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冬ガ君ヲ覚エテイル

作者: 入野水天

天使の梯子が地上に降りてくる朝方。

 人気のない町。

 田畑が永遠と続き、言霊達の会話が聞こえる。

 幾年も昔から、変わることのないこの景色。

 その景色の中で、ただ一人私だけが成長していく。

 変わらないのに、変わりたくないのに、全てが無常の如く、進んで行く――――。


 ***


 温かいココアの入ったコップを両手で包み込み、囲炉裏に座り込む。

 台所では、お爺さんがお湯を沸かしていた。

 パチパチと火が燃える音。コツコツとヤカンとコンロの擦れる音、時折吹く隙間風がガタガタとドアを振動させた。


「お待たせさん」


 お爺さんがコップを二つ持ってきた。一つは私の隣に座る無愛想な青年(おに)に渡す。

 お爺さんは一度私の顔をチラッと見てから、向かい側に座った。

 それから顔の表情が崩れた笑顔を見せる。


「助けてくれて有難うね、お嬢さん」


 私は軽く会釈する。


「お嬢さんが来なかったら、凍え死んでしまう所だったよ。本当にわたしは運に恵まれているね」


 私は黙ってココアを啜った。

 私は今、近所に住むお爺さんの家に上がっている。というのも、青年に付いてきた所、このお爺さんが玄関の前で倒れていたのだ。

 どうも空腹で気絶していたらしい。

 真っ青だった顔色も今はすっかり頬を赤く染めている。

 体調が戻ったのなら幸いだ。


 私はふと視界に入った写真が気になった。

 若そうな夫婦がこちらをまっすぐに見て微笑んでいる。椅子に座る女性と、隣で女性の肩に手を置く男性だ。

 写真の色は少し褪せていて、男性の顔つきは、どこかお爺さんの面影もある。

 私の目線に気がついたお爺さんは、


「美しいだろう? わたしの嫁さんなんだ」


 そう言って、立ち上がり、写真たてを大事そうに抱えた。それから私に渡してくれた。

 私はコップを床の上に置き、写真を受け取る。

 お爺さんが”嫁さん”と言った女性は、美しかった。


「こっちがわたしで、この椅子に座る嫁さんは”ヨネコ”って名前でね、すごく可愛らしい子なんだよ」


 お爺さんの声が暖かかった。

 相変わらず、囲炉裏ではパチパチと火の燃える音がする。


「わたしの一目惚れでね、何回も何回もデートに誘って、何回も何回も告白したんだ。それで何回目だったかなぁ。やっとお付き合いさせてもらう頃には、20代半ばだったよ」


 幸せそうな二人の笑顔が私の方をまっすぐ見ていた。


「でも、30代入ったばかりの頃かな。ヨネコさんに病気が見つかってねぇ。もう発見した頃にはどの治療もできないぐらいに手遅れだったのさ。そこからは本当にあっという間だったね……」


 お爺さんはこの広い家に、一人で住んでいる。

 私はコップを持って一口ココアを啜った。


「もう、ヨネコさんがいなくなって40年以上も経つなんて、考えられないんだよね。そんなに長い年月わたしは独りで生きていたのかって実感するし、同時に、あっという間だったんだよ。時間なんてわたし独りを置いてけぼりにしていってしまうからね、わたしの中では、まだあの頃のままなんだ」


 もっと、ヨネコさんと思い出を作りたかった――――。

 記憶が色褪せ、なくなってしまう前に、思い出を残したかった――――。

 もう、どんな会話をしたか、何で喧嘩したかなんて、覚えていないんだよ――――。


 お爺さんは少しだけ寂しそうに言った。

 私の隣に座る青年はココアをじっと見つめていた。


「――お爺さんは、会いたいですか? ヨネコさんに」


「……そうだねぇ、会えるものなら会いたいけれど、もう分からないよ」


「分からない?」


「わたしは彼女の何に惹かれて好きになったのか。彼女の魅力がなんだったのか、声も癖も、鮮明には思い出せないんだよ」


 でも――、とお爺さんは言う。


「わたしは只、”ヨネコ”さんという存在が途轍もなく好きだったのは覚えているんだ」


 また、隙間風が肌の下を摩った。



 ***


 お爺さんの家を出ると、もうすっかり朝日が登り、小鳥達が空を舞い出していた。

 相変わらず人気のない道を、私と青年は無言で歩き続ける。

 私の前を青年が歩き、

 私は青年の背中を只見つめる。


「ねえ」


「………」


「ねえ」


 もう一度呼びかける。

 すると青年は立ち止まって、口元はキュッと結んだままこちらを振り返った。

 藍色の瞳がキラリと反射する。


「さっきのお爺さん、他に家族はいないの? 私をあそこに連れていったって事は顔見知りなんでしょ?」


「――知ラナイ」


 と、今度は素直に答えた。


「僕ハ、何モ知ラナイ」


「何よ、それ」


 教えたくないだけじゃなくて?

 ――まあ、別に私の知ったこっちゃないけど。


「ねえ」


 歩き出そうとする青年を、私はまた呼び止める。


「………」


 今度は無視された。


「ねえってば」


「――――」


 無言で振り返る青年は少し不機嫌そうだった。

 それでも構わない。

 私と貴方には、何の繋がりもない。何の関係性もない。どう思われたって構わないから。


「私もいつか、貴方と出会った事を、忘れるのかな」


 それでも――。

 貴方と出会った事は忘れたくない。

 それでも――。

 この記憶は消したくない。

 それでも――。

 消えてしまう日が来る事を恐れている。


 青年は空を見上げた。釣られて私も見る。

 一片雲が目の前を通り過ぎていった。


「――――――」


 青年の口元が動いて、風に乗って音が流されて行く。冬の冷たい風が、転んだ膝の傷に少しだけ響いた。

 青年の柔らかな髪が揺れて、どこかで、大きな鐘の音がなった――――。


 ***


 結局、彼が何を言ったか私には聞こえなかった。

 彼はあの後またスタスタと歩いて私の前から姿を消してしまったのだから。

 あの時、問い返せばよかったのだろうか? 何て言ったのか、気になる。心の隅に引っかかる。

 でも、問い返す事を、私はしなかった。

 何でか分からない。

 気になるけど、別にしなかった。そこにきっと理由なんてないのだろう。

 人間は、そんな生き物だから。

 私も例外ではないから。



 ***


 次の日、彼はまた私の目の前に現れた。

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