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梅雨に腐臭

作者: hato-ryuji
掲載日:2025/10/14

日付は6/5、降りしきる雨の中を、中学校から帰ってきたわたし――心晴こはるは玄関でカッパを干していた。

梅雨は嫌いだ。


部活は退屈な室内練習になるし、湿った空気が服や靴にまとわりついて家までついてくる。

玄関をくぐっても、外の雨がまだ離してくれない気がする。


洗面所で手を洗う。

湿った空気の中に、何かが混ざっている気がした。

空気が、少し黄ばんだように淀み、酸っぱい臭いが混じっていた。


洗濯機の向こう側――壁のあたりから、そっと漏れ出している気がする。

生乾きの洗濯ものだろうか?

それともわたしの汗の臭い?


……やっぱり、これだから梅雨は嫌いなんだ。


---


夕食の時間になった。

食卓にはわたしと両親の3人が座り、夕食をとっている。


香ばしい焼き魚の香りの向こうに、うっすら不快な何かが混じっていた。

味に集中していれば忘れてしまえるが、ふと気が付くと気になって仕方がない。

脂ののった身をほぐしつつも、意識は例の臭いに吸い寄せられる。


母と父は何も気にならないの?

2人とも特に話題に出してこない様子だ。

わたしが試しに話を切り出した。


「ねえ、なんか洗面所がにおう気がするんだけど……」


父は鼻をすすり、「いや、感じないな」とだけ言った。

昔から鼻炎持ちで、匂いには鈍い。


母は少し顔を上げ、空気を確かめるように息を吸い込む。


「いい匂いじゃない、雨の前の」


その声が妙にやわらかく、湿った空気に溶けていった。

けれど、“いい匂い”なんて言葉、聞きたくなかった。


「そんなに気になるなら、洗濯機と排水管をキレイにしてみるから。そうすれば、きっと臭いも消えるよ」


「うん。分かった」


---


10時、布団に潜り込み目を閉じる。

家中にうっすらと立ち込めるすえた臭いをかすかに感じる。

屋根で野ネズミがカサカサと動き回る音が聞こえる。


2、3日前から入り込んできたようだ。どこかの隙間から。

わたしたちの家に侵入してくるよそ者。

自分の家なのに、居心地の悪さを感じた。


---


今日は6/7。

わたしが例の異臭に気が付いてから2日後になる。


洗濯機も排水管も、母がきれいにしてくれた。

けれど、臭いは残ったままだった。

それが余計に、原因のわからなさを強調していた。


両親とも相変わらず、臭いには無関心だった。

本当にわたしの嗅覚が繊細なだけなのだろうか。


下校時に自転車のペダルもなんだか重くなる。

あまり、帰りたくないな。


---


今日は6/12――例の異臭が発生してからちょうど一週間だ。

ベッドで目を覚まし、真っ先に気が付いたのは、強烈な腐臭。


絶対におかしい。

安心して過ごすためのこの家の中で、こんな……汚らわしい臭いがしていいはずがない。


ダイニングに駆け込む。


「絶対におかしいよ! こんな臭い!」


大声で母に抗議した。


「何なの? 朝からいきなり」


母が不機嫌そうに返事をした。


「え…? わからないの? こんなに臭いのに」


「失礼ね。洗面所のエリアはわたしの掃除しているので清潔です。あなたの部屋と違ってね」


「きっと素人には届かないところに何かあるんだ。

 そうだ。清掃業に頼んでみようよ!」


「ゴミ屋敷でも事故物件でもないのに、そんなもの呼ぶ必要はありません」


事故物件……?

いや、そんなはずはない。


もしかしたら、屋根裏か壁の中で小動物でも死んでいるのかもしれない。

昔も似たような匂いがしたことがある。

あのときは、換気扇の裏にネズミが入り込んでいた。


「ズズ……、それはそうと学校は大丈夫なのかい?」


鼻声になっている父が横から口を出した。


「あ…やばい!」


すぐさま、朝ごはんを口に詰め込む。

時間がないので、生活指導で指摘された最低限の身だしなみを整え、自宅を飛び出す。


なんだか父の鼻づまりが羨ましくなってきた。

この悪臭から解放されるなら、多少の息苦しさくらい構いやしない。


---


その日、学校では自分の臭いが気になって仕方がなかった。

自分の臭いは大丈夫だろうか。


あの家から距離を置きたくなるように、みんなわたしを避けるようになるだろうか?

隣席の子に聞いて確かめてみたい。


――ねぇ、わたしって臭ってるかな?


でも、怖くて訊けなかった。

そうだよ、って言われてもどう手を打てばいいのかわからなかったから。


---


夕飯ギリギリまで外で時間をつぶし、帰宅した。

相変わらずの腐臭が鼻を突きさす。

あまりの臭いにふらふらしてきた。


こんなところじゃ食べられない。

そう思い立ち、わたしは皿をお椀を持って立ち上がる。


心晴こはる、どこ行くの!?」


母が呼び止める。


「ベランダ……」


そう小さな声で返事をした。


ベランダにたどり着くと外は小雨が降っていた。

扉の近くのすのこに腰掛け、夕ご飯を食べる。

うん。こっちのほうが、いくら気分がいい……。


ご飯を食べ終わった後もしばらくベランダで過ごし、そろそろ風呂に入って寝ようと思い屋内に戻った。

脱衣所を兼ねている洗面所に行くと、母は恍惚とした様子でたたずんでいた。

じっと壁を見つめている。


「よく平気だね」


母をにらみつける。


「新しい芳香剤の匂いかしら、この辺から甘い匂いがする」


「そう。服脱ぎたいから、出てってくれない?」


「別にいいでしょここにいたって。親子なんだし」


脱衣所のドアを開けっ放しで裸になるな、っていつも注意する癖に……。


母が隣にいるなか、わたしは服を脱ぎ風呂に入る。

風呂から上がっても、母はまだ同じ場所にいた。

ドライヤーが終わりわたしが脱衣所を離れる時も、相変わらず壁を見つめ続けていた。


---


6/14――腐臭が強烈になってから2日後の出来事だ。

外は土砂降りの雨だった。


家の腐臭は相変わらずで、ここ数日は安眠することが出来ずにいた。

ここのところ唯一の良かった点といえば、屋根のネズミがいなくなったことだ。

さすがのネズミもあの悪臭には耐えきれなかったらしい。


部活を行う前に運動着に着替えている際の出来事だ。

ふとチームメイトの朋香ともかから声をかけられた。


「ちょっとさ、数日前から気になってたんだけど……。ちょっとくらい体臭を気にかけたほうがいいんじゃない?」


朋香の一言に、更衣室の空気が止まった。

周囲からざわめきが広がった。


「やっぱりそうだよね。わたしも気になってた」


中には鼻をつまむ子もいた。

その瞬間、熱いものが胸の奥を突き上げた。


何か言い返そうと口を開いたが、声にならなかった。

気づけば、わたしは更衣室を抜け出していた。

扉を閉める音がやけに大きく響いた。


---


早く体を洗わないと。

自転車を全力で漕いで、自宅にたどり着いた。


相変わらずの悪臭に耐えながら、浴室を目指す。

シャワーヘッドを右手で持ち、左手で蛇口をひねる。


シャワーヘッドがうめくように鳴り、冷たい赤茶の液体が飛び出した。

顔にまとわりついたそれは、鉄と何か腐ったものの匂いがした。


粘液をペーパーで拭き取り、水道で何度も手を洗った。

鼻の奥に鉄の匂いが残っている。

鏡の中の自分は蒼白で、まるで他人の顔のようだった。


早く何とかしないと、この家が侵される。

物置からバールをつかみ、靴のまま廊下へ出た。


廊下に出ると、家全体がしんと静まり返っていた。

外の雨の音だけが遠くで響いている。


---


壁は、さっきと同じ場所で沈黙していた。

湿った臭いが、先ほどよりも濃くなっている。

鼓動がうるさい。


わたしは息を止め、バールの先を壁に押しつけた。

鈍い音とともに、赤茶色の粘りが糸を引く。

壁が崩れ落ち、これまでにない強烈な悪臭があたりを覆った。


そこにあったのは、バケツ一杯分ほどの粘液の塊だった。

内部では、ネズミの骨や鳥の羽が沈んで揺れている。

こいつが原因だ――そう思い、わたしはバールを振り下ろした。


命中した瞬間、粘液は形を失い、水のように床に広がった。


「よかった、これで――」


右膝が折れ、わたしは床に倒れ込んだ。

見ると、足が赤茶の粘液に覆われている。


表面は人肌のように温かいのに、足の内側は氷のように冷たい。

熱を吸い取られている――そう理解した瞬間、力が抜けた。


バールを振り上げようとしたが、粘液はするりと逃げ、廊下のほうへ這い出していった。


追いかけようとしても体が動かない。

右足を中心に、体の奥から体温が奪われていく。

視界が滲み、意識が沈んだ。


---


「何があったの!?」


耳元で母の声がする。

体を揺さぶる手から体温を感じた。


母がパートから帰ってくる時間まで、眠ってしまっていたらしい。


「うまく言えないんだけど……、何かが壁の中にいた。

 無理やり壁を崩してこじ開けたらどっかに逃げてったの」


「何かって……。

 それにこの臭いは……」


「臭いってこと?」


「そうに決まっているじゃない」


よかった。

もとに戻ったんだ。


安心して、思わずほほが緩む。


母が壁の穴をにらんでいる。


右足に触れてみると、氷のように冷たい。

あれがもっと大きかったら――そう思った瞬間、背筋が凍った。


あれはまだ育ちきっていなかった。

だから、わたしは生きている。


壁を支えにして何とか立ち上がり、わたしも一緒に壁にあけた穴を見つめる。

そこには、小動物の残骸がボールのように固まっていた。

そこから粘液の跡が伸び、わたしが倒れた場所を中継し、そのまま玄関へと続いている。


小動物の残骸と粘液の跡は、母が何も言わずに片づけた。

わたしがこじ開けた壁の穴だけが、あの出来事の痕跡として残っている。

玄関から先の跡は雨に洗い流され、あれがどこへ向かったのかを知るすべはない。


---


例の出来事から一年弱たった。

部活の練習終わりのストレッチを行っている最中だ。


足の具合は徐々に回復し、今では元通りに動かせるようになった。

だが、においとあの出来事は深く結びついてしまったらしい。

生臭い匂いを嗅ぐと、今でも体が勝手に震える。


「ねえ、心晴こはる

 不思議なことがあるんだけど、聞いてくれない?」


ふと、すえた匂いが鼻に入ってきた。

忘れたくても忘れられない、あの匂いだ。


「最近、部屋から甘い匂いがするの。

 何も特別なことはしてないんだよ。

 それがどんどん強くなってる」


「ほかにも変な点はない?

 朋香ともかにはいい匂いでも、他の人には嫌な匂いかもよ」


「そう! まさにそれ!

 妹と部屋を共有してるんだけど、臭くて耐えられないっていうの。

 昨日、けんかになって、泣いて出て行ったきり戻ってこないの」


「それはすぐに対処したほうがいいよ。

 そうしないと、きっと――」


朋香ともかの目を見据え、言葉を絞り出した。


「耐えられなくなる」

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