第321話 運動
【ナーガ公国】
【西部 ススラ】
「はぁ、はぁ、かなり離れた筈……ですよね」
「ヨーちゃん、大丈夫?」
もたれかかった背中に感じる、ひんやりした石の温度。
大丈夫、と答えようとしたのだが、妙に息が荒い。どうも、身体の動きが鈍かった。
街を走り回る兵士達をなんとか振り切り、路地に飛び込んだ。テイクンに帰るどころか、逃げ回るのが精一杯だ。
いくら見渡しても、同じ見た目、同じ大きさの建物しかなく、どう進んだのかさっぱり分からない。
「調子悪いのぉ?」
「来た時は大丈夫だったんですけどね」
奇妙な汗が噴き出しているのに気付き、カリンがハンカチを取り出し、ヨースラの額に当てる。
「カリンちゃんは大丈夫なんですか?」
「うーん、ちょっと息苦しい気もする。この国の空気、悪いよねぇ」
この国は、テイクンより随分と夜が短く感じる。
日が射してきて、辺りが徐々に明るくなっていく。だが、漂う薄汚れたもやまでは晴れない。街全体に、膜がかかっているような。
喉の奥が、チリチリと熱い。
明るくなってきたからか、ちらほら兵士ではない民の姿も見える。
「国の人達、出て来たね。ウフッ」
「そうですね」
少し肌寒くなる季節ではあるが、民はこの気温にそぐわない程の、厚着をしていた。
重い服を着込みながら、一人一人力強く地面を蹴り、街を駆けていく。
「走ってますよ……」
「みんな急いでるのかな〜? ウフッ」
「いや、そんな風には」
規則正しく、動く足。きっちりと、拍子を刻む。しっかりと、地面に足をつけて。
これはまさか、ただの運動。
「流行っているんでしょうか……?」
人々が次々と建物から飛び出し、走りだす。中には、7歳くらいのまだ幼い子供の姿もあった。
異様な光景に、二人はしばらく釘付けになる。
埃っぽい風が、通りを駆け抜けた──次の瞬間。
「何をする、放さないか!」
すぐ近くから聞こえてきた、男性の大きな怒鳴り声。
殴りつけるような大きな声に、二人もビクッと反応する。
「めぐんでくだせぇ、我にどうかお恵みを」
「うるさい!」
みすぼらしい格好をした男が、運動中の男の足にしがみついていた。
物乞いだ。腕の肌にはまだ張りが見られるのに、随分と年老いて見える。
しがみつかれた男は、鬱陶しそうに物乞いを振り払う。
「やめろ! 今は総動員の時間だ、貴様もさっさと走らないか!」
「どうか、どうか」
尚もしがみつこうとする物乞いを蹴り飛ばし、男は再び走り出した。何事も無かったかのように。
周りの民達も、今の光景を目に止める事もない。ただひたすら、足を動かす。
これが恐らく、この街、この国の日常。
「総動員の時間、か。もしかして、みんなで走るって決められているんでしょうか」
「なんだかこわ〜い」
だが、ここまで多くの民がいると、見つかるのも時間の問題だろう。どうしたものか。
「思い切ってさ、カリン達も走ってみる? ウフッ」
「あぁ、いいかもしれませんね」
木の葉を隠すなら、なんとやら。人を隠すなら、さぁどこだ。
服装に不自然さはあるが、堂々としていれば紛れるだろう。上手くいけば、人の波に乗って遠くに出られる。
顔を見合わせ、思い切って足を踏み出そうとした──次の瞬間。
ファアアアアアアアアアアアン!!!
「ひゃあ!」
あちこちから聞こえて来る、大音量。地面から響くような、汽笛のような音に思わず耳を塞ぐ。
「うるさいなぁ〜、何の音?」
「これは、まさか」
『緊急命令、ナーガ全国民総動員発令による、緊急命令! こちら、ナーガ国営による全国放送。軍事司令部より、緊急命令である。軍から二名、捕縛者が脱走した!』
「え!?」
固く強い、男性の声。
呆然となる二人の前で、ナーガの民達が皆足を止める。目にギラついた光を宿らせながら。
『発見次第、スレイド軍本部基地まで連行されたし! 脱走者の特徴はピンクの髪──』
「うっそぉ!」
全国放送で長々と語られる、二人の容姿。
「カリン達、指名手配されちゃったのぉ?」
「こんな手があったんですね……」
ナーガの民達もざわついてはいるが、辺りをキョロキョロと見渡し、二人を探している。軍に従っているのだ。
最早まずい、などという段階ではない。
「あ!!」
「いやぁ、見つかった!」
早々にとある幼い民に指さされ、周りの民達の視線が二人に突き刺さる。
「カリンちゃん、行きますよ!」
ヨースラがとっさにカリンの手を引き、通りに飛び出す。広い通りに、彼等の存在が露わになった。
「いたぞ、脱走者だ!」
「よし!」
屈強な男達が率先して、こちらに向かって来る。
「ひぇえええ!!」
「待てぇええ!!」
二人は必死で、足を動かす。荒れる呼吸を抑え、とにかく前を目指す。
何とか振り払い、角を曲がった瞬間。
「やった、スクーターがありますよ!」
「ちゃあ! ナーガにあるなんて」
テイクンでも珍しいスクーターが、道に転がっていた。土で汚れているが、まだ動くようだ。
「よし、エンジンは動きます」
「行っちゃえ〜!」
「ごめんなさい、お借りしますね」
ヨースラの運転で、勢いよく通りに繰りだした。いきなり飛び出して来たスクーターに、民達はギョッと立ち尽くす。
「お、おい! さっきの脱走者だ!」
「待て〜!!」
こぞってスクーターを止めようとするが、その手を上手くすり抜けていく。
驚く人々の間を、スクーターは一気に通り抜けた。
「やったね! ウフッ」
「とにかく、一旦離れないと」
角を曲がる、横切る、段差を飛び越える。
振り切ろうと、もう一度アクセルを踏み込んだ──次の瞬間。
「……ん?」
視界に薄くもやがかかり、ヨースラは目をゴシゴシとこする。
「あれぇ、なんか見えないよぉ」
カリンも同じだった。視界が濁り、前が上手く見えない。浴室にある、鏡のようだ。
「なんでぇ?」
だが、視界はすぐに晴れた。
「……!!」
「あ、危ない!!」
スクーターの目の前に、幼い少女が立っていた。籠を抱えたまま、氷のように固まり、こちらを凝視している。
「きゃあああ!!」
ブレーキも間に合わない。
このままでは、あの子にぶつかる。
「くっ!!」
ギャギャギャギャギャ!!
ヨースラは全力でスクーターを傾けると、足を外側に出し、スクーターの進路を無理やり変えた。
スクーターの側面が、激しく地面をえぐる。
変えた進路の、進む先。
「うわっ!!」
「きゃああ!!」
二人を乗せたスクーターは、崖から遥か下へ転落していった。