第303話 化け物
「えぇ、頼んだわよ」
壁にもたれてながら、エリーナは頭に響いてくる声に返した。
「シキが怪我をしているの、急いで」
エリーナは受話器の無い通話を終えると、暗い表情のテフィの隣に座った。
クーを連れて、パレスに帰るつもりだった。だが、そうはいかない。
一度は彼等を撒いたが、流石に嘘に気付いてここに戻ってくるだろう。その時二人がいなければ、彼等が何をするか分からない。
「せめてクーだけでも、パレスに連れて行ければいいのだけれど」
中央の部屋に戻ると、テフィが椅子に腰掛けていた。
不安そうな表情で俯くテフィに、エリーナは柔らかい声色で話しかける。
「動物達の避難、ありがとうございます。応援を呼びましたし、これ以上ここのみんなに手は出させません」
「……」
「ほら、皆さんも避難を……テフィさん?」
唇まで震わせていた。膝の上で握る拳に、力を込める。
「あの子、ある村で捨てられたんです」
クーはたまたまとある村にまぎれ、そこの村人に飼われていた。畑で育てていた麦を食い荒らす虫を食べ、重宝されていたらしい。
──ところが。
「事情は分からないんですけど、そこの村で麦ではなく、別の果物を育てる事になったそうで」
いらない、と村人に捨てられた。この家に住む、他の動物達と同じように。
「私が見つけた時は、そりゃもう怯えてばかりで……」
言葉は分からなくても、捨てられた事に気付いたのだろう。
「ここに来てからもずっと落ち着かなくて、大変だったんです」
それでもここで暮らし、ようやく慣れてくれた。
「撫でてって、甘えたあの子を見た時、どれ程嬉しかったか……」
それが、こんな事になるなんて。化け物になってしまうなんて。
テフィは、勢いよくエリーナに詰め寄った。
「エリーナさん、クーはどうなるんですか!?」
「テ、テフィさん」
必死に宥めながらも、エリーナの表情も固かった。これからどうするのか。
前例の無い事だ。この場は上手く切り抜けても、あの子が見えざる者に変化した事実は変わらない。
パレスに連れて行ったとしても、元に戻れるかどうか。クーはずっと、グルベールに狙われる身になったのだ。
どうすればいい。どうすれば、あの子を救える。
「……あれ?」
ようやく少し落ち着いたらしいテフィは、きょろきょろと辺りを見渡す。
「エリーナさん、シキさんはどこへ? 怪我の手当てがあるのに」
「あら?……そういえば、どこに行ったのかしら」
あんな状態なのに。
だがエリーナは居場所にすぐに思い当たり、ぎゅっと口を結んだ。
【岬の家 地下】
地下の倉庫。
普段は誰も立ち入らないという暗い場所で、クーは眠っていた。目を閉じたまま舌を出し、前脚がピクピクと動く。
グルベール達から隠す為。そして起きた時に、万が一暴れた時の為の措置だ。
そんなクーの目の前に、シキはしゃがんで腰掛けていた。
「……」
未だにビリビリと痛む腕には、はっきりと噛まれた痕が残っていた。穴が開き、赤黒く腫れたまま。
肩と腹に巻かれた包帯に、またも血が滲みだす。すぐに治る筈の傷が、今日はなかなか治らない。
「まいったなぁ」
あの弾丸のせいだろうか、いつもの自分の身体では無かった。刺すような痛みが増す。
今日はもう、シキカイトになれないかもしれない。
噛まれた腕を押さえながら、シキはクーをジッと見つめた。
「やっぱりここなのね、シキ」
振り返ると、エリーナが心配そうに階段からこちらを覗いていた。
眠っている筈のクーの耳が、ヒクッと反応する。
「見張りのつもり?」
「いや」
反射的に袖を引っ張って、噛み跡を隠す。
「血が止まってないわね、まだ手当て終わってないんでしょう?」
「平気だよ、ルーイ」
怪訝な顔をするエリーナに、シキは目を逸らした。
「団長さん、このルーイを先にパレスに連れて行ってくれないかな」
「……!!」
──同じ事を考えていたのか。エリーナは僅かに驚き、目を見開く。
だが、すぐに首を横に振った。
「貴方がその状態では、とても無理よ。せめて、誰か来るまで待たないと」
「その前に、このルーイが化け物になるよ。本当の化け物にね」
イタチはもう、知っているのかもしれない。
ある日突然、得体の知れない化け物になる恐怖。その恐怖を、誰よりも知っているつもりだ。
他の者に牙を向く、あの感触を。
「まぁ、この僕がそうはさせないけど」
「シキ」
「化け物は、この僕だけで充分だよ」
ガガーーン!!
シキがそう告げた瞬間、爆音と共に壁がグラグラと揺れた。
天井の隙間から埃がパラパラと落ち、樽が転がる。
「来たようね」
思いの外早く、気づかれたらしい。
立ちあがろうとするシキだが、痺れる痛みに動きを止めた。そんなシキを、エリーナが静止する。
「私が食い止めるわ。貴方はここで、クーの側にいてあげて」
そしてエリーナは、軽く階段を飛び越えて行った。