幸せになっていいと教えてくれたのは、婚約者じゃなく第二王子でした
「……しあわせ」
レティシアはケーキを頬張る。
禁断のレアチーズケーキ。
ずっと我慢していた。我慢させられていた。でも、もう、あんな堅物男とはさよなら。
レティシア・ローウェルは、つい一刻前、王太子に婚約破棄された“悪女”だ。
「君とはやっていけない。節制のできない君は、模範となるべき国母に相応しくない」
その一言によって。
まあ、仕方ないかな、とは思う。だって最近のレティシアは節制が苦手なことを隠していなかったから。
「……耐えられませんわ」
禁欲。禁欲。禁欲。
何のために自分が生きているのか分からなかった。
でも、もう、我慢しなくていい。
「……未来は不安なのに、ケーキは美味しい。罪深すぎますわ……」
それを、見られているとも知らずに。
「美味しそうに食べるね」
彼はふっと笑った。
「ーー罪深いのは、ケーキではなくて、君をこんな顔にした男じゃない?……泣いたんだろう?」
すっとハンカチを差し出され、一気に恥ずかしくなる。エドガー・ランカスター。婚約破棄した王太子の弟。第二王子だ。
「……ど、どうして殿下がここに?」
「たまたまだよ。偶然通りかかったんだ」
目を細める。
「……随分、幸せそうに食べているから、声をかけずにいられなかった」
レティシアの頬が赤く染まる。
私、そんな顔を?
「婚約……破棄の直後ですのに。私もっと沈んでいないとおかしいですわね。だから……婚約破棄されたのでしょうけれど」
「沈んでいないのは、君が正しかったからだろう。性格の不一致ってやつだよ。兄の隣にいる君は、いつも息苦しそうだった。……助けてあげたいな、と思うくらいにはね」
「息を殺して生き続ける必要はない」
「……これ口説いてるって言ったら笑う?君の幸せな顔、もっと見たいと思ったんだけど」
レティシアの手の中のフォークが、小さく揺れる。
「驚かせちゃった? でも、割と本気」
エドガーはそう言い切ると、慈しむように笑った。普段この人は、国の暗部を取り仕切ってる。そんな冷たさとは無縁の微笑み。
強引さはなくて、ただ真っ直ぐで、逃げ場がない優しい笑顔。
「……そんな風に言われたら、悪女になってしまいますわ」
「節制なんてしなくていいよ。君が我慢してたのはよく知ってる。君の大事なものを君から奪う権利なんて、誰にもない」
軽やかな風が吹き、レティシアの髪を揺らす。エドガーはその揺れを追うように、そっと近づいた。
「レティシア、君は自分が思うより、ずっと魅力的な女の子だよ」
「傷ついた君を助けられたら、僕のモテない履歴更新が終わる。そう思わない?」
なんでもない風に言われて、レティシアの胸がきゅっと甘く高鳴った。エドガーはモテないのではない。むしろ逆だ。ただ誰にも近づこうとしてなかったのだ。それが今レティシアのそばに舞い降りている。
エドガーの声があたたかくて、じんわりと心の奥に落ちていく。
「涙の痕……」
彼がそっと触れようとして、ためらい、指先を止めた。
「触れたら……泣かせた男と同じになりそうで、少しこわいな」
それがレティシアの心を強く揺らした。
そんなことを思う人なんだ。
優しい。温度のある優しさだ。
胸が締め付けられ、傷ついた心が息を吹き返す。この人を、信じてみても、いいのだろうか。
「殿下は、お優しいのですね」
「優しくしてるつもりはないよ……でもね」
「守りたくなるくらい可愛いと思った。……ケーキを美味しそうに食べる君がね」
レティシアは言葉を失う。
何か言おうにも、言葉にならない。
「不安? 言われ慣れてないなら、慣れさせてあげる」
「レティシア、また話そうね」
王都の穏やかな昼下がり、陽に照らされて緩やかな人々の日常がある。レティシアは小さな紙袋を抱えて、そっと歩調を緩める。胸に抱えた紅茶の葉は幸福の証。
「……平和、ですわね」
視線を巡らせた時、遠く、人の波の向こうに、背筋の伸びた見慣れた後ろ姿が見えた。
アルベルト・ランカスター。
かつての婚約者。王太子。
その瞬間、胸の奥が一瞬だけ強張る。気にしないようにしていたはずの、愛そうとした過去。
「まだ…平気じゃないのね」
ぽつりと一言。足を止めようとして、けれど止めたら負ける気がして。もう逃げる理由も、縛られる必要もない。あの人との時間は終わったわ。
けれど。
レティシアの肩がほんの少し震える。そのわずかな変化を。
「レティシア?」
ーーふわりと気配に気づく人がいた。
エドガーは通りの向こうから迷いなくこちらへ歩み寄ってきた。
「……また泣きそうな顔してる」
「泣いてませんわ。驚いただけですの」
「兄さんがいたから?」
レティシアは視線を伏せる。どうしようもなく当たっていたから。
エドガーは歩みを止め、自然とアルベルトからレティシアを隠すように立った。
「大丈夫。君は悪くない」
その声があまりに自然で、押し付けない優しさが胸に沁みた。
「……殿下」
「見なくていいよ。もう君の未来に関係のない人だ」
そっとレティシアの手に触れようとして、ためらい、けれどゆっくり添える。
逃げようとすれば逃げられる。そんな強さで。
でも離れようとする気持ちは生まれない。
「僕がいる。……それじゃ足りない?」
レティシアは息を呑む。
遠くのアルベルトは今や影になり、エドガーの存在が鮮やかに刻まれる。胸を焦がす熱。どうしようもないそれは恋なのかもしれない。
「……殿下。そんな言い方をなさると」
「うん?」
「……期待してしまいますわ」
エドガーの目が細く笑う。その奥には確かに決意のようなものがあって、レティシアを安心させた。
「期待していいよ。信じて」
「エドガー様……」
初めてレティシアがエドガーを名前で呼ぶと、彼は嬉しそうに笑った。レティシアの頬が午後の陽より熱く染まった。
レティシアとエドガーの距離は、その日からゆっくりと縮まっていった。確かな約束も、恋人らしい言葉も何もない。
ただ、会えば必ず彼はレティシアに寄り添った。レティシアが口を開くまで急かさない。
その誠実さが、レティシアの恋を育てた。
アルベルトとエドガーは全然違う。
彼はアルベルトよりずっと、感情の機微に鋭い。
レティシアが少しでも言葉を飲み込めば、「無理に話さなくていいよ」とそっと伝え。胸の奥がほんの少し強張れば、何も言わずに距離を半歩だけ詰める。
求められなくても、離れない。
求めた時、そっとそこにいる。
そんな優しさに包まれて。
……もう否定できませんわ。
胸の灯火はゆっくり育っている。
一日の終わりを告げる橙色の光が、王都の庭園を照らしている。レティシアは“幸福の買い物”の帰りに少しだけ遠回りをしていた。
「……夕暮れって落ち着きますわ」
胸の奥のざわめきをそっと整える。その時後ろから足音がした。
「レティシア?」
聞き慣れてしまったあたたかい声音。レティシアは安堵と共にゆっくり振り返る。
「エドガー様……偶然ですの?」
「偶然。だけど、会えたらいいなって思ってた」
夕日に照らされたエドガーの横顔は、昼間よりも柔らかい。
それだけで、胸の奥がきゅっと甘くなる。
「兄さんの新しい婚約が決まったんだって」
二人は並んで歩く。
「まあ、そうですの。おめでたいことですわ」
胸は思ったより痛まなかった。なんでもないことのように聞き流せるようになった自分に、レティシアは驚いた。
「ねぇ、レティシア」
エドガーは足を止めた。
「君は、兄さんといた頃より……ずっと自然に笑ってる。今の君は、見ていて安心するくらい、柔らかい顔をしてるんだ」
思わず自分の顔に手を当てると、エドガーは微笑んだ。
「君が好きって言ってもいい? 君の未来に僕を置いて。つれていってよ」
それは、告白というより、願い。胸に灯っていた小さな火が、はっきりと温度を持った。
「……エドガー様が私と共に歩いて下さるの?」
「だめかい?」
「いいえ」
レティシアは大きく微笑む。今までで一番柔らかく幸せそうに。
「それなら、未来を怖がらずに済みますわ」
エドガーの目が優しく揺れ、レティシアの手を包み込む。
「君に縛られない未来を。約束させて。僕は君の一番近くにいたい」
レティシアはエドガーの手を握り返す。
「楽しそうな未来ですわね……ねぇ」
「してくださいませんの?」
「ん?」
「キス……こういう時はするものだと聞きましたわ」
頬を染め、少し不本意そうに。その様にエドガーは笑った。
「しよう」
そして我慢できないと言いたげにレティシアの唇を奪った。
レティシアは唇を押さえる。
「エドガー様の知らない面を見てしまった気分ですわ」
「嫌いかい?」
「いいえ」
ーーこの人となら生きていける。
優しくて、あつくて、衝動を気遣いで完璧に隠してしまう。
「……エドガー」
呼び捨てれば、彼は小さく息を吸い、溶けそうに微笑んだ。
「レティシア。もっと君を教えて。君の歩幅でいいから」
「私も、もっとエドガーのことを知りたいです」
決定的な夕暮れ。幸福は足並みをそろえた。胸の灯火は、消えずに続いていく。遥かな未来へと向かって。




