一歩踏み出す勇気
金髪天使
その夜、天使さまに出会った。
身長は小学生ほどで顔も幼い。けれど整っていて、まるでフランス人形のよう。
綺麗な金髪は夜風にユラユラと揺れていて、海を思わせる青い瞳は真っ直ぐに、こちらを写している。
映った姿は酷いものだ。智が褒めてくれた髪はボサボサ、シャツはヨレヨレになっていて、どうみたって成人した社会人のものでは無い。
神様がお迎えを寄越してくれたのかもしれない。
それならこちらではなく、智を助けて欲しい。
目の前の天使さまが、小さく可愛らしい唇を開く。
「なんで死のうとしてんの?」
男性とも女性とも取れるハスキーな声。それに随分とお口の悪い天使さまだ。イメージと違う。
きっと、ここでどう答えるかで、逝き先が決まるのかもしれない。
何も悪いことはしていない。
何も――何もしていないんだ。ただ、願わくば智にもう一度……会いたかった。
「泣くなよ。泣いてちゃ話聞けねえよ」
天使さまが俺の隣に立って、ハンカチを差し出してきた。
こんな不甲斐ない奴にも優しくしてくれるなんて、口は悪いけど、優しい。
「……ありがとう、ございます」
お礼を言ってハンカチを受け取ると、天使さまは黙って空を見上げた。
こんな社会不適合者の泣き顔なんて気持ち悪いだけだもんね……。
夜空には雲ひとつなく、星がキラキラ輝いていて、月の明かりが天使さまの髪を照らしている。
風に揺れる髪が顔にかかって邪魔だったのだろう、天使さまは髪をかきあげて空を見上げた。
仕草の一つ一つが様になっていて幻想的だと思う。不甲斐ない奴の最後には過ぎた光景だ。
いけない。見蕩れてないで早く涙を拭こう。
「…………」
どれだけ拭っても涙が止まらない。人の優しさに触れたのなんて久しぶり。自分でも制御が効かなくなっている。
「さっきより泣いてんじゃねえか。泣き止むの待っててるから、ゆっくりでいいよ」
そう言って、天使さまはゆったりと、腰を下ろした。
天使さまもきっとお忙しい中、ボクの為に現れてくれたはずだから、早く泣き止まないと。
「ズズっ」
鼻水を啜り、涙を拭いて嗚咽を堪える。
思い出は、天使さまに語りながら、消化するとしよう。
「話……長くなるかもしれないですけど、いいですか?」
「いいよ。楽になるなら全部吐き出しちまえよ」
抱えている物を持ったまま、自殺をすると地縛霊になるかもしれない。だからだろう。
地縛霊、それもいいかも知れない。地縛霊として対峙したら、智を取り巻く環境を一掃出来るかもしれない。
「つい1か月前のことです。智のお父さんが亡くなった事から始まりました」
それでも口を開いてしまったのは、天使様の強い意志が籠った瞳に、そう言った類の力が宿っているのか。それとも自分の意志が弱いのか、どちらかは分からない。
きっと後者かな。智にも優柔不断とか押しに弱い、優しすぎなんて言われてもいたし。
「へぇ、パートナーの?」
天使様だから、こちらの事情は把握していると思って、智の事は説明せずに話してみたけど、当たっていたようだ。迷わずパートナーだと当ててきた。
やはりここの自白で審判を受けるのかもしれない。
「そうです。それまでは智と2人で慎ましやかながら、幸せに暮らしてたんです。趣味のお菓子作りを一緒にやって貰ったり、智は活発的だったので、一緒に山登りをしたり」
智との思い出せば思い出すだけ、また涙が込み上げてくる。
「幸せ。だったんだな」
「はい――あの時までは」
「お父さんが亡くなった時までは、か」
「えぇ、義父も高齢と言うにはまだ若かったんです」
「へぇ」
「だから義父は近所に一人暮らしをしていました――――それで、義父が亡くなった理由……なんですけど」
あの日から智との夫婦生活は音を立てて崩れ去った。
「自殺だったんです」
天使さまは顔を顰めた。
最初にお父さんを見つけたのは、晩御飯のオカズを届けに行った夕方頃。現場は酷いものだった。
インターフォンを押しても反応が無く、心配した妻がドアノブを引くと、鍵は空いていた。
玄関には義父の靴があった。じゃあ、昼寝でもしているのだろう。
そう思って2人で中に入った。
智は鍵を開けっ放しにする義父をよく叱っていて、その日も寝ているであろう義父に「鍵開けっ放しだよー!」と、声を上げながら家に入っていった。
智に続いて玄関を跨ぐと、先を歩いていた智がリビングのドアを開けたまま、硬直していた。
「おっさん……息が乱れてるぞ、大丈夫か?」
天使さまの声で我に帰る。天使さまが大きな瞳で私の顔を心配そうに見つめている。
「……すみません。少し思い出してしまって」
「そりゃー、キツイよな。ゆっくりでいいから」
なんとお優しい、世界がこの天使さまみたいな人間で溢れていたら、と思ってしまう。
いや、考えるのはやめよう。自白をして――もしかしたら天使さまから聞いた神様が、奴らに天罰を下してくれるかもしれない。
「……すみません」「そのすみませんやめろよ。悪いことしてねえじゃん?敬語も良いよ。」
……話が進まないもんね。
「分かったよ。義父には、借金があったことがわかったんだけど」
「借金を苦に自殺か。よくある話しだけど、いたたまれねえな」
「違う!義父は借金なんてしていない!智もお義母さんも!!!」
コンクリートの床を強く叩く。痛みは感じない。
「誰も借金なんてしていない……のに。あいつらは…………」
「……悪かった。何があったか詳しく聞かせてくれないか?」
「お義母さんは生前認知症を患っててね。訪問販売員を語った金貸しの人達に騙されてた。子供の事も認知出来ない老人にサインさせて……酷いよね。」
寂しかったんだろう。笑顔で自分と会話をしてくれる都合の良い金貸しに気を良くしたのだろう。
これは、お義母さんを恨んでも恨みきれない。
もっとも、この事は、亡くなった義父の遺言で知ったから、恨みようが無かったけども。
「架空の借金ね」
「そうだよ」
お義父さんの遺言曰く、架空の借金は義母が病気で他界した後、発覚した。というか、取り立てが来たらしい。
「その架空の借金を、義父は自らの命を持って償ったんです――こちらには迷惑かけないように」
義父の遺言には相続を放棄するように書かれていた。
今の時代、そんなの法的措置を取ればどうとでもなるのに……でも、馬鹿だ。とは言わない。家族を大事にする義父らしい行動だったから。
「それで、言いたいことは沢山あるけど、義父で終わったことなら、なんで死のうとしてるんだ?」
「あの人たち、理不尽だよ……智の所まで取り立てに来て。相続を放棄したって言っても話なんて聞いちゃくれない。払わないっていったら殴られて……利用価値があるって言って……智を連れて行った」
あの時の智は泣きそうな顔で、それでも笑顔で、借金終わらせて帰ってくるから安心して欲しいって言って出ていった。
「待て待て、それで連れてくなら妻の方じゃないのか?何で旦那の方を?」
「……はい?」
「あー、死ぬまで漁船に乗せるってことか?いやでも、そんな卑劣な事する奴らなら、あんたの方を連れていくだろ普通」
「あ、いや、ボクが旦那です」
「は!?男なの!?」
天使様が口をあんぐり開けて驚いている。
神様に事前情報で貰っていなかったのかな。ボクは女みたいな見た目をしているけれど、生物学的に男。
身長は170以上あるけれど、線が細くて、高校の頃に着いたあだ名はヒョロがり。
智は、こんななよなよしたボクとは違って、健康的で、勝ち気な姉御気質のかっこいい女性だ。
「ま、まあ俺だって男だしな。えーとお兄さん?みたいな男がいてもおかしくねえ」
天使って中性的だもんね。
きっと彼がその見た目で現世に生きていたら大変だっただろうね。
「けどよ。それなら話は変わるぜ?奥さんを連れていかれて、あんたはそのまま死んで楽になってそれでいいのか?」
「いいわけないよ!!!それでもどうにもならないんだ!!……暴力相手には法律も警察も役に立たない!!!」
カッとなってついどなってしまった。
天使さまは怯える様子もなく、真剣な眼差しで、俺を見ている。
「気に食わねえ」
「気に食わないなら……天罰を下してくださいよ……」
「あぁ?気に食わねえって、金貸しのことだけじゃねえよ」
天使さまは言った。
「奥さんが地獄みたいな人生歩むかもしれねえってのに、逃げようとしてるあんたが気に入らねえ。どうせ死ぬならなんで戦ってみない?結婚する時一生を添い遂げるって誓ったんじゃねえの?ふざけんなよおい!」
天使さまは俺の胸ぐらを掴むと、鬼気迫る勢いで、口を開いた。
「じゃあもう死ねよ。奥さんはどうなるんだろうな、沢山の男に抱かれて、薬漬けにもされるかもな。あんたは本当にそれでいいんだよな?死ねば現実を見なくていいんだからそれでいいんだよな?」
「……出来ることなら助けたいですよ」
でも、喧嘩もした事ない自分には、そんな勇気は微塵も、ない。せめてできることと言ったらニュースになって、世間を動かすこと、その為の遺書も書いた。
吐き捨てるように言った俺を天使さまは黙ってじっと見ている。
その青い瞳は、俺を見極めているようだ。
「立てよ」
しばらくすると天使さまが言った。
言われた通りに立ち上がった。
ここは四階建てのマンションの屋上。落下防止ように張られた柵の外で強い風が吹いている。
今なら暗闇で下が見えづらい。1歩踏み出せばきっと死ねる。
「天使様。私は……地獄行きですか?」
分かりきった質問だ。天使さまに八つ当たりのような声を上げたボクは、地獄行きで間違いない。
だけど、天使さまは笑った。キョトンとした顔をした後におかしそうに、腹を抱えて笑った。
「あははははは――――――なんつうかあんた勘違いしてるぜ」
「…………?」
天使さまの言っていることが分からない。
「まあ良いや。じゃあ、話は全部聞いたから逝っていいぞ」
天使さまはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「大丈夫。1歩踏み出すだけだ。死ぬ気だったんだから余裕だろ?」
そうだ。ボクは死ぬ。明日のニュースで1番を飾るんだ。見出しはそうだな。
妻を詐欺師に寝取られた男が自殺。警察は犯罪を黙認か。かな?
でも、報道前に握り潰されたら?相手は警察も動かないような組織だよ?
いや、やるんだ。ボクが死ねば何かが変わる。生きててもどうにもならないんだ。報道されなかったとしてもSNSで誰かが晒してくれるかもしれない。
妻を、智を助けるためならボクは命すら投げ出す。
足を上げて一歩踏み出す。
「――――――――なんで」
踏み出したはずの足は、まだ地面を踏んでいた。
膝はガクガク震えて、立ってる実感すらないふわふわした感覚なのに、まだコンクリートの上に立っていた。
なんで踏み出せないんだよ。死んで智を助けるんでしょ?なんで足が震えるの?死ぬのなんて、怖くない。筈だよね?
「なんだ、死ぬのがこえーの?あんだけ死にたがってたくせに」
天使様はボクを小馬鹿にするように笑った。
「じゃあ俺と取引しよう。そうだなぁ、悪魔の取引だ」
「……取引」
「そう、取引。簡単な取引、俺に取っちゃなんの利益もないけどな……ここから飛べたら、俺が奥さんを助けてやる」
自分が死んだ世界で、幽霊になって、路頭に迷うかもしれない奥さんを見届けるなんて、地獄だろ?と天使様は続けた。
「……ぐっ」
「何もしなければ智さんは奴隷。1歩踏み出せれば勇気ある1歩、あんたは英雄になれる。俺が認めてやるよ。どうする?」
そんなの決まってる。
「……飛ぶ」
「じゃあ、覚悟を決めろよ」
そう言って、天使様改め悪魔はボクの背中を摩った。
先程まで感じていた恐怖はもうない。
「悪魔の様だね」
「悪魔だ?ははっ!天使よりよっぽどいいや!」
悪魔と言われて喜ぶなんて、おかしな天使様だ。
智……もし無事に助かったなら、ボクのことは忘れて幸せになって欲しい。
ゴクリと唾を飲み込んで一息、ボクはコンクリートから勇気の一歩を踏み出した。
足場を失った体は直ぐに落下していく。
大丈夫、痛いのは一瞬だけだよね。でも、万が一死に損じたら暫くは痛いのかな。
こんなことなら頭から飛び込めばよかった。目を瞑る。風を感じる。何だか心地良い。
死ぬ直前は時間を長く感じる。なんて聞いた事があるって聞いたことがある。
走馬灯ってあるんだね。智と出会った頃から今までの幸せだった出来事が鮮明に思い出されるよ。
どうせ死ぬんだ。この走馬灯を楽しもう。