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敵の本陣のシャワールームの前にボクはいる。
磨りガラス越しに智を監視しながら、彼女が洗い終わって出てくるのを待っている。
ボクは壁を見つめていることになってるから、智は監視とは思ってないけども。
こんな状況で智の体に欲情したからじゃなくて、智が自傷行為に走らないように、見てる。
悠太くん達は、金貸し屋の人達を山本組の人達に引き渡す為、一旦外に出ていったから、この住宅にはボクと智の2人しかいない。
呆気ない。人生最大の絶望を味わったのに、幕引きはとんでもなく呆気なかった。
「いたた」
ボクなんて勝手に飛び出してボコボコに殴られただけだ。
これは腫れるだろうなー。明日仕事に行けないなー。
そんな事を考えるあたり、少しずつ現実に戻り始めているのかも。
智はなんて言うかな。別れようって言われちゃうかな。
愛する妻も守れないようなボクは愛想を尽かされちゃうのかも。
違う。智はそんな女性じゃない。
どちらかと言うと、きっとボクのためを思って何かを言うと思う。
ザーザーとシャワーの音が聞こえる。この先に智が居るんだ。
遅かったかもしれない。でも一生会えなくなる前に助けられた。
ボクはシャワールームの扉を開けて中に入った。シャワー中の、智は必死な形相で男たちの分泌液を洗い落とそうとして、シャワーを流しながらガシガシと乱暴に洗っていた。
「そんな乱暴にしたら肌に傷がついちゃうよ」
ボクはその手を握って止めたけど、振りほどかれちゃった。
「入ってこないでよ!いくら洗っても消えないの!臭いも!きっとあの男達のが残ってるのよ!」
再度その手を掴んで、智のことを抱きしめた。
「智。綺麗だよ」
「こんなになって綺麗なわけないじゃない!適当なこと言わないでよ!」
「男に汚されたくらいで智の綺麗さが、失われるなんてことはないよ」
智は激昂してボクを殴りつけた。
「男の言うことなんてもう信用出来ない!どうせあなたも私とやりたいだけなんでしょ」
「そんなわけないじゃん。智がボクのことを信じられないならボクのを切り落としたっていい」
「口ではなんとだって言えるわ」
「ならキッチンに行こう。包丁くらいあるでしょ?これ巻いて着いてきて」
「ちょっと待ってよ」
ボクは智にタオルを巻かせて1階のキッチンに移った。
勝手知らぬキッチンだけど、システムキッチンだから包丁置き場くらいわかる。
包丁を収納してある場所から包丁を取り出して、ボクはズボンと下着を脱いだ。
もう後戻りは出来ない。
時間は誰にでも平等に過ぎるのだから、最善の手を尽くすしかないんだよね。悠太くん。
「ボクは智に信じて貰えるなら怖くない」
自分に言い聞かせるように言った。
気を抜けば元の臆病なボクに戻ってしまいそうだ。
「本当にやるの?」
「智が信用してくれるならね。ボクは本気だよ」
多分表情は固いと思う。
不躾ながら作業台の上に、ボクのモノを乗せて、包丁を振り上げた。
願わくば智との子供が欲しいけれど、こんな目にあって智も行為に及ぶのも忌避してしまうだろう。
なら、ボクのは無くていい。ただただそばにいて欲しい。
「いくよ」
そう言ってボクは全身全霊の力を込めて包丁を振り下ろした。
振り下ろしたのだけど、狙いは大きく外れた。
ボクが外したわけじゃない。智がボクの腕にしがみついて軌道を変えてきたから逸れてしまった。
「離してよ。決意の固いうちじゃないとこんなこと出来ないんだから」
きわめて冷静に冷静に智にそうお願いをした。
正気の沙汰じゃないんだから。
「やめてよ。私の為に無理しないでよ」
やっとボクの言葉に耳を傾けてくれたね。
「智の為じゃないよ。ボクがボクのためにやるんだ」
「嘘よ……咲は優しいから」
「嘘じゃないよ。生きている以上時間は平等に進むものだから、時にはたくさん悩むこともある。でも出来るだけ前に進み続ける。失敗かどうかなんて、死ぬ時まで分からないから」
「何よそれ、誰かの受け売り?」
「うん。悠太くんって子に、かっこいいんだ。彼。智もかっこよくて可愛いけどね」
「あの白髪で長身の人?」
「ううん金髪の身長が低い子」
智はギョッとした顔で驚いた。
「あの子男の子なの?」
「うん。見た目は女の子みたいなのに、中身は凄くかっこいいんだ。その子に大事な言葉を2つも貰ったよ」
さっきまでは虚無を見ているようだったのが、今、智の瞳にはボクが映ってる。
「1つは今言ったのだね。もうひとつは、武力は無くても、心は強くあれ。だよ。ごめんね。智。ボクが無力な上、心が弱かった所為で、謝って済む問題じゃないけど、ボクは智と一緒に居たい。愛してるから」
「うぅっ、ぐっ」
言い終わると、智は情が昂ったようで涙を流して泣き始めた。
ボクは慰める事もせず、黙って智に寄り添う。言いたいことは言えた。一方的に思いをぶつけただけで、智の気持ちは聞いてないけれど、この状況で言葉を求めても心が追いつかない。
だからボクは待つ。智が何かを言ってくれるまで。でも。
「ごめんね。服だけ着ようか」
水を差すようだけど、妻の裸は悠太くんであっても見せたく無いからね。
「智。ボクと居るのが嫌だったら女の子呼んでくるよ?」
洗面所の外から声をかけた。
恐らくもう、みんなが心配するようなことは無いと思う。
「いい。そこにいて」
「わかった」
そう言われて安心しちゃうくらい。ボクも不安だった。
まだ安心しきっちゃいけないけど、扉1枚を隔ててここに居ることを許されて少し嬉しかった。
「ねえ」
「うん」
「私のこと、本当に抱けるの?」
智の声は平坦だ。
「抱きたい。抱きしめたい」
「咲じゃ満足出来ないかもしれないよ」
「うん。努力する。夫婦ってセックスだけじゃないでしょ?」
「私はエッチな体に作り替えられてるかもよ?」
「それならボクだってこれから筋トレしたりして智がこの件を忘れられるくらい抱く」
「今までお互い1回で満足だったのに?」
「幸せだったから言ってなかったけどボクだって男なんだぞ。性欲だってある。もうガッツリ抱く。智が涙を流しながらやめてって言うくらい抱くよ」
「最低な告白。ふふっ」
「ボクは人に意見を言わずに生きてきた」
「結婚の時だって私からプロポーズしたもんね」
「うん。智にはできるだけ甘えてたつもりだけど。いつもしたい事を言わないで流されて生きてきた。でもね、ボクも彼みたいに男らしく生きてみたくなった」
「そのしたい事が私に寄り添いたいって?」
「うん。男で申し訳ないけど、ボクは智とこれからも一緒にいたい」
「あー!もう我慢できない!」
智が叫んだかと思えば、んちゅ。と唇に柔らかい感触があった。
「好きよ。大好きよ。咲」
「ボクも大好き」
「咲と出会えて良かった」
「それは死ぬ時まで分からないよ。でも、全身全霊、努力するよ」
「ふふ、悠太くんの言葉気に入ったんだね」
「ボクの座右の銘にするんだ」
彼に貰った命を無駄にしないよう。智に言った言葉が嘘にならないように、ボクは全力で生きるんだ。
「咲さん。今全員運び出したからもう出てきても大丈夫だよ」
仕事を終わらせた悠太くんが顔を見せた。
「……本当に女の子みたい」
智が呟くように言うと、彼はしかめっ面をした。
「初対面なのに俺煽られてる?」
「咲から男の子って聞いてたけどどうも信じられなくて、気を悪くしないでね」
「慣れてっから良いけどさ。でも咲さんだって女みてぇじゃん。初見じゃわかんなかったよ」
「だよね!咲綺麗だよね!」
悠太くんは皮肉で、ボクの容姿をいじってみたのだろう。だけど、智が真に受けて返したことで、彼から生暖かい視線を向けられた。
同族に対する同情の念だね。悠太くんも苦労してそう。
「取り敢えずさ、智さんを病院に連れていこうぜ」
「ん?病院?」
返事をしたのは智だ。
「ほら、なんつーか。その。出来てたらあれだろ?」
相当言いにくかったんだね。男の子だもんね。
「あー……ねえ。出来てたらどうする?」
「子供の前で生々しい話しをしないよ。智が産みたいなら産も。智の子供ならきっと可愛いよ」
ボクの血が入っていないから複雑な気持ちではあるけれど、大丈夫。智を受け入れるって決めた時点で覚悟してるから。
「咲は本気で私のこと、愛してくれてるんだ。ふふ」
「何その含みのある笑顔は」
「妊娠の事なら大丈夫だよ。出荷前に孕まないようピルを飲まされてたから」
「出荷って奴隷みたいに言わないで」
「しょうがないじゃんか。この2週間本当に家畜か奴隷みたいな扱いされてたんだから」
そう言われると、ボクも悠太くんも何も言えなくなってしまった。
「しんみりしないでよ。ご主人様?」
智が上目遣いでボクのことを見つめてきた。
ボクが智のご主人様……ゴクリと唾を飲み込む。
「ふふ。本気にした?」
「もう!さっきからボクを試すようなことばっかしてー」
「試すよ。咲がかっこいいこと言うんだもん。綺麗で可愛いのが咲だったのに」
ぷくーっと頬を膨らませて、非難の目を向けられた。
「綺麗で可愛いとか言われても嬉しくないよ。ボク男だからね」
「な!そうだよな!咲さん!」
悠太くんめちゃめちゃ嬉しそうだね。
「うん」
「いやー咲さんはわかってくれるよな!俺も男なのに可愛い可愛いって持て囃されてよ!たまに自分が男なのか不安になる時があるぜ!」
君は特に女の子みたいだもんね。小さくてお人形さんみたいだから。
「それより、みんな待ってくれてるんだよね?なら外に出ようよ」
「忘れてた!病院が大丈夫なら事務所に直行だな!仕上げに掛かるぜ」
そう言って彼は獰猛な笑みを見せた。
悪そうな顔をしても小動物にしか見えないのは黙っておこう。怒られそうだし。