1001夜の夜を越えて
「くだらないな。社会も人生も」
口元から吐き出される煙草の煙。皺だらけのワイシャツ、紺のズボンに身を包んだ、うらぶれた様子の大学生、武田智則は街頭に立ち尽くし、ぼんやりとした顔で吐き捨てた。智則は、今年大学を卒業予定の四年生だったが、見事就活に失敗し、就職浪人となってしまったのである。
希望に満ち溢れて大学に進学したはいいが、勉強もスポーツも中途半端だった智則は、早々と大学に飽きてしまい、遊びほうける四年間を過ごした。結果そのツケがいざ就職を、という段になって回ってきたようだ。
いささか自棄的になっていた智則は、いっそのことイスラム教に改宗して、ジハードよろしく、対アメリカ戦線の先頭にでも立つかとまで考えたが、そこまで自分を追い詰める必要もない。とりあえずは自堕落な生活に身をやつして、バイトに専念、没頭しようと腹を括っていた。
そんな彼は今日も行きつけの競輪場から、財布をカラにされて出てきた。街角は肌寒い。やけに冬の寒風が身に染みる。心に懐も相まって身が震える思いだった。社会も世間も世知辛く、人生なんてやけに色褪せて陳腐に見える。そう考えていた智則だったが、ふと街路の隅で、大道芸人が催していた人形劇に見入られてしまった。
劇は、精緻な作りの人形を用いて、千夜一夜の物語をモチーフに繰り広げられていた。千夜一夜物語。妻が奴隷と浮気をしていると知った王、シャフリヤールが、処女と一晩をともにしては、その女を殺している。その事実を知った大臣の娘、シェヘラザードがシャフリヤールの嫁となり、人殺しをやめさせようと1001夜もの間、作り話を物語り、ついにはシャフリヤールに人殺しをやめさせる。そんな話だ。
「要は処女殺しの頭のイカレタ王様を止めるための物語か」。そう胸の内で呟きながらも、智則は足を止めてその人形劇に魅了された。
智則は劇の中身よりも何よりも、シェヘラザードの人形の美しさに惚れ込んでしまった。綺麗な白い肌、紫色の瞳、そしてどこか見覚えのある艶やかな姿態。それら全てが智則の心を射抜いたのである。しばらく人形劇を呆然と智則が見つめていると、ふとした瞬間に大道芸人が何事かを呟いたような気がした。
「アラビアの世界に興味がおありかな?」
見ると自分以外に人形劇を観るものはなく、人々は足早に街並みを歩いている。自分に話し掛けられたのかと、智則は疑うも大道芸人が口を開いた様子はなく、相も変わらず寡黙に人形を操っている。空耳かと思って智則は気を鎮めるも、今度は明らかに、人形劇の繰り広げられる木工箱の中から、シェヘラザードがこう呼び掛けたようにも見えた。
「こっちの世界が、お好み? たしかにあなたの世界は味気ないもの」
その言葉を耳にした智則は、一瞬我を忘れて、臆することもなくシェヘラザードにこう語り掛けていた。
「味気ない。たしかに。こっちの世界じゃ、スリルも、危険も、ファンタジーもありはしない」
智則の前のめりになる言葉に呼応するかのように、シェヘラザードは手招く。それと同時に大道芸人も口元に不敵な笑みを浮かべた気がした。次の瞬間にはシェヘラザードは妖艶に笑う。
「おいで、こちらの世界へ」
すると智則は瞬く間に、人形劇の世界、千夜一夜の物語が語られるアラビアの世界へと連れられ、吸い込まれていったのである。智則はしばらく意識を失い、気が付くと宮殿を臨める湖の辺にいた。自分の姿を湖面に映すと、ターバンをまき、アラビアローブを身に纏っている。「はて」と一度首を傾げて、自分の身に起こった出来事を把握しようとするが、どうにも理解出来ない。自分は本当に千夜一夜物語の世界に連れ去られてしまったのかと、呆然としていると、軽く智則の頭を小突く手があった。
振り返るとそこにはハーレムパンツにショールを身に着けた、褐色の肌の女性が立っている。彼女は艶やかな指先で智則を手招くと、こう告げる
「トモ。私の名前はルクサーナ。今宵にもシェヘラザード姫の物語は尽きてしまう。さぁ、急いで武具を身に着けて」
事情も全く分からぬままの智則に、ルクサーナと名乗った女性は、半月刀とイスラム楯を地面に放り投げる。「おっと」と呟く間もなく、やむなく武具を手にした智則の手を握って、何事か呪文めいた言葉をルクサーナは唱える。すると一瞬にして智則とルクサーナの体は宮殿の中へと運ばれていた。
ルクサーナは螺旋階段を駆けあがりながら、智則に告げる。
「あなたの力が必要よ」
「と、言うと? ててっ!」
階段に少し躓きながらも、智則はルクサーナを追い掛ける。ルクサーナは深い奥二重を見開く。
「シャフリヤール王は、ただの嫉妬に狂った王じゃない」
「半月刀。カッコいいな! 一度握ってみたかったんだ」
智則は、自ら斜めに掲げる半月刀に惚れ惚れとした。その智則に半ば呆れながらもルクサーナは巻き物を華麗に広げてみせる。二人が階段をのぼり終えて宮殿の奥まったところに辿り着くと、ルクサーナは巻き物に描かれた妖獣を指差す。
「シャフリヤール王は、悪魔の使徒。通称、魔徒と契約した男よ。その内面はグロテスクなもので溢れ返っている」
「グロテスクなもの?」
「グロテスク」。その強い言葉の響きに興味を惹かれた智則は訊いた。
「グロテスク。それは自己顕示、独善、支配欲、エゴの四つで構成されたドグマのようなものよ」
「ドグマ。それでどうして俺の力が必要になるんだ?」
半月刀に見惚れる智則の口元にルクサーナは、人差し指をあてる。
「それは、あなた自身もかつてそのドグマにとらわれていたからよ」
そう言われてはたと智則は気づいた。大学時代の四年間、遊びほうけた智則だったが、社会や世間に認められない捌け口を求めようとしたのだから、ある意味グロテスクな心情を持っていたのかもしれない。そうと気づくとルクサーナの意図を、智則は把握する。
「同じ業を背負った者同士が、相対してその業を解放する。ある意味『毒をもって』」
「『毒を制する』という奴よ」
智則の飲み込みの早さに満足したルクサーナは、短刀を掲げた。短刀を華麗にクルクルと回すルクサーナの視線の先には、顔の焼けただれた四つ足の獣のような化け物が立ちはだかっている。ルクサーナは智則に告げる。
「魔徒よ。気をつけて! 低階層のモンスターだけど、その殺傷能力は充分! あなたの半月刀が威力を発揮するわよ!」
「お、おうよ!」
智則が相槌を打つと、半月刀から黄金色の輝きが迸りだす。
「『選ばれた勇者』って感じで気持ちいいね!」
智則は襲い掛かる四つ足の魔徒を斬り捨てて行く。ある魔徒は、智則の剣を凌いで、せめぎ合う剣越しに智則に呼び掛ける。
「四つのドグマ。それが憑りついたのは、お前の自堕落な生活のせいだけだとお前は思っているのか?」
智則は魔徒をバッサリと両断する。
「そう思ってるよ! それ以外に何があるって言うんだ!」
ルクサーナも魔徒を短刀で殺傷しながら、智則に呼び掛ける。
「気をつけて! トモ! その魔徒は、人の心に奥に潜む影、トラウマや葛藤を引きずり出す。飲み込まれないようにして!」
「わ、分かってる。俺の、トラウマ?」
そう答えながらふと智則は思い返す。自分の幼年期に離婚し、再婚した母親は再婚相手にかかりきりで、自分にほとんど構ってくれなかったことを。そのせいで小中学生時代、全くと言っていいほど勉強に集中出来ず、寂しい思春期を送ったことを。智則は魔徒を半月刀で跳ね返すと叫ぶ。
「つまらない想い出、思い出せやがって!」
魔徒達は更に群れを成して、智則を挑発する。
「それでなければ、職に就けなかったくらいで、なぜ自棄的になる? お前の自堕落な生活の根っこには、『愛されなかった幼年期』の寂しさがあるんだよ!」
「うるさい野郎だ!」
やや上気した様子で魔徒達を退散させると、智則はルクサーナを連れて、王の間へと足を踏み入れて行く。その焦燥した様子の智則を見てルクサーナは零す。
「いけない。トモ、すっかり挑発に乗ってしまった。このままじゃシャフリヤールの大きな闇に飲み込まれてしまうかもしれない。……トモ!」
そう呼び掛けるも興奮しきった智則は、ルクサーナの言葉を振り切り、ヴェールで覆われた王の寝室へと雪崩れ込んでいく。そこではシェヘラザードが、シャフリヤールの前で物語を話して聴かせていた。シェヘラザードの物語は今にも尽きそうだった。それは彼女の途絶えがちな声の様子からも分かる。智則とルクサーナはシェヘラザードに呼び掛ける。
「姫!」
シェヘラザードはスックとその場を立つと、智則とルクサーナに駆け寄る。その後ろ姿を見咎めて、シャフリヤールは大いに感情を激する。シャフリヤールは立ち上がると巨大なモンスター、魔徒へと変容していく。その姿は黒ずみ、五ツ目で口は引き裂け、鼻は焼けただれ、前屈みになった体からだらりと垂れ下がった両腕は、異様なほどの筋肉を持ち、血管が浮き出ている。
智則は異形の者、魔徒と変わり果てたシャフリヤールと対峙しても臆することはない。いや、少し臆してはいたか。智則は言葉を吐き捨てる。
「おぉ! こんなのはゲームで散々見たんでね! 怖くもなんとも……、って言うか流石に目の前で見ると気味悪いな!」
少し怯んだ様子の智則を、ルクサーナは鼓舞する。
「トモ! 奴の弱点は、五つ目の真ん中の目、一つ。それ以外はどこを傷つけても修復されていくわ! 狙いはしっかり定めて!」
「分かった! ルクサーナ、でもどうしてルクサーナはそんなに詳しいんだ?」
「それは」と言ってルクサーナは短刀で魔徒、シャフリヤールの攻撃を凌ぐ。
「このアラビア世界が、あなたの! 作りだした内面世界でもあるからよ!」
「何だそれ! 一体どういうことだ!」
智則が動揺するも、ルクサーナは続きを後回しにする。何よりもシャフリヤールが二人に、襲い掛かって来ているのだ。シェヘラザードは、智則の後ろに隠れる。シェヘラザード、ルクサーナの順に言葉を零す。
「あなたはかつて、私達に出逢っていた」
「シェヘラザード姫、その話はあとにしましょう! まずは!」
そう叫んでルクサーナは、シャフリヤールの頭頂部に短刀を突き立てる。呻き声をあげるシャフリヤール。その様を見てルクサーナは叫ぶ。
「さぁ、トモ! あの短刀の柄を掴んで、シャフリヤールの五つ目を狙って!」
「ああ、分かった!」
そう相の手を打って素早く智則は、短刀の柄を握り締め、シャフリヤールの前にぶら下がると、シャフリヤールの五つ目、真ん中の目を半月刀で貫いた。響き渡る雄叫び、身もだえするシャフリヤール。シャフリヤールの体からは炎が吹き出て、彼は、燃え盛る炎に体を焼き尽くされながらも智則に呼び掛ける。
「お前に憑りついたドグマ、私を倒しただけで拭えると思うのか?」
「ああ! そう願いたいね!」
そう答える智則を、更にシャフリヤールは威圧する。
「お前は私。私はお前。二人は映し鏡だ。気が付かないのか? この世界はお前の心の内に存在していたのを!」
「何をわけの分からないことを!」
そこまで智則は言ってルクサーナの言葉を思い出す。彼女はたしかにこう言った。「このアラブ世界はあなたの内面世界」だと。一瞬戸惑う智則の身に危険を感じたのか、ルクサーナはシェヘラザードと智則を率いる。
「さぁ、この宮殿はシャフリヤールの悲しい想い出とともに崩れ落ちるわよ! 謎解きはそのあとでも遅くはないわ!」
そう促されて智則は、シェヘラザードの手を強く握ると、螺旋階段を駆け降りて行く。智則と走りながら、シェヘラザードは謎めいた言葉を智則に投げ掛ける。
「本当に久し振りに、あなたに会えたわね。あなたが私達を忘れていなくて、良かった」
「どういうことです。シェヘラザード姫。私達を忘れていなかったって」
そう二人は言葉を交わしながらも、崩れ落ちていく階段を、ひたすらに駆け降りる。先頭を切って走るのはルクサーナだ。その三人を体中を炎上させながら、シャフリヤールも追ってくる。
「ウゴグワァアアァアアア!!!」
そう雄叫びをあげるシャフリヤールの魔の手を、何とか三人は振り切り宮殿の出口にまで辿り着く。今にも宮殿は全てが崩壊しそうだ。振り返った智則に、シャフリヤールが最後の力を振り絞り、襲い掛かろうとする。その時、ふと智則の心に、継父にかかりきりの母親に構って貰えなかった、幼い頃の自分の姿がよぎる。その姿はなぜか荒れ狂い、猛り狂うシャフリヤールに重なって見えた。智則は襲い来るシャフリヤールに抵抗する素振りも見せずに、寂しげに零す。
「あんたも妃に裏切られて、辛かっただろうな。わかるよ。その気持ち」
その言葉を耳にしたシャフリヤール、顔面を両手で覆い、悶え苦しむと、その姿を「退行」させていく。
「ウガァアアアァア!!!」
シャフリヤールの叫び声を聞きながら、智則は呟く。
「本当にこの世界は俺の心の中だ。シャフリヤール。あんたが俺と映し鏡だと言うのも、わかるよ」
すると青年から少年に、少年から幼児へと退行を重ねていたシャフリヤールは、最後には赤子へと成り変わってしまった。見ると赤子になったシャフリヤールはスースーと寝息を立てている。赤子となったシャフリヤールをルクサーナは抱き抱える。
「さぁ、全ての謎解きの時間ね」
「ああ、そうだな」
ルクサーナの言葉に智則は応じる。ルクサーナは、艶やかな瞳を見開いて、智則に呼び掛ける。
「私達に、いや私達の姿形に、容貌に、見覚えがない? トモ」
ぼんやりとルクサーナとシェヘラザードの顔を、交互に見比べる智則は、寂しかった思春期によく開いたスケッチブックを思い出した。そこには母の愛情を渇望していた智則が描いた、美しい女性達が残っている。その女性達の内、「光輝」と名付けた女性にルクサーナが、そして人知れず自分のヒロインとして、よく描いていた女性にシェヘラザードが似通っていたのだ。
「あっ……」
切なげにそう零す智則に、ルクサーナは自分の名前の由来も解き明かす。
「ルクサーナ。アラビア語で「光り輝く」という意味。あなたは素敵な名前を私につけてくれたわね」
「そう、だったな」
観念したような智則にシェヘラザードが話し掛ける。
「高校に進学して以来、あなたは私達をめっきり描かなくなってしまった。それを……」
「私達も寂しく思っていたのよ」
シェヘラザードの言葉をルクサーナも引き継ぐ。ルクサーナは頬を一度両手で撫でる。
「シャフリヤールも、あなたの心が生み出した獣。世間に裏切られ、少し投げ槍になっていたあなたの心の鏡」
その言葉を聞いた智則は呟く。
「謎が解ければ、全てがシンプルだったというわけか」
「そういうことよ。それじゃあ私達は……」
そう言い残して湖の湖面へと近づいていくルクサーナとシェヘラザードを、智則は止める。
「待って! こうして再会出来たのに、もうお別れかよ!」
シェヘラザードが優しく智則に呼び掛ける。
「そう。その通り。でもあなたがその気なら、私達にいつでも会えるわ。だから悲しまないで。輝きはいつでもあなたの胸に」
「そう言うことよ。トモ。それじゃあ!」
そう言葉を言い残すと、ルクサーナとシェヘラザードは湖の中へと飛びこんで行く。激しい光が迸り、そして消えた。気が付くと智則は、競輪場の近く、大道芸人が人形劇を催していた場所へと舞い戻っていた。見ると、大道芸人は木工細工の箱を片付けようとしている。智則は慌てて大道芸人に話し掛ける。
「あ、あの! シェヘラザードは!? ルクサーナは!?」
そう訊いて智則は落ち着きを取り戻す。
「人形劇は……、もう、おしまいですか?」
大道芸人は心地よさげに言葉を返す。その表情は、一仕事を終えた「普通の青年」のそれだった。
「ええ、もうおしまいです。毎週土曜にこの場所で演じているので、また来ていただければ」
「ああ、そうですね。また来ます」
そう言葉を返して、智則は帰路へと着く。帰宅した智則は長い間放置して、一切手をつけていなかったスケッチブックを広げる。そこには魔徒達と闘いを繰り広げるルクサーナが、シェヘラザード姫が描かれていた。いや正確に言うと智則がかつて「光輝」と名付けた女性と、「ヒロイン」が描かれていた。
智則はスケッチブックを置いて、優しげに二人を見つめる。そう。そうだ。就活に失敗したからって、それくらいで投げ槍になる必要もない。自分にはこんなに豊かな内面世界が、空想の世界が広がっているではないか。彼女達を心の支えにして、もう一度人生、頑張ってみるか。そう思うと智則は力が今一度みなぎる感覚がした。智則は呟く。
「そう。彼女達はいつでも自分の傍にいる。荒れ狂うシャフリヤールだって時に宥めてやればいいじゃないか」
そうやって笑顔を見せた智則に、スケッチブックの向こうのルクサーナは確かにこう呼び掛けたような気がした。「そう。光と輝きはいつでもあなたの胸の中に」と。




