Bloom
恋なんて必要ない。
高校は恋愛する場所じゃない。学生の本分は勉強することなんだから。
浮かれてたって何もいいことなんかない。ちゃんと勉強して、いい大学に入って、いい企業に就職して、そこでちゃんとした結婚相手を見付ける。それがあたしの人生計画。
好きだの嫌いだのときゃあきゃあ騒いでる子たちを見てると、心配じゃないの? って思う。
恋なんていつでもできるじゃない。今勉強するかしないかで、一生が決まってしまうかもしれないのに。将来余裕ができてから好きなだけすれば問題ない。
まあ、あたしはそうなっても特に恋愛なんてしないだろうけど。
先の幸せを考えれば、今時間を削って勉強することなんて些細な犠牲だ。
「三澤!」
机に向かって英語の問題集を解いていたあたしは、名前を呼ばれてぱっと顔を上げた。
あたしを呼んだのは同じクラスの岡田悠也。同じ学級委員をしている。
「これ、今日提出の数学の課題。クラス全員分集めて番号順に並べたよ。あ、未提出者はこの名簿にチェック入れておいたから」
「どうもありがとう」
お礼を言うと、岡田悠也はにっこり笑った。
茶髪をワックスでくしゃっとさせていて、耳にはピアス。どこから見ても、チャラい高校生だ。いつもつるんでる友達も同じような人ばっかり。
でも、見た目の割に結構真面目だ。岡田悠也より真面目そうに見えても、こうやって学級委員の仕事をきちんとする人なんてあんまりいないんじゃないかと思う。
授業中も寝ているところは見たことがない。かと言って騒いで授業を妨害するわけでもなく、静かにノートをとって先生の話を聞いている。
岡田悠也はあたしが解いていた問題集に目を落とした。
「それセンター対策? すごいね、今から」
じっくり見られているのが恥ずかしくて、あたしはそそくさと机の上に広げていたものを閉じてしまった。
彼の成績はかなり良い方だ。彼と仲の良い人達と比べれば圧倒的に良いし、総合的に見ても上位にいるのは間違いない。
よく見れば、教材やノートを全てロッカーに置いて帰ってるわけではなく、その日あった教科の教材類は鞄に入れて持って帰っている。きっと家で復習をしてるんだろう。
あたしみたいに、休み時間までがつがつ勉強しているわけではないのに、成績は大差ない。きっと効率が良いんだろうな。
……ていうか、何でこんなに岡田悠也を観察してるんだ、あたし。気持ち悪い。
とにかく、あたしは不器用だから量をこなすしかない。
「今からやっておかないと、後で苦労するから」
「結構上の方狙ってるんだ?」
「うん、一応ね……」
早く行ってくれないかな。勉強の続きをしたいのに……
きっと、変なガリ勉女だと思われてるんだろうな。岡田悠也だけじゃなく、クラスのほとんど全員に。
友達はいるけど、親友と呼べるような人はいない。皆、一緒にお昼を食べて一緒に帰る程度の仲。
こういう休み時間、ほとんどの人達は友達と笑いながら喋っている。あたしは勉強してるだけ。別にそれが嫌だとは思わないけど……
「頑張れよ」
その時うつむいていたあたしは、彼がどんな表情をして言ったのかはわからない。でも、その一言に嫌味な響きはなくて、ただ純粋にそう思って言ってくれたような気がした。
ただの錯覚かもしれないけど。
* * *
あたしは男子と話すのが苦手だ。元々無口な方だし、友達と話してる時だって話題をなくして困ることもあるくらいだから。
小学生の時からぎゃあぎゃあ騒いでる男子が苦手だった。関わりたいとも思わないし、ただの他人でいるに越したことはないと、そう思い続けてきた。
でも中学生になって、周りの女子が一番かっこいい男子は誰だとか、誰が誰のことを好きだとか、そういう話題を話しているのをよく聞くようになって、あたしも少しはそっち方面に興味が湧いてきた。
実際、ちょっと好きな人ができた。最初はただかっこいいと思っていただけだったんだけど……
その人はクラスで一番かっこいいと評判で、教室の片隅に存在してるかわからないくらいのあたしのことなんて、認識すらしていないだろうなと思っていた。
いつも人の中心にいて、皆を笑顔にする。単純に憧れていたんだ。
その気持ちが恋に変わったのは、その人と初めて会話した時だった。
交わしたのはたった一言。それでも、あたしは嬉しかった。
わざわざあたしを選んで話しかけてくれたんじゃないかって……今思うと思い上がりにもほどがあるけど。
それ以降、特に何もないままその人には彼女ができた。
誰にも知られずにあたし一人の中で、ひっそりと初めての恋は終わった。後に残ったのはただひたすら惨めで恥ずかしい気持ちだった。彼にとってあたしは風景の一部でしかなかったのに。
恋、なんて呼べる感情だったんだろうか。ただ単に話せたのが嬉しくてその人のことが『好き』だと思い込んでいただけなんじゃないだろうか……
でも、今となってはどうでもいい。
ただでさえ効率が悪いのに、勉強以外のことで頭の中をいっぱいにされるのはまっぴらだ。
* * *
塾がない日は、駅前の喫茶店で勉強をしている。塾の自習室も使えるんだけど、顔見知りがいる場所で勉強するのは何となく嫌だった。誰一人知ってる人のいない喫茶店で、程よい騒音に紛れながら勉強するのが好きなのだ。
席を取ろうとカウンター席に向かったあたしは、ぴたりと足を止めた。
後ろ姿しか見えないけど――うちの高校の制服を着た男子が一人でカウンター席に座っている。勉強をしているみたいだった。
嫌だな。もし同じ学年だったら……
しかもカウンター席は彼の隣しか空いてない。
店を出ようか迷っていると、彼は椅子から立ち上がって――トイレにでも行くのだろうか――こっちの方へ歩いて来た。
「あ」
最悪……
同じ学年どころか、同じクラスの岡田悠也だった。
「よ! 三澤も勉強?」
「あ、うん……」
気さくに話し掛けてくる彼に、あたしはぎこちない笑みを返した。
出掛けた先などで知り合いに会うのが、あたしはとても嫌だった。見掛けると引き返してしまうくらい。
「座れば? 俺の隣空いてるよ」
「え、えっと……」
視線を合わせて話すことができない。声も小さくてどもってしまう。
うまく嘘をついてその場を逃れることもできなかったあたしは、小さく頷くしかなかった。……ああ、情けない。自分の意志もちゃんと言葉にできないなんて。
「じゃ、じゃあ……お邪魔します……」
* * *
隣に座ったはいいけど……
集中できない。
ちょっと手を動かせば触れるくらいの距離に、岡田悠也がいる。こんな至近距離に男子と並んで座ってるなんて……
しかもこの店、とにかく暑い。額にじっとりと汗が滲んでしまってるのがわかる。岡田悠也は別に暑そうにはみえないけど。
「三澤」
いきなり呼ばれてびくんと肩を震わせてしまった。
「え、えっ?」
「ここの問題教えてくれない? わかんないんだけど」
そう言って見せられたのは数学の問題。彼の手からそれを受け取って、自分のノートに式を書きながら考えてみる。
この問題、応用だけどちゃんと考えればわかる。そのはずなのに……
暑いせいか、頭がいつものように回らなかった。何度も計算ミスをしてしまう。
せっかくあたしを頼ってくれたのに期待に応えられないなんてことはしたくなかった。こんな格好悪いことってない。
頭をフル回転させて、何とか解き終える。
その過程をたどたどしく説明すると、岡田悠也はうんうんとしきりに頷いていた。こんな拙い説明でわかるのかな。表面的だったとしても、ちゃんと聞いてくれてるみたいでちょっと嬉しい。
「ありがとう! すげーよくわかったよ。三澤って教えるのうまいな」
そう言って見せた笑顔に、心臓がどきんと鳴った。ばくばく動いて肋骨を突き破って飛び出そうだ。
暑い。ものすごく。真夏の炎天下みたいに汗が噴き出そうだ。
「そ、そうかな……?」
「うん。先生とか、いいんじゃない?」
「え?」
「将来の職業。向いてると思うよ」
先生か……考えてみたこともなかった。
「……でも、人前で話すの苦手だし」
「そう? でも学級委員の仕事してる時、結構ハキハキしてるじゃん」
「それは仕事だから……」
「俺は仕事で話す方が緊張するな。なんか改まっちゃってさ。うまく言うことが頭に浮かばないんだ」
ちょっと意外だった。岡田悠也はいつも余裕のある感じで、緊張することなんてほとんどないんだと思ってた。
「緊張する時なんてあるの?」
「めっちゃあるよ! 授業中に当てられた時とかすごく緊張する。でも三澤ははっきり答えてるよな。うらやましいよ」
「そう……かな」
素直に嬉しい。彼にとってあたしは、ただの風景みたいなものだと思ってた。
ううん、そうだとしても少しはあたしのことを見ててくれたんだ。
教え方を褒めてくれたことよりも、なぜかそっちの方が嬉しいと感じていた。
「将来のこと、決めてたりする? 大学のこととかさ」
「うん、一応……岡田くんは?」
「うーん、どうかな。実を言うと大学に行くかどうかも決めてないんだ」
その答えにあたしは驚いた。
岡田悠也は学年トップクラスの成績だし、当然国立大学を目指しているものだと思っていた。
「岡田くんなら、どこにでも行けるのに」
「そんなことないよ。勉強は嫌いじゃないし、大学にも行ってみたいとは思うんだけど……それで本当にいいのかなって時々思う」
「……?」
「本当にやりたいことが別にあるかもしれないって。まあ、具体的にって言われると特に浮かんでこないし、大学に行っておいた方が就職のことを考えるといいんだけどね」
やりたいこと――全然考えてなかった。大学に行ってから何となくわかるって、そう思ってたんだけど……
「何となく大学に入って何となく就職するっていうのも、俺的にちょっとどうかなって思うんだ。――って、無駄に偉そうなこと言っちゃったな。実際、ちゃんと大学行く方がいいとは思うよ。俺もしばらくは大学行くのを目指して勉強するつもりだから」
「…………」
「でもやっぱり、何の為に勉強してるのかって考えるとさ……わからないんだよな」
何の為――か。
「……今やってることに、直接的に役に立つことってほとんどないよ。でも意味のないことじゃないんじゃないかな。勉強って『役に立つか』よりも、やること自体に意味があると思う。たとえば集中力を養ったり、課題とかも出来そのものよりも期日までに提出するかどうか、そっちの方が重要かな……って」
そこまで喋って、あたしははっと岡田悠也の顔を見た。
きょとんと目を見開いてあたしの顔を見てる。
「……ごめん!」
かあっと頬が熱くなる。
聞かれてもいないことをぺらぺらと喋ってしまった。絶対、うざいと思われた……
「ちょっとびっくりした。……すごいな。そんなこと考えたこともなかったよ。確かにその通りかもな」
「ごめん、うざかったよね」
それを聞いた岡田悠也は声を上げて笑った。
「そんなん、思うわけないじゃん。ていうかさ、やっぱり話すの苦手じゃないだろ? 何ていうかな……喋り方とか声とか、すごく聞きやすいよ。すーっと頭の中に入って来る感じがする。やっぱ教師向いてるよ」
「あ、あたしが、もし先生だったら……授業、ちゃんと聞いてくれる?」
彼は大きく頷いた。
「もちろん! 言われなくてもめっちゃ勉強すると思うよ」
ふわりと春風が吹き抜けたみたいだ。あたしの心の中に、何かが咲いたような……そんな気がした。
* * *
結局、その後は話してばっかりであまり勉強できなかった。
大学のこと、学校生活のこと、将来のこと……互いの人生計画まで語ってしまった。
十分に勉強できなかった不満感より、遥かに心を満たす充実感があった。こんなに誰かと長い間話し続けたのって久しぶりだ。しかも気まずい沈黙もなく、川が流れるみたいに自然と会話をすることができた。
話してるうちに自然に笑顔が出たのも、あまりなかったかもしれない。
周りの人たちには、付き合ってるみたいに見えたかな……?
だめだめ、今のあたしはちょっと浮かれてしまっている。こんな地味女とチャラめのイケメンがカップルなんかに見えてるわけない。
帰る時、岡田悠也は駅まであたしを送ってくれた。
「今日は色々ありがとな! タメになった」
「こ、こちらこそ……」
「じゃ、また明日な」
「うん」
何だか、別れがたいな。人と会うのが苦手なあたしでも、こんなことを思うことがあるんだ。知らない自分を見た気がしてちょっと不思議だった。
その時のあたしは――。
初めて知った人と話す楽しさを思い知ったばかりで、本当に有頂天になっていた。帰る途中の何でもない景色がきらきら輝いて見えたんだ。
どうして予想してなかったんだろう――。
岡田悠也に彼女がいる――そんな話を聞いたのは数日後のことだった。
* * *
考えてみれば、何にも不思議じゃなかった。岡田悠也は見るからにモテるタイプだし、彼女がいないっていう方がおかしかった。
クラスの噂によれば、その彼女というのは他校の子だという。
あたしはずっと参考書を見ているふりをして、クラスの男子たちの話に耳を傾けていた。
「なあ、岡田に彼女がいるって噂、本当なの?」
「河野が一緒に歩いてるの見たって言ってたぜ。すっげえ可愛かったって」
「へえーいいなあ」
何でこんなに心臓がどきどきしてるんだろう。それもすごく嫌な感じ。
「あ、岡田!」
どくん、と心臓が飛び出そうになった。
「岡田、彼女いるんだって!?」
「どんな子だよ、今度紹介しろよ。ついでに可愛い子も!」
いつも岡田悠也と一緒にいる数人男子たちが一気に問い詰める。
「ったく、うるせえな」
「いいじゃん、教えろよ」
「――いるよ」
さらりと岡田悠也は言った。その言葉があまりに自然で当たり前のことを言うような口調だったので、すぐには理解できなかったけど……
心臓が段々と静かになっていって、冷たく響く鼓動が体の奥で鳴ってる。
あたしの心の中で花開いた何か。音もなく枯れていく……
鮮やかに心を彩っていたものが一気に消え去って、灰色の風景が訪れたみたい。……元に戻っただけなのに、何でこんなに気分が沈むんだろう。
その後色々なことを男子たちと話していたけど、あたしの耳には何も入って来なかった。
* * *
放課後、あたしは図書室にいた。
問題集を開いてみても、勉強する気にはなれない。本を読んでみても内容が頭の中に入らない。
あたし……どうしちゃったんだろう。何にもする気になれないな。
「……ふう」
ため息をつくと幸せが逃げるんだっけ。でも逃げるほどの幸せも、あたしにはない。
くだらない。たった一人の、親しくもないクラスメイトのせいでこんな暗い気持ちになるなんて。
何かの本で読んだことがある。不幸を感じるのは、幸せだったから――。
幸せ……岡田悠也と喫茶店で話していた時の気持ちは、確かにそうだった。
そっか。
好き――だったんだ。
あれだけで好きになっちゃうんなんて、何て単純なんだろう。ううん、もっと前から好きだったのかもしれない。勝手に一人で舞い上がって……本当に馬鹿だ。
鼻の奥がつんとして、問題集の文字がぼやけていく。
ぽたりと落ちて紙を濡らしたのは、あたしの目から零れ落ちた涙だった。
悲しい。寂しい。それだけじゃない。
この気持ちは、何なんだろう……
「……三澤? どうしたの?」
何て不幸なタイミング。
はっとして顔を上げると、向かい側に本を抱えた岡田悠也が立っていた。きっと勉強でもしにきたんだろう。驚いたみたいにこっちを見ている。
一人で泣いてて、気味悪いと思ってるかな。
「何かあった?」
本当に心から心配そうに言うので、嬉しいとか悔しいとかそんなのを通りこして、何だかおかしかった。
岡田くんのせいだよ。
そう言ってやりたかったが、残念ながらそんな勇気はあたしにはなかった。
「何でもないよ」
「でも……」
想う人がいるのに、こんなに他人を心配できるんだね。
皮肉じゃなく、素直に彼がすごいと思った。
「ありがとう」
「え?」
心の底からそう思った。
悲しいけど満たされてる。情けないけど、岡田悠也を好きになったことは後悔してないって思える。
岡田悠也はきょとんとしていたけど、あたしはちょっと笑って机の上にある私物を鞄に突っ込んで立ち上がった。
「ばいばい」
彼にそう言って図書室を出た瞬間、再び涙が勢いよく溢れ出した。
あっけない、短い時間だったけど……他人を想うことが、こんなにも心を満たすんだって知ることができた。
岡田くん、あたしもあなたみたいになれるかな。誰かを幸せに、笑顔にできるような人に……
「……先生か。結構、いいかも」
流した涙があたしの心の中に落ちて、そこから新しい何かが生まれる気がした。
いつか綺麗な花が咲くといいな。