十二、忠臣の末裔(二)
徳川家慶の治世。天保十二年、大御所として絶大な権力を誇った徳川家斉が逝去した。最後は孤独で誰にも気付かれないまま死んでいたという。四十五の歳で将軍の地位に就いた家慶は、父の死後に老中水野忠邦を起用して天保の改革を断行した。父が敷いた政治を拒否し、家斉派を一掃すると言論の自由を奪い、蛮社の獄と呼ばれる弾圧を行った。また、江戸では「妖怪」の異名を持つ旗本鳥居耀蔵が忠邦の信任を受けて暗躍し、町奉行として悪名を轟かせた。一方で「名奉行」と謳われた遠山景元との対立が激化しつつあった頃、遠州金子藩は八代藩主金子義忠の代を迎えていた。可も無く不可も無い安定した政治を行っていたが、筆頭家老松平備前守頼政が逝去すると家督は長子の頼慶ではなく、次子の頼常が継承した。藩主義忠の命によるものだが、幼少の頃より頼常は美少年と噂されて義忠の寵愛を受けていたことを知る藩内部の者からは「やはり」という言葉が上がる一方で頼慶の反撃を警戒する動きもあったが特に何も起こらず、穏便に家督の継承は行われた。義忠の肝煎りがあったとはいえ、松平家に禍根を残すことは将来性に関わると判断した頼常は兄に五百石を分知する旨を伝えたが頑なに拒まれている。頼慶にしてみれば弟の庇護を受けるのは自分の沽券に関わることであり、それを良しとすることは出来なかった。困った頼常は義忠に相談すると何を思ったか激怒し、頼慶に切腹を申し渡したのだ。驚いた頼常は義忠に切腹を取り消すよう願い出るが許されず、数日後には頼慶は屋敷内で切腹して果てた。この暴挙とも取れる行動に事情を知らない家中の者からは頼常に対する批判が相次いだ。「家督を奪い、命をも奪うのか」と。だが、頼常からしてみれば暴挙を犯したのは義忠であり、何の落ち度もない自分に対する凄まじい責めに怒りを噛み殺して必死に耐えた。耐え忍ぶことで兄に対する供養とし、数年後には藩主をも凌ぐ絶大な権力者として君臨することになった。その頼常が兄のことで知らないことが一つだけあった。頼慶には正室がいたのだが、切腹した当時、子がいなかったこともあり、離縁されて実家である伊予瀬乃内藩士寺坂家に戻っていた。寺坂家は代々瀬乃内藩の家老職を務めており、美作守を名乗った。奇しくも初代宗信は金子藩初代藩主金子宗康に仕えた重臣で築城術に長け、常に要衝である城を任される程の人物であった。宗信には三人の子供がおり、嫡子昭信は二代藩主宗昭に仕えたが城崩しの変で城と共に散った。次子康隆は三代藩主義康に仕えていたが犬居の乱で不信となり脱藩。日光街道にある宿場町で旅館を営み、刀を捨てることで脱藩の罪を許されたが金子には二度と戻ることはなかった。三子宗利は兄二人とは違い、妾の子であり、幼少の頃から兄たちとは疎遠であったが父からは寵愛されて父愛用の脇差しを頂戴している。五歳の時に死期が近づいた父の願いを受けて天竜川沿いに城を構えていた高崎定長の家臣棚岡由長の養子となった。元服後、由長に嫡子由利が誕生したこともあり、新たに寺坂姓を主君定長より賜り、美作守を名乗った。定長の死後、由利と共に高崎領の運営を任されていたが一向に国許に来ない定長の嫡子定秀に民心は由利に傾き、宗利も定秀に対する忠誠心は消え失せ、由利が幕府寄りの姿勢に転じるとこれに乗った。棚岡家が幕臣になると御用人を勤めて義弟を補佐した。嫡子利広も父の後を受けて御用人を勤めて、由利の嫡子由広の補佐を勤めて、着実に出世していく従弟を献身的に支えた。由広の嫡子宗広の代になると飛び地を合わせた石高が一万石に達して飛び地の一つである伊予瀬乃内に陣屋を設け、利広は江戸家老として重臣の一角を担った。かつての主家を上回る出世ぶりに幕閣から高く評価される一方で嫉妬や恨みなどの類いから藩士たちが斬りつけられる事件も起きた。由広の時には赤穂浪士による吉良邸討ち入りも起きていることから、第二の刃傷沙汰を警戒して旗本高崎家を在地領主にする異例の措置を行うなど双方の対立を避ける動きもあった。結果的に高崎家は在地に居座ることで民心を取り戻すことに成功し、棚岡家は役目に集中できたのだから皮肉なものである。利広は国許でも精力的に動いて廃れていた瀬乃内の島々を発展させることに尽力し、船で大坂や九州へ行き来する大名たちの本陣なども設けることで宿場町を形成させ、一万石という小藩であったが財政的に潤った。利広は宗広の嫡子広治の代まで仕えて最後は国家老として役目を終えた。隠居した利広は家督を嫡子利春に譲ったが国許において強い影響力を残し、若い藩士たちの模範となった。利春は父に実権を握られたままであり、実際、藩政に関わったのは一年程で病死し、家督を継いだ利信は広治の嫡子高治より国家老の器に非ずと江戸家老を命じられて事実上、国許から追放されてしまう。利信に代わって国家老に就いたのが広治の弟義治で兄弟に権力を集中させることで藩を我が物とした。参勤交代で江戸に来る度に諫言していた利信はとうとう高治の逆鱗に触れて御役御免を言い渡されてしまい、江戸から遠く離れた常磐村に幽閉された。常磐村は寺坂家の知行地でもあり、利信にとっては第二の故郷と呼べるものであったが、滅多に来ない領主の存在に民衆たちは冷ややかな態度を取ったことに利信は、
「これでは殿や重治殿とそう変わらぬ。何と嘆かわしいことよ」
落胆が大きかったという。しかし、利信は藩政を牽引してきたという自負があり、常磐村の東端に草庵を建て、自ら鍬を持って田畑を耕し、村の子供に学問を教える等して精力的に動いた。何年もすると徐々に利信の周りには人々が集まるようになり、剣術を覚えたいと思う者には快く教えた。利信の名が近隣の村にも伝わり、仙台藩主伊達慶邦の耳にも届いて利信が何者であるか探らせている。利信の境遇を知るや支援の手を差しのべると共に江戸城中にて藩主の高治に利信の話を持ちかけたことで、
「寺坂美作守とは誰か?」
という話題が幕府内でも上がる一方で、藩を省みない高治の政治力を疑問視する声もあり、評判はすっかり地に落ちていた。財政難の上に借財を多く抱え、追い討ちをかけるように天保の大飢饉で藩内でも一揆が起きていた。国家老であった義治はすでに失脚しており、家督を嫡子の義高に譲って隠居していた。藩を安定させるには利信を藩に戻すしかないとの声もあったが因縁がある高治や義治の後を受けて国家老になった戸隠政治が反発し、様々な改革を発するも失敗。失脚も時間の問題と囁かれる中、政治は利信の名声に嫉妬と一方的な恨みで、事もあろう事か刺客を放ったのである。刺客に選ばれたのは高治・義治兄弟の下で汚れ仕事を請け負っていた浪人たちで、それを率いるのが組頭の佐々木禅正景豊ある。父は元遠州金子藩家老長居直康の近習をしていた禅正宗豊が、影島騒動で重傷を負った上に放逐されていた。金子へ戻ることも許されなかった禅正は讃岐高松城下で傷を癒すと自分を斬った男に恨みを抱きながら、世の中に不満を抱く浪人たちと徒党を組んで各地の城下を荒らし回る盗賊となった。四国全域で暴れ、藩同士の確執もあって捕縛することは出来なかったという。そんな中で生まれたのが景豊で、父が通称として使っていた「禅正」の名を受け継いで二代目頭領となった。景豊も盗賊として大坂や京を荒らしたが襲撃を事前に察知した大坂町奉行所の待ち伏せに大半の仲間を失って逃亡。ほとぼりが覚めるまで身を隠していたが、素性を知った義治によって合法的に人殺しを請け負う「断罪組」の組頭に起用され、藩政に反対する藩士や商人、農民に至るまで悉く血の雨を降らせた。義治の失脚後は政治の配下となって働き、高治の参勤交代に乗じて江戸に赴いて利信の情報収集を行って常磐村に向けて出発した。刺客を放たれたことを知らない利信は三人の子供と共に高治の使者と面会していた。
「玄乃進か、久しぶりだな」
原田玄乃進は江戸藩邸で使番をしていた若侍であったが、しばらく見ないうちに壮年の域に達していた。今は蔵奉行を勤めているという。
「美作守様もお変わりなく」
「殿は息災か?」
「はっ。未だ壮健されば」
「左様か。藩の事は色々と耳にしておる。用件を聞こうか?」
「藩は美作守様の帰りをお待ちにございます」
「藩は…ということは殿の命ではないのだな?」
「はい、江戸家老土屋光慶様の命により参じました」
「土屋か…あやつが江戸家老とは出世したものだ」
光慶は利信が江戸家老時代の側近であった男だが、家老という重責を担うには荷が重いようにも感じる。
「その土屋がわしに藩へ戻れと申しておるのか?。殿の許しは得ているのか?」
「いえ、殿は未だに美作守様をお許しになっておりませぬ」
「ならば藩に戻ることはかなわぬ」
「いえ、殿を隠居させまする」
「隠居させる?。謀反でも起こす気か?」
「穏便に済ませる予定です」
「そう事がうまく行くとは思えぬ」
「今までならば無理でございました。しかし、国家老の義治公が失脚されてから殿の求心力は失いました。正室のお槙の方が中心となって嫡子慶治様を後継にする計画が密かに進行しています」
お槙の方は安芸広島藩浅野家の養女で、実家は広島城下最大の両替商だという。財政難を逆手に商人から金を得ようと企んだのかも知れないが利信が預かるところではない。
「江戸だけで事を起こせばいずれ藩は二つに割れてしまう。国許の理解者はいるのか?」
「次席家老本多帯刀様がご理解なさっています」
「帯刀か。国家老を嘱望したか。ならば、わしが戻っても座る場所が無いな」
江戸の土屋は座を譲ることはなく、国許の本多が国家老なら利信がいなくても事は成立すると踏んだのだ。
「土屋様と本多様は美作守様がお戻りになった暁には御側御用取次を任せたいとおっしゃられています」
「ほう、御側御用取次とな?」
場合によっては家老よりも上位になる役職で、藩主の補佐役と言っても良かった。
「しかし、我が藩では何の役にも立つまい。己の利権ばかり狙っている者ばかりで藩を顧みようとする者はおるまい」
「そのお言葉、後悔なされますぞ」
「構わぬ。この身、今更どうこう出来るものではない」
「承知致しました。土屋様にはそのように伝えます」
「うむ。玄乃進、達者でな」
その言葉を聞くか聞かぬかのうちに玄乃進は室内から出て行った。
「よろしかったので?」
嫡子の利聡が言う。
「構わぬ。もはや、瀬乃内藩には何の未練も無い」
「しかし、このまま黙っているとは思えませんが」
次子の慶信が言う。仙台藩主伊達慶邦の意向で秘かに来年の仙台藩仕官が決まっており、元服する際に一字「慶」を頂戴していた。
「その時はその時だ。村のためにも倒さねばならぬ。お満、あれはどうしておる?」
控えていたお満に問いかける。遠州金子藩家老松平頼常の長子頼慶に嫁いでいたのだが夫が藩主の怒りに触れて切腹し、お満も実家に戻された。この時、腹には子を宿していたが実家に戻った後に出産した。名を千代丸と言い、今年で八歳になる、利信にとっては初孫であった。
「今は松川様が稽古をお付け下さっています」
「勘兵衛ならば申し分あるまい」
松川勘兵衛直武は元武州大館藩剣術指南役兼藩道場頭取の松川長十郎直景の三子で、兄二人は父の後を継いだのだが、勘兵衛と弟の涛十郎は別の道を歩んだ。武者修行の旅に出た二人は諸国の藩道場や剣術道場等で腕を磨いて、勘兵衛は仙台藩の推挙で常磐村に赴き、涛十郎は江戸に出て、後に町奉行所同心の婿養子となり、嫡子勘十郎の時に幕末を迎えている。勘兵衛は推挙があっても断るつもりだったが利信に会った時から人柄に惚れた。民のためなら命をも惜しまない実直な利信に仕えたいと思ったのだ。草庵にある道場を任される一方で郷士の身分を得て村の治安を担った。また、道場でも剣術に優れた者を選りすぐって利信の護衛に当たらせていた。そんな矢先、会津から戻った村人が道中で死体を見つけたという知らせを受けた勘兵衛が駆けつけると一刀両断にされた侍が息絶えていた。刀が抜かれていないところを見ると一瞬で殺されたのがわかる。
「誰か見た者はいないか?」
周辺の集落を訪ねて回るが目撃者はいなかったが死体を運んだ常磐村で身元が判明した。検分した利信が誰かすぐに解った。
「玄乃進ではないか!」
「御存知の方でしたか?」
「ああ、藩の江戸藩邸に勤めておる原田玄乃進だ。朝方、ここに来ておった」
「となれば、その帰りに襲われたのでしょうか」
「そうなるな。周辺に下手人はいたか?」
「いえ、近くの集落にはいないようです」
「左様か。ならば、あそこに潜んでいるかもしれぬな」
「あそこ?」
「この山の中腹に廃寺があってな。潜むとするとあそこしかない」
「すぐに捕り方を向かわせましょう」
「頼む」
利信は勘兵衛に捕縛を命じた。勘兵衛は五人の捕り方と共に廃寺に向かった。しかし…。
「何と!?」
利信が絶句した。捕り方の一人が血まみれで戻って来たのだ。
「勘兵衛が斬られたと申すか!?」
「はっ…」
話すもやっとの状態に利信は治療を命じる。
「信じられぬ」
唖然とする利信に勘兵衛と同じ郷士の阿部弥十郎が声を掛ける。弥十郎は利信が家老をしていた時からの家臣である。
「殿、一刻の猶予もありませぬ。守りを固めましょう」
「いや…」
利信は刀を手にする。
「敵は手練と見た。村に入れては民が皆殺しにされよう。幸いにも村の入り口は二つ」
東は正面に当たり、入り口には川が流れており、橋が掛かっている。西は山の切り場に向かう山道である。
「橋で敵を迎え討つ。弥十郎、頼むぞ」
「はっ。真造と太平も連れて行きます」
「わかった。慶信」
弥十郎が部屋から出ると慶信に向き直る。
「鐘を鳴らして皆に知らせよ。門弟たちに村の巡回をさせて異常がないか調べさせよ」
「はっ」
慶信も出ていく。
「誰かは知らぬがわしを本気で怒らせたようだ。利聡」
「はっ」
「お満を頼むぞ」
「父上も行かれるのですか?」
「当然だ。皆が戦っているのに主が引っ込んでいるわけにはいかん。が、わしが倒れたら後を任せるのはお前しかない。ここで戦況を見定めよ」
「はっ。父上、ご武運を」
「うむ」
刀を腰に差すと草庵を出て坂道を下っていく。太平が篝火を焚いているのを見えた。
「殿も来られたのですか?」
「ああ、勘兵衛を斬った男の顔を見なければ死ぬに死ねぬからな」
主の出陣に弥十郎は奮起した。暗闇に沈もうとする橋の先を眺めながら四人は敵が現れるのを待った。しばらくすると完全に真っ暗になる山道の先から血の臭いが漂ってきた。
「来たか」
利信が刀に手を添える。血の臭いは徐々に強くなってきた。
「油断するなよ」
ザッザッザッ…という足音と共に暗闇の先に篝火に映し出された足が見え、闇にシルエットが映し出される。
「何者か?」
利信が問いかける。
「寺坂美作守殿とお見受け致す」
「如何にも。お主は?」
「佐々木禅正と申す」
名を聞いた瞬間、弥十郎に緊張が走る。
「お主、断罪組の佐々木禅正か?」
「左様。藩命により寺坂美作守殿を誅するために参った」
声の質は冷たく聞こえる。
「藩主の命か?」
「そう思って頂いても結構」
「ならば、原田玄乃進を殺したのも藩命か?」
「原田?、ああ…あの兎か?。あれは藩命ではない。ただの狩りよ」
そう吐き捨てると何かをこちらに投げ捨てる。
「うっ!?」
転がってきたのは勘兵衛の首であった。無念の形相で睨みつけていた。
「勘兵衛!?」
首を見た太平は胃の中のものを地面にぶちまけた。
「お主に情というものは無いのか?」
「あるわけない。生まれてより常に修羅であったわ」
幼少より盗賊として育てられた景豊にとっては修羅の世界が当たり前の世界である。
「ほう」
利信から立ち込める殺気を感じた景豊が感心する。
「勘兵衛とやらとはまた違う殺気だな。心地好い」
「外道が!」
「それは褒め言葉と認識しておこう」
闇の中で鈍い光が輝いた瞬間、真造の胴が横一文字で斬られていた。他の者が動く前に太平も抵抗する間もなく斬られ、弥十郎は右腕を肩から落とされた。利信は辛うじて刀で弾いて後方に飛ばされる。
「瞬歩を使うとは」
人の一歩とは違い、離れた人に対して跳躍力だけを使って間合いを詰めたのだ。篝火に映し出された顔に利信は驚いた。景豊の両目が潰されていたのだ。最近のものではなく、古傷のようだ。
「驚いたか?、これは親父に潰されたのだ」
「何だと!?」
利信はまた驚いた。我が子にする親の所業に驚きを隠せない。
「目に見えるものは信ずるな。己の心に映し出されるものこそが真の叡智だと言ってな」
それで生まれながらにして修羅の世界に飛び込んだのだと悟った。
「お主の父は臆病であったか?」
「さあな。死んだ今となっては何もわからん」
「お前が殺したのか?」
利信の問いかけに景豊が笑う。
「当然だろ」
さらに間合いを詰めてくる禅正に利信は後方に退きながら、刀を弾いていく。景豊への反撃を作るためだ。円を描くような戦い方に苛立ちを覚えた景豊は初めて大きく振りかぶった。間合いを詰めた状態での振りかぶりは普通ありえないが、利信にとっては好機。心の臓を目掛けて刀を突く。皮膚を突き破って動き続ける心の臓は刀に刺さったまま、空間をさ迷っている。
「がっ…ごふっ」
口から血を吐き、体から血が吹き出す。そこに遠巻きながら、慶信が率いてきた門弟たちから歓声が上がる。その歓声に弥十郎が意識を取り戻した。
「と…殿…」
呟く声は利信に届かなかったが、その目は勝負の決着を焼き付けた。
「つ、強いな…俺が誘わ…て…しまう……とは…」
景豊の体が崩れ落ちた。
「幾天神段流の極意はお前のような我流には通じぬ」
勘兵衛を師とし、戦国の世から伝来されてきた剣術を体得した利信が初めてその片鱗を見せた。
「ははは…あはははは…」
景豊は笑いながら絶命した。地面に落ちた心の臓も動きを止めた。
「これで決着したな」
闇はさらに深まりを見せていた…。
翌朝、殺された勘兵衛をはじめ、真造や太平ら門弟たちは村の中心にある安楽寺に葬られた。瀕死の重傷を負いながらも何とか生き残った弥十郎は慶信の願いで仙台藩から派遣された蘭学医の懸命な治療により目覚ましい回復を見せ、腕の縫合も問題なく数ヶ月後には役目に復帰した。事件後、玄乃進のことを知らせるために御役御免になって以来、初めて江戸藩邸に向かった。上屋敷には参勤交代で江戸に上がってきた高治がいた。藩邸の門扉を叩くと門番の権吉が出てきた。
「どなたかな?」
「権吉、久しぶりだな」
「こ、これは、寺坂様!」
「息災であったか?」
「は、はい」
懐かしい顔に権吉の顔が緩む。
「殿はおられるか?」
「今朝早くより登城なさっておられます」
「左様か。ならば土屋は?」
「おられます」
権吉は利信の帰還を玄関口で叫び、利信は脇扉から藩邸に入って行った。一方、登城した高治は老中水野忠邦・真田幸貫(信州松代藩主)、仙台藩主伊達慶邦、会津藩主松平容敬らが控える面前で将軍徳川家慶より民や藩を顧みない政治を断じられ、さらに高治の暗殺部隊である「断罪組」の存在まで暴露されてしまい、高治は藩主としては蟄居閉門、武勇の優れた藩士を多く抱える丹波護間藩にお預けとなり、藩は嫡子慶治に家督を譲ることで瀬乃内藩の存続を許された。利信は我が子慶信を通じて事件の経緯を仙台藩主伊達慶邦に伝えて、高治の強制隠居を願い出たのだ。快く引き受けた慶邦は老中の水野忠邦に相談し、多額の賄賂と引き換えに高治を隠居に追い込んだのだ。後日、高治の隠居を受けて嫡子慶治が将軍家慶に御目見えし、父の失政を詫びた。そして、確約のことなど知らない慶治は国家老に本多帯刀を置き、次席家老に土屋政治を置いた。土屋にとって栄転に等しいが地盤が乏しい国許においては蒼天の霹靂である。空位となった江戸家老に利信が復帰した。文武両道を奨励し、横行していた賄賂を一切否定した。専横政治から清廉潔白な藩を目指したのだ。利信は八十の歳まで江戸家老として支え、藩の行く末を見守った。時代は幕末の動乱を迎えようとしていたが、新しき世が現れるのはまだもう少し先になるであろうか。事件から七年後、孫の千代丸が元服を果たした。名を儀勝と改めた。そして、寺坂姓ではなく、亡き父頼慶の出自である松平姓を名乗って瀬乃内藩江戸勤番として祖父利信に仕えた。松平姓を名乗ったことに対して怪しむ者もいたが、利信が公の場で儀勝が遠州金子藩家老松平家の出自であることを認めたため、藩士たちは納得したという。しかし、金子藩にも噂が流れて叔父の頼常は驚いた。まさか、腹の中に兄の子を宿していたことなど知らなかったからである。頼常は甥である儀勝に会いたいとも願ったが藩主金子義忠が嘘偽りであると断言した事で会うことは叶わなかったという。正式に遠州松平家に戻ることが出来たのは明治に入ってからで、それまで儀勝は瀬乃内藩士としての任を全うした。不遇な孫の境遇に利信は憤りを隠さなかったが、この荒波に飛び込んだ儀勝が運命に翻弄されることのないよう、老骨に鞭を打って見守るしかなかった…。
荒波を越えて広大な海原を突き進む黒船が遠く火の国に狙いを定めていた…。