『平成好色五人女物語』 其の一
“――狸小路とは綽名なり。創成川の西側、南二条と南三条との間の小路をいふ。この処飲食店とて、西二丁目三丁目にて両側に軒を並べて四十余の角行灯影暗き辺り、一種異体の怪物、無尻を着る下卑体のもの、唐桟の娘、黒チリーツ紋の令嬢的のもの無慮百三、四十匹。各衣装なりに身体を拵ひ、夜な夜な真面目に白い手をスックと伸ばして北海道へ金庫でも建てようと思ひ込み且つ呑み込み、故郷を威張って遥々来た大の男子等を巧に生け捕り財布の底を叩かせる。ハテ怪有な動物かな、其の魅方狸よりも上手なれは人々斯くは『狸小路』となん呼べるなり――”
◇◆◇◆
その古書を読み終えた視線は、片肘を付いたままの体勢から目の前のケバい女に向けられていた。女はセットしたての髪を気にする様に自前の立鏡をカウンターに立て、サロン帰りの盛られたそれに掌を当て行いながら、右手でコーヒーカップを口へと運んでいた。鼻唄混じりで上方に向けられた視線の先には、店主の見定める様な視線が頭、顔、体へと順送りに向けられている。女はチクチクと刺さる様な感覚に一瞬狼狽えた。
「な、何よ……。」
瞬きと言うものを忘れてしまったのか、一層冷ややかに感じられる店主の目つきは更に沈黙を続けた。
「ちょっとお。何なのよ一体。どうせ、また何か文句でも言いたいんでしょ」
その問いに、にんまりと店主の目尻が下がった。安堵も手伝ってか外方を向きかけていた女も向き直り、店主に合わせてにんまりとなる。が、途端に店主の目力は一段と威力を増し、その女に照準を合わせたまま意識的な力で古書を閉じた。店主は無言で威圧した女に背を向け、グラスやコーヒーカップが並ぶ戸棚の隅にそれを仕舞いながら「はぁ……」と、態とらしく溜息を吐き捨てる。
鋭い眼光の引立て役となっている柳眉。後ろ姿のその線は正に柳腰。高い位置でキッチリと束ねた黒髪、程好くヤレた染み付きのエプロン。体にピタリと張り付いたTシャツに、細身ながら成熟した女の弾力を感じる。彼女の名は柳 乃枝、この店の店主である。
「なっ……。ちょっと!言っときますけどね――」
せっかく整っていたサロン帰りの盛り髪を乱しながら、乃枝の明白な振る舞いに意を唱えているのは、店主の幼なじみにして常連客その一。名を桜 八重と言う。小悪魔なんちゃら的なファッションとヘアスタイル、乃枝とは異質的な色香を醸し出すも、やはり何処から見ても堂々たるキャバ嬢である。客との待ち合わせまでまだ時間がある様で、乃枝の経営する喫茶店“美よし野”に立ち寄った。そんな処だろう。妙に解り易い身なりから察するところ、本日の同伴相手は上客ではなさそうである。 乃枝は向き直るとステンレス製の製氷機の天板に、両手の平をばんと叩き下ろした。そして、それを始点にしたままカウンターまで身を乗り出して行く。その様は八重の諸々を制するに十分な威力があり、押し迫る速度と等間隔で八重はカウンターの縁に手を当て仰け反って行く。しなやかな乃枝の左眉は角を作りググッと引き上がり始めた。この妙に息の合った二人の動きが“作用、反作用の法則”に準ずる物であるかどうかは定かではない。
八重に向けられた乃枝の人差し指が機先を制した時、木製の入口扉に備え付けられた鐘が、カランコロンと来客を告げた。
「明治初頭にも――あら、井上のおばちゃん。いらっしゃい」
店内に入るなり目を伏せたまま鼻で深く息を吸い込む辺り、余程の珈琲好きなのか、乃枝が“井上のおばちゃん”と呼ぶ、その中年の女性は、真っ直ぐとカウンター、しかも八重の隣に迷わず席を取った。
「あんた見たいなのが沢山居たんだってさ。――いつものでいい?」
カウンターに座るまでの一言二言で、それまでの経緯を察する程に井上のおばちゃんは馴染み客なのである。
「あらあら。今時期“桜狩り”?来週はもう神宮祭なのよ」
「ホント。おばちゃんからも、少し言ってやってよ」
と言いながら乃枝は、井上のおばちゃん専用マグカップにカフェオレの仕度を始める。キョトンとなっていた八重の口元が、にやりと上がった。
「世の人は我を何とも言わば言え、我が為す事は我のみぞ知る」
誇らしげに顎を上げながら、してやったりな八重であったが、少々挑む方向性に間違いがあった様である。乃枝は井上のおばちゃんにカフェオレを出しながら、八重の意気揚揚とした鼻っ柱を軽くへし折った。
「あんたに崇められてる様じゃ、竜馬も浮かばれないわね」
初夏と呼ぶには、まだ朝夕の気温差が激しい六月の初旬。ある時間帯目掛けて美よし野に集まる烏合の衆。
「ねえ、そろそろじゃない?」
八重がブランド物の腕時計を見ながら言うと、乃枝は小路に面した窓に目をやる。
「お嬢とお鈴が、まだでしょ……」




