見せた。

「秘技紅熱剣」

肉を焼き、骨を溶かす魔性の剣である。遣う者を酸欠にしてしまう諸刃の技でもあった。

「さあ、我に鳴き声を聞かせろ」

「下らんな」

元忠が宗信の嗜好をなじると、

「ああ、下らんな」

別方向からも声が聞こえてきた。そちらに視線を移した一瞬の隙を突いて元忠が流牙散布八連を放って八人を一気に倒した。

「うむ、見事。我が子ながらよく育てている」

追っ手の一角を崩している男が感心していた。

「貴様は何者か?」

「死してゆく者に名乗る名は持ち合わせておらぬ」

「何!?」

宗信が憤慨するが、男はいたって涼しい顔をしている。

「まもなく尾張藩の者が駆けつけてこよう。金子藩の内紛を知らぬ者はおらん。備前のやり口は幕閣でも問題になっている程だからな」

そうこうするうちに尾張藩の大高郡代から派遣された捕り方が駆けつけてきた。

「ここでどのような理由があったとしても藩には通用せぬ」

「ちっ、退けえ!」

宗信は部下たちに命じて退かせた。

「元忠殿、大事ないか?」

「忝ない」

「まさかここまで追ってくるとは…何とも執念深きことよ」

「備前は欲望の亡者よ」

元忠は刀を納めながら言った。

「忠宗、怪我はないか?」

「大丈夫です」

「ならばよい」

父子の会話をよそに尾張藩の捕り方に男が指示を出している。藩境を封鎖するようだ。金子藩とて尾張藩を敵に回すことは出来ない。

「だが、連中を元忠殿が引き付けてくれたおかげでうまく奪還できたようだ。礼を言う」

「何の。彼の者がいなければ今頃は死していたやも知れぬ」

元忠は男に感謝の言葉を述べた。二人は男と尾張藩の護衛で数日後には名古屋城下にいた。藩主尾張大納言だいなごん徳川慶勝よしかつはすでに事情を把握していた。

「よくぞ参られた」

「金子元忠にございます」

「長旅大変でござった。この地に奴等は入って来れまい」

「ですが、備前は執念深き男にございます」

「ならばその執念を断ち切ってやろう」

上座の真横にある襖が開いた。一人の男が控えている。

「首尾は?」

「これにて」

男が白い布で包まれたものを差し出した。

「見せてみろ」

「はっ」

包みを解くとそこにあったのは宗信の首である。あれだけの技を繰り出せる男を糸も簡単に倒したことに元忠は驚きを隠せない。

「岐阜に侵入していたところを見つけて始末致しました。その他に高須で三人、犬山で二人、大高で五人」

「御苦労であった」

慶勝は男を労う。

「慶勝様、この者は?」

「江戸に御庭番あらば尾張に探索方あり。忍びは江戸だけに非ず」

忍術が剣術を勝るのは今に始まったことではない。敵に回せば恐ろしいが味方にすれば何とも心強いことか。

「金子藩にも忍びはおることは御存知か?」

「ほう」

慶勝の目の色が変わり、男にも殺気じみたものが出てきた。

「かつての勢いは無いと思われるが御城番頭を務める亀井一族は代々忍術を遣えると聞き及んでおります」

「亀井一族ならばわしも存じておる。戦国の世から金子家を守護する一族であろう。まだ絶えておらなんだか」

「代々受け継がれてきた技は健在と聞いております」

「ならば藩主の命でこの尾張にも侵入することは可能だな」

慶勝は男に視線を送る。

「警戒を強めます」

「そうしてくれ。万が一のことも考え、元忠殿、忠宗殿にも配下の者を付けてくれ」

「はっ」

男は襖を閉じると消えるように気配を絶った。

「父は備前のやり方に反発していますがあまりにも無力。御城番にも備前の力が及んでいないとも限らぬ」

「情けなきことよ」

慶勝は義忠の存在を一言で断じた。藩主が傀儡になってしまったら、藩は立ち行かなくなる。

「だが、我を頼ってきた者を無駄無駄殺させはせぬ。備中を呼べ」

「はっ」

廊下に控えていた家臣が下がり、しばらくして初老の武士が現れた。

「お呼びにございましょうか」

「うむ。備中、これなるは金子元忠殿じゃ。話しは聞いておるな?」

「おおよそのことは」

「しばらくこの者を預ける。名古屋まで金子の息のかかった者が来るとは信じがたいが藩境ではすでに闇同士の戦いが起きておる。警護を怠るな」

「はっ」

初老の武士が元忠に向き直る。

尾張藩御城おんじょう留守居役森山備中守びっちゅうのかみ勝斉かつなりにございます。以後、お見知りおきを」

「金子元忠にござる。世話になり申す」

二人の出会いは元忠の運命を変えることになる。

「殿」

控えていたもう一人の男が慶勝に呼び掛ける。大高から二人を警護してきた男である。

「お願いの儀がございます」

「何じゃ?」

「忠宗殿をお預かりしたく存じます」

「忠宗殿を?」

「はっ。失礼ながら、大高で貴殿の剣術を見て参ったがあまりにも未熟。それでは元忠殿が敵に襲撃に遭ったとしても防げませぬ。某が一から鍛え直そうと思います」

「ほう、お前が目を付けるとは珍しい。芽があるか?」

「ございます」

男は元忠に向き直る。

「元忠殿、よろしいか?」

「お主程の男が我が子に期待をかけるとは恐れ入る。なれど、その期待に答えることはできようか?」

「それは忠宗殿次第。如何か?」

次は忠宗に視線を送る。

「某は一向に構いませんが…」

少し戸惑いがある様子。男は微笑する。

「安心するがいい。大高から色々と難儀を抱えていました故、名を名乗っておりませなんだ」

男は微笑しながら名乗りを上げる。

「先の武州大館藩主松平伯耆守頼長と申す。父長誠は幕臣であられた金子左近将監様より手解きを受け、奥義を伝授された。その父よりわしが受け継ぎ、今は幾天神段流宗家を名乗っておる」

かつて金子藩の御家芸であった幾天神段流は五代藩主宗勝の嫡子宗匠が受け継いだが父との対立で脱藩し、流派は外へと流出した。宗勝は奥義を他の後継者に譲らず病死したため、今残された技は稚技に等しい。その奥義を得られる可能性があるならば忠宗とて損はない。この時はまだ片鱗にも触れていないため、これより起きるであろう運命はまだ知る由もない。

「よろしくお願い致します」

礼儀作法はすでに身につけているため、師となる頼長に姿勢を正して畏まった。これで師弟関係は成立した。父子はそれぞれの場所で与えられた運命を突き進む。


三年後、元忠の後見を務めてきた勝斉が病死すると元忠は慶勝の命で森山家の名跡を受け継いで名も斉慶なりよしと改め、御城留守居役を経て家老に就いて藩政に参画した。忠宗は大高郡内にある頼長の屋敷で修行に明け暮れた。父が森山家の名跡を受け継いだことも知らないままだったが、修行中に様々な人物に出会った。まずは兄弟子の館林たてばやし政勝まさかつである。館林家は代官を務めたこともある家柄であったがいつしか没落して、酒浸りになる父を嫌い、故郷を捨て尾張に来た頼長に弟子入りして十数年修行に明け暮れ、宗家にはなれなかったが御番衆に推挙されて家を再興し、御番頭、京都屋敷詰を経て京都屋敷留守居役として尾張を離れた。頼長の許で師範代を務めていた松川宣十郎せんじゅうろう直視なおみつの祖父は松川姓を名乗った元幕府隠目付金子左近将監頼綱である。頼長の脱藩に従って尾張に来たが自らも指導した政勝が京都屋敷留守居役となると頼長の命で警護役として京都に赴いている。さらに、元忠父子の脱藩騒動の裏にはもう一つ動きがあった。金子藩にしてみれば不意を突かれた格好である。松平家の肝煎りで藩主義忠の養子となった頼直が姿をくらましたのである。金子城下でも武家屋敷が立ち並ぶ麹町の一角に屋敷を与えられた頼直は不遇の生活を送っていた。厳重な警備は頼直を外に逃がさない措置で、元忠が頼直の御意見番となってからは周囲に変化が生じた。警備が緩くなったばかりか、頼直の世話係と称して何人もの武士が出入りするようになった。元忠と内通する頼長の家臣たちであった。そうとは知らない松平家の者は元忠の命に逆らうことはできず、脱藩騒動まで普段と変わりない日々を過ごしていた。そんな中、藩主義忠率いる改革派と筆頭家老松平頼清率いる保守派の対立は激化し、ついに義忠の嫡子である元忠にも及び脱藩を決意。嫡子忠宗は父と行動を共にすることを選び、唯一無二の親友である金子藩二ノ丸付護番頭ごばんがしら小笠原おがさわら政尚まさなおが忠宗の苦悩を知ると頼長の許へ走り、頼直を解放できるならば協力するとの旨を元忠に伝えると快諾。元忠と忠宗が金子藩の追っ手を引き付けている間に政尚と頼直の家臣が頼直の解放に動いて、脱出を阻止しようとする松平家の家臣相手に引けを取らない槍さばきで寄せ付けず見事脱出。天竜川を北上し、信州伊奈から木曾を経て美濃、尾張へと逃れた。奇しくも政尚の祖先は戦国時代、信濃守護として名を馳せた小笠原家であり、その分家に当たる美濃小笠原家のそのまた分家の出身で祖父政隆まさたか宝蔵院ほうぞういん流槍術の使い手として金子藩七代藩主義政に仕官したのが始まりで政尚の政忠まさただは槍奉行や先物さきもの奉行等を歴任。父の死後、家督を継いだ政尚も得意の槍術を認められて二ノ丸付護番頭として元忠に仕え、忠宗とも意気投合したのだ。尾張藩領に入った政尚は追っ手を警戒して実家がある美濃岐阜城下の小笠原家には立ち寄らず、名古屋城下にある屋敷で再会した忠宗と政尚は行動を共にすることとなり、頼直は父の許へ戻った。久々の再会は新たなる戦いの始まりであった…。

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