第88話 市場
【テイクンシティー シュシリ通り】
【南門前 南市場】
「ふーん、これ安いなぁ」
ブライアンは一人、市場を訪れていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 新鮮な野菜あるよ〜!」
「今朝獲れたばかりの、イカはどうだい〜?」
最近はアイリが出かけるのが早くなっていたので、思い切って朝から市場に顔を出してみた。
まさに、国の台所。
野菜、魚、肉、果物、パン、あらゆる食材が並ぶ。いや、食材だけではない。少し離れた北側では、ガラス細工や衣服、布生地まで店頭を賑わせる。
活気あふれる市場に、朝早くから多くの人が訪れていた。少し気を抜けば、ぶつかってしまいそうな人の波。
ブライアンの目当てのものは、少し先にある。
辿り着く前に他の鮮やかな食材達に、こんにちは、と挨拶されてしまい、考えあぐねていた。
手に持つカバンの中に向かって、さり気なく話しかける。
「どうしようか、先にこっち買っちゃおうか。イカは欲しいよね?」
カバンの中で、人形がガタガタと強く揺れた。ブライアンはそれがおかしくて、クスクスと笑いだす。
人形は、無理やりカバンに押し込められ連行され、不機嫌なのだ。わざわざ市場に連れてくるとは。
イカは欲しいだろ、などと人形は食べれもしないのに、いちいち尋ねてくる。そんなブライアンに、更に機嫌を悪くしてしまった。
「アイリ、イカ好きだし。そうだ、今日はナヤ芋のグラタンにしようか?」
知るかぁ!
そう言わんばかりに、人形はまたもカバンをガタガタと揺らす。
ブライアンは笑いを堪えながら、イカを手に取った。新鮮なイカは、まだ少し動いているようだ。陽の光に当たると、美味しそうにプルンと光る。
売り場の店主は、カバンから覗く人形に目をパチクリさせた。
「あんた、その人形なんだぁ?」
不自然にカバンから覗く、美しく長いブロンドの髪。
気付かれるとは思わなかったブライアンは、アハハ、と笑みで誤魔化し人形を撫でる。
「妹のなんだけど、新しい服作ってあげようと思って。ほら、向こうで生地も売ってるでしょ、合うの探したいから」
「ほぉ、そうかいそうかい。優しいお兄ちゃんにおまけ、付けとくよ」
新しい服、という言葉に人形がピクリと反応しカタカタと動く。僅かなカバンの揺れに気付き、ブライアンはひくっと顔を引きつらせた。
──動かないでくれ、頼むから。
太っ腹な店主は、ウミアケビを一房入れてくれた。
「ほれ」
「ありがとう」
「まいど!」
笑顔の店主に別れを告げ、その場を後にする。
「……本当に新しい服作ろうか」
──カタン。
小さく、しかしはっきりと一回揺らす。
これは、肯定の合図。
「お、本当に?」
カタン。
「じゃあ、あっちにも寄ろうか」
帰ったら、いきなり服が変わっている人形。これは、アイリの反応が楽しみだ。
踏み出す足の方向を少し変えた、その時。
「うわあああ!!」
「逃げろおお!!」
ひゅおおおお。
市場を強く駆け抜ける風と共に、悲鳴が後ろからいくつも飛んでくる。
「ぎゃああああ!!!」
「そ、そっちだあああ!!」
「……なんだ?」
ブライアンが後ろを振り返ると、白い影が視界を遮り、影から飛び出した。
「グルルル……」
美しい、白い獣の姿。
絞り出すような唸り声、地面に立つ四本足。ブライアンの目の前で、しっかりと立っている。
こちらと目が合うと、足がついた地面がピリピリと震える。獲物かどうか、あの獣に品定めされているかのよう。
大きな尻尾がだらんと垂れ下がり、地面をぴしゃり、と叩く。
オオカミか……?
警戒心を剥き出しにしたその目には、荒々しさが宿る。
威嚇なのか、前足で地面をガッガッと鳴らす。
剣を磨いたような、短いが鋭い牙。その牙は、青緑色の何かで鮮やかに彩られ、色は口の端にまで広がっている。
ピチャン、と牙から何かの雫が一つ、地面に落ちて小さな丸い円を作った。
何事かと店から出てきた人々も、美しい獣の牙に恐れをなし、次々に逃げだす。
「ひえええ!!」
「い、急げ、早く!!」
「ぎゃああああ!!」
阿鼻叫喚。
「グルル……」
ブライアンは一人動かず、ただその存在を見つめた。
風で、獣の毛がなびく。
ザッザッ!!
獣は飽きたのか、向かう先でもあるのか、ブライアンに背を向けると走り去っていった。
ゆるかやかな風だけを、市場に残して。
「あれは……」
ブライアンが呟くと、カバンの中の人形がまたカタカタと音を立てる。
「あ、分かったんだ? 何事も起きないといいけど」
──カタン。




