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現実世界❲恋愛❳ 短編もの

紫紺の篝火

作者: 日浦海里

花の色は宵にまじりて深まれど

 昼間は蒸し暑かった真夏の熱も、夜になれば林の中を吹き抜ける風が冷やしてくれるのか、じわりと肌に汗の玉が滲む程度の生暖かさに変わっていた。


 参道の脇に並ぶ灯篭の火が、社の奥から響いてくる笛の音に合わせてゆらゆらと揺れる。そこに風が加わると、火は舞うように細長く背伸びした。


 参道の木々には幾つも提灯が吊り下げられ、社に続く石段の入り口に立つ鳥居を怪しく照らしている。その鳥居のすぐ脇で、雅史(まさふみ)は石段に吸い込まれていく人の波を眺めながら、幼馴染の佳子(けいこ)が来るのを待っていた。


 いつもと比べて一秒が長く感じられるのはなぜだろう。雅史には通り過ぎていく人の波がスローモーションのように見えてくる。いつの間にか握りしめていた手のひらはじっとりと汗ばんでいて、何を思ったか、慌てて浴衣の裾で拭った。そうした後、着慣れぬ浴衣が着崩れたりしていないか、帯は緩んだりしていないかと、腰を捻り、全身を眺め、ぎこちなく裾を正してみる。


 夏祭りのために浴衣と下駄を出してほしいと母親にお願いした時、デートなのか、誰と行くのかと散々勘ぐられたが、こんな風に何度も格好を気にしているようでは揶揄(からか)われても仕方ないことかもしれない。


 二人でどこかに遊びに行くことも、今日のように夏祭りに誘うことも、これが初めてではないはずなのに、今回だけはなぜか特別に思えて、さっきから祭囃子の賑やかな音よりも自身の鼓動の方がうるさいと、雅史は自分の胸を押さえる。それで鼓動を抑えられるものでもないけれど。


 普段通りの気さくな感じで、いつものように遊びに誘う気軽さで、祭りに誘えたはずだった。


 何も変わらない。


 何も変わらない。


 自分に言い聞かせるようにした雅史の手のひらはまたぎゅっと握りしめられていて、じわりと汗が滲んできていた。


 家の前で待つのは気恥ずかしいし、そもそもまだそういう仲じゃない。そう思って鳥居の前を待ち合わせ場所にしてみたものの、人が通る度に不審げにもしくは興味津々といった様子で見られている気がして、雅史は身の置き所に困った。




△▼△▼△




 雅史が佳子の事を意識しだしたのは夏の始めの学園祭だった。

 クラスの出し物では、二人で教室の前で客の列の整備や呼び込みを行っていた。


「一年三組、謎解き脱出ゲームやってまーす。ぜひ来てくださーい」


「お待たせしました。次の組の方は前の扉から入って、係りの案内に従って下さい」


 クラスの前には入室前の客が列を成していた。佳子は列に並ぶ客を順に案内し、雅史は待機列を整備しながら出し物の呼び込みをする。

 廊下には、待機列に並ぶ人、移動する人、呼び込みする生徒達などでごった返していて、さながら出勤時間帯の大きな駅のホームのようだ。


 人混みに溺れて息を求めるように大きく深呼吸した佳子を見て、雅史が大丈夫かと目で訴える。佳子はそれだけで察したのか、にこっと笑い、雅史にピースで応えた。


 無理すんなよ、と内心で応援した雅史が佳子から視線を外した拍子、人の波に押された佳子が雅史の身体に軽くぶつかる。


「あっ、ごめん、清田君」


 作業中ということもあり、軽く声だけで謝った佳子はそのまま列の整理を再開する。その姿がまだふらついているように見え、大丈夫かと声を掛けようとした雅史は、ふと手の甲に温もりを感じた。


 そこには佳子の手の甲が触れていて。


 狭い廊下に押し合うように人が行き交っているから、佳子はそのことに気づいていないのか、それとも気にする余裕もないのか、雅史の方を見ることなく客の案内を続けている。


 佳子がそんな風であるから、雅史もそれに気づかないない振りをして、けれど自分から離れることなく、そのまま客の整列を続けた。


 触れていたのはどれぐらいのことだったか。

 温もりに意識を奪われていた雅史は、それが瞬くほどの間だったのか、数十秒のことだったのか、その間の記憶が曖昧で、思い出すことが出来なかった。


 いつも傍にいるただの幼馴染が、いつも傍にいる気になる女の子になった瞬間だった。




△▼△▼△




「清田君」


 人の波を眺めるうち視界と意識がぼんやりしていた雅史は、聞き慣れた声にはっと意識が戻される。


 振り返ると、白地に紺の花が咲いた浴衣姿の佳子がいた。

 髪は普段のように肩先までまっすぐに流したものではなく、後頭部でふんわりと纏められ飾りが揺れていた。

 急いで来たのか、少し息を切らせ、頬を赤らめ立つ姿に、雅史は目を奪われ言葉を失った。


「……変かな?」


 不安げに訊ねる佳子に、雅史は思い切り頭を振る。それがあまりに勢いがよくて佳子は思わず吹き出した。


「凄……いな」


「え?」


「……いいと思うよ」


 雅史の「凄くかわいいな」という言葉は、ちゃんとした形を取ることがないまま、周囲の祭囃子の音にかき消された。代わりに伝え直した言葉は、我ながら陳腐な言葉だと思ったが、それでもそれはその時雅史に出来る精一杯の誉め言葉だった。


「ありがとう」


 佳子は嬉しそうに笑みを浮かべると、「行こう」と鳥居の奥を指さす。社からは太鼓の音が一際大きく響いてきた。奉納の舞が始まる報せだ。

 佳子の笑みに心臓の鼓動が大きく跳ねた雅史は、太鼓の音で我に返ると、「行こう」と返事する。


 祭りが最大に盛り上がる時間がやってきた。



 二人は並んで丘の上に続く石段を一つ一つ登っていく。

 それほど高くない丘の石段ではあったが、それでも見上げた先に連なる人の列には言葉にできない威圧感があった。


「うわぁ」


 感嘆する声を上げた佳子は見上げた拍子に体勢を崩し、足下をふらつかせる。それに気づいた雅史は慌てて佳子の背中を支えた。

 浴衣の上からでも分かる華奢な身体と微かに香る柑橘系の匂いに、雅史は頬が熱くなるのを感じる。しかし後ろから登ってくる人で石段が詰まっていることに気づくと、すぐさま何事もなかったように前を向いた。


「ありがと」


「ドジ」


 佳子の礼に雅史は視線を逸らしながらぶっきらぼうに告げる。もしもこの時、雅史がちゃんと佳子を見ていれば、自分同様に頬を染めた佳子を見ることになっていただろう。しかし、どちらにとっても幸いなことに、雅史はそれに気づくことはなく、佳子も平静さを取り戻して、再び石段を登り始めることが出来た。


 狭い石段を人が行き来するために、列の流れはゆっくりだった。

 一つ登っては立ち止まり、一つ登っては立ち止まりを繰り返しながら、二人は丘の上の社を目指す。そんな中、雅史は石段を一つ登る度に視線を佳子に向け、手を開いては握りしめ、開いては握りしめを繰り返していた。

 視線の先には、石段の脇の灯篭に照らされ薄紅に色づいた佳子の手がある。雅史の手との距離は十センチあるだろうか。触れてもいないのに、佳子の熱が伝わってきているかのように、雅史の手は熱を帯びていた。


――また、ふらつくと危ないし


 怪我しないために手を握るだけだ。


 しかし、いざ手を出そうとすれば躊躇われ、結局何も出来ないまま、石段は終わりを迎えようとしている。


 幼い頃は「行こう」と声を掛けてその手を握り、一緒に駆けだすことに何の躊躇いも覚えなかったのに、それが当たり前でなくなったのはいつの頃だったのだろうか。

 思えばその時から、自分は佳子のことを意識していたのかもしれない。

 ちらりと佳子に視線を向けながら雅史はそう思った。



 雅史の隣を歩く佳子もまた、平然とした表情と裏腹に内心決して穏やかではなかった。


 石段下の鳥居の前では、雅史らしくもない「かわいい」という言葉をかけてくれたし、体勢を崩して後ろに転げ落ちそうになった時には、僅かな間とは言え、雅史の腕で身体を支えられてしまった。

 今も腕が触れた背中は熱く、心臓が送り出す血流は過去最効率で身体中を巡っていたに違いない。鼓動の速さも尋常ではなく、この数分で一年分の鼓動を刻んだのではないか。そんな風に思えて仕方ない。身体中の血管という血管は、踊るように脈を打ち、このまま破裂してしまいそうだ。そんな風に思えた。

 にも関わらず、どこか冷静に自分を見つめる佳子もいた。その冷静な部分が先程から何度も手を開閉している雅史の手に気づいて、熱さとは違う温かさと、自然と湧き上がる嬉しさに包まれている。


 冷静な部分は更に計算高くもあった。


 なかなか進められずにいた時計の針を少し早められる。理屈でそう考えたかは分からないが、きっと何かが変わると思い、佳子は雅史の手のひらに自分の手のひらを重ねた。


「……はぐれて迷子になったら大変だから」


 驚く雅史に佳子がはにかみながら告げる。

 雅史は少し呆気に取られたが、佳子の言葉にこれまで高鳴っていた鼓動がすっと落ち着いていくのを感じた。佳子にとっては今もあの頃と同じまま。二人で手を繋ぎ駆け回ってた頃と同じままなのだ。そう思えると、ほんの少しの寂しさと共に、どこか安心した自分を感じ、いつもと変わらぬ笑みを浮かべることが出来た。


「それはこっちの台詞だろ」


 重ねられた手のひらを握り、雅史は石段の終わりを見据える。

 丘の上からは夜店の明かりに、笛に太鼓。舞に見入られて感嘆の声が漏れ聞こえてくる。


 今はきっとこれでいい。あの頃のままでいられるだけで。


 そう思う雅史は、それでもあの頃のままとは違う自分に気づけずにいた。

 あの頃はただぎゅっと握りしめた佳子の手を、今は守るように愛おしげに握っている。そのほんの少しの優しさに、雅史自身は気づかないまま、祭りは佳境を迎えようとしていた。




△▼△▼△




 雅史と佳子は保育所からの幼馴染だ。


 家は近所ではなかったが、入所出来る保育所が偶然同じであり、その頃からの知り合いとなる。


 だが、最初は単なる知り合いという関係性でしかなかった。同じ保育所、小学校に通っていた、ただのクラスメイト。それだけの関係だ。


 それが「ただのクラスメイト」から、「少し特別なクラスメイト」に変わったのは、単なる偶然であったのだ。しかし、もしも運命論が好きならば、それは必然であり運命である、と言いたくなるようなことでもあった。


 保育所に通っていた二年間、小学校に上がってからの三年間、二人はずっと同じクラスだった。一学年で四クラス。多くはないが、決して少なくないクラス数の中で、何度かのクラス編成を経たにも関わらず二人はずっと一緒だった。


 その事に気づいた時、二人は単なる「クラスメイト」から、腐れ縁、という「少し特別なクラスメイト」に変わったのだ。


 その程度と言えばその程度のことであったのだが、これまでよりも互いを意識するきっかけになり、自然と会話する機会も増えた。そうすれば、「クラスメイト」が「友達」に変わっていくのは自然の成り行きとも言えた。


 そこから更に佳子にとって雅史が「特別な友達」になるのは、やはり偶然と言えば偶然で、運命と言えば運命と呼べる出来事があったからだ。


 雅史と佳子が小学校三年生のある日、学校からの帰り道で、佳子は通学路に座り込んでたむろする高校生達を見つけた。

 高校生たちからすれば、ただ道端で集まって話しているに過ぎなかったのだろう。しかし、小学生の佳子からすれば、テレビや親たちの情報で、そういう集団は近づけば怒鳴られたり怖い目に合う危ない集団という思い込みが出来ていた。


 だったら違う道から帰ればいい。そう考えることが出来れば良かったのだが、帰宅時は通学路と違う道で帰ってはいけないという先生や親の教えを忠実に守ってしまう程度には、佳子は「良い子」で育ってきた。


「なにやってんの?」


 高校生を遠目に見ながらどうしようと佳子が悩んでいると、背後から突然声を掛けてきたのが雅史だった。


「清田君……。どうして?」


 佳子の知る限り、雅史の通学路は自分の通学路とは全然違うはずだ。こんな場所にいるはずがない、そんな思いが言葉になっていた。


「ん?散歩」


「でも、通学路……」


「あ?あぁ。もう家に帰って遊びに出てきてんだよ」


 佳子が何を気にしているのかに気づいた雅史は、振り向いて背中を見せる。

 雅史の背中には帰宅途中なら持っているはずのランドセルがなかった。


 当時の佳子は知らないことだが、雅史はこうして一人で歩き回る事を好んだ。遊ぶ友達もいるし、皆で遊ぶ楽しみも知っているのだが、それと同じくらい見知らぬ道を歩いて回る「冒険」と称す行為も好きだった。

 雅史が本来の活動範囲と異なる場所に現れたのはそんな背景があったからだ。


 だからこそこれは単なる偶然であったし、だからこそこれは運命であったのかもしれない。


「で?こんなところで立ち止まって何してんの?そこに何か面白いものでもあんの?」


 佳子が立ち止まってる場所に歩み寄り、彼女の足下を覗き込もうとした雅史は、佳子が一点を見つめたままになっていることに気づいて、そちらに視線を移し、佳子が立ち止まっている理由を察した。


「あぁ……。一緒に行けばいいか?」


 言って雅史は佳子の手を取り歩き出そうとしたが、佳子が無言でその手を引いた。

 振り返ると、佳子は俯いてしまっており、このままにしておけば泣き出してしまいそうにも見えた。


「……じゃぁさ、俺と一緒に散歩に行こうぜ」


「え?でも……」


「誰かに見つかったら、俺が無理やり引っ張ってきたって言うからさ」


「……」


「だいじょぶ、だいじょぶ。俺がこんなんだってみんな知ってるって」


 雅史はそのまま佳子の手を引き、通学路を少し外れて佳子を家まで連れていった。高校生のたむろする場所を通り過ぎたあたりで別れてしまっても良かったのだが、佳子の家の方向は自分が行ったことのない場所だったし、何より雅史の手を握る佳子の手が、離れないでほしいと言っているように思えたからだ。


 実際、佳子は家に帰り着くまでずっと不安を抱えたままだった。通学路と違う道を歩いてしまったことを誰かが突然指摘したら。さっきの高校生達が突然後ろから追いかけてきたら。

 想像しても仕方がないことのないような突飛な発想も混じっていたが、いつも通りではないというその事が、佳子を不安にさせていたのだ。

 だからこそ、いつも通りに振舞って、いつも通りに話し掛けてくれる雅史の存在は、この時の佳子にとって無くてはならない存在だった。


 少し力強く握りしめられた雅史の手も、佳子にはとても心強くて。


 雅史にとっては彼の「冒険」によくあるいつもの「出来事(アクシデント)」の一つだったが、佳子にとってのそれは何より特別で、大切な記憶の一つになった。


 なお、これらの事とはまったく無関係な話ではあるが、雅史と佳子はこの後、高校二年生になるこの時までずっと「クラスメイト」だった。




△▼△▼△




 社を少し歩いた先には、舞台の上に舞姫達の姿があった。五色の短冊をつけた鈴を手にして緩やかに舞うその脇には、狐の面をつけた舞人と獅子の面を被る舞人が円を描くように踊っている。

 豊穣の神を祀るその踊りはこの地に古くから伝わる舞だった。


 舞台は周囲の人だかりで近寄れなかったが、少し高く作られているため、眺める分には苦労しない。

 社に続く砂利道を歩く人の波に流されぬよう、二人は肩が触れ合う程の距離で舞台の傍の人の群れの中に紛れていく。

 その頃には、繋いだ両の手のひらはそうであることが当たり前であるかのように、指が絡められ離れぬように握りしめられていた。


 地を踏み鳴らす力強い獅子の舞。

 音もなく跳ねて軽やかな狐の舞。

 流麗な水流を想起させる神の舞。


 舞の速さが時の流れを錯覚させてしまうのか、現実のようで現実ではないような空間がそこにあり、子供のころから見慣れているはずの二人でさえも、気づけば、ほぉと魅入らされていた。


 時を忘れて眺めていたことに気づかされたのは、舞の終わりに鳴らされた、しゃんと軽やかに響く鈴の音。


 ふっと我に返ってみると、互いに繋いだその手と別に、佳子は雅史の浴衣の裾をぎゅっと握りしめていた。

 重なり合うほど近づいていたその距離は、舞の終わりと共に人がばらけ始めると自然と元の距離へと戻る。


 どちらともなく息をつくと、人の波の流れに乗って、二人はまた歩き始めた。


 先程の余韻に浸り、しばらく互いに無言だったが、屋台の明かりが見えた辺りで雅史がようやく口を開いた。


「なんか……、いつもより凄くなかったか」


 それは素直な感想で。背中から脳髄を貫くような衝撃を受けた雅史は、今もまだどこか気が昂っている感じがした。雅史の興奮ぶりは佳子にも伝わっていて、普段見せない子供のような素直さについ可愛いと思ってしまって、笑みを零す。


 途端に馬鹿にされたと感じた雅史が不貞腐れた表情を見せた。

 年齢より少し幼い感じに見られる雅史は、子供っぽく見られる事を嫌う。それそのものが子供っぽい感情なのだが、佳子は雅史のそんな一面も含めて好ましく思っていた。

 だから、先程の笑みに他意はないとでも言うように佳子は改めて雅史に微笑むと「すごかった」と返した。そうしてそのまま言葉を続ける。


「どうしてかは分からないけど」


「あぁ。どうしてかは分からないけど」


 まだ不貞腐れていた雅史だったが、佳子の見せた態度に、今の自分の態度そのものが子供っぽいことに気づき機嫌を戻すことにした。それにあの舞が凄かったという感覚は佳子も同じだと知れたのだ。これ以上不機嫌でいる必要はなかった。


 少し膨れていた雅史の頬が萎んだことで、佳子も雅史の機嫌が直ったと察したが、まだこれでは足りてないとも思っていた。普段はうまく隠しているつもりらしいが、良くも悪くも子供っぽいところが残る雅史は、感情の尾を後に引くことはしない。しかし、その分気持ちの切り替えが少しだけ苦手であることを、佳子は経験から知っていた。


 そんな時に目に入ったのは屋台の明かりで。風に乗って流れてくる甘い蜜の香りに気づき、佳子は雅史の浴衣の袖を引くと、目の前の屋台を指さした。


「ねぇ、林檎飴買いたい」


「好きだったっけ?」


「うーん、食べたい気分だから?」


 そんなものかと思いながら、雅史は佳子に手を引かれるまま、屋台の軒先を潜る。

 店先には、屋台の明かりに照らされて林檎を包んだ蜜の膜が艶やかに輝いていた。



 林檎飴を手に機嫌よく歩く佳子を、雅史は子供を見守る親の気持ちで眺めていた。


 繋がれていた二人の手は、林檎飴の代金を払う際に解かれて、雅史は今、佳子の斜め後ろをついていくように歩いている。

 誘いに乗ることも、手を繋ぐことも、子供の頃と変わらぬ延長線上の感情で、意識しているのは自分だけ。

 そうであるが故に、纏められた黒髪から伸びる白い首筋にどきりとしている自分に対して、馬鹿らしいと自嘲する。


 一緒にいて楽しんでもらえているならそれでいい。一緒にいることが出来る、そのことだけでも喜ぶべきことじゃないか。


 それはしかし、いつしか一緒にいられなくなることを意味していて、その事に気づいた雅史は、佳子を視界に捉えながら、同時にそこに佳子のいない世界が映し出されて、はたと足を止めた。


 奉納の舞も終わり、祭りは終わりを迎えようとしている。参道を歩く人の姿も、ひと時と比べると少しまばらになってきていた。

 そんな中で足を止めた雅史は、彼を避けるように歩く祭り客の波の中に呑まれていく。

 気づけば、雅史の視界からは本当に佳子の姿が消えていた。


馬上(まがみ)……っ」


 その事実に気づき、慌てて佳子の後を追おうとした矢先、雅史の目の前に赤く丸い何かが差し出される。


 驚き足を止め、その物体の正体を見極めようとよく見ると、それは林檎飴だった。


「そうやって、すぐ迷子になる」


「ごめん」


 しょうがない、とでも言いたげな顔で見つめる佳子に、雅史は素直に謝った。

 理由はどうであれ、佳子の言う通りなのだから。


 まさか、佳子の事を考えていたら佳子を見失った、なんて、事実だとしても言葉にできるものではなかった。


「食べる?」


 また、物思いに耽りそうになった雅史は、佳子の言葉に意識を戻される。


 差し出されたのは、端が少し欠けた林檎飴で。しかも差し出された箇所は、正にその欠けた部分だった。


「え?」


 いくら意識しているのが自分だけとは言え、意識していないからこそそれはないのではないか。


 そんなことを思うが、それもまたそのまま口に出すことは出来ない。


――他の友達にもこんな調子なのか?


 ただ無防備なだけだとしても、それが佳子の幼さから来るものだとしても、それはすごく嫌な想像だった。


 だが、それもまた言葉に出来るものではなく。


 なんと返せばいいのか雅史が言葉に詰まっていると、佳子は林檎飴を引っ込めて欠けた部分を少し齧った。


「要らない?おいしいのに」


 そうして浮かべた表情は、どこか意地の悪い笑みに見えて。


「揶揄ってんのか?」


「んー?」


 問うた言葉に返した言葉で、佳子のそれが自分を揶揄うためのものであったと確信する。

 それは少しだけ腹立たしかったが、それよりもずっと安心する気持ちの方が強かった。


 冗談だったのなら、良かった。


 しかし雅史が感じた安心は、共有する行為を誰にでもするものではなかったことに対してなのか、あるいは佳子と林檎飴を共有せずに済んだことに対してなのか。あるいはどちらに対してもなのか。


 雅史自身、はっきりとは分からなかった。



「綺麗だね」


 参道を歩く人の姿もかなり少なくなってきた頃、二人は帰路につくために石段に向かう参道を歩いていた。


 その道の途中、佳子が立ち止まり空を見上げる。


 今夜の空には月はなく、辺りも参道を照らす灯篭の明かりだけで、夜の空にははっきりと白く輝く星がいくつも瞬いていた。


 佳子に合わせて立ち止まった雅史も、同じように空を見上げる。

 地上の光に照らされて、身を隠してる数多の星々。場所が場所なら、天の川だって見えるかもしれないが、ここではそれは叶わない。


 そういえば友達の一人に、星を眺めたくて山に登ってるなんて言ってる奴がいたな、と脈絡もないことを思い出す。


「その時々で変えて同じ景色は一つとしてないから。好きな場所の新しい一面を知りたいから、かな」


 色々な山に登りながらも、特定の山に何度も登ることもするその友人に「なぜか」と問うて返されたのがそんな言葉だった。


 知らない景色を見てみたい、子供のころからそんな想いが強い雅史からすれば、何度も同じ場所に行く友人の気持ちはあまり理解出来なかったし、それは今も変わらない。けれど、たとえ同じ場所でも。同じ人と異なる時に同じ景色をまた見ることが出来るのなら。そう思うと、少しだけ友人の語る言葉の意味が分かったような、そんな気がした。


「来年も……」


 空を見上げていた雅史は、そう言って佳子を見る。


 佳子もまた、話し掛けられたことで雅史に視線を移した。


「また来れたらいいな」


「また誘ってくれるの?」


「他に相手がいなけりゃな」


 他に佳子を誘う相手がいなければ。


 雅史はそういうつもりで言ったが、言われた佳子はそう捉えなかった。


 雅史が他の誰かを誘うかもしれない。そう思うと、考えるよりも先に佳子の手は雅史の手に伸びていた。

 辛うじて「やだ」と気持ちを口にすることは止めることが出来たが、既に掴んでしまった手はどうしようもなく。代わりに出た言葉は。


「一緒に来たい人、いるの?」


 そんな問い掛けだった。「やだ」と素直に伝えることとどれほどの違いがあるのか。言ってしまった後にそんなことを思ってみても、それは最早あとの祭りだ。


 だが、問われた方はそんな佳子の気持ちに気づくことはなく。

 問われた問いになんと答えれば良いのか。そのことに気をとられ、それどころではなかった。


 一緒に来たいと思っている相手は、今、目の前にいるのに、「いるよ」と答えるのは誤解を招くだろう。では言葉の前に「目の前に」と付ければ良いかと言えば、そんなこと出来るはずもなく。


「俺のことじゃなく、誰かが馬上(まがみ)を誘うかもしれないって……」


「そんなことありえないよ!」


「……はなし、だよ?」


 せめて勘違いを解かなければと告げた言葉に噛みつくように佳子が答え、その勢いに雅史の言葉はしりすぼみとなった。


 睨むようにじっと見つめる佳子の瞳に、雅史は鼓動が高鳴るのを感じながら、口にしたのはそんな自分の気持ちを冷ます言葉で。


「そんなの分かんないだろ」


「ありえないよ」


「いや、でもさ」


「誘われても断るもん」


 躊躇いもなく返されて、雅史はつい反射的に否定的な言葉を返してしまう。


「え……っと、いや、だって」


 そんな問答を繰り返す内に、気づけば佳子との距離は縮まっていた。正面からまっすぐ雅史を見つめるその瞳には、雅史自身の姿が見えるほどだ。吹きかければ息が届きそうなその距離に、鼓動が更に高まるのを感じる。その混乱からか、佳子に強く握りしめられた手から、自分の鼓動が伝わりはしないかと、益体もないことを考えた。


 自分が誘えば来てくれて、他の誰かなら断るのは、「そういうこと」なんだろうか。


 その答えが自分の期待通りであるなら、こんなに嬉しいことはないが、もしも勝手な勘違いなら。そう思うと、それを確かめるための言葉が続けられない。


「他には、いないよ」


 じっと雅史の目を見つめる佳子の瞳には、灯篭の明かりを背負った雅史の姿だけでなく、それよりもずっと奥で煌めく夜空の星までもが小さく見えた。


「いないよ」


 もう一度告げられた佳子の言葉に、雅史は細く息を吐き出す。


「俺も、いないよ」


 言って、雅史は佳子の手を握り返す。


 自分の手のひらが汗で滲んでいることも、今は気にならなかった。


「誘うのは……馬上だけだよ」


 鳴りやんだはずの祭り太鼓が、二人の間では今もまだなお鳴り響いていた。

風薫り届け留めることなく

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― 新着の感想 ―
 周囲が見ていて感じるだろう焦れったさが自身の中にも存在している内気な二人の関係がとても伝わります。  祭りの神事に関する細かい描写を入れる辺りは日浦海里様らしくも思え、星観に山へと向かう友人の話は私…
かわいい恋ですね。 ほぼ、理想的な・・・。 それを紡ぐ言葉がとても綺麗だと思いました。 堀田あけみ先生が「辞書を持ちなさい」とコラムで書いていらっしゃいましたが、こういうことなのかな・・・と思いました…
 落ち着いた雰囲気の中にお祭りの高揚感があって。それと重なるようなふたりの気持ちの静と動と、細やかに描写される周囲の情景が見えて。神様視点といいますか、二人の気持ちを含めて俯瞰で見るようでした。この神…
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