梅雨に腐臭
日付は6/5、降りしきる雨の中を、中学校から帰ってきたわたし――心晴は玄関でカッパを干していた。
梅雨は嫌いだ。
部活は退屈な室内練習になるし、湿った空気が服や靴にまとわりついて家までついてくる。
玄関をくぐっても、外の雨がまだ離してくれない気がする。
洗面所で手を洗う。
湿った空気の中に、何かが混ざっている気がした。
空気が、少し黄ばんだように淀み、酸っぱい臭いが混じっていた。
洗濯機の向こう側――壁のあたりから、そっと漏れ出している気がする。
生乾きの洗濯ものだろうか?
それともわたしの汗の臭い?
……やっぱり、これだから梅雨は嫌いなんだ。
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夕食の時間になった。
食卓にはわたしと両親の3人が座り、夕食をとっている。
香ばしい焼き魚の香りの向こうに、うっすら不快な何かが混じっていた。
味に集中していれば忘れてしまえるが、ふと気が付くと気になって仕方がない。
脂ののった身をほぐしつつも、意識は例の臭いに吸い寄せられる。
母と父は何も気にならないの?
2人とも特に話題に出してこない様子だ。
わたしが試しに話を切り出した。
「ねえ、なんか洗面所がにおう気がするんだけど……」
父は鼻をすすり、「いや、感じないな」とだけ言った。
昔から鼻炎持ちで、匂いには鈍い。
母は少し顔を上げ、空気を確かめるように息を吸い込む。
「いい匂いじゃない、雨の前の」
その声が妙にやわらかく、湿った空気に溶けていった。
けれど、“いい匂い”なんて言葉、聞きたくなかった。
「そんなに気になるなら、洗濯機と排水管をキレイにしてみるから。そうすれば、きっと臭いも消えるよ」
「うん。分かった」
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10時、布団に潜り込み目を閉じる。
家中にうっすらと立ち込めるすえた臭いをかすかに感じる。
屋根で野ネズミがカサカサと動き回る音が聞こえる。
2、3日前から入り込んできたようだ。どこかの隙間から。
わたしたちの家に侵入してくるよそ者。
自分の家なのに、居心地の悪さを感じた。
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今日は6/7。
わたしが例の異臭に気が付いてから2日後になる。
洗濯機も排水管も、母がきれいにしてくれた。
けれど、臭いは残ったままだった。
それが余計に、原因のわからなさを強調していた。
両親とも相変わらず、臭いには無関心だった。
本当にわたしの嗅覚が繊細なだけなのだろうか。
下校時に自転車のペダルもなんだか重くなる。
あまり、帰りたくないな。
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今日は6/12――例の異臭が発生してからちょうど一週間だ。
ベッドで目を覚まし、真っ先に気が付いたのは、強烈な腐臭。
絶対におかしい。
安心して過ごすためのこの家の中で、こんな……汚らわしい臭いがしていいはずがない。
ダイニングに駆け込む。
「絶対におかしいよ! こんな臭い!」
大声で母に抗議した。
「何なの? 朝からいきなり」
母が不機嫌そうに返事をした。
「え…? わからないの? こんなに臭いのに」
「失礼ね。洗面所のエリアはわたしの掃除しているので清潔です。あなたの部屋と違ってね」
「きっと素人には届かないところに何かあるんだ。
そうだ。清掃業に頼んでみようよ!」
「ゴミ屋敷でも事故物件でもないのに、そんなもの呼ぶ必要はありません」
事故物件……?
いや、そんなはずはない。
もしかしたら、屋根裏か壁の中で小動物でも死んでいるのかもしれない。
昔も似たような匂いがしたことがある。
あのときは、換気扇の裏にネズミが入り込んでいた。
「ズズ……、それはそうと学校は大丈夫なのかい?」
鼻声になっている父が横から口を出した。
「あ…やばい!」
すぐさま、朝ごはんを口に詰め込む。
時間がないので、生活指導で指摘された最低限の身だしなみを整え、自宅を飛び出す。
なんだか父の鼻づまりが羨ましくなってきた。
この悪臭から解放されるなら、多少の息苦しさくらい構いやしない。
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その日、学校では自分の臭いが気になって仕方がなかった。
自分の臭いは大丈夫だろうか。
あの家から距離を置きたくなるように、みんなわたしを避けるようになるだろうか?
隣席の子に聞いて確かめてみたい。
――ねぇ、わたしって臭ってるかな?
でも、怖くて訊けなかった。
そうだよ、って言われてもどう手を打てばいいのかわからなかったから。
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夕飯ギリギリまで外で時間をつぶし、帰宅した。
相変わらずの腐臭が鼻を突きさす。
あまりの臭いにふらふらしてきた。
こんなところじゃ食べられない。
そう思い立ち、わたしは皿をお椀を持って立ち上がる。
「心晴、どこ行くの!?」
母が呼び止める。
「ベランダ……」
そう小さな声で返事をした。
ベランダにたどり着くと外は小雨が降っていた。
扉の近くのすのこに腰掛け、夕ご飯を食べる。
うん。こっちのほうが、いくら気分がいい……。
ご飯を食べ終わった後もしばらくベランダで過ごし、そろそろ風呂に入って寝ようと思い屋内に戻った。
脱衣所を兼ねている洗面所に行くと、母は恍惚とした様子でたたずんでいた。
じっと壁を見つめている。
「よく平気だね」
母をにらみつける。
「新しい芳香剤の匂いかしら、この辺から甘い匂いがする」
「そう。服脱ぎたいから、出てってくれない?」
「別にいいでしょここにいたって。親子なんだし」
脱衣所のドアを開けっ放しで裸になるな、っていつも注意する癖に……。
母が隣にいるなか、わたしは服を脱ぎ風呂に入る。
風呂から上がっても、母はまだ同じ場所にいた。
ドライヤーが終わりわたしが脱衣所を離れる時も、相変わらず壁を見つめ続けていた。
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6/14――腐臭が強烈になってから2日後の出来事だ。
外は土砂降りの雨だった。
家の腐臭は相変わらずで、ここ数日は安眠することが出来ずにいた。
ここのところ唯一の良かった点といえば、屋根のネズミがいなくなったことだ。
さすがのネズミもあの悪臭には耐えきれなかったらしい。
部活を行う前に運動着に着替えている際の出来事だ。
ふとチームメイトの朋香から声をかけられた。
「ちょっとさ、数日前から気になってたんだけど……。ちょっとくらい体臭を気にかけたほうがいいんじゃない?」
朋香の一言に、更衣室の空気が止まった。
周囲からざわめきが広がった。
「やっぱりそうだよね。わたしも気になってた」
中には鼻をつまむ子もいた。
その瞬間、熱いものが胸の奥を突き上げた。
何か言い返そうと口を開いたが、声にならなかった。
気づけば、わたしは更衣室を抜け出していた。
扉を閉める音がやけに大きく響いた。
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早く体を洗わないと。
自転車を全力で漕いで、自宅にたどり着いた。
相変わらずの悪臭に耐えながら、浴室を目指す。
シャワーヘッドを右手で持ち、左手で蛇口をひねる。
シャワーヘッドがうめくように鳴り、冷たい赤茶の液体が飛び出した。
顔にまとわりついたそれは、鉄と何か腐ったものの匂いがした。
粘液をペーパーで拭き取り、水道で何度も手を洗った。
鼻の奥に鉄の匂いが残っている。
鏡の中の自分は蒼白で、まるで他人の顔のようだった。
早く何とかしないと、この家が侵される。
物置からバールをつかみ、靴のまま廊下へ出た。
廊下に出ると、家全体がしんと静まり返っていた。
外の雨の音だけが遠くで響いている。
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壁は、さっきと同じ場所で沈黙していた。
湿った臭いが、先ほどよりも濃くなっている。
鼓動がうるさい。
わたしは息を止め、バールの先を壁に押しつけた。
鈍い音とともに、赤茶色の粘りが糸を引く。
壁が崩れ落ち、これまでにない強烈な悪臭があたりを覆った。
そこにあったのは、バケツ一杯分ほどの粘液の塊だった。
内部では、ネズミの骨や鳥の羽が沈んで揺れている。
こいつが原因だ――そう思い、わたしはバールを振り下ろした。
命中した瞬間、粘液は形を失い、水のように床に広がった。
「よかった、これで――」
右膝が折れ、わたしは床に倒れ込んだ。
見ると、足が赤茶の粘液に覆われている。
表面は人肌のように温かいのに、足の内側は氷のように冷たい。
熱を吸い取られている――そう理解した瞬間、力が抜けた。
バールを振り上げようとしたが、粘液はするりと逃げ、廊下のほうへ這い出していった。
追いかけようとしても体が動かない。
右足を中心に、体の奥から体温が奪われていく。
視界が滲み、意識が沈んだ。
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「何があったの!?」
耳元で母の声がする。
体を揺さぶる手から体温を感じた。
母がパートから帰ってくる時間まで、眠ってしまっていたらしい。
「うまく言えないんだけど……、何かが壁の中にいた。
無理やり壁を崩してこじ開けたらどっかに逃げてったの」
「何かって……。
それにこの臭いは……」
「臭いってこと?」
「そうに決まっているじゃない」
よかった。
もとに戻ったんだ。
安心して、思わずほほが緩む。
母が壁の穴をにらんでいる。
右足に触れてみると、氷のように冷たい。
あれがもっと大きかったら――そう思った瞬間、背筋が凍った。
あれはまだ育ちきっていなかった。
だから、わたしは生きている。
壁を支えにして何とか立ち上がり、わたしも一緒に壁にあけた穴を見つめる。
そこには、小動物の残骸がボールのように固まっていた。
そこから粘液の跡が伸び、わたしが倒れた場所を中継し、そのまま玄関へと続いている。
小動物の残骸と粘液の跡は、母が何も言わずに片づけた。
わたしがこじ開けた壁の穴だけが、あの出来事の痕跡として残っている。
玄関から先の跡は雨に洗い流され、あれがどこへ向かったのかを知るすべはない。
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例の出来事から一年弱たった。
部活の練習終わりのストレッチを行っている最中だ。
足の具合は徐々に回復し、今では元通りに動かせるようになった。
だが、においとあの出来事は深く結びついてしまったらしい。
生臭い匂いを嗅ぐと、今でも体が勝手に震える。
「ねえ、心晴。
不思議なことがあるんだけど、聞いてくれない?」
ふと、すえた匂いが鼻に入ってきた。
忘れたくても忘れられない、あの匂いだ。
「最近、部屋から甘い匂いがするの。
何も特別なことはしてないんだよ。
それがどんどん強くなってる」
「ほかにも変な点はない?
朋香にはいい匂いでも、他の人には嫌な匂いかもよ」
「そう! まさにそれ!
妹と部屋を共有してるんだけど、臭くて耐えられないっていうの。
昨日、けんかになって、泣いて出て行ったきり戻ってこないの」
「それはすぐに対処したほうがいいよ。
そうしないと、きっと――」
朋香の目を見据え、言葉を絞り出した。
「耐えられなくなる」




