二人の初めてのコンタクト
夏希が転入してきて、あっという間に一週間が過ぎた。
今の時期は、合唱コンクールで校内が練習一色である。
夏希のクラスは、学年の中で優勝候補で、課題曲も一つ上の学年の課題曲を歌うことになっている。
そして、一番最初の音楽の授業で、夏希のパートはアルトになった。
夏希が気になっている今竹美夕も同じパートだ。
まだ美夕に声をかけられていないので、これを機に話をしてみようと思っているところなのだ。
「今から音楽か…。気が重い…」
音楽室へ向かう途中、仁がため息をつき言う。
夏希が転入してきて以来、仁と二人で行動を共にすることが多くなった。
「武本先生って厳しくねーか?」
「合唱コンだけじゃない。普段の授業もあんなもんだ」
「ふーん…。まぁ、熱血教師ってとこか?」
「熱血教師もいいとこだ。まだ若いのに…」
仁は音楽室のドアを開けながら言う。
二人が中にはいると、背広をきっちりとした男性が、夏希のクラスの課題曲の楽譜を見ている。
夏希のクラスの音楽を教えている武本雅哉だ。
二人はそそくさと席に着くと、静かに座ることにした。
それからすぐにチャイムが鳴り、パート練習をするように、と雅哉から指示かあった。
アルトのパート練習場は、音楽準備室だ。
八人いるアルトは、まずMDに入っているアルトの音程と会わせて歌い、それからMDなしで歌うことにした。
しかし、夏希にとっては容易なことではない。
音楽の授業は、今日で三回目であり、まだ音程どころか歌詞も覚えていないのだ。
歌詞のコピーとMDに曲を入れてもらったが、まだまだなのである。
「赤谷さん、どう? 覚えられてる?」
パートリーダーが聞いてくる。
「う、うん…まぁ、なんとか…」
そう笑ってごまかす夏希。
「この曲、難しいもんね。あと二週間で合唱コン始まるし、赤谷さんにとっては、転入してきて一番最初の行事だね」
次は別のアルトのメンバーが言う。
「ねぇ、聞いてよ。私、昨日聞いたのよ」
突然、パートリーダーが声のトーンを落として言う。
「聞いたって…音楽室の怪?」
「うん。昨日の放課後、部活帰りに音楽室の前を通ったのよ。そしたら、ソプラノの声が…」
「まさか…。誰か練習してたんだって!」
パートリーダーの友達が笑いながら言う。
「私もそう思ったの。だけど、そっと音楽室の中を覗いてみたけど、誰がいる気配がなかったの」
パートリーダーの言葉に、夏希以外は顔色を変えた。
「じゃあ、例の女子生徒の歌声ってこと…?」
「多分…」
パートリーダーは思い出したくないという表情をした。
(…ったく、この学校は音楽室の怪の話ばかりだ)
内心、呆れ返る夏希。
夏希が転入してきて以来、音楽室の怪の話でもちきりなのだ。
アルトがそんな話をしていた時、音楽準備室の外がガヤガヤと争う声が聞こえてきた。
「なんだろう…?」
一人が音楽準備室のドアを開けた。
すると、和夫とクラス一のヤンキーの増田義隆が言い合いをしている。
「なんでオレが歌わねーといけね―んだよ? オレは絶対に合唱コンなんて出ね―からな!!」
義隆は和夫にそう吐き捨てるように言うと、椅子に座ってしまった。
「クラス全員で歌わないとこの曲は仕上がらないんだ」
和夫は義隆に近付く。
「オレ一人いなくても大丈夫だって」
「いや、増田にも出て欲しいんだよ」
「なんで学級委員のお前に指図されねーといけねーんだ? そりゃあ、お前は優秀だし誰でもお前の言うことは聞くよ。でも、オレはお前の言うことなんて聞かねーからなっ!」
義隆は腕組みをして、プイッと横を向いた。
和夫は義隆の言い方と態度にカチンときたのか、
「あのなぁ…」
怒りを露にし、義隆の胸ぐらを掴んだ。
「オイッ! やめろ!」
中に入ったのは雅哉だ。
「二人共、いい加減にしろ。とりあえず、練習再開だ。みんな、早くパート練習しろ!」
雅哉の声に、二人の言い合いを見ていた全員は、パート練習を再開する。
和夫は悔しそうに義隆の胸ぐらから手を離し、義隆は椅子に座ったまま練習をしようとはしない。
そんな二人の姿を見つめる夏希がいた。
「永井と増田、いつもあんな感じなんだよなぁ…」
音楽の授業が終わった後、仁は教科書と楽譜、ふで箱を脇に抱え、いつものことだという口調で言う。
「あの二人、いつも衝動してんのか?」
「まぁな。さっきみたいなちょっとしたことで、増田がグチったり文句ばかり言うもんだから、永井がなだめる。増田からすると、永井が言ったことが気に障るんだろうな。すぐにケンカ腰だ」
ため息まじりに答える仁。
「増田っていつからあんなんだった?」
「あんな…って…?」
「不良っぽい格好してるんだっていう意味だよ」
「半年前の入学直後から。さすがに入学式は黒髪だったけど、二日後には茶髪だった。眉も細いし、言い方もすごいし、見た目もヤンキーだし、クラスの誰も友達になろうなんて奴いねーよ。一学期の中間テストの後には停学十日だ」
仁がそう言った後に教室についた二人は、それぞれの机に戻り、教科書などを置くと、仁が夏希の隣の席に座った。
「停学十日って何かしたのか?」
夏希は隣の席に座っている仁に美を乗り出して聞く。
「何かしたってわけじゃないんだけど、あの身なりでな。でも、未だにあのままの身なりのままさ」
「増田は増田なりの抵抗なんだろうな」
夏希は頬杖をついて遠い目をしながら呟く。
「やたら増田の肩持つんだな」
仁はふっと笑う。
「別に肩なんて持ってねーよ。ボクも気持ちがわからねーってわけじゃないしな」
「もしかして、前の学校でヤンキーだった?」
冗談まじりの仁。
夏希はウザったい目を仁に向ける。
「冗談だよ、冗談! お前がヤンキーなんて思ってねーよ」
否定する仁に、深々と椅子に腰を掛けた夏希。
「そういえば、ずっと気になってることがあるんだけど…」
夏希はウザったい目から興味津々の目になる。
「なんだよ?」
「今竹って子のことなんだけど、いつ性同一性障害って知ったんだよ?」
まだ美夕に声をかけられていない夏希は、少しでも美夕のことを知っておこうと思ったのだ。
「噂だ。今竹と同じ中学の奴らが、“今竹は性同一性障害だ”って言ってたんだ。それが大きく噂になってな。今竹と同じ中学の奴らが、“男女でキモイ”って言ってたんだ」
「キモイって…そいつらのほうがよっぽどキモイぜ」
ボソッと呟く夏希に、苦笑する仁。
「で、いつ頃の話だよ?」
「一学期の四月下旬にその噂が流れたんだ。ゴールデンウィーク後にクラスで性同一性障害について話し合ったんだ。今竹に話を聞いてな。今竹は泣きそうな顔してたけど…」
仁はその時のことを思い出したのか、胸を痛めた。
(“男女でキモイ”そんなことを言う奴がいるんだな)
他人に理解してもらえない辛さを痛感した夏希だった。
「今竹のこと聞いて友達になりてーのかよ?」
「あ、いや、そういうわけでは…」
慌てて自分の心の中にある気持ちを隠して否定した夏希。
そんな夏希の気持ちを見透かしたのか、
「素直になれよ。アイツ、このクラスで友達一人もいねーみたいだし、お前が友達になったら喜ぶと思うぜ?」
仁はアドバイスした。
「仁…」
目を丸くする夏希。
夏希がアドバイスされたことは転入してきて以来、初めてなのだ。
夏希がアドバイスを受けたのは、小五の秋以来だ。
「仁って呼び捨てにしたなっ! じゃあ、オレも夏希って呼ぶな」
「好きなように…」
夏希がそう言うと、三限目始まりのチャイムが鳴った。
その日の放課後、夏希は一階の奥にあるコンピューター室に向かった。
目的はサイトを見るためだ。
今日の昼休みに、仁から“家のパソコンでサイトを見てる”っていう話を聞いて、家にパソコンがない夏希はコンピューター室に直行したのだ。
本当は仁にもついてきて欲しかったのだが、“バイトがある”と言われてしまい、やむを得ず一人で来たのである。
夏希が恐る恐るコンピューター室に入ると、生徒が十人程いる。
一番前の左の方に座り、コンピューターを立ち上げる。
その間、コンピューター室を見渡す。
今日、初めてコンピューター室に足を踏み入れた夏希にとっては、ドキドキ感がある。
こうして初めて行く場所は、夏希には新鮮なのだ。
コンピューターが立ち上げると、色んなサイトを見ていく。
芸能情報や占いやゲーム、流行っているテレビ番組などを見て回る。
夏希がチャットをやろうとしたその時、
「…赤谷…さん…?」
背後から小さな女子の声がした。
夏希が振り替えると、美夕が立っていた。
「あ…」
思いがけない出来事に驚いてしまう夏希。
どうしても、美夕に声をかけられなかったのに、美夕は糸も簡単に夏希に声をかけてきたからだ。
「…隣いい?」
美夕の問いかけに頷く夏希。
まるで好きな人に会った様な気分だ。
「コンピューター室に入る赤谷さんを見かけたんだ。コンピューター室の前でためらったんだけど声をかけたんだ」
美夕は夏希の目をまっすぐ見て言った。
「でも、なんでボクに声なんかかけた?」
「赤谷さんを初めて見た瞬間、オレに似ているって思ったから…」
「それでか…。ボクも声かけようって迷ってたんだ」
夏希はコンピューターのことなど忘れている。
教師用のコンピューターの前に座っている三十代半ばの男性教師が、二人のほうをジロッと見ている。
「場所変えよう」
夏希はそう言うと、コンピューターの電源を切り、カバンを持って立ち上がる。
二人はコンピューター室を出ると、屋上に向かった。
外は心地よいくらいの風が吹いている。
少しの間、二人の間に沈黙が流れる。
「オレのこと、原口や永井とか他の奴から聞いただろ?」
美夕は夏希を背にして聞いてくる。
「あぁ…大抵のことは仁に聞いたよ」
「仁…?」
美夕はわけがわからないという表情で振り返る。
夏希と仁が下名前同士で呼び合うほどの仲になっているとは知らないからだ。
「原口とそんなに仲良いってわけだ?」
「まぁな」
「もしかして、付き合ってんのか?」
「まさか…。付き合ってなんかいねーよ」
首を振り否定する夏希。
否定する夏希を見て、安心したのか、美夕はホッとした表情になった。
「そっか。オレが性同一性障害だってことはいつ知った?」
「今日。仁が教えてくれたよ」
そう言うと、夏希はフェンスに腰をかけた。
「いつから自分は他人と違うって気付いたんだよ?」
一番気になることを聞いてみる夏希。
「小学校に上がる前。幼い頃からスカートとかピンクや赤の服とか女の子っぽい服装を着させられるのが、ずっと嫌だった。兄貴と一緒に虫取りや野球をしても、母親から言われるのはいつも“女の子らしい遊びをしなさい”ばかり。大きくなるにつれ、女らしい体つきになるのが嫌で嫌でたまらなかった。オレは男なのに…。男になりたいのに…。自分の性について矛盾を感じながら今日まで生きてきた」
美夕はフェンスを強く握って語る。
美夕の気持ちは、夏希にも痛い程わかった。
「同じ中学の奴らが性同一性障害だって知ってて言いふらしたみてーだけど、カミングアウトしたのか?」
「中一の秋にな。それからだよ、“キモイ”って言われるようになったのは…」
「そうだったのか…」
話は大体わかったという表情をする夏希。
「ボク、君と友達になりたいんだ」
「いいよ。オレも友達になりたい。そう思ってたところだしな」
「なんて呼んだらいい? ボクは夏希でいい」
美夕は少し考えると、
「“今竹”って名字で呼んでくれ。下の名前で呼ばれるのは気が引けるからな」
「友達になるのに、名字っておかしくねーか?」
「じゃあ、特別に“美夕”でいいさ。“美夕”って名前、好きじゃねーけど…」
美夕がそう言うのに、ふっと笑う夏希。
「なんだよ? おかしいか?」
「いいや。自分の下の名前、好きじゃねーっていう奴、初めてだ」
「まぁ、普通はそんな奴いねーよな。でも、オレの場合は別なだけ。親もオレがこんな風になるとは知らずに、“美夕”なんて女の子の名前つけたもんだ。どうせなら男女通用する名前が良かった」
美夕の本音に、妙に納得してしまう夏希。
「このこと、親は知ってるのか?」
「うん、知ってる。親は落ち込んでたけどな」
美夕の脳裏には、両親にカミングアウトした時のことが浮かんでいた。
「今日はこの辺にして、これからもよろしくなっ!」
夏希は右手を出した。
「こちらこそ」
今日、美夕は初めての笑顔を見せてくれた。