第86話 庭
【テイクン北部 カンガリ地方】
【ノブレ邸】
ヒュオオオオオ。
風がうるさく音を立てる。ここは、とある貴族の屋敷の庭。
木々が風に煽られ、枝が風に引っ張られていくようだ。空を覆う雲も厚く、もうすぐ雨が降るかもしれない。
一人の庭師が庭に出てきた。この屋敷のお抱えの庭師だ。
「ふぅ、今日は風が強いなぁ」
これは、肌寒い一日になりそうだ。
時刻は朝。太陽はもう起きているというのに、彼の瞼は降りようとしている。
この強い風と肌寒さは、目を覚ますのにはいっそ有難いのかもしれない。
早く仕事を始めなければ、と庭師は準備に取り掛かる。仕事は丁寧に。
常に気難しい顔をしている主人も、この庭をいつも褒めてくれるのだ。
今日は、奥の高い樹木からだ。彼が密かにマリーヌと読んでいる、立派なカナの木。脚立を広げ、いつもの通りにセットする。
「よいしょっと……」
──バシュッ!!
一瞬、ほんの一瞬視界の端に飛び込んで来た。
「おや?」
今、何か通ったか。素早く通り抜けて行った、何者かの気配。
ふと隣を見ると、隣のカナの木の葉が一部、枝ごとえぐれてしまっていた。ちぎれた葉がパラパラと、地面に落ちていく。
虚しく舞い落ちる、赤い葉っぱ。
「あああ!!」
──なんということだ、私が長年造り上げた芸術が。作品が。
確かに今、後ろから何かが通った筈。何が邪魔をしてきたのだ。まさか、道具が何か飛んだのではあるまいな。
庭師は慌てて木の裏に回り込み、飛んできた何かを探す。だが、それらしい物は見当たらない。
──では、何があったのだ。さっき感じた気配は。
「……!!」
その時、とある可能性を思いつき足が一瞬すくむ。
……まさか、見えざる者?
「いやいや、こんな場所に来るもんか。見えざる者なんて」
都会から離れた、こんな広々した場所に。見えざる者って、人が多い賑やかな場所に出るものだろ。シティーのような。
こんな静かな屋敷になど、来ないだろう。
言い聞かせるように、自分自身に小さく頷く。それでもやはり気になり、マリーヌの裏にも廻ってみる。
「ん?」
マリーヌ、いやカナの木の一つ後ろの木。
そこに、四本の足で後ろ向きに立つ存在があった。フサフサした白く美しい毛が、強い風でなびく。
「……」
「なんだ、獣か」
獣が通り抜けていただけだったのか。
美しい後ろ姿。姿が見えて、ホッと安堵した。見えざる者ではない。
キツネか何かだろうか、美しい姿。見えざる者ではなさそうだが、獣といえど油断は出来ない。
凶暴だったらどうする。さりげなく距離をとろうと、庭師はゆっくり後退りした。
足が立てる音に気付き、獣が振り返る。
「……ん?」
ゆっくりと振り返った、その姿。
その顔。
「……ひ、ひえええ!!」
──ドスッ!
庭師は驚きのあまり転び、派手に尻を地面にぶつけた。
「ひえええ!!」
口を金魚のようにパクパクさせ、体をこれでもかと震えさせる。
「グルルル……」
「あ、あ、ひええええ!!」
獣には、大きな叫び声が耳障りな声でしかなかったようだ。
どんどん鋭くなっていく、爛々と奥深い光を宿した目。
恐怖のあまり、庭師は後ろ向きのまま転がるように逃げ出した。
「お、お助けえええ!!!」
足をもつれさせ、腰もおぼつかない。
それでもなんとか、足を動かし逃げだす。
「グルルル……」
獣の口の周りは、紫色でべったりと汚れていた。その口で咥えていたものは。
パリパリと割れて砂になっていく、哀れな獲物。
獣は口に咥えたものを不味そうに、ぺッとその場に吐き出したのだった。




