婚約者に『お前は枯れた古井戸のようだ』と捨てられた私ですが、実家の古井戸から湧き出た霊泉が万病を癒すと判明し、今更『あの井戸の権利を譲れ』と言われても困ります〜釣瓶を降ろすのは私の心を汲み上げてくれた
「君は、枯れた古井戸みたいだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
目の前に立つ蓮見遼一は、三年間見てきたはずの婚約者だ。端正な顔立ち、完璧に整えられた髪、皺ひとつないスーツ。けれど今、その瞳に映る私は——ひどく価値のないものに見えているのだと、嫌でもわかってしまった。
「どれだけ釣瓶を降ろしても、何も汲み上げられない。一緒にいても、何も得られないんだ」
「……遼一、さん」
声が震える。いつものことだ。私はいつだって、この人の前ではまともに言葉を紡げない。
高級レストランの個室。記念日だからと呼び出されて、浮かれて、精一杯のおしゃれをしてきた自分が滑稽だった。向かいの席には、私ではない女性が座っている。
波打つ髪に完璧なメイク、首元で揺れるダイヤのネックレス。桐島彩音。製薬会社社長の令嬢で、遼一の会社の取引先でもある人。
「ごめんなさいね、深井さん」
彩音は赤いルージュを引いた唇を歪めて、まるで憐れむように私を見た。
「遼一さんには、もっとふさわしい人が必要なの。あなたじゃ……ちょっと、荷が重いでしょう?」
そうかもしれない、と思ってしまう自分が悔しい。
艶のない黒髪、化粧気のない顔、地味なワンピース。並べて見るまでもなく、私と彩音では住む世界が違う。それは、わかっていた。わかっていたはずだった。
「三年も付き合ってくれたのに、こんな言い方は酷いと思う」
遼一がため息をつく。優しげな声。三年間、私が信じてきた声だ。
「でも、これ以上続けても君が可哀想だから。実家も没落してるし、君には何も……ないだろう?」
何も、ない。
その言葉が胸の奥深くに突き刺さる。
「僕は彩音と婚約する。だから、僕たちの関係はここで終わりだ」
「……っ」
「大丈夫だよ。君みたいに地味で大人しい子なら、そのうちどこかの——」
「もう、いいです」
気づいたら、立ち上がっていた。
膝が震えている。指先が冷たい。でも、これ以上この場所にいたら、私は壊れてしまう。
「三年間、ありがとうございました」
深く頭を下げる。涙が落ちそうになるのを必死で堪えながら。
「今まで、至らないところばかりで……ご迷惑をおかけしました」
「澪、別に謝らなくても——」
「失礼します」
遼一の言葉を遮って、私は逃げるように個室を出た。
背中に、彩音の笑い声が聞こえた気がした。
「やっぱり地味な子って、つまらないわね」
「まあ、従順で文句を言わないところだけは良かったんだけどな」
——従順で、文句を言わない。
それが私の価値だったのか。
三年間、必死で尽くしてきた。遼一の好みに合わせて服を選び、遼一の機嫌を損ねないように言葉を選び、遼一のために自分を殺してきた。それでも私は、『枯れた古井戸』でしかなかったのだ。
ホテルのロビーを抜けて、夜の街に出る。
三月の風はまだ冷たくて、コートを忘れてきたことに気づいた。でも取りに戻る勇気なんてない。
人混みの中、ふらふらと歩く。どこに向かえばいいのかわからない。都会の明かりが滲んで、自分がどこにいるのかもわからなくなる。
気づいたら、駅のホームにいた。
終電まであと少し。
帰る場所を考えて——ふと、あの場所が頭に浮かんだ。
「……帰ろう」
故郷へ。
誰にも必要とされない、私を待っている場所へ。
あの古びた井戸だけが、今の私を受け入れてくれる気がした。
◇ ◇ ◇
実家に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
東京から電車を乗り継いで四時間。最寄り駅からバスに揺られて三十分。そこから歩いて十五分。
深井家は、山間の集落にひっそりと佇む旧家だ。
昔は名の知れた地主だったらしい。けれど祖父が亡くなり、両親も若くして事故で他界し、今は祖母がひとりで守っている。広すぎる屋敷は手入れが行き届かず、庭は雑草に覆われ、塀は所々崩れている。
没落した家。何も残っていない家。
遼一はそう言った。正しいのかもしれない。
「おや、澪かい」
玄関に立っていると、縁側から祖母が顔を出した。腰は曲がり、目元には深い皺が刻まれている。けれど背筋だけは凛と伸びていて、私はその姿が昔から好きだった。
「……ただいま、おばあちゃん」
「おかえり」
祖母は多くを聞かなかった。
私の顔を見れば、きっとすべてわかったのだろう。
「井戸がね、待っとったよ」
その言葉に、私は初めて涙を落とした。
荷物を部屋に置いて、庭に出る。
雑草をかき分け、苔むした石畳を辿っていく。敷地の奥、樫の木の陰に、それはあった。
古びた井戸。
石組みの井戸枠は苔に覆われ、木製の蓋は朽ちかけている。傍らの釣瓶も年季が入って、縄はところどころ擦り切れていた。
誰も使わなくなって、もう何年になるだろう。
この井戸からは、ずっと前から水が出ない。祖父が存命だった頃に枯れたと聞いている。今では誰も近づかない、忘れられた場所。
でも、私だけはずっとここに通っていた。
「ただいま」
井戸枠に手を置くと、苔の湿った感触が伝わってくる。
毎年、お盆と正月に帰省するたびに、私はこの井戸の掃除をしてきた。井戸枠の苔を落とし、周囲の雑草を抜き、蓋を拭いて、釣瓶の縄を点検する。
誰にも頼まれていない。誰にも褒められたことがない。
ただ、放っておけなかったのだ。
「……また来たよ」
井戸枠に腰かけて、空を見上げる。
曇り空。鳥の声。風が木々を揺らす音。
都会の喧騒とは無縁の、静かな場所。ここにいると、張り詰めていた心が少しだけほどける気がする。
「私ね、捨てられちゃった」
誰もいないのに、声に出して言ってみる。
井戸に向かって話しかけるなんて、おかしいと思うだろう。でも、昔からそうだった。人前では言えないことも、この井戸の前でだけは言えた。
「『枯れた古井戸みたいだ』って。何も汲み上げられない、一緒にいても何も得られないって」
言葉にすると、また涙が出てくる。
「……ひどいよね。でも、そうなのかもしれない。私、本当に何も持ってないから」
取り柄もない。華やかさもない。遼一の隣に立つには、あまりにも地味すぎた。
「あなたと一緒だね」
井戸の奥を覗き込む。暗くて何も見えない。
「誰にも必要とされない私と、誰にも使われないあなた。お似合いかもしれない」
自嘲気味に笑う。
でも、それでいいとも思った。
少なくともここには、私を『価値がない』と嗤う人はいない。
夕暮れまで、私は井戸のそばにいた。
祖母が夕食を呼びに来るまで、ただぼんやりと座っていた。
「澪」
振り返ると、祖母が縁側に立っていた。
「ご飯、できたよぅ。今日は澪の好きな煮物にしたからねぇ」
「……うん、今行く」
立ち上がりかけて、ふと井戸を振り返る。
「おばあちゃん、この井戸、本当に枯れてるの?」
「さあねぇ」
祖母は穏やかに微笑んだ。
「この井戸はね、汲む人の心を映すのよ。枯れてるかどうかは、汲んでみなきゃわからないかねぇ」
汲む人の心を映す。
不思議な言葉だった。
でも、いつか確かめてみたいと思った。
この井戸が本当に枯れているのか。
私の心と、同じなのか。
◇ ◇ ◇
帰郷から三日後の朝。
私は不思議な夢を見て目覚めた。
夢の中で、井戸の底から光が溢れていた。まばゆいほどの青白い光。それが水となって湧き上がり、私の足元を満たしていく。冷たいのに温かい、矛盾した感覚。
「……なんだったんだろ」
寝ぼけ眼で障子を開けると、朝露に濡れた庭が光っていた。
なぜだかわからないけれど、井戸に行かなければと思った。
パジャマのまま縁側を降りて、雑草をかき分ける。朝露が裸足の足を濡らす。冷たくて、目が覚める。
井戸の前に立つ。
いつもと変わらない姿。苔むした石組み、朽ちかけた蓋、古びた釣瓶。
でも、なぜか——
「……呼ばれた気がする」
馬鹿みたいだと思いながら、蓋を外す。軽い。いつもより軽く感じるのは気のせいだろうか。
井戸の中を覗き込む。
暗い。いつもと同じ暗闇——
「え……?」
奥に、何かが光っていた。
淡い、青みがかった光。夢の中で見たのと同じ光。
息を呑んで、釣瓶を手に取る。縄を握る手が震えている。
降ろす。
するすると縄が落ちていく。いつもなら途中で止まるのに、今日はどこまでも落ちていく。
ぽちゃん、と音がした。
水の音。
「う、嘘……」
慌てて縄を引き上げる。重い。明らかに水の重さがある。
釣瓶が井戸枠を超えた瞬間、朝日が差し込んだ。
そして私は、声を失った。
水が、光っている。
透明を通り越して、内側から輝いているような水。太陽光を受けて、虹色にきらめいている。
今まで見たことのない、美しい水だった。
「なに、これ……」
恐る恐る指を浸す。冷たい。でも、ただの冷たさじゃない。肌に染み込んでいくような、不思議な感覚。
手を引き上げると、水がさらさらと落ちていく。
そのとき、ふと気づいた。
昨日、庭仕事で切った指先の傷が——消えている。
「っ!?」
何度も確認する。確かにあったはずの傷。絆創膏を貼っていたのに、今は跡形もない。
「そんな、こと……」
混乱する頭で、周囲を見回す。
そこで、軒下にうずくまる小さな影に気づいた。
野良猫だ。
薄汚れた毛並み、片目は濁り、後ろ足を引きずっている。この辺りでは見かけたことのない猫。どこかから迷い込んできたのだろう。
近づくと、猫は力なく鳴いた。弱々しい声。長くは持たないと、素人目にもわかった。
——放っておけない。
釣瓶の水を掌ですくい、猫の口元に運ぶ。猫は警戒しながらも、水を舐めた。
「大丈夫、怖くないよ」
何度も何度も、水を与える。猫は貪るように飲んだ。
どれくらい時間が経っただろう。
ふと顔を上げると、猫が立ち上がっていた。
「え……?」
さっきまで引きずっていた後ろ足で、しっかりと立っている。濁っていた目は、澄んだ琥珀色に変わっている。
猫は一度だけ私を見つめて、それから軽やかに庭を駆けていった。
「待っ……」
追いかけようとして、足がもつれる。
尻もちをついた拍子に、スマートフォンが転がった。
画面には、開きっぱなしのSNSアプリ。昨日、何気なく撮った井戸の写真。
投稿しようとして、やめていたものだ。
——でも、これは。
「誰かに、伝えたい」
この水のことを。この不思議な出来事を。
震える指で文章を打つ。
『実家の古井戸から、不思議な水が湧きました。怪我をした野良猫に飲ませたら、すっかり元気になって。なんだかすごく綺麗な水なんです』
写真を添付して、投稿ボタンを押す。
たぶん、誰の目にも留まらない。私のフォロワーは五十人もいないのだから。
そう思っていた。
でも、このとき私はまだ知らなかった。
この何気ない投稿が、私の人生を大きく変えることになるなんて。
◇ ◇ ◇
投稿から一週間後。
「——深井澪さんの、お宅ですか」
玄関に立っていたのは、見知らぬ男性だった。
無造作な黒髪に銀縁眼鏡。白いシャツにカーキのカーゴパンツ。背負った大きなリュックには、見慣れない機材がいくつも取り付けられている。
整った顔立ちなのに、表情の変化が乏しい。感情が読めない目で、まっすぐに私を見ていた。
「は、はい……どちら様ですか」
「水上蒼真です。地質学者をしています」
名刺を差し出される。見ると、某国立大学の研究員の肩書きがあった。
「SNSの投稿を見ました。井戸から湧いた水について、調査させていただけないでしょうか」
「あ……あの投稿、ですか」
正直、驚いた。
あれから一週間、私のスマートフォンは通知が鳴り止まなかった。いいねやリツイートが千を超え、コメント欄は『嘘だ』『加工だ』『場所を教えろ』という言葉で溢れた。怖くなって、SNSを開けなくなっていた。
けれどこの人は、そういう野次馬とは違う雰囲気を持っていた。
「……上がってください」
祖母に目配せすると、祖母は静かに頷いた。
居間で向かい合う。祖母が淹れてくれたお茶を、水上さんは一口も飲まずに話し始めた。
「結論から言います。あなたの投稿した水の映像を分析しましたが、加工の痕跡はありませんでした」
「そう、ですか……」
「あの光り方は、特殊な鉱物成分を含んだ地下水に見られる現象です。ただし、あれほど顕著な発光は——正直、見たことがありません」
水上さんの声は淡々としている。けれど、瞳の奥に熱があった。
「調査させてください。もし本物なら、学術的に非常に重要な発見になります」
「あの……私としては構わないんですけど」
言いかけて、言葉に詰まる。
本当に良いのだろうか。見知らぬ人に、あの井戸を触らせて。
あの井戸は——私にとって、特別な場所なのだ。
「不安ですか」
心を読まれたような声に、顔を上げる。水上さんの表情は変わらない。けれど、視線が少しだけ柔らかくなっていた。
「当然です。大切なものを、よく知らない人間に預けるのは」
「……大切なもの、ってわかるんですか」
「わかります」
水上さんは迷いなく言った。
「あなたの投稿には、井戸の写真が何枚かありました。どれも手入れが行き届いている。苔は適度に残しながら、石組みの隙間は丁寧に掃除されている。縄も定期的に点検している跡がある」
「見ただけで、わかるんですか……」
「専門家ですから」
初めて、水上さんの口元がわずかに緩んだ。笑顔、というには硬いけれど。
「あの井戸を大切にしている人がいる。だから調査を申し出ました。乱暴に扱われるくらいなら、僕が先に」
言いかけて、水上さんは口をつぐんだ。何か言い過ぎた、というように視線を逸らす。
「——とにかく、調査させてください。結果は全てお伝えします。所有権がどうとか、そういう話にはしません。純粋に、学術的な興味です」
純粋に。
その言葉が、なぜか胸に響いた。
遼一は私に、純粋な興味を向けたことがあっただろうか。いつも値踏みするような視線だった。私の価値を測り、使い道を考える目。
この人は、違う気がした。
「……わかりました」
自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。
「調査、お願いします」
こうして、水上蒼真という人が、私の日常に入り込んできた。
このとき私はまだ知らなかった。
彼が、私の人生を——いや、私自身を変えてくれる人だと。
◇ ◇ ◇
調査は三日間に及んだ。
水上さんは井戸の周囲にセンサーを設置し、水を採取し、地層のサンプルを集めた。私は邪魔にならないよう遠くから見ていたけれど、彼の手つきは驚くほど丁寧だった。
まるで、壊れ物を扱うように。
「結果が出ました」
四日目の朝、水上さんは私と祖母を前に、淡々と報告を始めた。
「まず、水質について。この水には、非常に特殊な鉱物成分が含まれています。詳しい説明は省きますが——簡単に言えば、細胞の再生を促進する効果があります」
「再生……?」
「傷の治りが早くなる。病気の進行を遅らせる。場合によっては、症状を改善させることも可能かもしれません」
祖母が小さく息を呑んだ。
「万病を癒す、っていうことかい」
「誇張ではなく、そう言えるかもしれません」
水上さんの声は相変わらず感情を抑えている。けれど、握られた拳がわずかに震えていた。
興奮しているのだ、と気づいた。
「この水は、地下深くの特殊な鉱脈を通って湧き上がっています。鉱脈の形成には数万年、いや、それ以上かかったかもしれない。地質学的に見ても、奇跡としか言いようがない」
「奇跡……」
「ですが」
水上さんは私をまっすぐに見た。
「もう一つ、奇跡があります」
「え……?」
「この井戸が、枯れなかったこと」
意味がわからず、首を傾げる。水上さんは説明を続けた。
「同様の条件を持つ井戸は、過去にも存在した記録があります。けれどそのほとんどは、数十年以内に枯れています。地下水脈は繊細で、少しの環境変化でバランスが崩れる。井戸枠が劣化すれば異物が混入し、水脈が詰まる」
「でも、この井戸は……」
「枯れていない。それどころか、今になって霊泉が湧き始めた」
水上さんはテーブルの上に、何枚かの写真を広げた。
井戸枠の拡大写真。苔の分布図。縄の繊維分析。
「この井戸は、二十年以上にわたって適切な手入れを受けています。苔は除去しすぎず、石組みの隙間は清潔に保たれている。井戸の周囲の微生物環境も、非常に良好なバランスを維持している」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。心臓が早鳴っている。
「深井さん」
水上さんの声が、ほんの少し柔らかくなった。
「この井戸が枯れなかったのは、あなたのおかげです」
「私の……」
「あなたが守り続けたから、この井戸は枯れなかった。霊泉が湧いたのは、偶然じゃない。長年の手入れが、地下水脈に最適な環境を整えた。あなたの——」
水上さんは一度言葉を切り、ゆっくりと続けた。
「あなたの『守り続ける意志』が、奇跡を起こしたんです」
頭が真っ白になった。
守り続ける意志。
私が、奇跡を?
「う、嘘です。私は、ただ……」
「ただ、好きだったから手入れしていた?」
「……はい」
「それが一番難しいんです」
水上さんは眼鏡を押し上げた。
「誰にも褒められない、誰にも認められない。それでも続ける。二十年以上も。——僕には、到底できません」
涙が溢れそうになる。
誰かに認められたのは、いつぶりだろう。
遼一は私を『枯れた古井戸』と言った。何も汲み上げられない、価値のない存在だと。
でも、この人は違うことを言ってくれた。
「深井さん」
水上さんの声が、やけに近くに聞こえる。
「あなたは、枯れてなんかいません」
その言葉が、干からびた心に染み込んでいく。
釣瓶を降ろされたみたいに。
「——ありがとう、ございます」
声が震えた。涙が頬を伝った。
恥ずかしいはずなのに、隠す気になれなかった。
水上さんは何も言わず、ただ静かに私を見ていた。
その視線が、不思議と心地よかった。
◇ ◇ ◇
噂は、あっという間に広がった。
水上さんが学会に論文を発表すると、テレビや新聞が押し寄せた。『奇跡の霊泉』『万病を癒す水』——大げさな見出しが躍り、私の元には連日、見知らぬ人間がやってきた。
製薬会社の名刺。投資ファンドの名刺。政治家の秘書。
誰もが同じことを言った。
『この井戸の権利を、譲ってくれませんか』
断っても断っても、彼らは引き下がらなかった。金額を上げ、条件を変え、時には脅しめいた言葉さえ投げてきた。
そして——あの日がやってきた。
「久しぶりだね、澪」
玄関に立っていたのは、蓮見遼一だった。
半年ぶりに見る顔。相変わらず端正で、相変わらず完璧に整えられている。その隣には、桐島彩音の姿もあった。
「……何の、ご用ですか」
声が掠れる。心臓が嫌な音を立てている。
「そんなに警戒しないでよ。今日は、いい話を持ってきたんだ」
遼一は爽やかに笑った。三年間、私が信じてきた笑顔。
「君の井戸のこと、ニュースで見たよ。すごいじゃないか。僕も驚いたよ」
「……それが、何か」
「だからさ」
遼一は一歩踏み込んできた。
「僕たちの婚約を、復活させないか」
息が止まった。
「復活……?」
「そう。僕と君が一緒になれば、井戸の管理も安心だろう? 僕なら、君を守ってあげられる」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。
この人は——私を捨てた人だ。『枯れた古井戸』と言い捨てて、別の女性を選んだ人だ。
それなのに。
「あなたにはわからないのよ、深井さん」
彩音が口を挟んだ。半年前と変わらない、見下した目。
「あの井戸の価値、田舎娘のあなたには管理できないわ。製薬会社や投資家に食い物にされるのがオチよ。遼一さんのような人が傍にいないと」
「彩音の言う通りだよ、澪」
遼一は優しげに——いや、優しげに見せかけた声で続けた。
「僕に任せてくれれば、全部うまくいく。君は何も考えなくていい。昔みたいに、僕の言う通りにしてくれればいいんだ」
昔みたいに。
その言葉で、目が覚めた。
——ああ、そうだ。この人はいつもこうだった。
私の意見なんて聞かない。私の気持ちなんて考えない。ただ、自分の思い通りに動く私が欲しいだけ。
「お断りします」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「……は?」
遼一の顔が歪む。彩音も目を丸くしている。
「婚約を復活させる気は、ありません」
「待てよ、澪。何を——」
「あなたは私を、『枯れた古井戸』と言いました」
声が震えそうになるのを、必死で堪える。
「何も汲み上げられない、一緒にいても何も得られないと。——覚えていますか」
「それは……その時は、そう思っただけで」
「今は違うと?」
遼一は言葉に詰まった。
「井戸から霊泉が湧いたから、私に価値が出たと。そういうことですか」
「違う、そうじゃなくて——」
「何が違うんですか」
背筋を伸ばす。祖母がいつもそうしているように。
「あなたは私を見ていなかった。私自身じゃなくて、私の『使い道』しか見ていなかった。——今もそうです」
「澪……」
「お帰りください」
遼一の顔が、見たことのないほど歪んだ。
「ふざけるな! お前に他に何があるんだ! あの井戸を失ったら、お前なんて——」
「おい」
低い声が割って入った。
振り返ると、庭から水上さんが歩いてくるところだった。
「調査の続きに来ました。——お取り込み中でしたか」
水上さんは遼一と彩音を一瞥し、それから私を見た。
「大丈夫ですか」
たったそれだけの言葉。
でも、その声には確かな温もりがあった。
「……はい。大丈夫です」
遼一は憎々しげに水上さんを睨んだ。
「何だよ、お前。関係ない奴は引っ込んでろ」
「関係はあります」
水上さんは淡々と言った。
「この井戸の調査担当者です。所有者の許可なく敷地に立ち入る人間がいれば、報告義務があります」
「な……っ」
「お帰りください。でなければ、然るべき対応を取ります」
遼一は何か言いかけたが、彩音が袖を引いた。
「行きましょう、遼一さん。こんな田舎者相手に、時間の無駄よ」
「……覚えてろ」
捨て台詞を残して、二人は去っていった。
車のエンジン音が遠ざかると、私はその場に座り込んだ。
「すみません……お見苦しいところを」
「謝ることじゃありません」
水上さんは私の隣にしゃがみ込んだ。
「よく言い返しましたね」
「……怖かったです。でも、もう黙っていたくなかった」
「それでいいんです」
水上さんは珍しく、柔らかな声で言った。
「あなたは、ちゃんと自分の言葉を持っている」
その言葉が、また少し、私の中に染み込んでいった。
◇ ◇ ◇
その夜、私は眠れなかった。
布団の中で、過去が次々と蘇ってくる。遼一と過ごした三年間。あの頃の私は——本当に、何も見えていなかった。
出会いは、会社の取引先が主催したパーティーだった。
私は受付の手伝いで呼ばれていただけ。華やかなドレスを着た女性たちの中で、地味なスーツの私は完全に浮いていた。
「君、一人?」
声をかけてきたのが遼一だった。
「え、あ、はい……私は、その、お手伝いで」
「へえ。真面目なんだね」
にっこり笑われて、心臓が跳ねた。こんな人が、私に話しかけてくるなんて。
「今度、お茶でもどう?」
断る理由が見つからなかった。というより、断れるはずがなかった。
私なんかに、こんな人が。信じられなかった。
交際が始まってから、遼一の「好み」に合わせることが日常になった。
「その服、ちょっと地味すぎない?」
だから派手めの服を買った。似合わないと思いながら。
「もう少し、愛想よくできない?」
だから無理に笑顔を作った。頬が引きつるまで。
「僕の友達の前では、あんまり喋らないで」
だから黙っていた。空気のように。
遼一の機嫌を損ねないように。遼一に嫌われないように。
自分を殺すことが、当たり前になっていった。
婚約が決まった日のことを、よく覚えている。
遼一の実家で、両家の顔合わせ。私の家が没落した旧家だと知った遼一の母親は、あからさまに顔をしかめた。
「まあ……田舎の、お家なのね」
遼一は私をかばわなかった。
「でも、土地だけは広いみたいですよ。将来、何かに使えるかもしれません」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
三年間、私は遼一の「都合のいい女」だった。
文句を言わない。逆らわない。いつでも遼一を優先する。
それが愛だと思っていた。尽くすことが愛だと信じていた。
でも、違った。
遼一は私を愛していなかった。ただ、都合がよかっただけ。
そして都合が悪くなった瞬間——私は捨てられた。
思い返すと、帰省して井戸の前にいる時間だけが、唯一の安らぎだった。
遼一の顔色を窺わなくていい。誰にも気を遣わなくていい。
釣瓶を握って、そっと井戸を覗き込む。暗い奥底に、自分の顔がぼんやりと映る。
「……大丈夫だよ」
井戸に向かって呟く。
「私がいるから。ちゃんと、守るから」
誰にも言えない本音を、井戸だけには話せた。
あの頃の私を支えていたのは、遼一じゃなかった。
この井戸だったのだ。
朝になって、ようやく眠気がやってきた。
瞼を閉じる寸前、ふと思う。
——私は、枯れてなんかいなかった。
遼一が釣瓶を降ろさなかっただけ。私の中にあるものを、汲み上げようとしなかっただけ。
そう思えるようになったのは、水上さんのおかげだ。
彼だけが——私の価値を、見てくれた。
意識が沈んでいく直前、水上さんの言葉が脳裏に蘇った。
『あなたが守り続けたから、この井戸は枯れなかった』
守り続ける意志。
それが私の価値なら——もう少しだけ、自分を信じてみてもいいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
調査は続いていた。
水上さんは毎日のようにやってきて、井戸の周辺でサンプルを採取し、データを記録している。私も手伝えることがあればと思って、傍で見ていることが多くなった。
その日は珍しく、雨だった。
縁側で雨宿りしながら、二人でお茶を飲む。祖母は「若い人の邪魔はせんよ」と言って、早々に奥へ引っ込んでしまった。
「水上さんは、どうして地質学者に?」
何気なく聞いた質問に、水上さんは少し間を置いて答えた。
「……井戸が、好きだったんです」
「井戸?」
「祖父の家に、古い井戸があって。子供の頃、よく覗き込んでいました。暗い底に、何があるんだろうって」
水上さんの声は、いつもより柔らかかった。過去を語るときの、懐かしむような響き。
「地下には、まだ誰も知らない世界がある。それを調べたくて、この道に進みました」
「素敵ですね、そういうの」
「……素敵、ですか」
水上さんは眼鏡を押し上げた。
「周りからは、変わり者だと言われましたけどね」
「そんなこと——」
「いいんです。事実ですから」
自嘲するような、でもどこか諦めたような声。
私は黙ってお茶を啜った。もう少し話してくれる気がしたから。
「……僕も、一度だけ『価値を奪われた』ことがあります」
予想外の言葉に、顔を上げる。
「大学院生の頃です。三年かけて研究した成果を、指導教官に横取りされました」
「横取り……?」
「論文の筆頭著者を、自分の名前に変えられました。僕は名前すら載っていなかった」
淡々とした声。でも、握られた湯呑みが微かに震えている。
「抗議しましたが、無駄でした。『君の実力では、どうせ認められない』と。『僕の名前で発表した方が、研究のためになる』と」
ひどい話だと思った。でも、どこか聞き覚えのある理屈でもあった。
——君には価値がない。僕に任せた方がいい。
遼一と、同じだ。
「その研究は、教官の代表作として評価されています。僕は何年も、その事実を飲み込めなかった」
「……今は?」
「今は」
水上さんは雨に煙る庭を見つめた。
「自分で、価値を証明しようと思っています。誰にも奪われない形で」
だから、正当に評価されない苦しみを知っている。
だから、私の井戸を——私自身を、正しく見ようとしてくれる。
「深井さん」
水上さんが、まっすぐに私を見た。
「価値を見出す目と、守り続ける意志。それが本当の所有者の資格だと、僕は思います」
「所有者の……資格」
「あなたには、それがある。誰に何を言われても、忘れないでください」
雨音が、やけに大きく聞こえた。
この人は、私と同じ痛みを知っている。だから、私の言葉が届く。私の気持ちがわかる。
「水上さんも」
気づいたら、言葉が出ていた。
「水上さんの研究も、いつかちゃんと評価されます。だって、こんなにも——誠実だから」
言ってしまってから、恥ずかしくなる。何を偉そうに。私なんかが。
でも水上さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ありがとうございます」
初めて見る表情だった。
不器用で、ぎこちなくて——でも、確かな笑顔。
胸が温かくなる。
雨はまだ降り続いている。でも、心はなぜか晴れていた。
◇ ◇ ◇
異変に気づいたのは、数日後のことだった。
「澪ちゃん、大丈夫!?」
親友の楓から、慌てた様子で電話がかかってきた。
「え、何が?」
「何がって……SNS見てないの!?」
嫌な予感がして、スマートフォンを開く。
私のアカウントには、怒りのコメントが殺到していた。
『詐欺師』『インチキ霊泉』『借金まみれのくせに』——
何が起きているのか、わからない。震える手でコメントを遡る。
そして、見つけた。
拡散されている記事。ゴシップサイトの、悪意に満ちた見出し。
『奇跡の霊泉の正体は詐欺!? 実家は借金まみれ、土地を売り逃げ狙いか』
「な……っ」
記事を読み進める。
——深井家には多額の借金がある。
——霊泉の効能は科学的に証明されていない。
——土地の高額売却を狙った詐欺の可能性。
嘘だ。嘘のはずだ。
でも、借金のことは——
「おばあちゃん……」
祖母の部屋に駆け込む。祖母は仏壇の前で、静かに正座していた。
「知ってたのかい」
「おばあちゃん、借金って本当なの?」
「……本当だよぅ」
祖母の声は、いつも通り穏やかだった。
「じいさんが亡くなった時、病院代やなんやで。大した額じゃないんだけど、この家と土地を担保にしててねぇ」
「そんな……知らなかった」
「心配かけたくなかったんだよ。でも、誰かが調べたんだねぇ」
誰が。
考えなくても、わかった。
——遼一だ。
スマートフォンが鳴る。見知らぬ番号。出ると、慇懃な声が聞こえてきた。
『深井澪様でいらっしゃいますか。神崎製薬の神崎と申します』
大手製薬会社の名前だった。
『お宅の借金の件、私どもで引き受けさせていただきました。つきましては、土地と井戸の権利について、ご相談させていただきたく——』
頭が真っ白になる。
借金を、製薬会社が買い取った? それはつまり——
『近日中に、蓮見様がお伺いすると思います。くれぐれも、穏便にお願いしますね』
電話が切れた。
蓮見。遼一。
全部、繋がった。
遼一は彩音の実家——製薬会社と組んで、借金を盾に土地ごと井戸を奪おうとしている。
ゴシップ記事で私の評判を落とし、誰も味方がいない状況を作ってから、追い詰める。
計画的だ。最初から、そのつもりだったのだ。
「……ひどい」
声が震える。涙が溢れそうになる。
また、奪われる。また、価値がないと言われる。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「深井さん」
水上さんの声だった。
駆け寄って戸を開けると、水上さんは濡れたレインコートを脱ぎながら言った。
「記事のこと、見ました。それで——」
水上さんは、いつもと同じ無表情だった。でも、目だけが熱を持っていた。
「調べさせてください。深井家の記録を。過去の文献を」
「記録……?」
「この井戸には、まだ隠された真実があるはずです。僕に、調べさせてください」
その言葉に、私は縋るように頷いた。
「お願いします。水上さん」
水上さんは一つ頷くと、すぐに蔵の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は祈った。
お願い。
この井戸を、守らせて。
◇ ◇ ◇
三日三晩、水上さんは蔵にこもっていた。
私も手伝える範囲で古い文書を整理したけれど、崩し字が読めず役に立てなかった。それでも水上さんは「いてくれるだけで十分です」と言ってくれた。
四日目の朝。
「見つけました」
水上さんの声に、飛び起きて蔵へ走った。
埃まみれの部屋の中、水上さんは古びた巻物を広げていた。
「これは……江戸時代中期の文書です。深井家に代々伝わる、井戸についての記録」
「井戸の?」
「ええ」
水上さんは巻物を指差しながら説明を始めた。
「この井戸は、元々は普通の井戸でした。ところがある時期から、特別な水が湧くようになった。記録によれば——『守り手の血筋の者が、心を込めて世話をする時にのみ、霊泉は湧く』」
「守り手の……血筋」
「深井家の当主、あるいはその血縁者だけが、この井戸の霊泉を湧かせることができる。他の者が所有しても、水は枯れる——そう書いてあります」
信じられない話だった。でも、水上さんは続けた。
「科学的な裏付けも取れました」
タブレットを開いて、データを見せてくれる。
「この井戸の周囲には、特殊な微生物群集が存在しています。この微生物群が、霊泉の効能を生み出す鍵なんです」
「微生物……」
「そして、この微生物群は非常に繊細なバランスで成り立っている。少しでも環境が変われば、すぐに死滅する」
水上さんは私を見た。
「あなたの手入れの仕方が、偶然にも——いや、必然かもしれませんが——この微生物群に最適だったんです。苔の残し方、清掃の頻度、縄の交換タイミング。全てが、奇跡的にバランスを保っていた」
「私の……手入れが?」
「あなた以外が井戸を管理すれば、高確率でこのバランスは崩れます。つまり——」
水上さんは、はっきりと言った。
「この井戸は、深井澪さん以外には、何の価値もありません」
言葉を失った。
私がいないと、井戸は枯れる。私だけが、霊泉を守れる。
「蓮見氏や製薬会社が井戸を奪っても、意味がない。あなたがいなければ、ただの古井戸に戻るだけです」
「……本当、ですか」
「科学的事実です」
水上さんの声は、いつも通り淡々としていた。
でも、次の言葉には熱がこもっていた。
「あなたは、かけがえのない存在なんです。この井戸にとっても——」
一瞬、水上さんは言葉を切った。
「——僕にとっても」
その言葉の意味を考える前に、祖母の声が響いた。
「澪、お客さんだよぅ」
蔵を出ると、玄関に黒塗りの車が停まっていた。
蓮見遼一と、製薬会社の重役らしき男。
決戦の時が来た。
◇ ◇ ◇
場所は、町役場の会議室だった。
製薬会社側の要請で、『井戸の権利譲渡に関する協議』という名目の会合が設けられた。実質的には、私に諦めさせるための圧力の場だ。
長いテーブルの向こう側には、神崎製薬の専務・神崎誠一郎。その隣に蓮見遼一。そして桐島彩音。
私の隣には、水上さんがいてくれた。
「深井さん、お若いのに大変ですねぇ」
神崎専務は慇懃無礼に笑った。銀髪をオールバックに撫でつけた、威圧的な男だ。
「借金のこと、ご存知ですか? このままでは、土地を競売にかけざるを得ません。我々が引き受けてあげているんですよ」
「……はい、存じています」
声が震えそうになるのを、必死で堪える。
「であれば話は早い。井戸の権利を譲渡していただければ、借金は帳消しにしましょう。悪い話ではないでしょう?」
遼一がにやりと笑う。
「そうだよ、澪。僕が間に入ってあげるから。昔みたいに、任せてくれればいいんだ」
昔みたいに。
その言葉が、逆に私の背筋を伸ばしてくれた。
「お断りします」
「……は?」
遼一の顔が歪む。神崎専務は眉を顰めた。
「お嬢さん、状況をわかっていますか。借金が返せなければ——」
「あの井戸は、私以外が所有しても意味がありません」
私の言葉を継いで、水上さんが立ち上がった。
「失礼。説明させていただきます」
水上さんはプロジェクターを起動し、スクリーンにデータを映し出した。
「この井戸から湧く霊泉の効能は、井戸周辺に存在する特殊な微生物群集によって生み出されています。この微生物群は非常に繊細で、環境変化に極めて弱い」
グラフや数値が次々と映し出される。
「過去二十年以上にわたり、深井澪さんが行ってきた手入れの方法だけが、この微生物群を維持できる条件を満たしています。彼女以外が管理した場合、高確率で微生物群は死滅し、霊泉は枯れます」
会議室がざわついた。
「な、何を馬鹿な——」
「科学的事実です」
水上さんは淡々と続けた。
「さらに、江戸時代からの文献にも同様の記録があります。『守り手の血筋の者が心を込めて世話をする時にのみ、霊泉は湧く』。オカルトではありません。代々の深井家当主が、経験則としてこの事実を知っていたということです」
遼一の顔が青ざめていく。
「つまり」
水上さんは遼一を見据えた。
「あなたがこの井戸を奪っても、何の価値もありません。深井澪さん以外には、ただの古井戸でしかない」
「そんな……嘘だ!」
遼一が立ち上がる。でも、会議室の空気はすでに変わっていた。
神崎専務は苦々しい顔で遼一を見た。
「蓮見くん、これは聞いていないぞ」
「いや、これは……こいつらが仕組んだんです! インチキだ!」
「データは全て公開します」水上さんは冷静に言った。「追試も歓迎します。科学的に反証できるなら、どうぞ」
遼一は口をぱくぱくさせるだけで、何も言い返せなかった。
彩音が立ち上がる。
「信じられない……こんなことのために、私は——」
軽蔑の目で遼一を見下ろす。
「あなたって、本当につまらない男ね。実力もないのに、人の手柄を横取りしようとして。もう、うんざり」
「あ、彩音——」
「さよなら、蓮見くん」
彩音はそう言い捨てて、会議室を出ていった。
神崎専務もため息をついて立ち上がる。
「話が違う。我々も騙されていたようだ。借金の件は、改めて相談しよう」
一人残された遼一は、呆然と立ち尽くしていた。
「……どうして」
その呟きに、私は答えなかった。
答える必要がなかった。
◇ ◇ ◇
会合が終わり、人々が去っていく。
会議室には、私と水上さん、そして——遼一だけが残った。
「澪」
遼一が近づいてくる。さっきまでの自信満々な態度はどこにもない。顔は青ざめ、目は血走っている。
「待ってくれ。僕が悪かった。謝る。だから——」
「何を謝るんですか」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「『枯れた古井戸みたいだ』と言ったこと? それとも、借金を使って私を追い詰めようとしたこと?」
「それは……」
「どちらにしても、謝られても困ります」
遼一は縋るような目で私を見た。
「君がいなければ意味がないんだ。わかっただろう? 僕には、君が必要なんだ」
必要。
その言葉に、もう何も感じなかった。
三年前の私なら、喜んだかもしれない。必要とされている。価値を認められている。それだけで満たされたかもしれない。
でも、今は違う。
「遼一さん」
名前を呼ぶと、遼一は一瞬期待するような顔をした。それが、なぜか哀れだった。
「あなたは三年間、私を見ていませんでした」
「そんなことは——」
「見ていたのは、『都合のいい私』だけ。文句を言わない、逆らわない、いつでも言いなりになる女」
声が震えそうになる。でも、最後まで言わなければ。
「あなたは私を『枯れた古井戸』と言いました。何も汲み上げられない、価値がないと」
「それは、あの時は——」
「でも私は、枯れてなんかいなかった」
遼一の言葉を遮る。
「あなたが、釣瓶を降ろさなかっただけです」
遼一の顔が凍りついた。
「私の中には、ずっと水があった。でもあなたは、それを汲み上げようとしなかった。私の価値を見ようとしなかった。——それだけのことです」
「澪……」
「もう、終わりにしましょう」
深く息を吸って、吐く。
「三年間、ありがとうございました。もう、お会いすることはないと思います」
遼一は何か言いかけた。でも、言葉にならなかった。
崩れるようにその場に膝をつく遼一を、私は見下ろした。
可哀想だとは思わなかった。
ただ、ようやく終わったのだと思った。
「行きましょう」
水上さんの声に頷いて、私は会議室を出た。
振り返らなかった。
もう、振り返る必要はなかった。
外に出ると、空は晴れていた。
「……言えました」
「ええ」
「ずっと、言いたかったんです。でも、言えなくて」
「今日、言えた」
水上さんは、相変わらず表情の乏しい顔で私を見た。
「それで、いいんです」
不器用な優しさが、胸に染みた。
涙が溢れそうになる。でも今度は、悲しみの涙じゃない。
「帰りましょう」
水上さんが、そっと私の隣を歩き出す。
少しだけ、肩が触れた。
それだけで、心が温かくなった。
◇ ◇ ◇
あれから、三ヶ月が経った。
借金は、水上さんの紹介で知り合った地方創生の専門家のアドバイスを受けて、クラウドファンディングで返済の目処がついた。霊泉に興味を持った全国の人々が、小さな支援を積み重ねてくれたのだ。
井戸は、地域の共有財産として開放することにした。
私が管理しながら、必要な人に霊泉を分け与える。それが、一番いい形だと思った。
祖母は「あんたなら、そうすると思っとった」と涙ぐんで笑った。
遼一がどうなったかは、知らない。知る必要もない。
彩音は別の男性と婚約したと、楓がSNSで見つけて教えてくれた。相変わらずだな、と思っただけだった。
そして今日——
早朝の庭を歩く。
苔むした石畳、朝露に濡れた雑草、そして——古井戸。
傍らに、水上さんがいた。
「調査は、今日で終わりです」
水上さんは、いつもと同じ無表情で言った。
「論文もまとまりました。これで——」
「もう、来ないんですか」
思わず言葉が出た。言ってしまってから、恥ずかしくなる。
水上さんは、少し黙った。
「……来たいです」
「え?」
「でも、調査という名目がないと、来る理由がない」
「別に、名目なんてなくても——」
「じゃあ」
水上さんが、まっすぐに私を見た。
初めて見る表情だった。緊張と、決意と、それから——熱。
「俺は、君の心からも何かを汲み上げていいか」
息が止まった。
不器用で、ぎこちない言葉。でも、その言葉には、誰よりも誠実な想いが込められていた。
頬が熱くなる。目頭が熱くなる。
遼一は、私の心に釣瓶を降ろそうとしなかった。
でも、この人は——
「……釣瓶、降ろしてみたら?」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
水上さんの目が見開かれる。そして——
初めて、ちゃんと笑った。
不器用で、ぎこちなくて、でも確かに嬉しそうな笑顔。
「……ありがとう」
二人で、井戸を覗き込む。
朝日を受けて、水面がきらきらと輝いていた。
これからどうなるかは、まだわからない。
でも、この人となら。
釣瓶を一緒に降ろしてくれる人となら、きっと大丈夫だと思えた。
「ねえ、水上さん」
「……蒼真、でいい」
「じゃあ、蒼真さん」
名前を呼ぶと、水上さん——蒼真さんの耳が赤くなった。
可愛い人だな、と思った。
「私も、あなたの心から何か汲み上げていい?」
「……好きなだけ」
照れたように視線を逸らす蒼真さんの横顔を、じっと見つめる。
井戸の水が、朝日を受けてさらに輝きを増した。
まるで、祝福しているみたいに。
私は、枯れた古井戸なんかじゃなかった。
ただ、釣瓶を降ろしてくれる人に出会えていなかっただけ。
でも今は——
隣を見る。蒼真さんが、照れくさそうに私を見返す。
今は、ここにいる。
私の心を汲み上げてくれる人が、ここにいる。
それだけで、十分だった。
私は静かに微笑んで、蒼真さんの手に自分の手を重ねた。
釣瓶を握る手は、二人分。
これからは、ずっと。
◇ ◇ ◇
——釣瓶を降ろすのは、私の心を汲み上げてくれた人だけ。
これが、私の出した答え。
【了】




